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1月, 2020の投稿を表示しています

日記718

写真を撮っています。相変わらず。 静かにしていたくて。 写真は静かです。 撮られたものは静かになる。 「富士山」と、ことばを添えてtwitterとinstagramに投稿しました。「海苔じゃねーか」と思って、ひとりでひとしきり笑って、おしまい。でも他人から「海苔じゃねーか」とつっこまれたら、「富士山」で通そう。誓って。あまのじゃくに。 コンビニおにぎりの海苔。はじっこが途中でこんなふうに破れちゃうの、わかります。どこの誰だか知らないけれど、わかります。ええ、わかりますとも。 写真はストレートにそのままでも、すでにしてシュルレアリスムの域にある。みたいなことを、写真家の大辻清司が書いていました。出典と正確な文言は忘れてしまった。古本屋さんで立ち読みした本。うろ覚え。でも大意は外していないと思う。 たしかに、そんな感じがします。 切り出すと現実感が薄れるような。 シュール。 そのままなのに。 そのままであるからこそ、でしょうか。 週にいちど、祖母を連れて外を歩きます。連れ出さないと家から出ようとしないから。声をかけるたびに祖母は「のろまだから、外を歩くのが恥ずかしい」といいます。歩けないわけではありません。歳を重ねて「ふつう」から逸脱した自分の身体を、許容できていないのです。 路上の見えない規範を気にしている。「ふつう」の歩く速度、「ふつう」の動線、「ふつう」の挙動、「ふつう」の足運び……。長く生きれば誰でも身体的に「ふつう」じゃいられなくなるのに、意識の上では「ふつう」を手放せずにいます。 ひとりで歩くことができない。そばに誰もいないときも、つい「ふつう」を参照してしまう。「みんな」を意識してしまう。もう「みんな」が遠のいて久しいのに、その現実を受け入れることができず、立ち上がることすらままならない。祖母は長いあいだ「ふつう」を身体の芯に据えて外を歩いていたようです。 わたしは介助者として、「ふつう」への仲介役を果たします。わたしが横につけば「みんな」への橋渡しになる。だから、外へ出られる。 ひとりで歩く。それだけのことが、なんてむずかしいのだろうと思います。自分だってそう、人のことばかりいえません。ひとりで歩いているつもりでも、絶えず「みんな」を気にかけている。おとなしく規

日記717

卵のパックに、花びら。ひとひら。いかにしてこうなったのか。わからない。ただ「見つけた」と思う。こんな瞬間によろこびがある。あまりに些末で、自分でも笑ってしまうけれど、わけもなくうれしい。 ゴミといえばゴミだ。というか、見るからにゴミでしかない。でも洒落ている。ちょっとだけ。ゴミだって洒落込むのだ。それも、おそらくは、偶然に。いたずらっぽく。なかなかこんなことはない。ありふれているようで、滅多にない。見たことがない。 だいたい卵のパックがぽつんとポイ捨てされている状態からわからない。一気に使い切ったのだろうか。ロッキーが数人いればそれも可能か。しかもそこへ花びらがひとひらだけ落ちて、なんだかお洒落になっているではないか。世にも奇妙だ。しかしかわいい。写真にしなければ。 生は、人間の理性を超えた存在への、賢明なる降伏の過程にほかならない。 グリゴーリィ・チハルチシヴィリ著『自殺の文学史』(作品社)のなかで引かれていたことば。大袈裟にも、わたしは花びらを乗せた卵のパックに「人間の理性を超えた存在」を幻視してしまう。圧倒される。 なんら通用しない。思いもよらない。及びもつかない。神通力がここにある。大自然の脅威である。グランドキャニオンを見なくても、屋久島に滞在せずとも、身近な時の狭間からひれ伏すほかない自然の威力があらわれる。自然とは、素知らぬ顔でこんなことをしてくるやつなのだ。 卵のパックに花びらを乗せて、知らん顔する。なんだそれ。おい。てめえ。こんなことしていいと思ってんのか。お前これどうすんだおい。この想い。好きになっちゃうでしょうが!わかってんのか自然。いい加減にしろ自然。振り向いてよ自然。ねえ、ねえってば! しかしどんなに語気を荒げても振り向いてはくれない。それもまた自然なことだった。なんたって自然だ。すべてを自然に帰してしまう。ごく自然に。自然なんだからしょうがない。やるせない。ひとたまりもない。もう知らない。メイのバカ。ちぇっちぇっ、気取ってやーんの。 たとえば、卵のパックに花びらが落ちるようにわたしたちは生まれるのかもしれない。あるいは、助手席のドアから半分はみ出してしまうように。深沢七郎によると「生まれることは屁と同じ」らしい。言わんとするところは似ている。屁だって、ケツからついはみ出しちゃうも

日記716

1月1日(水) 大晦日まで、ごまかしごまかし動いた。元日の朝、糸が切れたように動けなくなった。目が覚めてもまだ意識の届かない場所に身体が転がっていた。西暦何年だろうがどうでもよかった。気怠い。時間をかけて全身に意識をつたえる。朝らしい。2020年らしい。外は白み始めている。遠い未来に無理やり連行されてきたような気分だった。身体だけが2020年にいた。 おぼつかない足取りでゆらゆら起き出す。「あけまして~」の前に「風邪みたい」と家族に告げる。声は潰れていた。喉がざらつく。頭が重い。こんなとき特に、人間は水分なのだと感じる。血液が鈍痛を連れて身体の内側を泳ぎつづける。水の重み。頭の中まで水浸しだ。人は泳ぐ。陸上にいてもなお。全身を走る水分の波が、空気の中を、泳いでいる。 この日の午前は記憶があまりない。請われて近所の神社に行った。手を合わせた。何も思わなかった。さいふがなかった。身体だけがあった。午後から完璧にごまかしがきかなくなった。完璧に寝込んだ。パーフェクトだった。 1月2日(木)の午前まで頭痛がひどかった。頭痛には定期的に悩まされる。幼少期から。「瞑想でやわらぐよ」という話を聞いて、瞑想をするようになった。さいきんは、まいにち30分。以前より頭が軽くなったような気がする。「気がする」が重要だと思う。気休めのためにする。日々の習慣は、ぜんぶ。  午後にはベッドにもぐってうつらうつら眠った。ときおり図書館に来る子どもらの甲高い声で目がさめ、びくりとしてとたんに動悸が早くなる。子どもの声になぜおびえなければならぬか、われながら不審だが、その声はききたくないと咄嗟につきあげてくる感情を消すことはできない。子どもらははにかみを失い横着になったという偏見が私自身をなやます。五時まえにベッドを出たところを、妻が鋏で私の頭髪の中の白毛を一本一本切りとりたいと言ってきかない。生え出てくるものは生えるままにしておきたいと私は思うのだが、つい妻のするままにさせようと傾いてしまう。p.238 島尾敏雄の日記『日の移ろい』(中央公論社)を読んでいた。病床での読書に適している。どこを読んでも物憂くて、すこしだけおかしい。子どもの声におびえて自分を不審がるようすなど。狙いすましたおかしみではなく、自然と湧くじわっとしたおかしみ。 わかりや