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1月, 2019の投稿を表示しています

日記667

鳩が翼を広げて飛んでいるときの脚のちょこんとした感じがとてもかわいいので、こんど注目してみてください。見上げてね。一瞬だよ。わたしからは以上です。という置き手紙を残してどっか旅に出たい思う。人に伝えたいことなんて、そんなことっきり。 日々の移動をする。いまだに歩く以上の速度が体感としてわかっていないような気がします。電車で移動すると、ひと駅でもトリップするような不思議な感覚になる。旅は速度を撹乱する。日常的な移動でも道程があるような、ないような。距離感がつかめない。 歩く速さと距離と時間はちゃんとリンクする。しかし自分の脚を使わない移動だとわずかな距離でも、体感時間にコンマ何秒のずれをきたす。高速で移動をすると、ずれの間隙にある「ついていけていない感覚」の矯め直しに疲れてしまうように思う。すっ飛ばした狭間の距離を、しばし整理する時間が必要です。 電車から降りて、まず深呼吸をする。移動先の空気をゆっくりと肺にとりこむ。そして2回ほどジャンプ。それから首をまわし、腕を交互に突き上げ顔を叩いて「ポゥ!」と甲高く切れの良い声を出す。あとはスキップでホームを駆け抜ける。これで「ずれ」は8割ほど解消します。 ところで、わたしはまいにち服を着ています。じつは服を着るタイプの人間です。いまも。でも「服を着る」とは不自然なことだと思う。人間以外の動物に着せれば、とたんに滑稽化してしまう。服を着た犬をたまに見かけるけれど、「本来はそうではない」感覚がどうしたってある。着せられている。コスプレみたい。 先進国のたいていの人間は、裸でいるより服を着ている時間のほうが長い。まるで自身が人工物にまみれている証左のように。広い意味では人工的なものとはすなわち、芸術の謂でもある。「artificial」と「art」。所与の自然ではありえないものたち。 着飾る。なんて嘘っぽいことをしている。そんな自覚もなく。シンプルで飾らない「ノームコア」の流行は、虚構への反意だろうか。おまえらな、人工的な生活の自覚が足りんぞ!と無駄に叫びたくもなります。「着せられる」というコスプレへの反意でもありそう。どこまでいってもコスプレだろ、とも思う。「つくられた自然」は、もっと嘘くさい。嘘をひた隠しにしようと、さらなる巧妙な嘘を発明する。あるいは過剰な嘘でごまかす。ファッションのそうい

日記666

1月22日(火) 歯医者さんへ行く。口の中をきれいにしてもらう。欠けた前歯の修復については少し時間がかかるという。また歯ブラシを握らされる。「左利きでしたっけ」とおぼえていてもらえたことはうれしかった。正確には「歯磨きだけ左利き」です。アゴも左の使用が多い。首から上に関する場合は左なのかも。頭は左、ボディは右。 口の中をいじられながら、瞑想にちかい感覚でいました。触覚に意識を向ける。日常的に瞑想をしていると、ヒマなときすーっとそこへ逃げ込めるから便利です。意識の避難所を手に入れたような。たぶん瞑想は死ぬまでつづけていると思います。 歯ブラシをもらって、帰る。 掃除をしてもらうと気持ちが良い。 歯医者さんはサボらず行こうと思う。 1月23日(水) 朝から人間ドック。初めての。 早めに起きて、早めに到着した。入り口で整理番号を発行。kindleを片手に待つ。0円でダウンロードした横光利一を読みながら。途中、となりに座ってきた年配の女性に話しかけてみる。過剰なまでに手をこすっていたので「寒いですねー」と。冷え性でたいへんらしい。「手足の感覚がなくなっちゃう」とおっしゃっていた。そいつはたいへんです。やたらヒョウ柄を身に着けていて、「ヒョウ柄お好きなんですか」と聞いたのちに「いいですね、お似合いですよ」とほめる。とにかく人をほめていきたい。「人を喜ばせたい」なんつう不遜で押し付けがましい気持ちからではない。主に自分の精神修養のため。修行僧かお前は。 番号を呼ばれ受付に向かう。受付の男性はこちらの顔をまっすぐに見て目をそらさない。かつ低姿勢だった。低姿勢からの圧力がすごかった。目力。案内を受けて、検便を提出。 検査着に着替える。更衣室に入ると、音楽が流れていた。トニー・バジルの「Hey Mickey!」だった。なんでやねん。どういうつもりやねん。これで検査着がチアリーディングのコスプレだったら完璧なのに。ミニスカートではなく、ふつうに病院の患者っぽい服に着替えた。 どういうつもりかは不明だが、気分の上がる曲であることは確かです。自分の世代だとガレッジセールのゴリさんがやっていたゴリエバージョンを思い出す。フジテレビの番組から流行ったやつ。ゴリエはこの曲でNHK紅白歌合戦にも出演していた。紅白では、チアの

