スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

6月, 2019の投稿を表示しています

日記694

メモを消化したい。「なにをあるとみなし、なにをないとみなすか。人の世界認識はこれっきりではないか。ことばの運用の仕方も」とEvernoteにメモ書きが残っていた。でもなんだかわからない。いやわかるようなわからないような。詳しい話を聞きたい。5月8日のメモだった。すこし前の、自分の考えがもうわからない。 ひらめいたその日に書き始めないと忘れてしまう。それか、もっと詳細にメモをとらねば。宇宙の真理を逃したかもしれない。革命的なアイデアだったかも。他にもわからないメモがいくつかある。革命前夜で止まった時間。しかし、ただの思いつき以上のものはない。それがいかに革命的だったとしても。革命とは、思いつきで敢行されるものだと思う。 4月23日のメモに「駅の階段を全速力で駆け上がるとき、周囲からぎょっとされる感じちょっと好き」とあった。これはわかる。人がまばらな階段。コースの安全性を確認しつつ思いっきり息を吐いて、本気の1段飛ばしで駆け上がる。すると、すこしだけ目立つ。 あまり積極的に前へ出るタイプではない。むしろ余裕ぶっこいて最後方で俯瞰していたい。でも、このくらい、一瞬だけなら目立ちたい欲がある。瞬間的に全力を出して、何事もなかったかのようにすぐ戻る。歩行の時空間から、ひとりだけ全力疾走の時空間へ飛び、ふたたび歩行へと戻る。いわばタイムトリップ。時間旅行なのです。 他人の衣服に書いてある文字もメモする。「GREAT LONDON」と畑仕事をするおじいちゃんの帽子に書いてあった5月15日。背中に「光」、胸に「OWARI」と書いてある黒のTシャツを着ていた外国の方。腕に日本の国旗とインドネシアの国旗がプリントされていたから、インドネシアの方と推測されます。「光」と「OWARI」に挟まれるボディ。これは5月20日。 背中に筆文字で大きく「ごきげん」とあったTシャツのおじさん。黒地に白の文字。「ご、ごきげんなのですね……」と思いながらうしろを歩く。あれで不機嫌だったらおもしろい。ギャップ萌えだ。あるいは胸に「YOU ARE BEST」とあったおばあちゃん。ピンク地に、赤い文字だった。派手。あのTシャツもすばらしいものがあった。「イエス、アイアムベスト」と内心で応答しながらすれちがう。 ご老人は味わい深いTシャツを着ていることが多いように思います。「HAW

日記693

こまめにブログを更新しなくなると、とりこぼす事柄が増えます。メモの断片だけがかさんでしまう。雑な走り書きの日々。時間が過ぎてメモを読み返してもピンとこなかったり、もうそれについて思いを巡らせる熱量がなかったり。ただ霧散した時間なのだなと思う。 通り過ぎてしまうことは惜しい。しかし立ち止まる暇もない。過ぎていくものは、忘れてもよいのだと思う。というか書こうが書くまいが、いずれにせよ忘れる。きっと忘却へ向かうためのルートがちがうだけで、「忘れゆく」という点はおなじ。そう信じている。過去はすみやかに処理しておかないと置いてけぼりを食います。 立ち止まっていたらすぐ、置いてけぼりになる。書くことは置いていかれたものを拾いなおす作業だと思う。読むことも同じく。読書とは置き去りの時間との通謀だった。人の離れた時を掘り起こす。流れない時間を流れる時間へとうつしかえて、ふたたび流れないように刻みつけ、うっちゃらかす。そんなイメージで「読む」と「書く」の循環をとらえています。 山田ズーニーさんの『伝わる・揺さぶる!文章を書く』(PHP新書)を図書館で借りました。2001年に刊行された本ですが、「編集者が選んだ名著」として再刊されて新着の棚にあり、なんとなく。 タイトルの通り「伝わる」文章のための指南書です。ズーニーさんは「機能美」ということばで表現している。状況に合わせ、意味内容のはっきりとした機能的な文章を書くうえでは参考になると思います。 冒頭、ある女子高生の書いた文章が引き合いにだされます。「切実なこと」がテーマで300字ほどの。そこから本書の志向する「文章」がどういう性格のものなのか、大掴みな輪郭も見えてきます。まさしく「伝わる」を体現した構成。そしてわたしの個人的な引っかかりも同時に冒頭の一例へ集約されていました。  私が切実に受け止めることと言ったら、自分の将来についてです。ひとまず私にとって今気がかりなのは、近い将来です。人生には、とりあえず、今思いうかべるだけでも、大学進学、入社、結婚、老後など一大イベントがありますが、今は、とりあえず、大学進学のことが切実に感じられます。人生だって、1つひとつ、目の前にあることから順に片付けていくべきだと思うからです。  学歴がすべてではないと思うけれど、とりあえず、一流の企業にでも

