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12月, 2018の投稿を表示しています

日記658

妖怪、百目がいました@神保町。 連日の腹痛は治まりつつあります。と書き出してお昼ごはんを食べたら立っていられないほど痛くなりました。合掌。ご愁傷さま。原因が不明でなんとも言えないブラックボックスな余白があります。ブラックなのか白なのか、はっきりしろと思います。つまりそれくらいよくわからないということです。年明けに詳しく検査してもらいます。 12月31日(月) 地球が1周する。ことしはあらたな習慣をいくつかつくりました。できるビジネスマンみたいなことをしています。めずらしくブログらしい機能を活用して、箇条書きにしてみましょう。 家でも基本的に立って過ごす習慣 これはかんたんに身につきました。もともと立っていたい人間だったのです。多動気味で、座っていられない。いまも立ちながら書いています。できるビジネスマンは、立つことから始めます。人類の進化とおなじです。二足歩行にようやく目覚める。 うろうろしながら本を読み、ひどいときは食事も立ってします。さすがに行儀が悪いため、家族の前では座って食べます。ザ・我慢。すべての人間関係の基礎は、忍耐です。好き勝手にそこいらじゅうを歩きまわったり、いきなり歌ったりとんだりはねたりしていたら、どんなに親しい関係でもウザがられるし不安がられます。あるいは病院送り。できるビジネスマンの行いなのに! 筋トレの習慣 週に3日ほどのペースで半年以上はつづいています。できるビジネスマンは身体を鍛えるのです。30分ほどのメニューです。比嘉一雄さんの『効く筋肉が見える 筋トレ図鑑』(技術評論社)という本によると、筋肥大のためには週に2日ほどがよいそうです。適切に休むことも重要です。29歳。このあたりが体型維持のためにことを起こす分水嶺かと思います。同世代の友人でも、数年ぶりに会うと加齢にともない体つき顔つきの変わる人が続出中。仕事のストレス等、個別の環境要因も大きいのでしょう。 まいにち散歩の習慣 カメラを持って、音楽やラジオを聴きながら。時間があるなら、いくらでも歩いていられます。ひとり、適当な道を。たまに祖母をつれて。降りたことのない駅で用もなく降り、むやみに歩く。誰かといればたぶん、つきあっていられないと呆れられるほど無用なこと。できるビジネスマンがやりそうもない無駄なこと。

日記657

もう2日も過ぎた。ことしのクリスマスはこれが限界。そこらのキラキラを撮る気にはなりませんでした。こどもが道路に描いたサンタクロース、このくらいの温度感がいまの身に馴染む。ほほえましくて、愛らしい。わたしを照らさないからうれしい。静かに満たされる。描いてくれてありがとう。クリスマス気分のおすそわけをいただく。 いつからか、「クリスマスだから」のつづきを見失った。何をすればいいやら。ぜんぶうそくさい。ケーキも鶏肉も食べない。あ、サラダチキンを食べた。ヘルシー志向。やることがわからない。やらなくてもいい。クリスマスだけがあればよかった。街の電飾を頼りに、目を閉じたまま踊りたかった。まぶたの上からでも明るい夜を歩いた。いつもの暗い夜道は、暗いままで安心した。鼻の頭は寒さで赤らんでいたけれど、ピカピカというほどではない。望むことはないから、サンタにも用はない。食後の腹痛でべつの用は足した。幾度も。ひとまず風呂であたたまり、衛生的な環境で眠り、養生できる。それだけのことにいつもいつも感謝している。DDTをあたまにぶっかけられない時代に生まれてよかった。と、ぶっかけられる時代に生きた祖母と暮らしながら思う。 胃潰瘍か何かかと疑っていたけれど、おおげさか。病院で胃炎の薬をいくつか処方され、年始までようす見てね、とのこと。キャベジンなんかじゃ収まらない。俺の腹の虫は止まらねえ。食後に痛みがくるため食も進まない。腹痛ダイエットです。好物の粥状のものが食べ放題で、その点は最高。ずっとおかゆでも文句は言わせない。こちとら腹が痛いんじゃ。永遠に粥を食うんじゃ。ふやけた顔でふやけた食事をしておく。噛みごたえはいらない。のどごし主義。意識までふやけさせて、もうろうとなっておけば生きやすく死にやすいだろう。夏は涼しく冬は暖かいだろう。夢から醒めてもまたべつの夢へと渡り歩けるだろう。 薬膳料理のレシピを調べる。スープ系のものは手っ取り早くていい。白飯をぶっこめばおかゆにもなる。しばらくはスープ中心のお食事。たまねぎの皮を煮て出汁をとるとか。なるべくやさしい味つけの。 きのうはカレー風味のコンソメスープ。医者から「刺激物はなるべく避けて」と言われたけれど、こちとらカレー的なるものが食べたいんじゃ。あったまるやつ。少しくらい刺激があっても、薬がケアしてくれるのではないかと盲信してい

