スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

11月, 2018の投稿を表示しています

日記646

影の流れるようす。どこにでもある。夜になれば、まいにち誰の目にも入っているはずの光と影による現象。写真として切り取ってみる。走りくる車のヘッドライトに次々と照らされ、幾重にも複層化しながら規則的に動く植物の残影。車が通り過ぎるたびに現れては消える。こどもの頃からじっと見てしまうもののひとつ。洗濯機のまわるようすをえんえん眺めるような感覚にちかい。わたしには葉や枝や茎などよりも、その影のほうが確固たる実在に思えた。鮮やかでさえある。自由さがある。なんでだろう。わたしの円周を巡る、この黒いやつのほうがのびのびできている。自分の影にも嫉妬する。 吉祥寺にある爬虫類カフェのinstagramで多様な爬虫類と絡み合う人々を見ていると、「爬虫類ってどんなにおいがするんだろう?」と思う。イメージとしては無臭。と書いてから適当に検索してみたら、その通り無臭らしい。でも生きているのだから、鼻をちかづけて集中すれば、わずかでもなんらかの体臭は発していそう。生きた爬虫類のにおいを嗅ぎたい。ヘビとイグアナではちがうにおいがするだろう。食生活がちがえばおそらく。ソムリエみたいにテイスティングして当てられるようになりたい。そういう職業があれば就きたい。生きているやつ舐めたらしょっぱいのだろうか。苦そう。カメレオンは甘そう。ゴムっぽい感じかな。舐めないけどね。爬虫類を舐めながら性的に興奮する男性がいたらすこし気持ち悪いと思う。でもいてくれたらうれしいかもしれない。多様性を感じる。人間という生物種の可能性を感じる。いや、いるんじゃないか。しかしさすがにこれは検索しない。詮索する気はない。不確かにしておいたほうが賢明なことも世の中には数多くある。疑問符を置くにとどめよう。 そんなことより給湯器が壊れてお湯がいきなり水になってしまう。風呂場で気が休まらず。 ミラーボールに魅せられた人種がよかったなあ。悪魔が取り憑いたみたいにfreakな。11月25日(日)、下北沢THREEというライブハウスに行きました。音楽ライブ。出演は3組。uminism、万里慧とYo Asaiと菊淋 、もらすとしずむ。万里慧さんはふだんソロ。 下北沢駅の南口から歩いて「あれ、これ道まちがったかなーあってるかなー」とほんのり不安がよぎる頃にちょうど見えてくる場所が下北沢THREEです。「ああ、あっ

日記645

数日前に古着屋で冬の上着を買った。きのうはブックオフで坂口恭平さんのサイン本を見つけた。医学書院のシリーズケアをひらくに入っている一冊。『坂口恭平躁鬱日記』。名前の右に「躁鬱王子」と書かれていた。「鬱」という画数の多い漢字も書き慣れたような筆づかい。均整のとれた思い切りのよい筆跡を数秒間、眺めて、レジへと持ってゆく。 わたしは「鬱」の字を小学生のころ、「笑う犬の冒険」というテレビのコント番組で知った。視力検査のコントで、たしか学生服を着た原田泰造が黒板に「鬱」と書き、同じく学生服の堀内健に読ませるのだが視力以前に漢字が難しくて読めない、というオチだった。その晩、小学生のわたしは「鬱」の字を練習して完璧に覚えた。なにかに駆られて。それがなんだったのかはわからない。クラスの誰も読めないし、書けないであろう漢字を自分だけ知っている優越感はあったかもしれない。もちろん披露する機会は現在に至ってもない。しかしいまでも「鬱」を暗記できているのは、原田泰造のおかげだ。泰造もコントのために練習して覚えたのだろう。彼は現在もこの字を見ずに書けるだろうか。いや、キャスティングはうろ覚えなので、泰造さんではなかったかも。「鬱」は、良くも悪くも当時よりポピュラーになって、書ける人が増えたのではないかと思う。 『坂口恭平躁鬱日記』を家でパラパラめくると、おみくじが挟まっていた。この本の前の持ち主の運勢だろうか。「現在の貴方の運勢は明運と謂う」と書かれている。「明運」とはなにか。中国の元号でしか聞いたことがない。辞書を引いても元号しか出てこない。しかし、明るいんだから悪い意味ではないだろう。変わったおみくじだった。 もう一枚、「貴方の性格」と書かれた紙もあった。最初の三行を引用する。  貴方の性格は任侠の気質があって人の世話面倒を見るが、大抵其度毎に損害を蒙る事が多いが一面其為に幸運をつかむ事もある。 「が」の重複が気になってしまう。損害が多い、しかし幸運をつかむ事もある、らしい。要するに「いい面もある、悪い面もある」というなんら言い得ていない真理ではないか。そりゃなんだって一長一短ある。それは真理だ。まずはこの真理を悟れということか。なるほど。「任侠」は好きなので、言われるとうれしい。しかしむろん、わたしの性格を言っているのではないし、わたしに「任侠」は似合わない

