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6月, 2018の投稿を表示しています

日記566

著作権の保護期間が著作者の死後50年から死後70年に延長されるそうです。わたしは青空文庫などの、著作権切れの文献を気前よく公開してくださる取り組みが好きなので、これには直感的に残念に思います。 著作権については、雑なことを書くと、いまのところ権利自体はあってもいいが、グレーさを保ったゆるやかな法運営がのぞましいと思います。もっと雑に書くと、まだすべては過渡期だと思う。なにより、著作権の保護の下にあろうがなかろうが作品自体の価値は変わらない。希望としては、過去の文物が未来の人々にも容易に伝わりやすい法制度がいい。文化の価値を決めるのは、現在のひとだけではない。 わたしがネットにあげているものは文章も写真も勝手になんでもどうにでもしていただいてかまいません。したいひとがいるならば。わたしの記事には引用も多いけれど。それと明示せずに歌詞などの一節を忍ばせていることもある……。 わたし自身がなんでも取り入れちゃうタイプなので。めんどっちいな。ことばは、どこまでがじぶんで、どこまでが他人なのか、なんて考えだすとわけがわからなくなります。きっぱりとした区別なんかできっこありません。でもケチなことも言いたくありません。 詩人のボードレールが書いた唯一の小説作品『ラ・ファンファルロ』に登場する、サミュエル・クラメール。彼の考え方に、ちょっとした共感をおぼえるのです。 サミュエルにとってごく自然な悪癖の一つは、自ら讃嘆の対象となし得た人々と対等な者と己をみなすことであった。見事な本を一冊夢中になって読み終わった後で、思わず下す結論は、これは私が書いたとしてもはずかしくないほど立派だ!というのであり、――そうなればあと、だから私が書いたのだ、と考えるにいたるまでは、― ―ダッシュ一本 の距離しかない。 ダッシュ一本の距離、ごく自然な悪癖。こんな気持ち、わかるひとにはわかるのではないかしらん。ここまで尊大ではないにせよ、好きな著作者と、いつの間にか思考が同一化しているじぶん、がたまにいます。あとで読み直してはじめて気がつくことも、多々ある。「あれ?これってあのひとも書いてなかったっけ?」みたいな。 わたし個人は、文章をまるまるぱくられたってかまいません。「わ~じぶんとおなじことを書いているひとがいるよ~すご~い」と無邪気に感動しちゃう。でもリンクと

日記565

多肉。谷くん。 めちゃんこ伸びました。 買った当初にぽっきり折れても、2週間お水をあげなくても余裕で生きていて、生命力はものすごく強いけれど、ただ、成長すると自立できなくなる。支えの割り箸を取り除くと、ばったり倒れます。また折れる。ちまこくなる。いっそ折ったほうがよいのかな。身の丈を知れ!!とばかりに。ぶち折る。 なにを言う。そんな無体なこと、できるわけないじゃないか。身の丈以上で生きていても、いいに決まっている。伸びていい。もっと見栄を張れ!!とばかりに。育てる。そう、ぶち折るより育てる。うそみたいに大きくなればいい。 見栄だけで生きて、うそばっかついていても、さいごに「ぜんぶうそでした」と言えばいいよ。言わなくてもいいよ。「貴女がついた嘘であっても私が信じれば本当になる」って、SNSのコメントで聞かせてもらったことばだけど、すごく好き。 谷くんは、うそつきだよ。この大きさは、あなたのついたうそ。じっさいは、こんなに伸びたらいけないのに。倒れるのに。ここまで生きていられないのに。わたしが、そのうそを、箸で支えてほんとうにしている。 裏側が丸見えの、ハリボテの「ほんとう」だけれど。いいじゃないか、べつに。わたしだって、おんなじなんだ。ほうっておかれていたら、とっくのむかしに死んでいるのに、ハリボテの支持棒を頼ってしまって、まだ寄りかかりながら生きている身なのだ。使い古しの割り箸がないと立てない、あなたとおんなじだ。 こんなに成長したら、倒れるに決まっているのに、まだ倒れない。わたしも、谷くんも、身の丈以上の時間を生きてしまった。うその空間へと伸びつづける。うその時間を生きつづける。「ほんとう」をくれる支持棒がたくさんある。見栄を張って、ほんとうにする。 100円ショップの多肉植物に読むアナロジー。 書きながら皮肉っぽい笑みが浮かぶ。いつもしづかにわらつてゐる。 ちょっと前、「死ぬ以外にも方法はある」と、自殺対策のお話の延長で、荻上チキさんがおっしゃっておりました。ラジオでね。自殺を思うひとへ呼びかけるように。自殺は相談窓口もあります。いっぽうで、他殺を志向するひともいます。刺すしかないと。ひとを殺すしかないんだと。こちらに、相談窓口は、ありません。「殺す以外にも方法はある」とも言っておきたい。フェアに。 伊集院光さ

