スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2019の投稿を表示しています

日記690

暗闇の境で地球は白を通過する。やがてあたりは黒くなる。たぶんこの世界にある境目という境目はことごとく白い。善と悪の境も、過去と未来の境も。白にはすべてがあって、すべてがない。そこで人は視力を失う。そんな色のように思う。ことし初めに読んだハン・ガンの小説『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳, 河出書房新社)を思い出す。  もしかしたら私はまだ、この本とつながっている。揺らいだり、ひびが入ったり、割れたりしそうになるたびに、私はあなたのことを、あなたに贈りたかった白いものたちのことを思う。神を信じたことがない私にとっては、ひとえにこのような瞬間を大切にすることが祈りである。p.185 さいごにある「作家のことば」より。 白は滞留しない。すべてのものたちのあいだにあって、一瞬で通過してしまう。ひらりと過ぎ去り、またべつの色に染まる。眼窩を突く紫電一閃を境に世界が反転する。昼と夜のあいだ。現と夢のあいだ。イエスとノーのあいだ。あなたとわたしのあいだ。生と死のあいだ。 種々のあいだにある、白い一瞬の通過だけが祈りを捧ぐ契機となる。だから、それを逃さないように。注意深く境界をまなざす。ゆっくりと歩きながら。 祈りの契機とは、出会いの契機だ。わたしたちは「祈り」という瞬間の走路で出くわしていた。それが祈りのかたちであるとは知らずに。いずれまたすれ違うための祈りの中にいた。どれだけひとりきりでいても、深い暗闇の底に沈んでも、大丈夫であるように。いずれ、また。 5月25日(土) 友人に誘われ、六本木へ行く。早めに到着して、気の向くままに歩き回っていた。夏日のなか、晴天のもとでほっつき歩いていると、六本木ガレリアの付近で若い男女に話しかけられた。日本ではないアジア系の、外国の方らしかった。英語で「写真を撮ってください」と。男性に、銀色の渋いカメラを渡される。「OK!」と笑顔を見せたら、向こうも微笑んでくれた。 すごくかわいいふたり。横に並んで、背の低い女の子が男の子の肩に頭を置く。立ったまま、首をかたむけて。そんな写真を撮らせてもらう。渡されたのはデジタルカメラではなく、フィルムカメラ。その場で確認はできなかった。いい写真が撮れていますようにと願うのみ。 あのふたりのつづきを知ることはきっとない。写真を撮った、

日記689

5月15日(水) 櫛野展正のアウトサイド・ジャパン展へ。東京ドームのそばにある、Gllery AaMo。5/19(日)まで、すでに終了。杉作J太郎さんのパネルがお出迎えしてくれた。でも撮影を忘れる。惜しい。 アウトサイド。周縁でひたすらなにかをつくっている人々。芸術家なのか。表現者なのか。その自覚はあったり、なかったり。なんだかよくわからない。そんな人々による「作品」をアウトサイダー・キュレーターの櫛野展正さんが全国から集めた展示。 自分も似たような「よくわからない」を抱える人間だと思う。ここ数年、欠かさずカメラを持ち歩き路上の写真を撮りつづけている。とくになにがしたいわけでもない。習い性になった。気になるものを写真というかたちでとどめておきたい。 なぜそんなことをするのか、わからない。日常的な行動の中に「わからない」という要素がある。うまく説明がつかない。もしかすると「アウトサイド・ジャパン展」に幾ばくかのヒントがあるのではないかと淡く期待し足を運んでみたが、もっとよくわからなくなるだけだった。 上から、稲村米治さんの昆虫立体像、なお丸さんのモンスター、八木志基さんの怪獣絵、そして原夕希子さんのおびただしい丸を描いた作品と鮮やかな絵画。いちいち圧倒される。なお丸さんは写真のポーズがかわいくて良い。彼の紹介を引用したい。  調理師免許を取得後に体調を崩し、自宅療養していた際に、みずからが創造主となり独自の創世神話を構築。 唐突。なにゆえそうなるのか。よくわからないが、天啓が降りたのでしょう。あのモンスターは一種の啓示報告なのか。櫛野展正さんの著書『アウトサイド・ジャパン』(イースト・プレス)p.37より。 原夕希子さんの作品は「圧倒」に加え、少なからぬ美意識を感じます。強迫的だけれど「わかってやっている」ような。おそらく芸術の名のもとにつくっている。「見せる」という意識がある。あくまで作品のみから受けた感想です。 わかって統御しつつやる創作態度と、やむにやまれずやる創作態度があるように思います。わたしの主観的な分類でしかないけれど、前者寄りの作品は堂に入った構えがある。「美術」に意識を届かせようとする。後者寄りの作品は勝手にのさばっていたらたまたまギャラリーに陳列され