日記644

多くの人間が集う場所では平均化が起こりやすいそうです。意識がおなじ方向に均される。集団極性化と言います。集団極性化には大きく2種類、リスキー・シフトとコーシャス・シフトがあります。尖った方向か慎重な方向、に平均化がなされがち。「平均」といっても真ん中ではなく偏っているところがミソです。「同一化」とか「画一化」とかいったほうがわかりやすいか。なに、いきなり心理学の講義ですか。いいえ、いつもの個人的な感想文です。 なにかにつけ人々が集団で噴き上がっているときには、そのことについて自分が賛であろうが否であろうがいずれにせよ「真ん中がぽっかり空白になりがち」ということを肝に銘じておきたい所存であります。対立や矛盾のあいだでぼーっとできる幅が狭くなる。油断していると「お前はどっちなんだ?」と糺される。友か、敵か。対立する点と点の論理はつなぎようがない。でも感情くらいつなげるような見方があればいいと思う。どうしても選べというのなら「お前の嫌いな方だ」と答える。 「真ん中」、そこにありうべくはユーモアを湛えた姿勢ただひとつではないかとわたしは思います。「ユーモアは気分ではなく、世界観だ」とたしかウィトゲンシュタインの『反哲学的断章』にあった。笑ってごまかすのではなく、一個の世界観、現実的なものの見方としてのユーモア精神です。  ユーモアがウィットつまり「機知」と別物だということは広く知られていない。機知は、自分が知的な高みにいると構えたうえで相手なり対象なりを見下ろして繰り出す、言葉のパロディ(もじり)である。だから機知には、多かれ少なかれ、高慢の気が漂うのである。  ユーモアにあっては、自分を知性の高みにおくのではなく、徳性の面で高きに至りたいという願望がまずある。しかし高潔の士にはなかなかなりえない。その理想と現実のあいだのギャップを表現するのが諧謔(ユーモア)ということで、したがって滑稽には、一つに自分自身を諷刺するという調子がこもるし、二つに、ペーソス(哀切)の感が漂うことになる。 プチ鹿島さんの『教養としてのプロレス』(双葉新書)p.170より、西部邁の文章の股引。ユーモアの定義として「理想と現実のあいだのギャップを表現する」という部分が個人的にとてもしっくりきます。自分自身への諷刺と、哀切の感というところも。 プチ鹿島さんは、ここから

日記643

左の耳たぶにほくろができていた。なにこれおしゃれ。ピアスいらず。初めてほくろでいい気分になれました。細かくどんどん増えるからこわい。やがて人間から丸く巨大なほくろへと進化を遂げるのではないか。そうなればもうコロコロ生きるしかない。それは進化なのか。退化なのか。わかりませんが、かつて人類がほくろであった時代がないことを考えると、いずれにせよあたらしい事態であることは確かです。ニュータイプです。新シーズン到来です。 このところようやくはっきりと寒くなってきて、いよいよ冬のおとずれかという感があります。乾燥が気になります。リップクリーム。ことし、一本目。口の端がよく荒れてしまうのは栄養が足りていないからでしょうか。虚弱でいるといずれほくろにこの身体をあけわたすことになりかねない。支配されてしまう。人生は、ほくろとわたしとのせめぎあいです。ここの更新頻度が下がり気味なのも、ほくろが優勢であるせいです。わたしが引っ込んでいる。 というか、もともと前に出るタイプではないので先に行きたいものがあれば譲ってしまいます。どうぞどうぞ。自分はあとまわし。最後尾からの眺めも壮観なものでしょう。なによりうしろに誰もいない場所がもっとも安心です。背後から鈍器で一撃くらわされる心配がない。背中を撃たれることもない。つねに撃たれることは想定しておかなければなりません。この街は戦場だから。戦場のガールズライフだから。 さいきん歩きながら意識して知らない道によく入ります。撹乱です。近所でも入ったことのない路地は多い。迷っても進んでいればいずれ、手探りの道といつもの道とがつながる瞬間に出会える。ひとつ理解を得られたような感覚があります。あーここがここにつながってなるほどー、と。エウレカ。街を歩くことも、コミュニケーションのひとつではないでしょうか。その街との対話。まだ見ぬあなたを知りたい……。愛の予感です。 わたしはごくごく身近な場所のことも、ほとんど知りません。入ったことのないお店、見たことのない公園などがたくさんあります。意識は慣れてすぐに曇ってしまう。横道にそれようとしなくなる。自分から同じ道を同じようにたどっておいて積極的に退屈してちゃ世話ねえな。 同じ道でも、たとえば昼間にしか歩いたことのない道を夜に歩いてみるだけですこし変わる。あるいはBGMを変えてみる。ふだんま

