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2月, 2022の投稿を表示しています

日記886

なにが禁なのかわからなかった「禁」。かぎりなく書道にちかい。小学校の教室のうしろに「夢」などと貼られているアレを連想する。機能的でないものは芸術にちかづく。超芸術トマソンなんかは、だいたいそういう話ではないか。無用の長物。目的がなくなったあとに、なお残るものたち。 この「禁」は結果として、なにかを禁じるための「禁」ではなく、ただ書かれた純粋な「禁」に見える。略して純禁。文字のかたちだけが屹立している。なにを禁じているのかは、書いた人だけがわかる。ひとりだけにしかわからない。 「かけがえのないものは、まちがっている」と前に書いた。その話ともつうじるかな。なぜだか誤りや、ゴミみたいな無用のものに昔から関心がわく。始まる前のものや、終わったあとに残るもの。自分のことを、「もう終わった人間」と思っているふしがある。逆に「まだ始まっていない」としてもいい。どっちでも……。 一日のうちでもっとも居心地のよい時間帯は、午前3時か4時くらい。終わったあとであり、始まる前でもあるとき。一日単位に縮約するとわかりやすい。とても静かなとき。心の在り処。「静けさとは、いつも膝まずいているものです」とヤニス・リッツォスの詩(中井久夫訳)にあった。未明の静けさに倣い、ただ膝まずいていたい気持ちがある。 未明は、兆候的な時間といえるかもしれない。詩句が馴染みやすい。「詩とは言語の兆候的側面を前面に出した使用であり、散文は言語の図式的側面が表になった用法である」と中井久夫は『現代ギリシャ詩選』(みすず書房)の「まえがき」に書いている。 この定義は、T・S・エリオットの「イタリア語があまり分からなかったころのほうがダンテがよく分かった」という話に触れて開陳される。わからなかったころのほうがよくわかった。そういう感覚がたぶん人には備わっている。誰にでも。   兆候性への敏感さとは、言語の喚起する予感や余韻、あるいは重層的な意味、辺縁的な意味、さらに寄せては返す連想などなどへの感覚である。知りそめた外国語の語や響きには、そのあらゆる誤解や未熟な理解と並んで、あるいは重ね合わせに、きらめく兆候性がはらまれている。pp.3-4 誤解や未熟さとともにある、きらめく兆候性。哲学者の古田徹也氏は、こどもの未熟なことばにやはり「きらめき」を感覚していた( 日記884 )。まだわからない時分のきらめき。いくつになって

日記885

  視覚的なイメージが浮かばない人々を「アファンタジア」と呼ぶらしい。ファンタジア(心の目)がない、という意味でアファンタジア。さいきん知った。アラン・ケンドル『アファンタジア イメージのない世界で生きる』(北大路書房)という本を図書館の新着棚で見つけてのこと。 たとえば、頭ん中でリンゴを思い浮かべてと言われても、できない。そのような人がいる。帯には「過去の体験や見た光景をイメージしようとしても暗闇が広がる」とある。著者のアラン・ケンドル氏は、アファンタジアの当事者。 彼による「まえがき」で、「アファンタジアは、人によって受ける影響が異なるようであり、スペクトラム障害である(p.6)」と書かれている(訳されている)ため、「障害」とされているのかと思ったが読み進めるとそうでもないみたい。困難者(sufferer)ではない、と多くの当事者が語っている。ただ、意識せざるをえない差異はどうしてもあるみたい。 わたし自身はイメージできるほうだと思う。しかし、100%主観の話なので「だと思う」としか言えない。自分とおなじ感覚で他人もイメージしているのかはわからない。「イメージできる」とひとくちに言っても、グラデーションがありそう。 はっきりと鮮明にイメージできる人もいれば、うすぼんやりとしかイメージできない人もいるのだろう。そして、まったくできない人もいる。わたしはぼんやりタイプ。もやっとしたリンゴが浮かぶ。蜃気楼のような。 「アファンタジア傾向者の世界は、イメージよりも記述に基づいている(p.25)」という。 ナゾロジーの記事 にも「アファンタジアの人は、論理的な思考の面で優れている人が多い」とあった。ケンドル氏はアファンタジアのプラス面として「思考の明晰さ」を挙げている。ここを読んだとき、視覚障害者の考え方を思い出した。 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)のなかで、中途失明者の難波創太さんはこう証言する。 「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです。コンビニに入っても、見えたころはいろいろな美味しそうなものが目に止まったり、キャンペーンの情報が入ってきた。でも見えないと、欲しいものを最初に決めて、それが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになるわけですね」。pp.54-55 つまり行動がピンポイントになる、と。あるいは同書で全