日記564

一九五六年のクリスマスの日ヴァルザーは、何十年も前から収監されていた精神病院近くの雪の積もった野原で、心臓発作で死んでいた。 読んでいた本の、事実を記した変哲もない一行から浮かぶ画があります。引用は、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著『キュレーションの方法 オブリストは語る』(河出書房新社)より。中野勉=訳。 浮かぶのは、作家のローベルト・ヴァルザーが雪の上に仰向けで倒れている、死亡現場の写真です。『ヴァルザーの小さな世界』(筑摩叢書)という本の表紙にも採用されている、それが、なんとも、がばーっと散歩中の気まぐれでちょっと雪へ寝そべってみたような、倒れた勢いで帽子が転がっていて、一気に全身の力が抜けたようすがわかるけれど、なんだろう、片腕を広げ、飛ぼうとしたかのごとき想像もしてしまう、ついさっきまで生きて、ふだん通りに歩いていたのに、一瞬で魂が飛翔するように身体から抜けていった、みたいな、擬音でいえば「スコーン」といった感じの、生気が抜けたほんの一瞬がつたわる、雪の上、仰向けに事切れた老人の、それは美しい死体の写真なのです。 ひとが死んでいる写真を「美しい」だなんて、ひどく身勝手なことを書いていると思う。ひとが死んでいるのに。でも正直に、あの写真は素敵な死に様だと思ってしまいます。わたしの目には、そう映る。 ヴァルザーを「うわの空で生きている」と種村季弘は評したけれど、死体の写真も同様に「うわの空で死んでいる」。生と死の境目も定かでないほどに、彼の人生はたぶん、うわの空だった。オブリストの本にある、スーザン・ソンタグによる評も読んでも、あの死体を思います。  「ヴァルザーの人生はある種の抑鬱型の気質のもつ落ち着きの無さの実例であって、静止状態に、そして時間が広がって消費されるさまに、気の滅入るくらいに魅了され、人生の多くを時間を空間に転化することに費やした。歩き回ったのだ」。 雪原に倒れる彼の死の光景も、広がりをもった静止状態だったと思う。わたしにとってヴァルザーという作家は、文章よりもなによりも、第一にその死体に魅了されるのです。こんな作家は、ほかにいない。あとにも先にも、たぶん。唯一無二。 オブリストの本の内容とはまったく関係がないけれど、そんな個人的なことを思い出しました。これもまた、本を読む行為のひとつであると思

