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3月, 2021の投稿を表示しています

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  電車移動が常態化すると、電車内は暇つぶしの場所になる。電車内で電車内を眺める人はあまりいない。ほとんどの人は、手にしたものに目を落とす。スマホだったり、本だったり、なにかの資料だったり。思い思いのものを見ている。そうやって、電車内にいないような素振りを見せる。儀礼的無関心、というか。電車内で存在感を発揮する者は、こどもや病者などの周縁的な人々にかぎられる。 目を閉じて、まぶたの裏を凝視する人もたぶん、そういない。これに似ている。人が目を閉じる目的は、まぶたの裏を見るためではない。電車に乗る目的も、ただ電車に乗るためではない。電車内は、まぶたの裏。空白に映じる物思いのとき。 映画館もまた、「まぶたの裏」に似ている。純粋に映画のみと対峙する人はあまりいないのではないか。多くの人はその映画にまつわる、自他の記憶を観たがる。『花束みたいな恋をした』はある種の人々の記憶を刺激する。いわば「暇がつぶせる」映画なのだろう。それはそれとして素晴らしい。 だから逆に、まぶたの裏を凝視したくて映画館へ行く向きには響かないのかもしれない。「映画狂人」のような。あるいは暇つぶしの材料を見出せなかった場合。「ノームコア映画」と前回の記事に書いたように、そこにあるのはきれいな無地の白シャツだった。 「ノームコア」は“normal”と“hardcore”をかけあわせたファッション用語で、めちゃんこシンプルな服装のことを指す。究極のふつう。そんなひとつの「こだわり」。無個性で、矛盾を孕んだ「こだわり」。「ノームコア」という文脈を外せば「こだわり」なんて見出せない「なんでもいいような服装」ともとれる。 「ふつう」はつねに矛盾とともにある概念で、そこがおもしろいとわたしは思う。どこにもないようで、どこにでもある。包摂的であり、排除的である。ふつうでありたくないようで、ふつうに焦がれる。個体としてあり同時に集団としてある。そうした人間世界の一筋縄ではいかない諸相に興味がある。わたしたちは「ひとり」と「みんな」のグラデーション内で色を変える、カメレオンみたいな存在だ。 「ふつう」はさながら、目が覚める瞬間にとり逃した夢のよう。「目覚めるといつも私がいて遺憾」という池田澄子の俳句を思い出す。いびつな一個の「私」が存在するかぎり、完璧な「ふつう」には到達できない。完璧な絶望が存在しないようにね。笑 なんの

日記759

何を見てもなにかを思い出す。すべての記憶は涙で濡れている。つまり何を見ても、涙で濡れている。忘れたくても思い出せない。 「忘れたい」と「思い出せない」のあいだで挟み撃ちになる。このことばは、漫才コンビ「唄子・啓助」の鳳啓助による「君のことは忘れようにも思い出せない」というギャグにちなむ。バカボンのパパの発言としても有名みたいだ。 意味のとれない「ボケ」のフレーズで、たしかにすっきりせず、むずがゆい。記憶とはしかし、そのようなものである気もする。始まりからぼやけている。忘れたい。思い出せない。強烈な記憶であればあるほど、その極から極へとゆらぎつづける。なおりかけの擦過傷みたいに、触れてはぶり返し。 体はつねにゆらぎを宿している。このごろベッドが経年劣化し、体のわずかな震えできしむようになった。大袈裟ではなく、心臓の拍動ひとつできしむ。最初は何が原因の音かわからず、ちょっとしたポルターガイストかと思った。寝たり起きたりを繰り返してようやく「心臓だ」と気がつく。生きている以上、体は絶え間なく動いているのだった。 具体的な体のゆらぎと、抽象的な記憶のゆらぎは通じているようにも思う。そこから波及的に生じる「きしみ」も。言語とは、ゆらぎのうちに浮揚するきしみだ。その淵源には傷がある。すこしの振動で傷んだ箇所がきしむように、ことばが話される。 無意識裡に処理しきれない事象が意識にあらわれる、と人工知能開発・研究者の三宅陽一郎さんがおっしゃっていた。なんらかのひっかかりとして意識がつくられる。ぎしぎし。無音のゆらぎが無意識で、音をたてるきしみが意識。みたいなイメージが浮かぶ。   (……)言葉というのは正しいから記憶されるのではなくて、その言葉を承服しかね、 それを受容するときのきしみが伴われることでリアリティが生まれるものなのだ。p.198 保坂和志『〈私〉という演算』(新書館)の一節。わたしたちは、ひとつの「きしみ」として世界を見ている。そんな想像をめぐらせる。忘れたくても思い出せない。 有名無名を問わず、「この人はもしかすると自分と似た感じのことを考えているのではないか」と思われる人物がいて、小説家の保坂和志はそんなひとり。もちろん部分的な相似であり、自分が保坂和志と同等だといいたいわけではない。そんなわけがない。相似というより、デジャヴみたいな勘違いかもしれない。ふしぎな既

日記758

知られない/知らないまま、いられる。それが「居心地のよさ」のキモだと思う。かくされたまま。平衡状態ともいえる。変化の停止。逆に、知られる/知るほどに「居心地のよさ」からは遠ざかる。学びには緊張と強迫がつきものだ。考えることは逃走の一形態でもある。人類の思考能力は迫りくるものから逃れるために発展を遂げたのではないか。始原の時から、ヒトはひたすら逃げつづけているのだ。しらんけど! そうそう。この「しらんけど!」が居心地をつくる。ゆるみ。緩衝。話の末尾に多用されるこのことばは、語のつらなりを落ち着けるための「一時停止」を意味している。楽譜でいえば休符記号。急に「人類」だなんて、おいおい。早まるな。ちょっと休もう。 連関がほどかれると、ほっとする。仕事を終えて、家に帰るときのように。ヒトは関係性を欲する生き物だけれど、無関係性もおなじくらい欲している。すくなくとも、わたしはそう。四六時中、一貫した自己であることを強いられると、壊れてしまう。どこかで連続性を断ち切らなくては。しばし、眠りに就かなくては。 わたしたちはぜんぜん関係がない。ひとりだ。そこにこそ息を継げる余地がある。そしてまた日々が始まる。ひとりのわたしなんて、存在しなかったかのように。じっさい存在しないのだと思う。いや正確には、存在を認められない。しかし存在しつづけている。ただひとりでいるとは、そういうことだ。未確認生物のように佇むこと。なにもわからず、途方に暮れること。睡眠と覚醒の、死と生の隔たりさえも曖昧に。  ところで、この男の背中は寝ているのだ。わたしの前を同じ歩調で歩いている彼はすっかり眠っている。無意識に進み、無意識に生きている。誰もが眠っているので、この男も眠っているのだ。人生はすべて夢だ。自分が何をしているのか知っている者は一人もいず、自分が何を望んでいるのか知っている者は一人もいず、自分が何を知っているのか知っている者は一人もいない。われわれは運命の永遠の子供であり人生を寝て過ごしている。したがって、このような感覚で考えると、あらゆる子供っぽい人間に、すべての眠っている社会生活に、誰にでも、何にでも巨大で限りないほのぼのとしたものを感じる。pp.271-272   フェルナンド・ペソア『不安の書【増補版】』(高橋都彦 訳、彩流社、2019)より。 「眠っているときは誰でも再び子供に帰る」とペソア