日記884 

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)に、こんなお話があった。 こどもの誤りと、そこにあるきらめきについて。  娘はいまも、ある意味で筋の通った誤用を繰り返している。語尾に「です」を付けると丁寧な言い方になることを学ぶと、「やだです」と言うようになった。「パンツ一丁」という言葉を覚えて少し経つと、おしり丸出しの格好で「おしり一丁!」と言い出し、げらげら笑っている。  そのようなとき、私は彼女の言葉を正さず、むしろできるかぎり保存したいと思ってしまう。身の回りの他者たちへの同調が深刻な課題となる手前の、束の間の自由ときらめきを、そこに感じるからかもしれない。p.25   かけがえのないものは、まちがっているのだと思う。誤りは汎化できない。応用がきかない。交換には適さない。あなただけのものだ。ときに、かなしいほど。「できるかぎり保存したいと思ってしまう」、その感情の裏には、こうした直感があるのではないか。 こどもではなくとも、飲みの席などでそっと語られる他者の疵に、おなじようなきらめきを感じるときがある。鈍いきらめき。こどものきらめきは課題の手前にある。おとなのきらめきは課題を過ぎたのち見出される。どちらも「同調」からはこぼれ落ちた時間。疵もまた、できるかぎり保存したいと思ってしまう。悪い気持ちが芽生える。ときどき。   我々に起きたことは、誰にでも起きたことか、我々にしか起きなかったことだ。最初の場合なら、珍しいことではなく、もうひとつの場合なら、理解されない。 — フェルナンド・ペソア (@FPessoa_b) February 13, 2022   ただひとつの出来事は、理解されない。そしてすべての出来事は、ほんとうは、いちどきりしか起きない。理解のおよばない誤りとして個人は発生する。「正しい個人」は存在しない。ひとりであることは、まちがっている。ありえない。わたしは、ひとりの人間のありえなさを、できるかぎり保存したいと思ってしまう。 調べ物の途中でたまたま書評を目にした、脇坂真弥『人間の生のありえなさ 〈私〉という偶然をめぐる哲学』(青土社)という本が気になった。おもしろそうなタイトル。シモーヌ・ヴェイユのことばからとっているらしい。人間の生のありえなさ。

日記883

  「その人のすべてを愛せますか??」 わからない。「すべて」なんか見えんから。「愛」ってのも捉えがたい。「その人」も同定しきれるか微妙だ。「その人」は、そんなに「その人」じゃないかもしれない。わたしの思う「その人」と、べつの人から見た「その人」はちがう。過去の「その人」と未来の「その人」でもちがう。わたし自身のアングルも時々刻々と変化する。人は変わる。生きているから、わからない。その上で、なにを言えるか考えたい。 千葉雅也と國分功一郎の対談集『言語が消滅する前に』(幻冬舎新書)のなかに、「心の闇」をいかに育むかという話があった。これは、わたしなりの理解だと上記のような態度ではないか。いかに「見通しの悪さ」を感覚し、かつそのなかにとどまりつづけられるか。「わからなさ」の只中にあって、その上でことばを焚べるような。 立木康介の『露出せよ、と現代文明は言う――「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社)に触れて、國分氏はこう話す。    あの本で重要だと思ったのは「心の闇」が必要だという指摘です。例として取り上げられていたのは、一九九七年の神戸連続児童殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」です。評論家たちは犯人の少年の「心の闇」について語った。でも、むしろ「少年は、残念ながら、心の闇をつくり損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりと繋ぎ止めておかねばならなかったというのが立木さんの指摘でした(二七項)。  きちんと「心の闇」を作ることが大事なのに、それがいままさしく「蒸発」してしまっている。p.117 グリゴーリイ・チハルチシヴィリ『自殺の文学史』(作品者)では、若者の自殺に関する文脈において「少年がやりたいのは死んでしまうことではなく、死と戯れること」とあった。「死んでしまう」を殺人と読み替えてもおなじだろう。「心の闇」は、「戯れ」と互換的かもしれない。少年は「戯れ」にとどまれなかった。「戯れ」の次元をつくり損なった。「あそび」という、埋めずにおく隙間がおそらく「苛烈な欲望」を宙吊りにできる。 たとえば「ぶっ殺すぞ」とブチ切れても、多くの場合ほんとうにぶっ殺すわけではない。ことばと行動のあいだには隙間がある。人がしゃべることばのうち、現実化する部分はとてもすくない。たいていの人はそうした構えで言語を運用している。だからこそ、話すことができる。考えたこと