日記642

信号待ちに暇だから写真を撮ります。しゃがんで居並ぶヘッドライトの光を撮っているとき、たまたまおっさんが通りがかって残像が写りました。うーん。悪くないよ。ありがとう。 ところで、信号を待っているあいだみなさま何をお考えなのでしょう。たいがいの人はじーっと突っ立っています。何も考えていないのか。わたしは腿上げをしたり写真を撮ったり踊ったり行き交う車を目で追って動体視力を鍛えたり檻の中の動物のようにウロウロしたりキョロキョロしたり飛んだり跳ねたり、かなり充実した待ち時間を過ごしております。信号待ちですら楽しむ、これが真のリア充です。 でも友人といるときなどはわたしもじーっとします。まるで金縛りにあったかのように。わたしだって信号待ちで踊り出すような気持ち悪くて落ち着きのない人間といっしょにいたくはありません。疲れちまうよ。目障りだし。止まってろ。誰かといるときは、その誰かの目や意識も少しだけ乗り移ります。横並びの意識。 ひとりの場合なら、べつになにもかもがどうでもよいので踊ります。ほんとうは誰かといたって「ひとり」なんだけど。なにを気にしているのでしょう。だって恥ずかしいしー変な奴だと思われたくないしー。そもそも変な奴じゃないから。 経済的に貧しくなり破綻するご家庭を間近で見ています。現代における「家族」のそもそもの始まりはどういったものなのでしょうか。きっかけからお金でつながれた関係ならば詮ない話かもしれません。カネがなくなればさようなら。それが合理的な判断というものでしょう。 いまのところ「家族」というユニットが立ち上がるためのきっかけは、あんまり制度化されていません。「自由恋愛」などと呼ばれます。『万引き家族』のように犯罪でつながれていてもいい。いいよ。適当にやれ!って感じ。もともと社会システムの外にある不合理で身勝手な感情に端を発するのであれば、合理的な個人の利にとらわれることなくお互いのあいだにあるお互いのためだけのクソ身勝手さを貫徹して過ごすことが理想だと思います。不合理ゆえに吾信ず、みたいな。「身勝手の一貫性」でつながる。 家族をつくること、みずからも家族の中に生まれたこと、広く人間とつながること、こどもを産むことなどに「いい」も「悪い」もありません。わたし個人は、そのことについて価値判断はしない。個人的な感覚では「なんか

日記641

なんか積んでありました。 修行の痕跡です。 友人がわたしを盗撮した動画を送ってくれて、動くじぶんを久しぶりに見ました。あれ、なんかわたしみたいな奴が動いている!という衝撃。ふだん「動くじぶん」をあまりにも見かけないから、じつは植物ではないのかと疑問でした。動物らしいが、ほんとうに動いているのか疑わしかった。鏡の前のあいつは偽物。他者目線から俯瞰的に動くわたしを見ると、じっさいはこんなふうに動くのかーと勉強になる。わたしという動物の生態。やはり思っているより肩幅があるし、思っているより胸板が厚い……。もっと華奢で青白くて儚げで「萩尾望都の漫画に出てませんでした?」と街角でたずねられちゃうようなボーイがよかった。 * さいきん気絶するように寝てしまう。力が一気に抜けて動かなくなる。脱力感が激しい。かといって眠りは浅い。わたしが生きているうちにいちばんほしいものは突き詰めると時間だ。出世欲はない。富も肩書もはっきりいってどうでもいい。世間的な「成功」にはひとつもあこがれない。「成長」も志向しない。おいしい食事もいらない。では、どういう時間がほしいのか。ただひとりの時間だ。歩く時間だ。眠る時間だ。笑う時間だ。考える時間だ。穏やかでいられる時間だ。できるだけ強制されない時間だ。「自由」ということばは使わない。この世に自由などありえないと思い始めた。いつも本を借りて、たまに音楽やラジオを聴いて、余裕があれば映画を観て、どこへも行かないまま遥か遠くへ行く、ただ一個の名前のない時間があればいい。あるいは愛するひとや、惹かれるものたちと過ごせる時間がほしい。それ以外は最低限度でいい。他人をどうこうしたいとか、なにかを所有したいとか、思わない。社会から命を脅かされたり、尊厳を踏みにじられたりしなければ。いや命はいつだって脅かされている気がする。eastern youth、吉野寿さんのインタビューを読んで思ったこと。 吉野:気持ちはおんなじでしたね。今もずっと一緒。要するに「冗談じゃねぇよ、殺されてたまるか」ってことですよ。黙ってると殺されちゃいますから。どうにか殺されないために押し返す。 一一殺されるというのは、何かの比喩ですか。 吉野:いや、本当に押し潰されるんです、世の中に馴染まない人間っていうのは。どこにも属せない人間は排除されて、村八分に

