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7月, 2019の投稿を表示しています

日記698

本屋さんへ行った。在庫検索機に「ギンガテツドウノヨル」と文字が残っていた。それを横目で確認して通り過ぎた。ここさいきんの出来事としてはまずこれを書き残しておくべきだと思う。 あと疲労のせいかたまに全身がピリピリします。針で刺すような神経性の痛みが間欠的に走る。しびれに近い。「身体って電気が走ってるんだよなー」とぼんやり実感する刺激。これは医者に言うべき事柄か。それ以外はおおむね健康です。おだやか。 おだやか。ながらも納得のいかない感情は内心に頻発しています。自分の感情であれ、他人の感情であれ。感情くんはいくら説明しても納得なんかしない。わからず屋です。おまけに欲深く、相手にするとつけあがります。かといって抑えつければ暴発します。 どんな論理でも納得がいかない。説明のつけられない。この感情とことばの不均衡だけが文章を書くに至る動機であるようにも思えます。追いかけっこ。どう足掻いても等質にはならない二要素をランダムに走らせる。文体とは、或る逃走線の軌跡です。浜辺で追いかけ合うんです。キャッキャウフフ。死ぬまで、しかもひとりで。笑けてきたらしめたもの。 将来のことを考えていると憂鬱になったので、そんなことはやめてマーマレードを作ることにした。 これはネットで拾った「D・H・ロレンスの名言」です。遠くておおきな時間への不安をやわらげるためには、近くてちいさな時間へと移行するとよい。みたいな示唆が含まれています。たぶん。ものを書くことは、ここでいうマーマレードづくりです。手を動かして、時間のサイズをかたどること。 おおきな漠とした不安は消えないが、時宜を得たサイズに刻むことくらいはできます。絶えず時を細かく刻みながら、自分が苦しまずに済む間合いを保つ。目の前の出来事に留意する。それを書き留める。きょうはスーパーで背後から、「パパだいすき」という女の子の声が聞こえた。すぐさま「パパも○○ちゃんだいすきだよ~」と、浮かれた返答までばっちりだった。 しあわせそう。その意気やよし。でもそのままではいられない。どうしてだろう。やがて「パパだいすき」だけではなくなってしまう。これから先の未来、多かれ少なかれ複雑な感情を絡ませ合いながら「親子関係」が編まれていく。 それはその通りだろう。けれど、いまその未来を引き寄せてはいけないんだ。およ

日記697

ショーン・タンの世界展。東京の練馬区下石神井にある、ちひろ美術館へ。7月28日(日)まで開催です。「どこでもないどこかへ」。それはたとえば、だれの住まう部屋にも得体の知れない先住者がいるような場所。へんな、珍獣みたいな。そのアイデアへの愛着をショーン・タンは述べる。2階の展示室の奥に書いてあった。 「得体の知れない先住者」は考えてみると、自分が生まれたときすでにいた。生き物。すべてなのだと思う。世界中にいた。この世界そのものと捉えてもいい。得体が知れない。どこか知らない隅っこに自分がいる。わたし自身もまた、得体の知れないものとして。最初からずっとここにいたみたいな、知ったような、我が物顔なんてきっとできない。どこにいても。どれだけ生きても。 プライベートな居住空間にまで妙ちくりんで理解不能なものを置く。それは世界を了解済みにしてしまうずうずうしさを、どこまでも許さない姿勢だと思った。いいかげん閉じこもって、ぜんぶわかったふりをして安心したいけれど、いつまでもおかしなやつが動きまわっている。あらゆる空間で、絶えず。この世はそういう場所なんだと感じる。どうしたものだろう。 身勝手な同化は許されない。すべてに距離がある。直接的に「わたしたち」を語ることはかなわない。「べつのものたち」を語ろうとするなかでひるがえってわたしたちの輪郭もあらわになる。ショーン・タンの作品からは、そんな感触を受ける。 発想の根底に自身の価値観を超えたものが横たわっている。理解不能なものを礎にする、その姿勢を“想像力への敬意”と呼びたい。「べつのものたち」への畏敬。そうやってタンが描き上げる世界への畏敬の念は、魅惑的で、とてもかわいくて淋しい。 角度が気になった。「向く」というしぐさ。そこがかわいらしさの発生源かに思える。登場するもの、みんなひたむきなのだ。ちゃんと向いている。向いてくれる。ときにこどもっぽく。ときに真剣なまなざしで、向く。あらゆるものに付随する「向き」をおろそかにしない。 水のない町では、空に魚が泳いでいる。 こんな一文にふと出くわす。飛ぶのではなく泳ぐらしい。なぜかといえば、水がないから。では魚の泳ぐ空とはいかなるものだろうか。水ではない、それに代わる「空」にはなにが満ちているのか。そんな疑問といつまでも向き合っていられればと