日記656

プリンセス・アイコという品種のバラがあります。これがそう。新宿御苑。寒中にも凛と咲く。高校生の時分、携帯電話の待受画面を敬宮愛子内親王の写真に設定していました。なぜそうしていたのか、いまとなっては永久に解けぬ謎です。 ギャグだったのかな。それはそれは不敬。いや、ふつうに好きでした。それもそれで、なんか不敬。たぶん、皇族に生まれつくとはどういうことか想いをめぐらせたかった。自分が自分として生を享ける不条理と変わらない、なんて思っていた。 どう言及しても「不敬」ということばが当てはまりそうで、それもいかがかと思う。いつも心に特別高等警察がいる。頭脳警察がありもしない罪をあおりたてる。理由はなんであれ、妙なことをしていた高校生には変わりがありません。 友人に年間ベストを聞かれます。書物とか音楽とか映画とか。つくづくひどい潔癖症だと思うけれど、「選ぶ」というときに少なからず漏出する権威めいた得意な気分が非常にいやです。ましてや「ベスト」なんつう序列化は避けたい。 主観の順位なんかつける必要がないし、「選ぶ」という権能にわざわざ好んで酔い痴れたくない……みたいな、しちめんどくさい自分の内面を感じとってしまいます。希望は逆です。自分が選ばれたいと思っている。書物や音楽や映画などの作品に。それが至福の関係だと思う。あるいは手の届かない、選ばれるわけもないものたちに片思いをしていたい。 選ぶ行為は快楽的で、そのぶんこの愉悦にひっぱられそうでこわい。文化は、ただの生活の一部として享受する。「なんでも見てやろう」という態度でいる。むろん自分の狭い狭い選択傾向はあります。それをどうこう言われたくない気持ちもある。秘密主義。おいそれと踏み込めない神聖な領域が誰にでもある。胸を張って主張できることはひとつ。漫☆画太郎先生が好きだという、一点のみです。画太郎に全額BET。 偉そうな判定をくだしたがる人間は毛嫌いしています。自分がそうなるわけにはいかないと律しているところもあるらしい。知らんけど。ベストを問われても、まじめには応じません。いいと思うものはその都度、話します。「自分の」ではなく、なるべく話し相手の趣味に向けて。わたしには、他人に押しつけたいことがない。ベストへの対応は不誠実です。以下は友人へのメール。 そっか。えーと。音楽なら「蛍の光」で