日記688

カテゴリ化すると差異がなくなり微細な識別ができなくなる。識別力を維持するために、無名の荒野がある。下條信輔教授の講演動画を流しながら料理をしていたら、こんな話に手が止まった。 色名の心理空間には、肌の色近辺に広大なブランクがある。「肌色」という曖昧な領域。細かく見るため、あえて曖昧にさせておく。この考え方がすごくおもしろいと思う。人間の三原色色覚系は情動ディスプレイのために最適化している、という話もおもしろい。身体化した知性の話も。ぜんぶおもしろい。 すべての判断は、下した瞬間にそれ以外の「微細さ」をとりこぼす。曖昧な領域を振り切る。置いていく。それでもなお生きるうえで断じることは日々必要になる。名付けないまま自閉的に感じていたいのに、名付けないことには始まらない。もとの文脈とは離れるけれど、そんなことを思った。 しかしいちど振り切った領域へ、ふたたび戻ってもかまわない。別の視点を得てから、以前にはわからなかった「微細さ」とまた出会える。改めてひとつひとつの遠さや近さ、大きさや小ささがわかる。「肌色」という広く曖昧な領域は、そこへ帰るためにあるのだと思う。「曖昧さ」が認識のベースとしての働きをなす。自分の潜伏基地としての曖昧。 わたしは誰になにを言おうが、どんな決定をしようが「曖昧さ」に立ち戻る。他人との会話の場面ではあーだこーだ言うけれど、短時間でことばにした判断に正誤はない。わからない。知らんがな。でもそれでは文字通り「話にならない」から、事を断じたようなフリをして話す。のちに真逆へ舵を切り直すこともしばしばある。イエスからノーへ。ノーからイエスへ。 他人と話をするためには、ひとりきりの「曖昧さ」という潜伏先からいったん這い出なければならない。出る際の擬音は「ザバー」。荒野ではなく、ワニ型の爬虫類が直立二足歩行で沼から這い出すイメージ。そして背中に残った曖昧な泥をビチビチ撒き散らしながらコミュニケーションをとる。こちとら泥水をすすって生きている。やなイメージだなあ。「清濁併せ呑む」と書けばいくらかマシか。いや「濁濁」かもしれない。濁濁、だくだく呑む。そして絶えずおなかを壊す。 角砂糖が捨てられていた。理由はわからない。枯れた木香薔薇が入り混じって、夕陽に照らされ、コンクリートの上で白がやけに黄色く見えた。砂糖、