日記696

本を読む時間より、本の背表紙を眺めている時間のほうが長い。棚を読む。書店から図書館からラーメン屋や床屋の本棚、友人の家やネットで見かける知らない人の本棚まで。それも読書だと思う。あるいは自宅に本を並べて棚をつくる、あふれたら積み上げる。すべてふくめて読書。と言い張る。 大掛かりな部屋の片付けをして、モノの配置を変更したら本屋さんみたいになった。中央に本棚がある。もちろん壁面にも。すっきり几帳面に並べ過ぎた気がする。こんなに清潔な部屋で過ごしてよいだろうか?と謎の疑問が浮かぶ。窓際の一部だけ写真を撮った。 並びは適当。もちろんすべてを読んだわけではない。後ろ暗さを心の奥底で煮詰めた灰汁のごとき渋い気丈さでもって断言したい。ほとんど読んでいない!むろんのこと読んでいない!すこしは読んだ。しかし買ったきり、ひらかず積んだままのものもある。知らないあいだに増えてしまう。ほんとうです。さらに図書館で借りるという意味不明な行動にも打って出るから読みきれない。 ところで、テントウムシがいました。 片付いた部屋に入ってきた最初のお客。人間を招き入れることは、たぶんない。虫だけが入り込める。いずれ自分も気がかりな夢から目を覚ましたあかつきには虫になっている。巨大で途方もない毒虫になる。ばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)になる。 ひどく胸苦しい、複数の夢の反乱の果てに。 7月14日(日) 日曜日は新聞の書評欄を読む。もはや新聞をとる家庭はめずらしいのかもしれない。祖母がまいにち懸命に読んでいる。「あたしの目の黒いうちはやめないの」と言ってきかない。端から指でたどりながら何時間もかけてぜんぶ目を走らせ、ぜんぶ忘れる。 あとで「新聞にこんなこと書いてあったよね」と話しかけても、祖母は「そう?そんなことあった?」とふしぎそうに首をかしげる。これはこれで老後の贅沢というか、豪快でけっこうなことだと思う。忘却する贅沢。 日曜日の書評欄だけ、わたしはまともに読む。書評はどの新聞でも興味をもって読める。図書館で書評欄を片っ端からつまみ読むこともある。祖母が読む新聞はむかしから読売。だから読売新聞の書評は欠かさず読んでいる。 さて、まず目にとまったのは中尾隆聖さん

日記695

 読書にも古来さまざまの流儀があるようだ。中世ヨーロッパの修道院では、修道士たちが聖なる書物を繰り返し読んではひたすら暗唱に努めていた。ゴルツェのヨハネス(九七六年以降没)が詩編を唱えるそのつぶやきは、蜜蜂の羽音に似ていたという。その蜜蜂も花々から採取した貴重な蜜を、人が言葉を書きしるした紙のように、薄くやわらかだが丈夫な房室に蓄えるいとなみに余念がなかった。蜜蜂は人間よりはるかに早く、蜜の容器となる独自の紙を人知れず作りつづけてきた。人がもし蜜蜂の英知を学んでいたら、紙という偉大な発明をもっと早くになしとげていたかもしれない。p.7 鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟 または読書の変容』(白水社)冒頭より。詩を読む声が、蜜蜂の羽音に似ていたというお話。ポエティックな比喩として読むと、静けさの中で声音がわずかに空気をふるわせるような感覚だろうか。一方で、現実の蜜蜂の羽音はうるさく耳に障るものだといかんせん詩情とはかけ離れた野暮ったい想像も浮かんでしまう。 耳元へブンブンくれば、こわくて身をかわすところ。おっと蜜蜂かと思って避けたらヨハネスお前か、ごめんごめん。みたいな一場面が想起される。ヨハネスはそのたびに、肩を落とす。クソッ、どうして俺の声はこんなに蜜蜂の羽音みたいなんだ!ノイジーな声帯に生まれついたことを呪い、喉をかきむしるヨハネス。そんな彼が、ひょんなことからあるノイズバンドのライブに衝撃を受け……。 ……と、ヨハネスの成長物語はさておき。自分は神秘性に惹かれやすい。と同時に野暮ったく俗っぽい地平から足を離したくないとも思う。軸足は俗で野暮な場所にある。ふざけている。詩的なものを好むが、読んでも書いても詩性へと離陸しきれない気後れがある。詩人はきっと手の届かないところにいる。 「さよなら」を見つけたふたりは この街の心臓をかたちづくる。 詩人の文月悠光さんが目の前でサインに添えてくださったことば。もし、わたしが書く側だったとしたら「なーんつってな!!プリプリ~」と三行目に記すことだろう。そして吉田戦車の漫画『ぷりぷり県』の主人公「つとむ」をうろ覚えで描いて、署名は「吉田戦車」とする。澄まし顔でサインなんかできっこない。 なんというか、「真面目さ」に耐えかねる。表情を変えたい。でも詩人は真顔で言い切る。「さよなら」を見つけたふた