日記655

栗原康×白石嘉治の対談を起こした『文明の恐怖に直面したら読む本』(Pヴァイン)に、「世界の優しい無関心」というお話が出てきます。アルベール・カミュの小説『異邦人』の中にあることばです。現代の価値観では「無関心」というと、とても冷たいものとされています。「好きの反対は無関心」などと諺のようによく使用されている。 でも、それとはべつの側面もあるとつねづね思っています。たぶん以前にそれっぽいことを書いたり、友人と話したりもしていました。まずは世界の自分に対する無関心を肯わなければ、生きていくこともちゃんと死ぬこともできないと思う。「ひくくとべ」というボカロ曲の歌詞「世界がお前に無関心なことはむしろお前にとってラッキーなことだと思わないか?」に深くうなづく。「お前なんかどっちにしろ、いてもいなくてもおんなじ」という世界はやさしいのだと、ブログでも何度か書いたと思います。ケリなんか届かないよ。しかしそれでも足蹴にしようと虚空を切るロクデナシは嫌いではない。 自分のかねてから感じている物思いが、『異邦人』ともつながりハッとしたのです。この小説は10年くらい前に読んだきりですっかり忘れていました。思えば『異邦人』の主人公、ムルソーは周囲から意味づけられ結論づけられ死刑になりますが、彼自身はみずからをなんら結論づけてはいません。判断していない。審判しない。死んだ母親のことも、銃殺したアラブ人のことも。虚構の人物ですが、「世界の優しい無関心」というものを知りうる態度をもって生きていたのだと思う。 ムルソーが殺人の理由として裁判で述べた有名なことば「太陽が眩しかったから」。ここから、なにを読み取れるというのでしょう。文字通りのことしか読みとれないと思う。その通り、まぶしかったから。それだけです。人が生きることも、死ぬことも、物理法則によって。それだけです。わたしは、そこにしか“やさしさ”を感じない。これが最上の“やさしさ”です。 殺人の理由だからセンセーショナルな意味づけを呼び込みますが、人が生きる理由もまったくおなじです。太陽がまぶしいから、きょうも生きていていい。陽がのぼり、眠りから覚め、自分という物質がこの世界にまだある。意識がある。それだけで、ほんとうにただそれだけで、わたしはまだ生きていてもいい。この世から許容されている。でも同様に、人はそれだけで死ぬ。

日記654

異様に白い建物。 歩いているとき、背後をよくふりかえります。なんせ背後は目に見えません。想像の世界です。気にならずにいられない。いったいなにが起こっているのか。ふりむくと、なにかがいたりいなかったりあったりなかったり動いたり止まったりします。微妙ながら、想像した通りではない驚きがある。 しぶとく後ろにぜんぶ残っていてくれて、うれしい気もします。見ても見なくてもそこにある。なにもかもある。目を閉じてもある。自分はこの世界にしぶとく囲われている。騙されたって嘘ついたってぶっとばしたって。ストーカーどころの騒ぎではありません。なんてしつこいこの世だ。あるいは自分がしつこいのか。ふりむけばそこに知覚と意識が生じる。きょうもわたしが発生する。 目に見える前方よりも、目に見えない後方に意識がひっぱられる。こういうのって思考の癖なのかなーと思います。目の前にある具体よりも裏っかわの抽象に興味を惹かれます。じっさい具体的な考えをめぐらせることが苦手な感覚はあります。うわの空というか……。心ここにアラブ。時すでにお寿司。 歩行とは、存在と不在を撹拌する運動です。かき混ぜる。前方の存在を通り過ぎて、後方へ見えなくする。その「ある」と「ない」の前後がぐるぐると混ざり合う。知覚と想像をめぐりわたる運動と言い換えてもいい。前は知覚。後ろは想像。背中側は目を閉じて見る。そこはもう人生の向こう側。とかって、いちいちなんだかむずかしく考えすぎです。でも自分にはそう思えて仕方がない。そう言いたくて仕方がない。些細なことを考えすぎとも思う。 信がゆらぐからふりかえる。ほんとうに背後にも世界があるのか。ふりむいてもわたしは消えないのか。いや、わたしはどこに生じているのか。すべてが地続きなのか。過ぎた時間と現在との接続部を見たい。どこかに断絶があるのか。「地続き」というほどなめらかに時間は流れていないと思う。距離と距離を埋めているものはなんだ。視界は飛び飛びだ。 なにごとも確認がたいせつです。全身をつかって見る。見る。見る。「歩き回る」という日常のリアリスティックな運動の中にもフィクショナルな要素は入り混じっています。前方と後方の区別は言い換えれば、知覚と想像の区別です。なにをしようが存在と不在がぴったりとこびりついて、とれてくれない。いまも。 歩いていると思いが浮かびま