日記563

「私は安全運転をしています」。 不意に地面から話しかけられるときがある。「ああ、そうですか」としか言いようがなくて、そうですか。そうなんですね。安全運転をしていたのですね。いままではひそやかに安全運転をしていて、だれにも告白できなかったけれど、やっと言い出せたのですね。伝えてくれてありがとう。どうかそのまま、安全運転でいてください。 * わたしはいいひとなので(じぶんで言う)、他人への贈り物を考える時間が好きです。贈り物とは、接点の告白です。わたしたちはどこで接着するのか。「わたしの考えるあなたは、これだと思う」。ということを、押しつけず越境せずにあくまで、自己の裁量内において物質として把持すること。わたしとあなたの人間関係を維持している共通の幻想を探り当てること。そこにはかならず、自己告白がふくまれる。わたしの中の想像の他者、理想の他者は、これをよろこぶはず、と。 でも一方的な想像ばかりが先走ってもいけない。いままでしてきたやりとり、受け取って、差し出してきたことばを反芻しながら、返す刀で「あなたの考えるわたしは、これだと思う」こと。相互的な、個人と個人の関係のバランスが均衡するモノを発見したい。その均衡が、贈り物の支えによって、いつまでもぶれない平衡状態にもなればと、願いながら。 邪魔にならず、部屋のどこかへ自然にちょこっと置けるような、ささやかなものがみつかればしめたもの。「これだ!」と思ったものを差し出して、その通りの「これ」として想像の均衡を果たせたら、こんなにうれしいことはありません。 交際中の方と会えない月には、本を一冊、贈る。次はどうしよう。と、つねに考えています。わたしの琴線にすこしでも触れる本の中から接点をさがす。このたのしい作業をする時間がすでに、あなたからの贈り物です。それは友人でも家族でもそう。「贈り物を受け取ってくれる相手がいる」というだけで、幸福なのです。お返しはあってもなくても。じゅうぶん。 あるいはメールでもなんでも、返事はあってもなくてもいい。前は、無視をされると、かなしいと思っていたけれど、無視をされているかどうかなんて、わからないのだと気がついた。とくに離れた相手から「メールを無視される」ことは、確かめようがない。思い込みでしかないのです。 余白を読み込み過ぎている。なにも返事がない時

日記562

これは捨てようと思った墓場の写真です。 上げるものがほかにないからサルベージ。 「性欲が薄い」ときのう書きましたが、これはあくまで肉体的な性欲が薄い、という意味です。エロスは、まるで放射性物質のようにいたるところに存在します。わたしにとっては、文章とか音楽とかもエロい。だいたいのものはエロスを孕んでいると思う。写真はすべて、道端のゴミでもエロいなーと思って撮る。なまめかしいもの。日常の至るところにエロがある。官能がある。その意味では、わたしはドスケベです。 早い話がフロイトの汎性説です。ただ「肉体的なつながり」となると感性が働かない。 食欲もきっと、いたるところに薄く広くあるものだと思います。これは、水木しげるの「万物は食べられる」という発言に基づいた考え方です。その通り万物は食べられるし、食欲を満たす方法は、食べ物を口の中に入れて飲み込むだけではない。 視覚的に満たされることもある。嗅覚で満たされることもある。話を聴いて味わうこともできる。食べ物のさわり心地も重要だ。指でも舌でも。食欲も五感を使ってすくいとり、ありありと感覚すれば、あらゆる端緒から満足を得られるもの。と思う。「いや、口に入れて飲まなアカンやろ!」というひともいると思うけれども。 わたしにとって、睡眠欲だけは、それ自体に満足を求めないと決して満たされぬもの。視覚的に睡眠欲を満たすことはできない。味覚でもできない。触覚でも嗅覚でも聴覚でも。眠るしか方法がない。眠るしかないんだ。眠りたい。 だからわたしは、三大欲求の中では、睡眠一筋なのです。睡眠欲にだけは一途に忠実なのです。眠ることは眠ることでしか満たされない。あなたは、ほかの何にも代えがたいから。愛してる。 * 図書館に、速記法の本が新着として置いてあって、「これはやばいひとがつくったやつやな」とひと目で直感的に思いました。そういう本はすぐにわかります。本から発される波長というか、そのたたずまいから電波が受信できるのです。超能力みたいですが、本に触れる機会が多い人はみなさんきっと経験と勘でわかります。 著者の名前をあとから検索してみると、思ったとおりの感じの御方でありました。佐藤行俊という御方。日本のガンジーだそうです。というか、なんでこの御方の本が図書館にあるのか。どういう経緯から仕入れるに至ったのか。謎