日記640

ラップと動画をつくったので載せておきます。 あんまり考えないでつくるといいのかな。意味ありげですが、意味はそんなにありません。勝手に妄想することは自由だけれど……。どうしてもやりたい一発ギャグを思いついちゃった感じです。ええ。「お前の母ちゃんお騒がせセレブ」と言いたかっただけです。 人間は油断すると意味のあることをしてしまいます。より正確には、意味があるとされていること。だけをやるようになります。あらかじめ流通している意味の体系をなぞってしまう。意味や価値が、かたちづく以前の領野にはわざわざ踏み入らない。意味があるとされる存在になりたいのです。共同体とつながれる、頼られる、頼れる。価値があるとされているものを目指すこと。それはそれで生きるうえではたいせつなことです。 この意味不明なラップもいちおう既存の方法をなぞってはいます。まったくあたらしいものはつくれません。パーフェクトに無意味なものもできっこない。そんなもの認識できない。既存の方法、でも伝わる射程のレンジが、広い共通了解の領分にまでは届かないラップだと思う。届くのは、せまいせまい細道を渡ってくるひとにだけ。このブログだってそうかも。 たとえ広く通じなくとも、たったひとりにとって、たったひとつだけの意味があればいいと思う。じぶんだけでも。しかし、いちおうyoutube経由で全世界に公開します。さみしいからな! 近日中にジャスティン・ビーバーがtwitterでおもしろがってくれることを期待しよう。そしてブレイクしたあかつきには紅白で歌うんだ。大晦日にみんなで、「つかれた、もうねたい……」とか「もう!こん!な村!でも!こん!な村!ヒエー!」とか。さいごは哀しげにうなだれ、絶望し切った様子でこと切れる。こん、な村……。 いや、こんなん広まったらわたしがいちばんどん引きするだろう。はっきりいって気持ち悪いです。やめろジャスティン。その指先外交をいますぐやめろ。気持ち悪いのはわたしだけでじゅうぶんだ。もうこりごりなんだよ。わたしの気持ち悪さは、わたしが一手に引き受けて食い止める。ここはわたしに任せて逃げろ。この遺伝子は誰にも受け継がせない。みんな気持ちよく先に行け。わたしで終わらせる。ここが末代。 数日前、横浜に行きましたとさ。祖母と。ペースを合わせるため、つねにすこ

