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11月, 2020の投稿を表示しています

日記748

『「バカ」の研究』(亜紀書房)を読んだ。各界のアタマよさげな人たちに「バカってなんですか?」なんて聞いてみちゃったよ!と、そんな内容の本。我ながらバカな要約……。挙がっている学者の固有名に惹かれて手に取った。 「バカ」というお題に対して、いかなる返答をするか。罵倒語は誘惑的で、油断すると自分の嫌いなものをいいように投影したくなってしまう。「バカってテーマでなんか発言して」と頼まれたら、饒舌になる人は多いだろう。あんなバカがいる、こんなバカがいる、と。この本には地位あるアタマよさげな人たちがたくさん登場するけれど、罵倒語の誘惑に流されている人物もなかにはいたかな。あるいは、サービス精神なのかもしれない。 わたしの見るかぎり、その点でもっとも禁欲的な対応をしていたのは神経科学者のアントニオ・ダマシオだった。だいたいにおいて「一概にいえない」「なんともいえない」といった留保をつけながら話し始める。歯切れが悪く、いってしまえば地味な語り口。 しかし研究者としては、とても誠実。人間の「なんともいえない」複雑さを、なんとかしてつたえようとしてくれる。こういう誠実に地味な発言をする人物が個人的には好ましい。誘いに乗ってくサービス精神も嫌いではないけれど。自分の価値観では、まずなにより「誠実さ」を見てとりたく思う。 細かく考えようとするから、一概にはいえなくなる。わたしはそんな「きめ細やかな物腰」に好意を抱くらしい。引っかかりを押さえつつ、獣道にそっと分け入るためのことばづかい。その物腰は「感情のきめ細やかさ」がつくるのだと思う。論理は人間の感情をきめ細やかに感受し、すくいとるためにあるのではないか。すくなくともわたしは、そんなふうに論理を使っていたい。   植込みのつつじと金網との間の、枯葉が吹き溜った狭いところに、茶と白のぶち猫が横坐りしていた。三時を過ぎた陽射しを浴びて、眼をじっとつぶっている。「こんにちは」しゃがんで声をかけてみる。猫は黄色く澱んだ眼を片方あけ、口の端を「に」と剥いた。起されたついでに、痩せて汚れた白い左足を、舐めたくもなんともない風に舐める。   「細やか」で連想した。たとえば武田百合子のエッセイみたいな。『あの頃』(中央公論新社)の379ページ。適当にひらいた。どこをとっても、おなじ歩調だから。論理は「歩き方」なんじゃないかな。たまにひょっと立ち止まる、

日記747

ここんとこ伊藤亜紗さんの『記憶する体』(春秋社)を読んでいた。気になったところの感想を書きたい。個人的に興味深く読んだのは痛みに関するお話。この本ではさまざまな痛みの当事者たちが登場する。痛みはやはり、包括的に「いる」と表現したくなる。読みながら改めてそう感じていた。 おもしろいと思った部分を引用する。  痛みとは本質的に自分の体の輪郭に関わる現象です。「どこまでが私の体か」の境界に、痛みが生じるのです。別の言い方をすれば、痛いとき、私の体の境界は混乱している。p.218  一方で痛みは他人とは共有できない、私だけのものである。他方で、痛みは私の境界を混乱させる。表象文化論が専門の橋本一径は、この痛みと私のパラドキシカルな関係について論じています。曰く「痛みという『他者性』を内に抱え込んだときに、身体は初めて私の一部になる」。つまり、痛みは私でないからこそ、体を私のものにする、と言うのです。  どういうことか。橋本は、アメリカの精神科医アラン・フランセスとレナード・ゲイルが手がけた、一八歳の先天性無痛症者の言葉を参照します。報告によれば、この少年は、自分の体を「誰が乗ってもいい自動車」のようなものと感じていた。自分の手足は「道具」のようなもので、自分の一部だとは思えなかったそうです。  これを受けて橋本はこう論じます。「痛みがあるからこそ体は私の一部となるのであり、痛みがなければ、それは『自動車』や『道具』のような、私の所有物と変わらない。だが痛みとは一方で、私の意志に反して訪れる、私の自由にはならない、私を超えたなにかである。所有物のように私が意のままに使うことができるのは、むしろ痛みのない身体だ」。  痛みは、私の思い通りにならないものです。痛むとき、私たちは自分の体が「持って行かれた」ように感じます。けれども、そもそも体とは「持って行かれている」ものなのです。自分の思い通りに操ったり、使いこなしたりできるようなものは、体ではない。体とは私にとって、本来的に未知なものです。にもかかわらず、そこから出られない。それが生きるということです。pp.218-219 ねじれを含みこんだ記述で、ちょっとすっきりしない。そこがおもしろい。ややこしくてうれしい。痛みとは境界の問題であり、そして境界はたぶん論理的に扱いづらいのだろう。どこまでが自己で、どこからが他者なのか。誠実に

日記746

目を閉じると慎重になる。全身を使い、見えないぶん必死で見ようとして、スムーズに動けない。「見る」という行為にはかならず、運動の抑制がともなう。目で見ることもまた同様に。ゆであずきの落とし物に気がついたのは、ここで立ち止まったから。逆によどみなく運動するためには、あまり見ようとしちゃいけない。 またあたりまえのことを書いているような……。 いまどきたいていの人はヒマな時間、スマホに目をあずけている。目の「あずけ先」。こう書いてみて、こどもをあずけておくようなイメージが浮かんだ。目はこどもっぽく、落ち着きがない。スマホはたとえるなら、目の託児施設なんだと思う。テレビやパソコンや書物もそう。目を飼いならしておくための平面。 電車でわたしはさいきん、外の風景に目を凝らしている。風景は情報量が多い。看板やマンション名などの文字を読んだり、屋根のかたちを見比べたり、植物の変化を日毎に観察したり。それらが猛スピードで目まぐるしく遷移する。身体が止まっているぶん、目を文字通り目いっぱい運動させて見まくる。これが意外と疲れる。目がまわってしまう。文字通り。 本やスマホは車窓にくらべるとわかりやすい。これまたあたりまえか。でも自分としてはなかなかの発見。車窓に集中するとカオティックでやばい。身近なところに混沌があった。いままで託児施設に閉じ込めていたこどもを、お外で遊ばせるような感覚。 本やスマホがわかりやすいのは直線的に整序された世界だから。目はその順序にしたがうだけでいい。車窓は逆に曲線的な眼球運動が求められる。どこに目を止めるか、わかりやすい導線はなく自由度が高い。それだけに疲れる。主観的な時間経過も長く感じる、ような。収束と拡散のちがい、ともいえる。 立ち止まる時間はすなわち、見ることが前景化する時間。「見る」と身体運動の対称性をこのごろ改めておもしろがっている。視線は身体を奪いたがる。そして身体は視線を奪いたがる。こんな視覚と身体の綱引きにわたしたちの意識は日々ゆられている。 昨今は油断するとすぐ、身体が奪われてしまう。わたしはただでさえ視覚優位な人間で、だからこそ運動への意識づけが欠かせない。思い切って目を置き去りにしないと、動けないのだ。W・H・オーデンの詩、まんまの話。ようやく理解しつつある。見る前に飛べ。 別言すれば、静と動の綱引き。写真を撮りながら歩く時間はちょうど