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3月, 2022の投稿を表示しています

日記893

  人はいかにして何かと出会うのか。遭遇するのか。ひいては「意味がわかる」とはどういうことか。自分の抱く問いはすべて、このあたりに収斂していく。と、いまさらながら気がつく。なにを見てもそのことを考えている。おなじひとつのこと。 とくに、写真という媒体にはそれが顕著にあらわれるのではないか。たとえば、わたしのinstagramを見てなにがしかピンとくる人とこない人がいる。出会えるか出会えないかがわりと鮮明に分かれる。この差は、各人が身にまとう意味世界のちがいだと思う。 そこにたどり着くまでの経緯によっても「出会える/出会えない」は変わる。おなじ本を読んでも、時期によって「わかる/わからない」が変化する。おなじ道を通っても、風景が見えるとき/見えないときがある。おなじ人と話しても、盛り上がるとき/退屈なときがある。あるいは音楽を聴いても、映画を観ても……これはあらゆることに言える。 そのとき、それぞれがそれぞれにとってどのような意味をまとっているのか。意味の観測点は逐一ちがう。ひとことで言うと、「視差」に興味があるのかもしれない。パララックス。出会いとは、異なる観測点の交わり。時間も空間も相異なるものがふと結びつき、世界が立体的に立ち上がる。そのとき人は、「出会った」と感じる。「わかる」と思う。ひとつの像がリアリティをともなって結実する。偶然とも必然とも呼びうるような、その結節点をふしぎに思う。 つなぎめが気になる。さかのぼっても、おなじようにつながるのだろうか。高校生のころ、数学の教師に「小学生からやり直せ」と罵倒されたことをたまに思い出す。いまなら、確信をもってこう反論するだろう。「小学生は賢すぎます。わたしは赤ん坊からやり直したいんです!」と。いや、それさえ中途半端だ。できるなら、原始人からやり直したい。まったくなんにもないところから。生きているというこの事態と出会い直してみたい。そんな願望がある。はじまりは、どんなふうだったのだろう。   しじみ。   3月29日(火) 帰り道、書店で2022年4月号のユリイカをすこし立ち読み。中原中也賞の選評が載っていた。高橋源一郎の文章にうっかり感動する。中井久夫の「きらめく兆候性」を思い出す。わたしは「きらめく兆候性」ということばが好きすぎる。 選考会では、蜆シモーヌさんの『なんかでてるとてもでてる』(思潮社)と、國松絵

日記892

3月24日(木) 体調が悪い。ひとつの要因として、ベースの慢性的な不調は姿勢の悪さからきているように思う。あるいは、意識のまとい方というか。体を制圧するように、意識でがんじがらめにしてしまいがちなのだ。むかしから硬直しやすい。過入力状態で生きてきた。 自然的な「ゆらぎ」を正そうとする検閲官として意識を使っている。ハートマン軍曹でもいい。ゆらごうものなら「頭を切り取って首にクソを流し込んでやるぞ!」と抑えつけてしまう。体はもっと、ゆらゆらしていたほうがいいのに。同様に、ことばの使い方もぎゅっと締め上げがちだ。もうすこし無駄口を叩いたほうがいい。 「何気ないつぶやき」ができない。SNS上でも、日常会話でも。おそらく自分のなかで「伝達に足る/足らない」を鮮明に区別しすぎている。明確な役割があれば果たす。応答すべきは応答する。きほんそれだけ。しかし、たいていの人は謎のふんわりした磁場(いわゆる空気?)に則っておしゃべりしている(ように見える)。わたしは基調として、義務的にしゃべっている。 これらの特性はもう、仕方がない。「ゆがみ」を排するのではなく、培ってきた「ゆがみ」も込みで考えなおそう。「矯正」はできない。すくなくとも、自分にこの考え方は合わない。矯正しようとすれば、ハートマンにハートマンを重ねる事態になる。ハートマンの二重苦、三重苦になりかねん。「矯正」という発想を採用するかぎり、ハートマンが無限増殖していく悪循環に陥る。 30年来の意識のゆがみを利用しつつ、マイルドに体とブレンドできればなと、そんなことを考える。鬼軍曹と和解するように……。ここでの「意識」は、「他人」と言い換えることもできる。他人は全員ハートマン軍曹だと思っているふしがある。おっかなくてしょうがない。どうりで体調を崩すはずだ。     ハートマンは言う。「俺は厳しいが公平だ。ここに人種差別など存在しない。黒んぼも、ユダ公も、イタ公も、ラテン野郎も見下さん。みんなひとしく価値がない」。すばらしい名言だと思う。価値とは何か、考えさせられる。 逆に言えば「価値」とは、不公平な概念なのだ。「差」を孕む。選別を経て付与される。そして「公平」は、「ランダム」と言い換えることもできる。サイコロやジャンケンやクジ引きは公平だ。「強い/弱い」などといった濃淡がない。いや、ジャンケンは強い人もいるのかもしれない(「強い