日記653

クリスマスの雰囲気が好きなのは、なぜだろう。前々から「みんな資本主義やってるなー」などと思っていました。というのはつまり、みんながクリスマスの風景になりたがる(ように見える)からではないかと、今朝の洗濯物を干している時間にぼんやりと思いました。ご近所宅の電飾も消えた朝のとき。 12月25日まで、街ぐるみでひとつの「クリスマス」という記号へ向かってゆく。いや、もう世界ぐるみかもしれない。先進国ぐるみか。まさしく都市は風物そのものになる。人間も嬉々として、「クリスマス」という寸景そのものになろうとする。資本主義らしいカキワリのごっこ遊びが際立って前景化する。その薄っぺらさが好きなのだ。「クリスマス」が命じる資本の論理に身をやつす。この時代の人類がかわいいのだ。 わたしもなんだかんだでプレゼントを買う。かわいい時代の人類として、クリスマスの一員によろこんでなる。くだらないことをしていると思うけど、くだらないことがたのしい。スーパーの店員さんが、サンタクロースの帽子をかぶっている。コンビニのレジ打ちも、ピザの宅配もコスプレをしている。人間が個人ではなく記号になってゆく。それもあからさまに。ひとつの日付に向かって。わたしには壮大なごっこ遊びに見える。資本主義はゲームだ。それもとびきり酷で、たのしいやつ。 こんなことを書くと皮肉屋だと思われそうだけれどちがう。ばかだなーと思いながらも、ほんとうにたのしいんです。わたしがわたしじゃなくて、クリスマスになれる。もうここのところはずっと、外に出れば自分がクリスマス状態です。ミスター・クリスマスです。わたしもクリスマスの景色の一部として街を歩く。反意をあらわす人も、関係ないような駅のホームレスも、等しくこの街の記号になる。有無を言わせない。だってそうなっている、そういうものだから。自然現象のような乱暴さがある。信仰にも似た。というかもともと宗教的な日。記号たちのうごめく夜がまた、やってくる。 「ちょっと早いけどメリークリスマス」と芸人のマキタスポーツさんがラジオで1年中おっしゃっていた気持ち、わかります。ギャグとしてではなく、文字通りの解釈としてわかります。早くクリスマスになりたいもの。クリスマスまで待たせないで。もちろんギャグとしてもおもしろいのです。1月に「ちょっと早いけどメリークリスマス」と言えばおかしな人に

日記652

クリスマスシーズンです。 そこいらじゅうテーマパークみたいにビカビカしています。 それだけで、なんだかうきうきする。 街では流されることのないであろう、好きなクリスマスソングがあります。Wild Man Fischer & Dr. Dementoの「I'm A Christmas Tree」という曲です。俺、クリスマスツリー。ワイルド・マン・フィッシャーは、フランク・ザッパのプロデュースで世に出た歌う狂気のおじさんです。ストリート・シンガーだったのかな……。ザッパにスカウトされたようなかっこうでデビュー。彼の歌は珍盤として有名だったらしいんですが、いまはSpotifyなどの配信でも聴けます。youtubeにもありました。 いやー、元気になります……。 愛だの恋だのファミリーだのを歌うキラキラのクリスマスソングも好きですが、そんなもんはいっさい度外視して“俺はクリスマスツリー”といってのけるワイルド・マン・フィッシャーのワイルドさは、浮世に疲弊しきった心身へ確実なヒーリング効果をもたらしてくれると同時に最高にたのしくパーティーな気分にもしていただける、すばらしいクリスマス・ソングなのです。あがるー。 この曲の永遠にぐるぐるまわる感じとか。このたのしさ。歌とは、音楽の本質とは一面こういうものであるよなーと力技でわからせてくれます。ワイルド・マン・フィッシャーの英語はシンプルなフレーズの繰り返しが多く、すぐに口ずさめます。日本で習うところの中学英語くらい。でも意味はよくわからないものが多い。彼は意味の世界ではなく、メロディの世界に住んでいた人なのではないか。 ことばの音楽的な側面と意味的な側面は、発話行為が音を通してなされるものである以上いつも表裏一体としてあります。どんな発話にもリズムや抑揚がある。会話だと、聴覚や視覚で相手の発する音が始点と終点を示すときのテンポ感をつかんで、タイミングをとりつつこちらも音を発し始めます。動作もまじえそれを繰り返す声音のセッションが会話です。「音楽的」というのは、動的と言い換えることもできそうです。対して「意味的」とは、つまり記号化された静的なことばです。 おとなが乳幼児に話しかけることばは、ピッチ幅が大きくその韻律自体にメッセージがふくまれています。これは意味的では