日記665

1月19日(土) 第4回ウェブメディアびっくりセール@二子玉川へ。デイリーポータルZが主催する、ウェブメディアのびっくりセールです。「ネットの人」がそれぞれのブースを構えて会する。TBSテレビのブースなんかもあったかな。要するにびっくりセールです。 物見遊山でふらふらと、15時ごろに到着。思っていた以上の盛況っぷり。会場の前にびっくりセールとは関係のないスケートリンクがあって、そこで滑るファミリー層もわんさかしておりました。「妙な企画のわんさかvs二子玉ファミリーわんさか」という水と油のような構図をしばし眺める。 入り口に立ったとき、人間の多さと狭苦しさに「いやだ、こんなところへ好んで入りたくない……」というためらいがありました。スルーして多摩川を散歩しに行こうかとも考えましたが、意を決して入ることに。あたりまえだけどゆっくりしてはいられません。人が多いとそれだけ慌ただしくなります。流れをせき止めないように気を遣う……。 ざっと見て、ざっと帰りました。上の写真は会場で売っていたマスクです。「今日は早めに帰りたい。」というの、自分の気分と見事に合致。スケートリンクの横に落ちていたやつ。誰か落としはったのか。ソーシャルメディアの可能性を探求するメディア「 kakeru 」のブースで販売されていたグッズ。キャッチフレーズがメディアの自乗。 人混みにせっつかれつつも、それなりに楽しみました。「 東京別視点ガイド 」のブースでトートバッグと薄い本を購入。好きでよく閲覧するサイトです。路上に落ちている片手袋の分類図トート。「わたしも手袋よく撮るんですよー」とお話すると「そうですかー」と言われました。「そうですかー」としか言いようがないですね。たぶん編集長の方だったかな……。わかんない。トゥーシャイシャイボーイなので人の顔をなかなか見られません。うつむき加減に頬を赤らめながら会話するボーイです。 そして鹿児島をアツくユルく紹介するWebメディア「 KagoshimaniaX 」のブースで、ちんこ団子を購入。「ちんこ団子ください」というセリフは、これから先の人生の中でも言う機会があまりないだろうと思って。せっかくだから「ちんこ団子ください」と言いたいがために買いました。 鹿児島の方言で「小さい」というような意味だそうです。

日記664

自分が性的なふるまいをしているつもりはなくとも、そこにはつねに性が読み込まれる。男性として生きていれば「男性として」読まれている。こちらも意識的にせよ無意識的にせよ適当に相手の性を読むだろう。 不遜ながら、あんまり性に頓着したくない思いがある。たぶん遺伝子レベルでコードが刷り込まれていることはわかる。あるいは文化的なレベルのコードもある。視線やことばや、ふとした仕草にさえ性が絡む。まるで宇宙から注がれ続ける放射性物質のように。 それはいたるところで観測される。できるならその根源をたどりたい。目先の欲望には与さない。わたしはかつて、わたしではなかった。男性ではない。人間でもなかった。自分が地球もろともケプラー軌道に縛られている不思議を思う。いつも。そして死すればふたたび、わたしではなくなる。 はじまりと、おわりが気になる。「賽は投げられた。わたしは本を書く。それがいま読まれようと後に読まれようと、大したことではない。たとえ百年待たされてもかまわない」とケプラーは “Harmonice Mundi” の序文に書いた。科学者の遠いまなざしにあこがれている。いったい未来の何を恐れることがありえようか。 先日、twitterで流れてきた単細胞生物が死ぬ動画を見て、ヒトもこんな感じなのかなーと思った。中身が外へ溶け出してしまう。星をちりばめるようにぽろぽろと、零れる。人間も意識のうえではすこしずつ身体ごと空間に溶解してゆくような、ぽろぽろと抜け落ちて、死ぬときはそんな感覚だといい。いや、わずか1日が尽きるだけでも意識の溶解は感じられる。きのうという日のわたしは溶けた(追記:同じようなことをひとつ前の記事にも書いていて、老人の繰り言のよう。まわりながら溶けて滲むリフレインのようなこの日記)。いまも溶けている。熱が放たれる。内側から、外側へ。 いちばん最期は擬音にすると「にゅ」。にゅにゅにゅ。眠りに入る一瞬の擬音もそんな感じかも。身体から溶け出る。「にゅ」っと動きが止まる。ついに観念したかのように、個としての輪郭がなくなる。安閑と弛んで、ひとつのかたちから、いち抜ける。死の擬音は「にゅ」。 祖母を見ていると、「ぽろぽろしているなあ」と思う。日毎に抜けている。何が抜け落ちるのか。おそらく現在時の感覚がひとりでに抜け出す。広い世界と密通して“いま

