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2月, 2023の投稿を表示しています

日記989

某日、松江泰治の写真展へ。品川のキャノンギャラリーSにて、3月7日(火)まで開催されている。入場無料。 キヤノンギャラリー 松江 泰治 写真展「ギャゼティアCC」 松江氏は「絶対ピント」と評されるペカーっとした写真を撮る人。説明が下手すぎるな……。すべてにピントを合わせた空撮。つまり、ペカーっとしている。極力、影を排して平面性を追求した写真だそう。空や地平線も排す。と、だいたいリンク先に書いてある。 上空から都市をペカーみたいな。都市にかぎらず、山肌や海やペンギンやヒマワリなどもあった。みんなペカー。ビル群が模様のようにそびえ立つ写真に惹かれた。くらくらする。鮮やかにピン止めされた二次元平面。影の排除は、時間の排除ともいえる。建物が面として写真にフィットしている。機械の目を最大限まで引き立てた感じ。標本的な印象も受ける。刺すような撮り方。まったく異なるが、なぜかベルント&ヒラ・ベッヒャーを連想した。 細部を見ようとして作品に近づくと、自分の影がかかってしまう。それを避けたくて距離を調節する。そんな鑑賞時の心理もおもしろかった。写真の明るさに影をさしたくない。     これはわたしの撮影。暗い……。比較にならないことは承知の上で、松江氏と比較対照してみる。比較すればなんか見えてくるはず。半分以上が影。地平線は写らないようにした。「松江泰治のように撮ろう」と思ったわけではなく。家並みを隅々まで敷き詰めたかった。ぞろぞろと。 おそらく、両方ある。松江氏の撮る鮮明な平面(等しさ)に惹かれる一方で、暗い見通しの悪さにも惹かれる。自分のなかには、さらす方向性と隠す方向性が同居しているように思う。仮に松江泰治の方法を理系的とするなら、影をとりいれる感覚は文系的といえるかもしれない。 「ペカー」はメカニックで、影はポエティック。そういう感じがする。一個の感覚に過ぎないので、いい加減な見立てだけれど。だいたい「ペカー」とはなんだ。 ともかく、自分の写真には明るさと暗さの両面がある。 これも典型的。できるだけ鮮明に暗くしたがる。明るいも暗いも、いずれにしろ鮮明に。明るい暗さ。暗い明るさ。乾いた暗さ、というか。暗くても、さっぱりしていたい。湿度は低く。切れそうな鋭い影を良しとする傾向が見てとれる。     塗装の裏に、ドアとポストのようなものの痕跡。明らかに隠れている。これも鮮明

日記988

  人生、「しょうがない」の連続ではないか。と、ひとつ前の記事に書いた。その数日後、図書館で借りた『ぼけと利他』(ミシマ社)という本を読んで驚いた。「仕方ない」の使い方が自分の実感とよく符合する。語り口の方向性を示してもらえたようで、うれしくなった。 『ぼけと利他』は、福岡にある福祉施設「よりあい」代表の村瀨孝生と、美学者で「体」に関する著書が多数ある伊藤亜紗との往復書簡。この本のなかで、「介護は仕方なく始まっていく」と村瀨氏は書いている。    お年寄りに関わって感じるのは、さんざん抗って、葛藤し、万策尽きて、仕方なく自分の体を他者に委ねる(多くのお年寄りは大なり小なり、そのようなプロセスを経ていると思います)。  介護者もまた、喜んで介護する人はいないのではないか。できなくなっていく人を前に手を貸さざるをえなくなる。手を貸して実感します。自分の無力さを。介護は両者にとって仕方なく始まっていくものと感じています。しかし「仕方なさ」を悲観的にとらえていません。むしろ、救いがあると思うのです。(p.29)   「無力」から始まる共同性がある。「ともに負ける」ということばも印象的だった。前の記事で例に出した韓国映画の『モガディシュ』もまた、「さんざん抗って、葛藤し、万策尽きて、仕方なく」北朝鮮と南朝鮮の大使館員たちが助け合う。敵対者同士が手を組む展開ではたいてい、その前段階に強い葛藤が描かれる。さんざん迷った挙げ句、「抗い」を一時的に保留する。そこで生じる感情の機微は、村瀨氏の「仕方なさ」とも通じるものがあると思う。      この動画のなかで村瀨氏は、「仕方ない」っていうのはある意味で全面肯定なんですよね、とおっしゃっている。わたしも僭越ながら、実感をもってそう思う。「全面肯定」とはいえ、肯定する主体が明確に存在するわけではない。そんなことはしたくない。しかし、そうとばかりも言っていられない。抗いや葛藤を経るなかで、なにかの拍子に訪れる。そんな「全面肯定」だと思う。「する」でも「される」でもなく、主体の裂け目から、拍子をともなってやってくる。ぽーんと投げ出されるように。 介助をする中での自意識の変化を、村瀨氏はこのように表現する。    互いの「抗い」をケアし合う中で自意識は変化するのかもしれません。介助を必要とする「わたし」と介助する「わたし」。二人称の「わたし」が