日記561

ものまね芸人のコロッケさんによる持ちネタ「五木ロボットひろし」をテレビで見ながら祖母がひとこと。「これ、健康にいいかもしんないよ」。そうそう、健康体操としてDVDでもつくればいいんだよね。TRFのダンスDVDも売れたから、五木ロボットひろし体操も流行るよ。いまどきの発想だね。 6月23日(土) また就活アウトロー採用の集いに行ってきました。これにて、わたしはもうアウトローに関わることはないと思います。いや、なにがあるかわからないけれど。きょうをもって、たぶんもう二度と会わないひとは多い。個人的にメールアドレスを交換した友人へだけは、気まぐれに嫌がらせのようなキチガイ沙汰のメールを送りつけます。 どんなに気が違っていても、通報はしないでください。わたしは正気ですから。おわかりですよね。わたしには理性しかありませんから。いかに気が狂った文面であれ、理性的に書いています(そっちのほうが怖い)。人畜無害です。警察を呼ばれても「むしゃくしゃしてやった」と供述するだけです。あるいは「むしゃむしゃ食ってやった」と述べます。わたしはどんなときでも冷静です。だれだキチガイ呼ばわりした奴は。 きょうのアウトローの集まりは、途中で帰りました。他意はありません。純粋に「帰りたいから」。ピュアセレクトマヨネーズよりピュアな気持ちで、帰りたいから。ピュアモルトウイスキーよりピュアに帰宅したいだけ。ひとりで雨音につつまれながら図書館で借りた本を読みたいだけ。 わたしは人生のうえで「帰りたい」への情熱を絶やしたことはありません。いつなんどきも、すきあらば帰宅。特に就活アウトローは、それが許される場なのです。来る者は拒まず、去る者は追わず、というか。止まり木のような在り方。 逆に言うと、無理して居つづけるのはちがう。そういう居心地の悪い集まりではない。居たいひとが、居たいように居ればいい。なんら強制はされない。帰りたければ帰っていい。そこがアウトローのいいところです。たぶんね。 就活アウトローのために始めたfacebookアカウントも、数日前に消しました。これも他意はありません。facebookの仕様自体がわたしに合わないからです。人間の顔と名前が画面のそこらじゅうへ、ひっきりなしに出入りするだけでも耐え難い。テレビの視聴中に感じる痒みと似ている。顔と、目に入る名前

日記560

道を歩いているとき、人間を視認する感覚と、野良猫などの動物を視認する感覚。のちがいが気になります。わたしはわたしを観察していて、そんなに変わらないのかな、という気がする。人間も動物も一括りの、巨視的な位置から雑にとらえているような。 わたしの中ではどこからひとと動物の差がつくのかと考えると、やはり一貫した名前を知ったときかなあ。わたしは矛盾したむちゃくちゃなことをよく書いていますが、それもたぶん名の一貫性に依拠している。主体の軸がないと矛盾も描けない。 それはいいとして。喉はだいぶよくなりました。 安静にしていて。ほとんど、このところしゃべっていません。長めに継続して話をすると咳が出るみたいです。大きめの声を出しても、ダメージがきます。でも、ひどいときに比べたら、そんなでもない。だいじょうぶ。声がほんのり低くなっていて、これが治るのか心配です。べつに治らずに定着しても、生きてりゃいいか。 数日、寝ていたらすこし痩せました。筋肉量が落ちたのかな。名付けて、病気ダイエットです。おすすめ。はできない。けど寝ながら、もがき苦しむだけで、みるみる痩せます。かんたんですね。ただ、生活が犠牲になります。一般に悩ましいのは、痩せることと、社会生活の両立なのですね。 あしたは久々に娑婆の空気を吸います。 寝よう。