日記663

夕暮れは奇妙な生き物だと思う。奇妙な生き物の中に、さらなる生き物たちが棲んでいた。生き物は生き物を生みだし、そして殺した。きょうの生まれたてもやがていなくなって、視界から消えた。「いない」とはどういうことなのか、あるいは「暗い」とは、「明るい」とは何か、始原に光はどうやって生成されたのか、夜も昼も朝も何だかよくわからなかった。気がつけばやたらと大きくて、奇妙奇天烈な生き物に呑まれていた。それがここにいる理由だった。朝が来て、夜になって、わたしもあなたも歩いていた。幸せが増えすぎた21世紀たち。この場所ともいつかお別れする。今世紀のうちに死のうと思った。希死念慮のふりをして、あと81年もある。世紀末まで生き切ったら立派なご長寿だ。でも今世紀中のどんなタイミングで死ぬかはわからない。知りようもなかった。なんにせよわたしは21世紀に生きている人間で、この時点からの移動は困難だった。 30世紀になっても人類がしぶとく文明をやっているとすれば、この時代をどうふりかえるのだろう?みたいなことをときおり思う。歴史の繋留点はどこへ置かれるのか。ポイントとなる関節を捉えることができたら、ひと思いに脱臼させてやりたい気もする。時の流れにオクトパス・ホールド。しかし、時間に関節はなかった。継ぎ目という継ぎ目は身勝手な創作物だ。ことばは幻想によって接着する。きのうときょうは眠りによって継がれた。意識のジョイントがバラされ、再構築される。目覚めたとき、きのうとおなじ世界が続いているなんてちゃんちゃらおかしいが、渋面で起きた。おなじではない。きのうの自分は消えた。わたしたちは未来に目覚める。ぼんやりと、遠い遠い未来を想像しながら現在を感覚してみる。へんにくすぐったい気分になった。20億光年の孤独に思わずくしゃみをするような。過去が未来を追い越してしまったような。むずむず。寒さのせいか。寒さよりザムザみたいに虫になれたらいいなと思う。カーテンを開けると、一面に空は青かった。 シンクが落ちていました。 もう1月13日ですが、新年の目標らしきものを掲げておこうと思います。実現可能性の高い目標。まず身体をやわらかくします。骨抜きにする。自分で自分を。ふにゃふにゃに。頭痛やら痔やらもろもろの不調も固さが原因の一助を担っていると思えてきました。ちがうかもしんないけど。諸悪の根源であ

