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日記1024

 “認知症になると、乳児の反射作用がもどってくる。霊長類の赤ん坊が生き延びるために進化が演出した動きで、「モロー反射」(体が突然落とされたり、移動が加速したりしたときに腕を振り上げる動き。樹上生活をしていた祖先からの名残であり、祖先の幼い命を救った)と、「ルーティング反射」(頬を軽く触られると、ミルクを探そうと首を回して口を開ける動き)と呼ばれる。高いところから落ちて、母親と離れてしまうことは、生まれたばかりの人間にとって生得の基本的な恐怖である。  どちらの行動パターンも生後数ヶ月で消えるが、認知症や脳損傷で復活する。ただし人生の最後に再構築されるわけではない。ほんとうに消えたのではなく、何十年もつねに存在していたが、隠れていたのだ。人生のさまざまな糸が織り合わされるうちに、高次機能を重ねられ、抑制と認知制御に覆われていた。その布地がすり切れ、織目がなくなり、本来の自己が再び現われる。安全な場所を求めて、はるか昔に亡くなっている母親をつかもうとする手の動きには、胸を締めつけられる。” カール・ダイセロス『「こころ」はどうやって壊れるのか 最新「光遺伝学」と人間の脳の物語』(光文社、pp.296-297) 「多世代人格」ということばを想起する。社会福祉施設「よりあい」代表の村瀬孝生さんが書いていた。人の体の中には「すべての世代のわたし」が生きているのではないかと。年輪のように。わたしもそう感じる。わたしたちの体は無数の過去が乗り移るようにできている。認知症による乳児返りまでいかなくとも、マドレーヌを紅茶に浸すとよみがえるたぐいの入口もある。「過去は物質の中に隠れている」とプルーストはいう。「体の中」と「物質の中」、両者の相互作用において発現するものかもしれない。記憶は体と空間の狭間をただよう。 いま目の前をコバエが飛んでいる。ちょうどこんな虫みたいに、記憶も飛んでいるのだと思う。ゆだんするとすぐに見失う。そしてまた、どこからともなく飛んでくる。コバエの比喩はあんまりだから、鳥にしておこうか。ベランダにやってくる小鳥たちのように、ふとあらわれて、ふといなくなる。でも、つねにどこかには潜在している。記憶もそういうものだと思う。あるいは埃でもいい。いつもそのへんを舞っている。しかし目にうつるのは、光が射したときにだけ。 ただよっているのは自分の記憶のみではない。わたしたち