日記687

価値判断は規範化と結びつきやすい。ルールは少ないほうが好ましい。何事も、まず観察することから始めたい。対応しやすい間合いをとる。と自分に釘を刺しておく。いかなる発語も、「自分にかけることば」という側面がある。少なくともそう意識する。これは以前も書いたかな……。「こんにちは」ひとつとったって、自分に気づかせるための側面がある。状況の創出としてのあいさつ。その場その場の自分をつくるため。それにより関係も演出される。 5月6日(月) さいきん小学二年生の甥が携帯電話を買ってもらったらしい。機能は電話とSMSだけ。それで朝、「おはよう」と短いメッセージがくる。毎日。使いたくて仕方がないのだ。きっと不器用にこの四文字を打っている。ぽちり、ぽちりと。素朴な平仮名の四文字から、たどたどしい仕草が浮かぶ。 ここ数日は生真面目に返信を書いていたが、ふつうに返信をしても文字ベースだと会話にならないことがわかった。きっと読み書きの能力を要求しすぎてもストレスになる。だから、この日は「ウホホッ🐙」と返信を打った。 すると水を得た魚のように絵文字の連打がきた。サルの絵文字だらけの画面。たどたどしさが一気に消える。興奮気味に連打したのだろう。仕方がないから「プリッ🍖」と書いて送った。仕方がない。仕方がなかった。 仕方がなかったとはいえ、こうした無意味なやりとりこそが純粋なコミュニケーションだとも思える。これぞ真のコミュニケーション能力である。なんにも考えなくていいんだね。とくに意味の通ることばに辟易しているときは癒される……。 甥から送られてくるものは、「おはよう」以外ほとんど絵文字だけ。なんの意図も脈絡もないものがワーッとくる。すこし困惑する。いや思えば、わたしも脈絡のない絵文字を文末に置いてよく送る。「こんにちは🐧」みたいなふうに。動物などの絵文字を内容とは関係なくつける。そのほうが楽しいからだ。小学生的な感性の為せる技なのか。でもいちおう文面は書く。おとなだから。いちおう。 絵文字だけが敷き詰められた、ことばのないメッセージ。これはなんなのだろう。情報伝達以前にある、何かを発信したい衝動というか。純粋な欲望なのだと思う。理由はたぶん、楽しいから。毎朝毎朝。 ビット数の無駄遣いといえばその通り。あきれるほどたくさんのサルの絵文字から

日記686

4月30日(火)は終日、雨。 春の長雨。まだ肌寒さを引きずる。 29日(月)、地面が濡れる前。落ちた木香薔薇を拾う。路上でうずくまり、むやみに拾う。よく見るときれいだったから。目的はない。写真を撮ってすぐに捨てた。写真も拾ってからの思いつきに過ぎない。拾おうと思った特段の理由はない。赤いタカラダニがたかっていた。タカラダニは、つぶすと赤い染みになる。赤に手足が生えた虫。ヒトもたぶんつぶすと赤い染みになる。そこへ白い骨が顔を出す。白の土台に赤を絡みつかせて生きている。 立ったまま見下ろすと屑が散らばっているようでも、低く目線を変えればちいさな萎れた薔薇がある。つぼみもある。でも誰かと歩いていたら、きっと素通りする。「なんで拾うの?」と問われてもこまるから。「なんかきれいだから」ではいけない気がする。あまりに幼い理由で恥ずかしくなる。ひとりなら拾える。誰からも理由を問われずに済む。 わたしは自分の行動をうまく説明できない。始まりはぜんぶ「なんとなく」だった。感覚的。しかしそれでは話にならないから人前となればてきとうなこじつけを語る。頭の中には納得されそうな「こじつけ」のストックが山とある。こうきたらこう。ああきたらああ。山といえば川。つーといえば、かー。 5月1日(水)も雨だった。5月2日(木)も雨。 薔薇は長雨の流れに従って落ちた。 4月27日(土)、渋谷LOFT HEAVENで音楽ライブを観た。終了後、飲みながら「きょうのライブに来たのは、なんとなくです」と主催のバンド、もらすとしずむの田畑“10”猛さんにお話した。悪い意味でも良い意味でもなく。根本的に意識が接触不良を起こしているのだと思う。変な解脱感というか、デタッチメントというか、半睡常態。そんな話がしたかった。 みずからの意志とはべつの、誘導的な時間の流れがある。単に向かうべき場所へ向かうよう自分の時間が誘導された、それに従った。宛名のない手紙を受けた。自分宛ではなくともかまわないような手紙を。動機の供述としてはこれがしっくりくる。むろん意志もあるが、強い意志に依るものではない。きっかけは偶然に依るところが大きい。微睡みに浮かされて。なにより自分の気持ちなんてチンケなものを絶対化したくない。 出演は三組。 ユアミトス、Coffy and Mary Ann、も