日記882

 動物行動学者の日髙敏隆と竹内久美子は対談集『もっとウソを!』(文藝春秋, 1997)の中で,「どんな大理論でも必ず修正されたり覆されたり,もっといい見方が出てきて『ウソ』になる可能性がある.しかし,その理論が出された時点では正しかった.したがって科学とは,その時点におけるもっともレヴェルの高いウソである」と述べている.   腹痛の「なぜ?」がわかる本 | 書籍詳細 | 書籍 | 医学書院   気になる本の序文にあった、ざっくりしたお話。さらにざっくりさせるなら、これは科学以外のあらゆることにも適用できるロジックだと思う。どんなことばも「ウソ」になる可能性がある。その時点では信憑性があったとしても。大前提として、そういう構造をともなっていると感じる。 「レヴェルの高いウソ」は、言い換えるなら「現実との拮抗力をもつことば」だ。ことばではなくとも、ヒトの生きる現実を抉り出してみせる表現であれば「その時点におけるもっともレヴェルの高いウソ」といえるだろう。現実との拮抗力をもつウソ。「拮抗」の感性は個人によって異なる。リアリティは身体のあり方と、それを取り囲む環境に依存する。科学的信憑性を立ち上げる「客観的」な過程は、拮抗力の足並みをそろえるためのカルチャーだとわたしは理解している。     映画『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーは自分をスペースレンジャーだと思い込んでいた。おもちゃではないと。空だって飛べちゃう。その時点では、彼にとってそれがもっともハイレベルなウソだった。しかし物語の中盤で、自分はおもちゃだと気づく。自分の過去が滑稽なウソに変わってしまう。落ち込みながらもバズは、おもちゃとしてのリアリティを再構築しはじめる。終盤、バズとウッディはロケット花火に乗って飛ぶ。「すごいや飛んでる!」と興奮するウッディに、バズは「飛んでるんじゃない」と言う。「かっこつけて落ちてるだけだ」と。より現実的な見方が、しかし奇跡のように、ほんとうに飛行しているかのように描かれる。そのリアリティのコントラストに感動する。感動とは、おそらく現実性と虚構性の均衡点に生じるものなのだろう。 「現実との拮抗力をもつウソ」はつまり、その均衡点に当たる。レベルの高いウソには感動してしまう。数学者や物理学者は、見事な数式をしばしば「エレガント」とたたえる。その「美しさ」に焦点を当てて問題化した