日記651

暗くて冷えた色の居心地がいい。 前に「twitterのコミュニケーションは苦手」と書きました。文字数が足りないから。でも思えば、twitterだけではなくすべての言説は視野が限局されています。どんな写真の風景も、この世のありとあらゆるものを写し出していることはありません。どんなに浩瀚な書物でも全世界を記述し切っていることはありません。前提中の前提として誰の視野も限られています。その「狭さ」の質に個人の価値があると信じる。 一語一語を、ここに書きつけるたびにわたしは、自分の視野を狭く見限っています。ことばとして、たったの一語として世界を切り出して、わたしを切り出して、見限りつつ時間は進む。それでもまだ、限られないこの場所があります。まだここにわたしがある。いい加減、なにもかもに見切りをつけて終わりにしてしまいたいけれど、どんなにことばを尽くしても限りがないのです。 でもこうして限らなければいけない。たとえば人に好意をつたえるにも。生きていれば相反する感情はかならず発生しうるだろうが、ひとつだけを、選び取る。それ以外の枝葉末節に、いまだけは見切りをつけて掴み取った大きなただの一語のみを疾走させる。「あなたが好きです」。言ったそばから自信がなくなっても、不安にとらわれても、かぶりをふって二の句は継がない。 そんなふうに、感じたことや目にうつる風景を絶えず見限って見限って、満身の力を込め制限したうえで、いまこのときをあぶりだす「狭さ」にわたしは価値を見ます。だってわたしたちは、点として存在することしかできないではないか。考えを述べるにも行動をするにも、まず時間と捕捉できる範囲のスケールを調整しなければ、なにもかたちにならないし、なにもつたえることはできません。 ああ、「好きだ、なんて言うのは野暮です」とラジオでお話になっていた永六輔さんのお声を思い出す。もしかしたらわざわざことばの切れ端として限定せずとも、限りのないわたしとあなたの「点」を全身で見留めあえればそれが自然として成立するのかもしれません。わたしたちの関係は、ごく自然な、あたりまえの景物である。 歌舞伎では音もなく降る雪を、大太鼓の音によって表現します。舞台の上では、雪の音を鳴らさなければ雪が降っていることがわからない。表現は総じて、雪の降る音を鳴らすようなものだと思います。静寂を音

日記650

自分の名前への忌避感があります。という漠然とした結論。文月悠光さんからサインをいただいたとき、てめえの名前を入れてもらわなかったことについてえんえん考えていました。そんなに考えますか。 「サインにあなたの名前もいれましょう」なんてそんなん、ふつうの気のまわし方でしょう。ぜんぜん。でも直感で「無理」のスイッチが入った。一瞬でアカン!と思った。関西人でもないのに。あれはなんだったのか。「恥」も忌避感の一種ですが、それとは少しちがう。根本的に「名という形態」への居心地の悪さがある……。書くことも書かれることも。まだ名前にうまくアイデンティファイできていません。きょうの生まれたてです。きのうの成れの果てとしての。そもそも「自分が名をもつ者としてここにいる」ってだけでキモい。 ふしぎな話かもしれませんが、一人称が口に出せなかった時期が長くあります(いまは大丈夫)。吃音とか緘黙症とかの一種なのでしょう。診断は受けていません。自分の名前も、言おうとして言えない状態が数ヶ月つづきました。19~21歳くらいにかけ、鬱々と押し黙る生活をしていて、おそらくそれまでつちかった言語体系がガラッと再編された気がします。それからは、ことばが自分の中にはないような隔たりができました。何を言おうがうそじゃねえかという空虚さが抜けない。一生かけて考えるものだと思います。書くことはいまもつづくリハビリです。健康習慣です。うがい手洗いにんにく卵黄です。 名というのは自分にとって、被支配(=致し方のなさ)の象徴なのではないか。以前、「首輪」と書いた気もしますが、この世に自分をつなぎとめておく大切なアンカーとも言えます。同一性を担保するもの、居場所を根拠づけるもの。もらいうけたもの。関係性をかたちづくるためのもの。人との関係性は生きていくうえでとても大切ですし、大切にしたいものです。みんなからもらった言語、そしてみんなの中にいるための名前だ。茫洋たるみんなに、茫洋たる感謝をしています。 一方でそんなものは便宜上の手続きに過ぎないのでは?という気分もあります。ゲームのルール。各々の都合を立てるため。むろん手続きは重要です。社会はすべてそれで成り立っています。そうするより仕方がない所与の前提。わたしは名前をふだん信じている。でも、ときおり信の底が抜けて、ぜんぶペラッペラのカキワリに思えてしま