日記559

道の野いちご、幼いころ拾って食べていました。 拾い食い。スナック感覚で。路上のもので腹を満たす! カネのかからんこども。 きのうの記事で、なにをしていても「じぶん、なにやってんだろう?」から逃れ得ないと書きました。しかし程度の差はあります。たとえば、トイレで排泄をしているときは、そんなに思わない。むしろ「ちゃんとやってるな」くらいに思う。これが、トイレ以外に漏らしたときは「なにやってんだろう?」になる。 まじめに考えるとおもしろいちがいだと思う。おなじ排泄行為でも、場所によって認識が変わる。あたりまえといえば、あたりまえなのです。しかしここには、現代日本の「社会性」とか「人間と動物のちがい」とかを考えるにあたっての興味深い認知的な差異があると思う。便座と野糞のちがい。でも、いまはあまり頭が働かないし、こだわる気にもならない。 比喩的に書くと「じぶん、なにやってんだろう?」と思う感覚は、心理的に、トイレ以外の場所に排泄しちゃっていることと同様の感覚なのかもしれません。ちゃんとじぶんから出るものを収める場所に収めること。これがむずかしい。 このブログもトイレに近いけれど、ほんの気持ち外している感覚もある。公衆トイレに入ると、たまに前に入った人間の落としものがある、アレだ。ちゃんと流せていなくて放置されている。文章もそう。きのうの記事は、きのうのわたしの流せていない落とし物。きたない比喩だなあ。 いちばん綺麗に、わたしが収まるところに収まる場所というと、棺桶しかないのだと思う。「わたしが」というより、人類みなそうなのだと、言ってしまいたい。でも「収まる」と「収める」はちがいます。生きながら切り出した時間(排泄物)を死へ「収める」のか、わたし自身がまるっとそちらへ物質として「収まる」のか。 「じぶん、なにやってんだろう?」 この度合いが高まると、なんでも耐え難い。わたしはわたしを説き伏せて、必死で納得させなければいけない。説き伏せるためのことばを生み出し、ときにでっち上げるおとなのわたしと、「なんで?」と永遠に問い詰めてくる、わからず屋のこどものわたしがいつもせめぎ合っている。そしてたいていの場合、こどもに組み敷かれてしまうんだから始末が悪い。ああ、もうごめん、わかんないよ、降参。こどもは不服そうに、うずくまる。理由が足りない。なにをす

日記558

いかなる愛も、それが愛である限り、演技である。 スパンクハッピー活動再開の共同声明 を読んでいて、目に止まったことばです。映画、『ラストコーション』のコピーだそうです(未確認)。声明文のサイトにある、小田朋美さんのマルコメ写真が衝撃的でした。 このときの若き小田さんを間接的に「暗くて危ねえ馬鹿(笑)」と菊地成孔さんは形容しておられて、これには、「傀儡」という一曲に「好き」50発を詰めこんだ小田さんだものと、どこか納得のいく感じ。バンドの曲だから、ひとりでつくったわけでもないだろうけれど。レモン50個分のビタミンCよりも美しく肌を湿らせ、ラーメン二郎50杯分の油脂よりも濃厚な吹き出物がうずくような一曲です。よくわからない修辞。 上記の引用はきのう、演技とかペルソナとかそういうことを書いたから、至極個人的にタイムリーなお話。ついでにいまわたしは、鼻の奥に傷がついて声がおかしい。別人みたいにざらざらしている、それもタイムリーだと思う。つながるお話。 ペルソナは、秘匿の為の道具ではない。ペルソナは自分を解放する為の仮面なのです。 と菊地さんは書いていた。小田さんも、それに準じるように「解放の道具」と。その側面。いままでわたしが被ってきた仮面は「じぶん、なにやってんだろう?」と気詰まりに思ってしまうものしかなかった。だから「演技」をネガティブにとらえがちだったけれど、そうではない側面もある。 というか「演技ができない」といっても、そういう演技をしているだけだ。つまるところわたしは、したくない演技はしたくない、というひどくこどもっぽい同語反復を言いたいだけなのだろう。ガキです。最低でも「なにやってんだろう?」と、後ろ暗く思わなくともなるべく済むような演技がしたい。仮面の背後に真実が控えているわけではない。化けの皮をいくら剥いても「ほんとうの自分」なんか、出てきやしないんだから。 どういうフリを選ぶか。どんな見かけを選ぶか。それしかないのは重々承知。わたしは「ほんとうの自分」などと無邪気に言えるほど能天気な人間では残念ながらない。「なにやってんだろう?」から完全に逃れられるとも思っていない。いまこれを書いていたって「なにやってんだろう?」と思うわたしはいる。生来、この性格だ。なにをしていても疑いは晴れない。生きているだけで嫌疑は十分。