日記662

わざわざ景勝地みたいな場所へ行かなくとも、こんなんで十分だと思います。カラの駐車場、煤けた壁、錆、街灯の丸み、空、ひとつ低いところに建つ民家の屋根、電柱、電線、傾きかけた陽射しの色味。造作のないもの。用意のないもの。通り過ぎるもの。いつもは立ち止まらないけど、たまに立ち止まると見えてくるもの。日常の道筋にある、筋のない景色。 あらかじめお膳立てされたものに、お膳立てされた通りに触れても、お膳立てされたもんしか見えない。それはそれで悪くはない。参考になるし、すなおに「ああその通りいいなー」と思う。でもそんな「いいものはいい」ってな程度の物言いに、積極的になる必要を感じない。性分だろう。「くだらない」も、ほめことばになる世界がある。くだらなくてもいい。 “どんなものも、その90%はカスである”というスタージョンの法則がほんとうなら、最初からカスのほうを愛したほうが確度が高い。そのうえ運良くカスでないものまで見出せれば、100%楽しめる。カスを無きものにしちゃもったいない。ハッピーターンの粉の麻薬的なおいしさよ。貧乏性ではない。なんでも拾い食いをする気前のよい余裕をもちたい。星座のかたちを考えたやつのヒマさ加減を想像してみる。夜空を見上げながら「あれとあれをつなげて……」などと考案しちゃうやつはいかにも泰然自若、余裕綽々だろう。朝になれば「星見すぎて首痛くなっちゃったよ~」なんつって笑うんだ。本来、人はヒマだった。「太った豚よりも痩せたソクラテスに~」なんてケチケチした考えはナシにしよう。なにより二者択一なんて忙しない。太った豚も痩せたソクラテスも好きである。豚はかわいくておいしい子でトリュフを探り当てるやつもいるし、ソクラテスは賢くて嫌味なところがナイスな子。いや、べつに太ったソクラテスでも痩せた豚でも下半身が豚で上半身がソクラテスでも頭部だけ豚で首から下はソクラテスでも豚の姿をしているが心はソクラテスでも筋肉バカのソクラテスでも飛べない豚でも飛んでるソクラテスでも、なんでもよろしい。つづれる余白さえあれば。満ち足りたハングリーさで、白い余白に黒くたたずむ。わたしはできるだけらくに生きて死にたい。人生はそこそこ長尺な遊びです。ときおり手厳しいけど、それも遊びのうち。神意というただひとつのルールに則る。無制限一本勝負の、お遊び。

日記661

テイラー・スウィフト、ジャスティン・ビーバー。卍。LOVE。二。の落書き。ぱっと見ると外国っぽい雰囲気も感じる写真。Bieberの3文字目の「e」が好き。いいしゃくれっぷり。「卍」の下へ向けたはらい方もいい。 人が落書きをしてしまう精神性がきらいではありません。もちろん落書き自体はほめられたものではなく、迷惑行為です。でも人間が失ってはならないもののひとつとして「落書きをしたくなる精神性」はあると思う。 このブログも言ってみれば、落書きです。他ならぬわたしも落書きをしてしまう人間。よくネットの書き込みは「便所の落書き」などと揶揄されます。なんの目的もなく書くだけ書いてあまり読み直すこともせず立ち去る。街角に落書きをするような、丸善に檸檬を置き放して去るような、無意識にさえずるような、そらごとめいた悪戯っぽさだけを残して身体は消える。 既存の秩序をほんのすこし逸れて、それをそのままにしてどこかへ行く。ここにわたしはいません。眠ってなんかいません。千の風にもならない。端的にいない。気まぐれにまたちょっとだけ戻ってきて、すぐ去る。 わたしにとってのインターネットは、逸脱の世界です。お行儀のよろしい「正しさ」が喧伝されるようになって久しいけれど、ネットの個人的な原体験には逸脱があります。ブラウザをひらけば日常とはかけ離れたおもしろいものが見られる。狭隘な愛にあふれた未知の世界が拓ける。オブセッシブな衝動が野放図に転がっている。一生かかっても出会えるかわからないような、妙ちくりんな人がたくさんいる。そんな場所の存在が、中学生の自分を支えてくれた。00年代の初頭。 そこにあったのは、安易に判じることのできない空間の魅力です。まだ強い陽の光が当たらない時期でした。しかし黎明は過ぎつつある、そんなころに自分の原体験があります。いまではネット上にもすっかり陽がのぼり、どこを見てもまぶしい。光にさらされる。まぶし過ぎて目眩がします。このままでは盲いてしまうから、靄がかったやわらかな光の射すところを探ろうと必死でいる。 はっきりしたものは、つまらないと思う。虚も実もあいまいなこの世ではないか。色数も判然としない虹色のとりどりは、しかし鮮やかでもある。そこには正解も真実もない。視覚の効果と、それを脳裏にうつす感受性だけがあれば。どこの誰だか知らない人の勝手な