日記891

3月19日(土) 午後から、京橋にあるアートスペースキムラASK?へ。 中村恭子×郡司ペギオ幸夫「立ち尽くす前縁・立ち尽くされた境界」展というやつを観に、なんとなくふらっと。考えなしにほげーっと観て帰るつもりだった。しかし、アーティストがおふたりとも在廊中でそういうわけにはいかなかった。まさか、いるなんて……。うれしい反面、非常にどぎまぎしてしまった。完全に油断していた。 いま思えば、きょうが展示の最終日だったし、土曜日ということもあり、いる可能性は考慮しておくべきだった。とくに郡司さんとお話できると知っていたなら、事前に質問のひとつやふたつ用意していたのに……。「カブトムシ」にいたく感動しました!みたいな、適当な話しかできなかった。とはいえ、本から得た感動を著者に口頭でお伝えできる機会なんてなかなかないと思うので、それだけでもよしとしておく。 郡司さんは「カブトムシ」から派生して、「ジャバラ!オカネ!モグラ!」というお話(大意)をしてくださった。その話にも、よくわからない感動があった。わたしは「モグラ……」と小声で反芻しながら、「詩を読んだときに得られる感動と似ています」とこたえた。妙な会話だった。 日記887 に書いた、「ときめき(=コミュニケーションの入り口)」についてお聞きしたかったと帰り道に思う。「トラウマ」と表裏をなすんじゃないかと。これはおそらく、今回の展示にも「カブトムシ」にも関連している。ほかにも、研究とアートの相違点や類似点について、デジャヴとジャメヴについてなど、あとからあとから質問が浮かぶ。 しかしその場で郡司さんにぶつけた質問は、「朝からいるんですか?」といった空虚なものだった。そのときの自分には、「いる」という事態がセンセーショナル過ぎたのだ。なんでペギオおんねん!と。そりゃいるさ。冷静に考えれば、ぜんぜんおかしくない。 別室の中村さんとは、「どうも」とだけことばを交わして逃げるように退出した。もしかしたら失礼だったかもしれない。申し訳ない。ご本人在廊トークが苦手だ。どちらの展示もおもしろかった。観るだけではなく、読みごたえもあった。客はひとまず立ち尽くすことしかできない。あるいは、逃げ帰ることしか……。  

日記890

3月18日(金) 自分の体へのおそれがある。体はわたしの知らないことをたくさん知っている。死へのおそれも、この内に孕まれる。強いて漢字で書くなら、「畏れ」。かしこまる。もちろん、おののきもある。自分にとってこの感覚は、あらゆる「他なるもの」へのおそれの根源に位置するのだと思う。 年をとればとるほど体は意に沿わなくなる。このとき、「意」をどう扱うか/扱われるか。それが具体的に問われてくる。よくわからないものと関係しつづけなければならない。知ろうとしたり、忘れようとしたり。つらく当たったり、なだめすかしたり。悲観したり、笑い飛ばしたり。どんな方法をとるかは、過去に培ってきた関係によるところが大きいのだろう。周囲の人をふくめた、自分との関係が「意」に反映される。 他者との付き合いは、とりもなおさず自分との付き合いでもある。「ちがう」と言う人もいるだろうが、わたしにはそう思えて仕方がない。自己と他者はそんなに截然と分けられない。もちろん物理的には分かれている。わたしたちはそれぞれに、ちがう者として生きる。どうしようもなく。しかし、重なる部分もある。これもまた、どうしようもなく。メタフォリカルな部分、とも言える。あなたはわたしの比喩として、わたしはあなたの比喩として存在している。 何度もおなじことを書いている気がする。ここを確かめることが、自分にとってはたいせつなのだろう。わたしはもともと、どちらかといえば「ちがう!」と他者を撥ねつけてしまいがちな人間だった。「おそれ」の大きさゆえに。でもじつは、そんなにちがうわけでもない。と書いて、いまノリで「にんげんだもの」とつづけそうになり、「ちがう!」と歯止めがかかった。いや、そうじゃないんだ、いいんだ、にんげんだ……ちがう!いや、にんげだも……ちがう!にんげ!ちがう!だもの!にんげん!ちがうもの!にんだちがうげものん!ウワアアアアア!!……みたいな葛藤をしつづけることが自分なりの「人間らしさ」なのかもしれない(ヨッ、アウフヘーベン!)。でもたまには短絡的なノリで、ベタに「にんげんだもの」を首肯しても……いやしかし、そう書いた瞬間に居心地の悪さを感じるのも確かで……やっぱ「にんげんだもの」とは言い切れない。非人間的で孤独な自分がいる。けっして肯定できない。肯定されたくない。へんな意地を張っている。 許しを与えてくれることばに対して、「