日記692

 庭の反対側でイシュトヴァンの携帯が音を立てるのが聞こえた。おそらくタクシーの運転手が電話してきたのだろう。私は深呼吸して、温かい濃密な空気を、このかぐわしい夜を吸い込んだ。ほろ酔い状態では、こうしたことのすべてがいつか自分の手の届かないところへ行ってしまうというのは、まったくありそうにないように見えた。いつか私が死んで、この空気を吸ったり、こうした音――コオロギ、車、言葉、携帯の音――を聞いたり、血液中に希望に満ちたアルコールが流入して世界がその不確かな約束を押し込んでくるのを感じたりすることがなくなるなんて。それが一度きりのことで、二度とないと考えるのは馬鹿げているように見えた。p.284 マーク・オコネル著『トランスヒューマニズム 人間強化の欲望から不死の夢まで』(作品社, 松浦俊輔訳)。amazonのレビューで「翻訳に難あり」と書かれていた。でも、わたしはそれほど気にならなかった。相性かな。鈍感なのか。なんでも「そういうもの」として受け入れてしまうハイパー素直な人間だからか。 というかまず、みずからの理解力を疑うくせがある。わたしに難がないか。内向。それに英語が得意でないから、訳してもらえただけでもう大感謝しちゃう(ハイパー素直に!)。できるなら原書を読みたいもの。それができればいちばん確実。自分にも相応の英語力があれば。 引用した部分。ほろ酔いで夜風にあたると似たような気分になる。生にも死にも、希望にも絶望にも振れない加減がいい。結論はいつも、「馬鹿げている」。こいつがちょうどいい結論だった。とうのむかしに忘れたはずの約束をふと、思い出したような感懐にあって口を吐く悪態。ちくしょう。 トランスヒューマニズムとは、技術によって人間の超越を目指す思想。信仰にちかい。身体の拡張、脳インプラント、寿命延長……といった考えにとりつかれた人々を追うルポルタージュ。著者は文芸批評なんかも書くライターだそう。 読みはじめから、どっちつかずなものの見方が信頼できた。半信半疑。ときに生きることも死ぬことも「馬鹿げているように見え」る、そんな地平からのまなざしなのだと思う。定まらないことばの身振りに共感をおぼえながら読み終えた。 たまには本の感想でも、と書きだしてみたけれどつづかない。借りた本で、もう手元にないし。まいっか。ひとつだけ、短く

日記691

「聞こえる」とは、思い出すことでもある。「聞こえない」には、「思い出せない」という側面もある。耳の機能が弱っているだけではない。音は聞こえている。でも自分の内にある語彙やイメージとの照応に時間がかかる。耳にとどいた物理的な声音からさらに意味が「聞こえる」までにタイムラグがある。しばらく経過して「あっ」とわかる場合も多い。 そして「思い出す」とは、意識を選り分け把持する力のこと。外から受けた刺激を内に把持する力。他人の話を聴取しつづけるには、内面の把持力を維持するための持久力も必要になる。ふたつ合わせて集中力。これは個人的な見立てです。他人の話を聞くことはかんたんではない……。気づけば意識が明後日の方向へ漂っている。 耳の遠い祖母と会話をする。遠くにあることばたちを追いかけるように。あいさつひとつから、その在り処を指し示すように。ことばに内在する、時間の場所まで意識を連れ出す。「ここがいまの時点」と道案内をしているみたいな気分になる。 朝には「おはよう」、夜には「おやすみ」。その時々を丁寧に拾って、現在地を思い出してもらう。油断すると時系列が夢のごとく飛び飛びになってしまう。声をかけ、時間のかけらを手渡す。大きめのはっきりした声で固く握る。昭和一桁からつづく長い時間の中から、いまこのときへ。  孤独とは、つまり年をとつて周囲に自分と同じ年頃の者が少くなり、話し相手もゐなくなるといつたことだらう。しかしもつと端的にいふと、それは自分自身が内面から痩せて希薄になつてくるのを自覚させられることではないか――。 安岡章太郎「夕陽の海岸」より。 堀江敏幸の『傍らにいた人』(日本経済新聞出版社)から股引。 他人の記憶の中にも自分がいる。年をとれば他人の記憶に住まう自分が徐々に消える。長い時間をともに連れ添う者がいなくなると、記憶の遠路で迷子になるのだと思う。戦前からつづく、途方もない心覚えの空間にぽつんと置かれて、無理もない。まだそれほど年をとっておらず、戦争中みたいな身の危険をアクチュアルに体験したことのないわたしでさえ、たまに迷子になるのだから。 いまが信じられない。まだ十代みたいな気分もある。行きつ戻りつしつつなんとか「現在」へ意識とからだを把持する。毎朝、顔を叩いて時計とカレンダーを確認する。きょうは2019年6月4日の火曜日