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6月, 2022の投稿を表示しています

日記903

6月が終わる。と書きながら、自分の推敲過程を観察。最初に「そろそろ6月が終わろうとしている」と書いて、次に「そろそろ6月が終わる」と削り、最終的に「6月が終わる」で落ち着いた。努めて短く削る。いつもそうしている。 今月は2回、とあるダンスの制作過程を見学させてもらった。貴重な機会だと思う。ありがたい。その後に1000字前後の感想を書いて送る。言語化要員なのだと、勝手に自分を位置づけている。たいしたことは言えないけれど、すこしでもお役に立てればと願う。 たいしたことは言えない。「自分の考えることなんか、ほかの誰でも考えつくでしょ」と見限ってしまう傾向がある。しかし、そんなことはないのかもしれない。謙虚に見えて傲慢な態度だし、これは改めたほうがいい。自分にできることは他人にもできるという、謙虚を装った自己中心性が垣間見える。 自分を基準にものごとを見る傾向は誰にでもあるから、ある程度は仕方がない。とはいえ、固有の「ふつう」をあまり拡大させてもいけない。誰かにとっては思いもよらない、へんなことを考えている部分もある。 ウェブ上になんだかんだ書き散らかしてはいるものの、他人の評価に(ほとんど)さらされていないため、自分の程度がわからない。どこまで「できる」のか。どこまで「できない」のか。ひとりで見積もることは困難だろう。 「共同性が欠如している」と前に書いた。それは自分の分布域がわからないことを意味する。ある集団内で、どのような位置を占めるのか。ここで書いているものは、どういった性質の文章なのか。果たしておもしろいのか。読者がいるとするなら、どのあたりの層なのか。一般に読みやすいのか、読みにくいのか。結局のところ、ひとりではなにもわからない。無闇。 と反省しながらも反面、そんなことはどうでもいいとも思っている。ぜんぶどうでもいい。謙虚さと傲慢さが同居する。両輪を駆使して狡猾に人生をサバイブしたい。     ダンスを観ながら、詩を読む経験と近いものを感じた。音と体であらわされる修辞の数々が何を意味するのか。そこにおいて、わたしは何を見ることができるのか。どのような意識のうごめきから、どのような仕組みが構築されているのか。もちろん正解はない。確信が得られないなかで模索するようすが心地よかった。 ダンサーは立ち姿からぜんぜんちがう。その場で撮った写真を見返しながら思う。練習後の飲

日記902

  あなたの頭の中にある、あの声は何なのだろうか? キッチンでにんじんを切っているときや、バスを待っているとき、届いたメールを見ているとき、ジレンマと格闘しているときに聞こえてくる、あの声。あなたがあなたに話しかけているのだろうか? それともあなたは、その会話が無限に紡ぎ出しているものなのか? その場合、声がやんだら、あなたはどこへ行くのか? 声がやむことはあるのか? 小さい子どもが口に出して話しかけている「僕」や「きみ」とは誰であり、話しかけている側は――特に、その脆い自己がまだ形成中の段階では――誰なのか? 書斎で小説家に話しかけるのは誰なのか? 病室で精神科患者に話しかけるのは? 教会の信徒席で静かに祈っている人に話しかけるのは? あるいは、断片化した自己のメッセージに耳を傾ける、ふつうの聴声者に話しかけるのは誰か? 言語性幻聴によって生み出されたり、撃退されたり、私たちに理解されたりする、ずたずたの解離した断片とは何なのか? ベケットの名づけえぬものは、「それはひとえに声の問題だ。それ以外、どんな比喩もふさわしくない」ことを私たちに思い出させる。   チャールズ・ファニーハフ『おしゃべりな脳の研究 内言・聴声・対話的思考』(柳沢圭子 訳、みすず書房、pp.280-281)より。科学書に織り込まれるポエジイが好き。理知的な研究者がふと顔を上げる。それまでの流れから一転して視野が拡散する。科学書のポエジイは、収束と拡散のコントラストで際立つように思う。擬音語でいえば、ギュッと引き締まった思考がブワーッっと拡散する感じ。その運動が心地よい。「詰め」がほどかれる瞬間、というか。ともかくギュッ、ブワーッである。血行がよくなるね。 しゃべることがいつまでも苦手だと思う。おしゃべりはつねに見切り発車だ。うまく統御できない。どっか行っちゃう。心の声であれ、発する声であれさほど変わらない。書くときはそれをいい感じに成形している。どっか行かないようにギュッと束ねて。たまには拡散的な声(ブワーッ)に身を任せてもよいのかもしれない。 SNSのnoteでは、気が向いたときに5分だけひとりでおしゃべりしている( https://note.com/unkodayo )。著者の話す声を聞くと文章が読みやすくなる、みたいな現象はあると思う。面識のある書き手なら、なおさら。それだけ補完材料が増

日記901 

5月22日(日) バイデン来日。新宿東口はお祭り騒ぎだった。左翼のデモと右翼の街宣車が入り乱れワッショイワッショイ。さらには警官の群れに通行人の群れに野次馬の群れにもうムレムレの様相。八方からやかましく、どんな主張もノイズにしかならない。ノイズとしては右も左も一致団結していた。わたしたちはノイズの群れだ。調和しえない。それでもなお、同じ場所にいる。なぜか隣り合う。意味のとれない多声を背に歩く。ちょっと通りがかっただけでも謎の高揚感があった。頭のなかで中島みゆきの「世情」が流れていた。 紀伊國屋書店に寄る。改装されており、へーと思う。若い男性が「タヒさんだ」とつぶやきながら最果タヒの詩集を手にとっていた。知り合いなのか。大学生くらいの男女が岡本真帆の歌集『水上バス浅草行き』をふたりで立ち読みしながら「めっちゃおもしろい」と盛り上がっていた。しかし買わずに戻していた。 地下街サブナードの古本祭りへ。300円均一。ざっと見てなにも買わず。地上に出たところで年配の女性から道を尋ねられ、地図アプリを見ながら案内した。近くのカフェまで。待ち合わせだという。「新宿は目がまわるね」とおっしゃっていた。人間がそこらじゅうから現れては遠ざかる。わたしだけは現れない。たまにはひょっこり現れて、すーっといなくなってもいいのに。と思ったら、ショーウィンドウにうつっていた。わたしは鏡面のなかにいる。 騒音にまみれて撮ったもの。 5月24日(火) 図書館入口の廃棄図書コーナーを見る。2020年10月号の『UP』があった。東京大学出版会のPR誌。もらって帰る。入浴中に読む用として。哲学者、中島隆博の書評がよかった。「夏が好きだと言いなさい」というタイトル。こんな導入から始まる。    小学校の時分である。先生にある時、どの季節が好きかと尋ねられた。わたしが「秋が好きです」と答えたところ、「まだ若いのだから、夏が好きだと言いなさい」というご指導を受けた。秋であろうが夏であろうが好みの問題だから、どちらでもよいのではと思われるかもしれないが、ここはどうしても夏でなければならなかった。というのも、少しずつ世界がよそよそしくなりはじめ、斜に構えることを覚え始めた少年の心を見抜き、もう一度夏の幸福に連れ戻そうとしてくださったからである。それ以来ずっと、夏は特別な季節になった。 ここでとりあげられている本は、