日記639

ぼく2歳のころ、なにもできなかった。 テレビをつけたら加藤一二三さん(78)がおっしゃっていました。いわゆるひとつのひふみんの名言です。こう抜き出すと悲壮にも感じます。忸怩たる後悔の念に苛まれている。畜生、じぶんがなにもできなかったせいで……。わたしも2歳のころはなにもできなかった。2歳のころの無力感を思い返すと打ちひしがれます。なんであんなに無力だったんだ。気持ちはおなじだよ、ひふみん。 もちろん通常の軽快な会話の流れの中での発言ですが、あえて説明せずここだけ単品でいただいておきます。おいしいところだけちぎりとる。文字化して標本のようにディスプレイの中へ保存しておく。加藤一二三(78)の人生の瞬間を織りなした細切れの部分。 11月9日(金) 雨でした。夜には止む。雨上がりの暗がり、そこかしこで水滴の粒が灯に照らされちいさく光る感じが好きです。冷たい季節に映える。と、こういうことを天然で言うから「ポエマーみたい」などと揶揄されてしまう。 じっさい、となりを歩いていた友人から半笑いで言われたので「雨粒のこのきらきらしさに気持ちを向けないなんて地球にいる意味がない」と大袈裟に言い返して笑う。わたしは地球を満喫するから、あなたは金星に帰っていいですよ。さもなくば清少納言を思え。 彼女だって「春は曙、やうやう白くなりゆく山際……」というような、たとえば、春になってふと漂ってくる沈丁花の香りや、夜、家に帰るときに何ヶ月も縮こまって歩いていた同じ道を、三月のある晩にゆったりと体を伸ばして歩いていることに気がついたときの喜びや、そういう、季節の小さな変化をしゃべる相手が何人かいたら、「生まれる時代を間違えた」とは思わないで済んだことだろう。  語る、話す、しゃべる……というのは、気持ちを対象に向かわせることで自分を前に出すことではない。 保坂和志『途方に暮れて、人生論』(草思社)より。きれいなものがあれば「きれいだ」とふつうに言い合えればいい。日常の話です。それを「ポエマー」だと感じたのなら、あなたにとっての詩は日常にありふれているということです。わたしにとっての詩はそのかぎりではありません。 ありもしない他人の自意識をあげつらっておもしろがるのもいいけれど、もうそんな気分じゃないんです。飽きた。地球の男に。わたしと契約して

日記638

11月7日(水) 苦悩する若者に「ビスマルクと対立した皇帝はヴィルヘルム2世ですね」と、人生の役に立つアドバイスをしました。この史実さえ踏まえておけば安泰です。現代社会をサヴァイヴできます。

日記637

ヒゲ剃りを買いました。電動のちゃんとしたやつ。初めてです。安いカミソリを使用しつづけていると肌を傷めて将来ゾンビみたいなベロンベロンになると思い、ようやくヒゲだけおとなの階段をのぼりました。ほかはまだ。もうおとななんだからヒリヒリしないの。 よろこび勇んで、買った日にさっそく使ってみました。使用後、しばし困惑。調子よくジョリジョリ剃ったはずなのに、成果物としてのヒゲがどこにもない。消えるのです。なんだ?わたしのヒゲはどこへいったのか。PHILIPSの5,000円ほどのヒゲ剃り。ヒゲが飛び散らないのはよいのだけれど刃の部分を取り外してみてもどこにあるのか謎。思わず検索してしまいました。「PHILIPS ヒゲ どこ」。すごくあたまの悪そうな検索ワードです。 取扱説明書を読んでも消えたヒゲについては書いていません。神隠し。内部に溜まる仕様であると調べがつくまでの所要時間、数十分。そうだろうと思ったよ。中途半端な分解ではそのセントラル・ドグマまでたどりつけないらしい。ヒゲを溜めておく趣味はないのですが……。 そういう趣味のひと用だったらちゃんとそう明記しておいてもらいたい。「溜めるタイプの人類用」と。わたしは即刻ヒゲとおさらばしたいのです。ひげよ、さらば。と思っていたのに。でも剃り心地はよいです。軽く当てるだけでいい。やさしい。 11月5日(月) ひとりでよく行く屋上からの眺め。「ここにいると人生からいち抜けた感じがします」。「あそこの階段で20秒くらい電話したい」。「音楽は意識の乗り物だと思う」。なんていろんな話をしながら、友人とふたり。たとえばもし、じぶんのこどもができても、「この世界はすばらしい」とはとうてい伝えられない。とわたしが言う。いやー「愛すべきクソ」でいいと思いますよ。と返されて笑う。 ひどく青臭い話題だけれど、「青臭い」で片付けてしまえる問題でもない。「青臭い」と一笑に付されるようなもののすべては、ほんとうは人生を通して考えても足りないくらいの事柄ではないか。たとえば愛について。あるいは死について。幸福について。思っているけど言わずにいる日々の細かなささくれについて。たまにはお話しよう。議論とか仰々しい感じではなく、あくまで軽いトーンです。いつもの延長にあることを。 じぶんが肯定できない苦い世界に、あたらしい他人