日記881

地球はパンダみたいなかたちです。と言っても、誰も信じないだろう。しかし誰がなんと言おうと自分だけは信じて、まるで真実であるかのように語れば、いや「まるで~あるかのように」ではなく、そのまま自分の生きた真実として語り切ることができれば、それは一個の芸術として完成するのかもしれない。 文学ムック『ことばと Vol.4』(書肆侃侃房)を読みながらぼんやり思った。佐々木敦、千葉雅也、村田沙耶香の鼎談。村田さんは「何かを知りたいという気持ちは幼少期から強くて、それがたぶん書くためのものすごい原動力になってい」ると話す。   知りたいということの一つに、人間の動物としての繁殖の仕方を今の繁殖の仕方ではない仕方で繁殖している姿を見てみたいという。それが自分の人生から来ている疑問なのか、単なる子ども時代からの好奇心なのかよくわからないけど、異常にそれに囚われている感じはあります。p.69 「何かを知りたい」と聞くと学問を修めるようなことをまず想像するけれど、村田さんの場合そうではない。既存の学知ではなく、異次元の未知と遭遇したいような感覚かしら。それも、自らのことばをもって。自分自身から未知を汲み上げる。千葉さんは鼎談のなかで「自分で作ったものが自分で作ったとは思えないということが芸術の一つの重要なポイント」とおっしゃっていた。 いかに自意識を脱臼させるか。たしかに受容者としても、自己という軛をへし折る「知」を求めて、もろもろの作品に触れている気がする。そうした感覚はなんとなくわかる。自己家畜化によって社会生活をなんとか成り立たせている、その反動かもしれない。 鼎談の終盤、村田さんが『コンビニ人間』から『地球星人』までのあいだを述懐するお話は、とても印象に残った。   村田  (…)ちょっと囚われたんでしょうね。ああやって珍しく表面的には明るいものを書いたらみんなが笑顔で小説を受け取ってくれる。だけどその笑顔が怖くて。 佐々木  それはすごいですね。 村田  みんな笑ってると思って、それはとても怖いことだったんです。期待される前に裏切らなきゃと思って、でもそれがうまく書けなくてけっきょく自分をカウンセリングするという、小説を書くにあたっていちばん楽なほうへ。自分をカウンセリングするために小説を書くって、楽なルートなんですね。そこにたぶん逃げ込んでしまった。p.75 千葉さんの批判的

日記880

  1月が終わった。きょうは2月2日。先月、書けなかったことを拾っておきたい。『ビハインド・ザ・カーブ ―地球平面説―』を観た。Netflixで2月14日まで配信されている。地球は球ではなく、平面だと主張する人々を取材したドキュメンタリー映画。両論併記のようなかたちで物理学者や心理学者らの知見も織り交ぜられている。 ヒトの認知は平面に親和的なのよね。著名な平面説支持者、マーク・サージェント氏が海を望む冒頭の場面を観ながら思った。ああ、たしかに見た感じ平らじゃないか。テレビの画面も平らだし。人間はなんでも平らにしてしまう……。ガチ3次元ではなく、平らな3次元世界を可能にしてしまう。ふしぎなことに、平面にも映像として奥行きが生じる。それでじゅうぶん事足りる。 言うまでもなく、テレビの映像は似非3次元だ。パソコンやスマホもそう。どんな映像表現も、ほんとうは平面。起伏に富むガチ3次元として世界をとらえるって案外むずかしい。動的な見方というか。そのためにはおそらく、絶えざる観測が必要になる。「運動神経がいい」とされる身体は、ガチ3次元が感覚的にわかっている。対して、平面的な視野は静的。ディスプレイは安心して目を留めておける、ケージみたいなもんかもしれない。みんな檻の中。 地球平面説もまた、檻のようなイメージで語られる。わしら、ドームの中にいるんだって。ほんで自転は否定される。地球は静止しているのだと。なるほど。「平面/球面」の対立は言うなれば、「静/動」の対立として捉えなおすことができる。どちらに軸を置くか。     まったく話が飛ぶけれど、地球平面説を支持する人々を見てわたしはバズ・ライトイヤーを思い出した。いちばん最初の『トイ・ストーリー』で、まだ自分がおもちゃだとわかっていないバズのこと。本物のスペースレンジャーだと思いこんでいる。無限の彼方へ、ほんとうに行けると。揶揄しているわけではない。 小学生のころ、映画館で胸を痛めた記憶がある。スペースレンジャーではなく、ただのおもちゃだとバズが気づいてしまったとき。ひとつの幻想が潰えたとき。スペシャリティが消えたとき。かなしくて仕方がなかった。平面説を嬉々として語るマーク・サージェント氏の青い瞳を眺めながら、あのときの感情を思い出していた。あまりに脆い、幻想の質感を。 感情的な類似で想起したのはもうひとつ、さいきん読んでいた澁