日記649

前の記事でいろいろ書いた北千住BUoYのドアノブは、ことしの11月5日に改修されたブランニューなものであるらしい。建築家、佐藤研吾さんの手による。調べると「詩×船」の揺れる本棚も佐藤さんのお仕事でした。おなじ方の手がけた仕事に知らず知らず反応しまくっていて、こういう意図せざる符合はおもしろいと思う。 twitterで自分の記事をシェアしたら、佐藤さんから引用リツイートをいただきお名前を知ることができました。とうぜんながらノブにも設計者がいるのだから、気になったものは事前に調べるくせをつけなければ。名を知らず、おもしろがるだけでは誠意を逸することもある。わたしはなんでも乱暴におもしろがってしまうから。いつも「人の名前を知る」ということは念頭に置きたい。特にネット上は誰が見ているかわからない。 などといちいち気を遣う人間も少数派なのだろうとは思う。小器用な「リアルとの線引き」はできないから、しない。twitterで見知らぬ人にことばを向けるなんて、なかなか困難なこと。関係の脈絡にもよりますが、わたしの場合、失礼なきようにと心がけていれば「140字以内」は必ずことば足らずになる。ことばをさし向ける本人と、それを見るであろうギャラリーのことも勘案して、かつできることなら楽しくしたい。140字じゃ圧倒的に足らない。分割してスレッド化もできるけれどそんな自己編集能力もない(このブログのザマを見よ!)。どうやってもバランス感覚を欠いた発言になってしまう。twitterのコミュニケーションは苦手。短慮が前提となる。書けないこと、読めないことが多い。ご批判もご賛成も早計に過ぎる。むろん、なにひとつ心がけていなければそのかぎりではない。 コンビニの店員さんにもお礼や挨拶や最低でも会釈をしないと、どうも気が済まない性質です。それは第一に、自分が気分よくいたいから。どこであろうと誰彼かまわず、いきなり不躾に意見なんかしていたら気が滅入っちまうよ。すでに気が滅入っている状況ならば、あるいはしてしまうかもしれません。 tweetはすべて語義の通りさえずり、鳴き声です。それどころか、言語それ自体が第一義として鳴き声だとさえ思っています。「そんなお前の認識がいちばん失礼だ」と指摘されるなら、その通りですね。変にタガの外れた側面は自覚しています。いろいろなところに目が移って好奇