日記660

お湯で腹を満たしています。 新年早々、歯医者の予約と健康診断の予約を入れました。ことしは、よく動く年になります。まず身綺麗に。書店へ行くと「すぐやる」ということばが目につきます。すぐやる本。「すぐやる人」にでもなってやりますか。「なってやる」という大橋巨泉がごとき尊大さも隠さずに。タモリ、お前の番組に出てやるよ! 行動ばかりを称揚する人間は浅薄に見えてしまい、あまり良い印象を抱きませんでした。それは自分が性格的に内にこもりがちでプラクティカルな動きに重きを置いた生き方をしてこなかったからです。時間の使い方は他にもあります。なにもしない。平和裡にまどろむ。自足する時間をたいせつにしたい。 しかし行動しないとお話にならないことも確かです。自律的でないと周囲が放っておいてもくれません。「なにもしない」ためには人一倍の自律心を行動に移し、それを知らしめてゆくことが最低ラインです。わからせるまで。 思考の選択肢はいくらでもありますが、為すべき自己はいまここにしかいない。無時間的な内向の根は腐るほど心身に植わっているはず。心配しなくともなくならないよ。そのうえでさらにリアルな時間の中へこの身を浮かべる外向性と、両輪があればいいと思う。 エラーを楽しむように行動する。たぶん、肉体的な疲労や心労が身体に出やすいタイプなので自己管理もおこたらずに。自分の中に看守をひとり置く。いや五人くらい置いたほうがよいか。人件費がかさみそう。たまには他人に頼るかわいげも必要です。頼るの、へただな。依頼心のなさは祖母ゆずり。 自己の領分を他人に侵犯されたくないようなケチくさい思いが強くあります。表面の印象では「やわらかい」とよく言われる。でもその実、頑固者です。分厚い岩盤が内面の中心に据わっている。そいつをやわらかなことばと物腰で囲い、傷つけまいと守っている。外側が「やわらかい」のは、ショックアブソーバーだから。広い受容性と狭い排他性が同居している。 そのぶん他人の領分も尊いものだという認識があります。もちろん自他の境域なんてきっぱりと腑分けできるものではありません。わたしたちは思いのほかぐちゃぐちゃです。しかし輪郭くらいはなんとなく見る努力をする。煙のようにつかめなくとも見えることは見える。触れることはかなわない。見せてくれる笑顔のひとつだって尊い贈り物とみなすこ

日記659

1月2日(水) あけました。とんで2日。 地球といっしょにぐるぐるまわる。元日から、このでたらめったらない星とまわっている。じつを言うと去年もいっしょにまわっていた。いや、生まれてこのかたそうらしい。いや信じがたいことに、生まれる前からすでにそうだったらしい。べらぼうにでたらめな話です。確証のない噂話だね。What's goin’ on? おれに聞くなよマーヴィン。この地球は誰かさんの都合でまわり始めたらしい。いまもだ。健やかなる日も病める日もだ。ぼくは愛を語れないそれでもだ。いかなる孤独感に打ちひしがれようとも地球の上で全員いっしょにまわる。どこでもいっしょです。井上トロよりもずっといっしょ。宇宙飛行士はべつとして。岩城滉一とゾゾタウンの社長もべつとして。たまには地上から離れたい気もします。夢の宇宙旅行、きっとできる日がくる。バミューダ海域、ハワイはワイキキ、世界を股に!百聞一見、事件を発見、Let's go おばあちゃん! 1月1日にEテレで放送されたPerfumeの「コンピューターおばあちゃん」がちょっと話題です(3日の午後9時~再放送がある)。でも自分にとっては「コンピューターおばあちゃん」といえばPOLYSICS。ふつうに「みんなのうた(フレネシ)」だろ!という人もいれば、YMOだろ!という人もいるでしょう。もう知らない。メイのバカ。なんでもいいよ。Perfumeも好きです。いつもバカにされているメイだって、かしこい子だよ。メイかしこい。ほんとは知ってるから。ごめん。 夕食中、「肉がうまいっていうのはなんでもうまいね」と母が口走る。わたしは考える。長年の母との会話で涵養された読解力で要すると、これは肉の波及力のお話だ。あるいは肉の中心性。肉、その可能性の中心。裏を返せば、肉のおいしさはその波及力で計測できるという前提がひそんでいる。つまりその他のおかずまでおいしさを連鎖させない肉は、大した肉ではない。母の定義では、なんでもうまくなる肉がうまい肉なのだ。と、ここでさいきんリツイートした掟ポルシェさんのつぶやきを思い出す。 かつて演歌は他のジャンルを包括できるほどのフォーマットだった。それが演歌の役割を意味なく自覚してから、演歌は演歌らしいもの以外誰も求めなくなり、その需要に乗っかった演歌っ