日記889

  3月14日(月) ふぁーっと気温が上がったせいか、けだるかった。すこしめまい。空を見てよかった。  

日記888

  ないことにしない。ないことにするとゆがみが生じる。道端のボルト一本も、ないことにしない。いや、そんなもんまで見留めていたら歩みは遅々として進まない。遅刻しまくりだ。だから大半の時間は、いろいろとスルーしまくる。ないことにしている。夕空も梅の蕾も道行く人々の声も姿も冷えきった指先もすべて無視して目的をこなす。おかげで社会性をともなった一定の速度が保たれる。あらゆる物事を、ないことにして仕事をする。 ここ数日、右肩が痛い。しかし、痛くないことにしていた。大丈夫、なんともない。すると痛みが増してきた。これはよくないと思った。「なんか痛いのよね」と人に言い、痛みを自分の一部として感覚しはじめたら、すこしやわらいだ。へんな力が入っていることにも気がついた。文字通り、肩肘張っていた。 痛みをないことにすると、体はどんどんゆがんでしまう。あたりまえのことかもしれない。精神的な面でも、もしかすると「ないことにする/される」からゆがみが生じるのかと、ぼんやり考える。これも、なんのことはないあたりまえか。 ただ、すべてを白日のもとにさらせばよいわけでもない。多くは隠されている。しかし、ある。ないわけではない。隠されてある。心にとっては、このポケットのような空隙がたいせつなのだろう。たとえば「死」。人間である以上、なしにするってわけにはいかない。いずれ降りかかる。周囲に、我が身に。しかし、あらしめることもできない。生きている以上、隠すほかない。噂話のように。あるいは「生」も、そのようなものか。わたしたちは、生きているらしい。と、風の噂で聞いた。真相は定かでない。 ある種の対話が精神的な失調の治療につながる、ということはそれによって「わたしはちゃんと隠されてある」と感覚できるからではないか。「ひらかれてある」だけではなく、「隠されてある」と。マスキングの効果がより重要だと感じる。隠されていなければ、個人は個人たりえない。隠されていなければ、未来が未来たりえないように。噂話のあやふやな時空間をとりもどすことで、ことばの力動とつながれる。 つたわる。しかし、そんなにつたわるわけでもない。なにがつたわったのかもわからない。そこにおいて、はじめてことばは身動きがとれる。つたわり過ぎてもつたわらなさ過ぎても、がんじがらめで動けない。ちゃんとつたわるし、ちゃんとつたわらないから、大丈夫。あなたは誰

日記887

  中井久夫の書く「きらめく兆候性」は、俗なことばに変換すれば「ときめき」と呼べる機微のことだろう。というのも、ラッパーの宇多丸さんによる「ときめき」の定義を思い出して。それは「コミュニケーションの入り口に立ったとき」に生じると。   宇多丸  そう、だから相互理解の手前で終わらないとダメなんですよ。深く理解してる関係はときめきとは言わないだろ、と。この人とコミュニケーションがとれるかも? の感じがときめきなんですよ。 古川  手に入れちゃったらいけない……。 宇多丸  コミュニケーションの入り口に立ったときがときめきなんですよ……深いなぁ……。 『ブラスト公論 ~誰もが豪邸に住みたがってるわけじゃない 増補新装版』(シンコーミュージック、p.65) 「相互理解の手前」。まだわからない時分の、わからないがゆえの、希望的な試行にひらかれたとき。「知りそめた外国語の語や響きには、そのあらゆる誤解や未熟な理解と並んで、あるいは重ね合わせに、きらめく兆候性がはらまれている」。こう中井久夫が語る、いわば「ことばの入り口」も、単純化しちゃうと「この人とコミュニケーションがとれるかも? の感じ」と似ているのではないか。 前回の記事と重複するけれど、哲学者の古田徹也氏がこどもの未熟なことばから「きらめき」を感覚したそれもまた、「コミュニケーションの入り口に生じるときめき」と捉えることができよう。ことばが通じそうで通じない、少し通じる! といった、つまり桃屋の食べるラー油みたいな心理状態が「ときめき」や「きらめき」を感受させるのである。 そうか。辛そうで辛くない少し辛い、あの商品名は「ときめき」を具体的にパラフレーズした表現だったのだ。辛くても、辛くなくてもいけない。少し辛い。星々の瞬きにも似たラー油のきらめきがそこにある。辛いような辛くないような、辛味の入り口。なるほど……深いなぁ……。 いけそうでいけない、少しいける!といった感覚は、ゲームのレベルデザインにもつうじる。かんたん過ぎても、むずかし過ぎてもプレイヤーは離れてしまう。それぞれの能力段階に見合った適度な障害をクリアするところから、「やりがい」が生まれる。クリアできそうで、できなさそうで、やっぱできるかも!みたいな。「できる」とも「できない」ともつかない、さざなみのみぎわに喜怒哀楽さまざまな感情が生起する。 たとえば、ドラ