日記648

ドアノブがちょっとはっちゃけている場所へ行きました。どこからがノブでどこからがドアなのでしょう。右の幅が狭いほうについている四角形のちょんとした木材がノブらしいノブだなーと思って、わたしは始め、狭いほうを開けようとしてしまいました。ほら、「OPEN」って札もついてる。これは冗談じゃなくて、本気でやったことです。 自分はドアのことをノブの形状で判別しているらしい。ドアを開けるのではなく、まずノブを開けていたのだ。現にノブがこの程度でも撹乱されると、ドアであるとは認めなかった。もちろん開いたのは、左側です。ノブの認識はしづらいが、確かにこちらのほうがドアっぽさがある。ノブを見てドアを見ず。我ながらあたまが固かった……。既存のドアノブの思い込みにとらわれていました。ハッとした。目が覚めたよ。ドアノブは、もっとずっと自由なんだ。 そんな、手始めにドアノブの既成概念を破壊してくださるスペースが北千住BUoYです。師走、はじめの土日に「詩×船」ヒライス島の1000の詩集という企画が開催されていました。出版社や書店から集められた詩集が1000冊、船をモチーフとした空間に並べられる。 http://shikakeru.info/fune/ サイトがおしゃれでおもしろい。 ずらずら。壮観。 12月2日(日)。北千住まで。行こうか、どうしようか朝から迷い果てていて、午前中は図書館で過ごし、その足でそのまま向かおうか否か迷いながら結局は家に帰り、掃除や炊事をし、冬の陽の短さに気分が追いやられ「もう暗くなるしやめよっかなー」と思いながら「少し散歩してみよう」と、とりあえずもういちど外出して徒歩で駅のあたりへと向かうなか「行ってもいいのかなあ」などとぼんやり疑問を感じ、コンビニでコーヒーを買ってしばらく飲み歩き、ゆらゆら意志薄弱に改札をくぐった時点でようやく「ああこりゃ行こうとしているらしい」と知った。そんな日。 なにを意志と呼ぶのかわからない。どう思おうが身体を持っていけば「自分の意志」になるのだろう。そう解釈されるし、そう解釈できる。たとえば行きたくない場所だとしても、行ってしまえば結果は行きたかったことになる(とされる)。BUoYへ向かうことは迷ったが、おそらく始めから行きたかった。帰るころには「めっちゃ素直に行った」と思っていた。ドアノブの概念

日記647

さいきん、いい写真が撮れます。ここで言う「いい写真」とは、単に個人の趣味的な価値判断に過ぎません。100%主観。というか不勉強ゆえ、それ以外の「いい写真」という価値基準を知らない。でも、これよくないですか。よくないこれ。よくなくなくなくなくなくない?「今夜はブギーバック」の薄っぺらいリリックが好きです。べつにさいきんに限ったことではなく、いつもこんな調子だったかもしれません。 ここ2日ほど偏頭痛に見舞われておりました。家にいると痛みで横になるしかなく、半端に眠ると悪化する(気がする)ので強制的に外を歩きます。わたしが自由を感じるのは、散歩をする時間だけです。ひとり行使できる唯一の自由が散歩。頭を冷やすと痛みはやわらぐ。冬だ。でも帰ると吐き気までもよおす始末。 嗅覚、聴覚、視覚が過敏になります。暗くて静かな場所でじっとしていたい。頭痛のときに限らないか。そもそも暗くて静かな場所を好む生き物でした。ちょい大きめの石をひっくりかえすと這いつくばっています。そいつがわたしです。ライバルはワラジムシです。 11月30日(金) よく晴れた冬の昼日中。ほっつき歩いていたら、警備員っぽい格好のおじさんが小走りでわたしの横を通り過ぎていきました。なんか急いでいる。かと思いきや、数メートル先でピタッと止まりました。おなかをおさえながらおもむろにこちらを振り返ります。なにやら苦悶の表情を浮かべている。なんだろう。わたしと視線を交錯させたその刹那、おじさんは言いました。「ああ、おなかいたい……」。え、そんなこと言われてもこまる……。困惑。わたしはなんとなくほほえんで会釈をしました。「がんばれ」とでも伝えればよろしかったのでしょうか。応援してほしかったのかもしれない。 とりあえず困ったときの「ほほえんで会釈」です。必殺のやわらかい物腰。視界に入れるととろけるような物腰で、すべてをあいまいにやり過ごす!「ほほえんで会釈」のスキルだけには自信があります。イエスでもノーでもない、挨拶でさえない、意味の表象を限りなく薄めた、ただ「わたしはここに存在していますよ」というだけのメッセージ的なる雰囲気をかもしているのか、いないのか、なにもかもあいまいでわからない高度なぼんやりコミュニケーションスキルです。あらゆるものを、あってもなくても居てもいなくてもおんなじ地平に帰す。日々