日記636

直線、縦と横。斜め。少し丸み。に、傘。 呼吸が浅くなるような猫背はなるべくなおしたいけれど、いっぽうで猫背の人間がぬら~っと歩いてくる不気味さも捨てがたい。いかにも不健康そうな痩せ型の猫背が向かいからゆらゆらやってくると、やべえ奴を発見したような興奮があって、内心で盛り上がることは否定しきれないのです。 猫背って戦闘モードな感じ、あります。すぐに思い起こすのは宮本武蔵の自画像。構えが微妙に猫背気味です。そして禿げ上がっています。さらにゆらゆら歩いて三白眼だと意識が定まっていない妖しさが出て最高。酔拳のような意識レベルの低そうな格闘スタイルにあこがれます(映画でしか見たことないけど)。 武蔵以外に猫背武道家サンプルは思いつきませんが、わたしも世界を呪うような気分でいるときはふだんよりぐっと猫背になります。呪詛の姿勢です。その怪しさは、まったくきらいではないのです。呪術モード。 姿勢について、武術に造詣のある友人から少しヒントをもらいました。そっからじぶんなりに思ったのは一部の「矯正」ではなく全体の「調整」を心がける、というところ。ともすれば忘れがちな事実ですが、身体ってぜんぶつながって動くのですね(あたりまえだ)。たとえば胸だけに意識を向けて張ると、腰が反りがちになって負荷がいく。一部だけではない自然なぜんぶの均衡点を身につけて歩くこと。みたいな感じみたいな。 個体の骨格に見合った姿勢があって、たぶん「いい姿勢」はひとりひとりちがう。猫背は完全になおさなくともいい。世界を呪っていてもいい。血液がしっかりとめぐり、動きやすければいい。優先すべくは姿勢の支え方よりも、血と呼吸と体重の流し方。力の抜き方。総合的な動きやすさです。 ・ ・ ・ 「変わった人」という他人への評価には、3つのレベルがあります。初級は「変わった人」とよく言われる人。中級は「変わった人ってよく言われるでしょ?」とよく言われる人。上級になるとそう、「変わった人ってよく言われるでしょ?ってよく言われるでしょ?」とよく言われる人。この3つです。わたしは「ふつう」を自認しております。これでいうと中級に属します。ミドル級。要するにふつうです。上級はレジェンド・オブ・伝説。 「変わった」なんて、あたりまえではありませんか。自分も含めてみんな「変わった人」だと

日記635

「神さま」なんてことを書くと引いちゃうひとが多いらしい。べつにかまわない。いちおう付言するとわたしの場合は、人間とか社会規範とか一般常識とかお国が敷く法律とか共同体の倫理とか、たとえばそういう変化があってとうぜんのものへの過信(盲信)を避けたいから、ではじぶんは最終的に何を信じて何に従うのかといえば「神さま」とこたえるほかはないのです。「じぶんを信じる」という方もいます。でも人間って脆いよ。 ともかく、まず「人間への不信」から端を発しています。「不信」というと治療の対象にされそうですが人間は変化するし、していいのよ。縛れない。縛ろうとも思わない。「不信」はまちがえました。積極的に信じていないわけではない。でもぜんぜん、裏切られてもいい。親友だと思っていた奴がいきなり豹変して背後から鈍器で一撃くらわしてきてもかまいません。「ああ、アイツも人間だ」と思うだけです。吉田拓郎の「人間なんて」を歌うだけです。人間は“そういうもの”です。 わたしたちはナマモノです。そのうえでわたしが信を置くのは、ナマモノから遠く隔たった変わらない普遍のひとつの想定としての「神さま」です。どんな共同性にも依らない。わたしひとりを立たせるためにある一本の背骨のごときもの。そんなリアリティとしての、「神さま」。なのでした(きょうのわんこ風に)。 自己も含めた「人間は脆い」と、このひとことがどこまで深く通じるか、あるいは通じないかで「神さま」を導入することへの見方が大きく別れると思う。ただ一定の留保は置きつつも、なるべく他人を信じています。正確には、信じたいと思いあぐんでいる。すっきりしない場所にあえてとどめる。 いっぽう、駄々っ子みたいでどうしようもないけれど「誰にも従いたくない」という気持ちもあって。他人の話はよく聞けるほうです。理解する力も人並みにあります。しかし聞いたうえでどうするかは、わたしが決める。負うのは神さまから預かった背骨の責任だけだ。そんな思いは否定できません。意に反することもしなければならないのはわかります。めんどくさいひとみたいですが、現世的なさしたる主義はないのでわりとなんでもやります。神さまうんぬんは、じぶんのことばを見失わないための方便です。 たまに「スピリチュアル」などと言われるけれど、個人的には、人間とかお金とか社会制度とか所属組織とか集団と