日記557

眠れないほど咳がひどいので喘息予防の吸入ステロイド薬をもらったのですが、これがむずかしい。吸入すると、ぜったいにむせかえってしまう。途中であきらめる始末。吸ったら5秒間、息を止めなければならないらしいけれど、できない。3秒くらいが限界。震えながら必死で静止しても「1…2…3…ボヘァッ!」となる。 深く息を吸うとむせるから、自然と呼吸が浅くなって、慢性的に苦しい感じもする。呼吸はいつも無意識にしているものだけれど、生体を支える基盤となっているもので、ここに支障をきたすと、ぜんぶだめだ。鼻の奥とか喉とかやられてしまうと全身にきます。なんたって急所です。気分も下がります。うそです。気分はどんなときでも余裕です。貴族の精神です。貴族は貴族でも鳥貴族です。安い居酒屋の精神です。ほかに「貴族」でパッとイメージするものは、叶姉妹です。 日曜日に、是枝裕和監督の映画『万引き家族』を観ました。パンフレットを読んでから、感想を書きたいと思います。カンニングです。ちがうよ。参考にしつつ。補助線をいくつかもらう感じ。いま祖母に貸していて、読めない状態なので数日後かな。祖母と観に行きました。祖母の感想としては「戦後すぐの頃を思い出すわ」と。 焼け跡だらけでほとんど何もない貧しいころは日本人だって倫理観に欠けていて、リリー・フランキーが演じた、あんな感じのおとなも、ふつうにうろうろしていたのだろうと思う。家族の形態も、あばら家に囲まれ入り乱れていたのかもしれない。片親の家庭もいまより多そう。統計的な事実はわからない。こういう感覚的な物言いはよくないか。 父と母もいっしょに、要は家族で観たのですが、このふたりの感想は書くのもためらわれる。映画は一方向的になにかを与えてくれるものだと勘違いしている。そういう映画もあるけれど、テレビではないのだよ。刺激はみずから受けに行くもの。芸術は相互的なもの。与えられるものではない。 わたしは両親に似ても似つかない人間だと思う。「がんばらないと親に似る」とマキタスポーツさんがおっしゃっていたけれど、がんばったおぼえはない。でも親にはまるで似ていない。反面教師にはしていた。だからか。親ではなくとも、すべての人間は反面教師にしています。じぶんもふくむ。 ちょっとした仕草や、リアクションや、挙動は親と似ているところもある。あと、わたしの筆

日記556

アゲハチョウの翅です。 こういう死骸をわざわざ写真に撮って「きれいだね」なんつって愛でていると、おかしな人間になるのだろうか。ふつうにきれいだと思う。黒い縁どりに淡い青・緑。インスタ映えだと思う。ふつうだと思う。ふつうがよかった。 幼稚園だったか小学生低学年だったかのとき、七夕の短冊に将来の夢として「ふつうのおとうさん」と書いた。この話はだいぶ前の日記に書いたけど、年に数回は思い出す。わたしはわたしを、ふつうだと思っていたけれど、もう、そうではないみたい。ほんとうは、とっくのむかしから。 「自分のありきたりの正常性があまりにはっきりしてて、なんとかしてそこから逃れようとする連中。そういう奴らは何かと派手に暴れては、そのときどきの流行に乗って、自分のオリジナリティを主張する。脳味噌やら才能やら多数派に無関心だって事やらを声高に宣言して、必死で自分の平凡さを否定しようとする。そう言うのがアーティストとかパフォーマーとか、冒険家とか快楽主義者とかって連中だ。  それから、自分自身の奇妙さを感じとって、それにおびえちまう奴もいる。そいつらは正常性を求める。他人から正常と見えない度合いに、あるいは逸脱がもう存在しないと自分にいい聞かせなきゃならない度合いに応じて、そいつらの苦痛は高まる。そう言うのが本当のフリークだ。ほとんどいつも、ごく当たり前で、退屈にしか見えない奴らが」  キャサリン・ダンの『異形の愛』より。多かれ少なかれ、「自分自身の奇妙さ」を感じる瞬間は、だれにでもあるのではないか、と思っていた。でもそんなこと、ないひとのほうが、多いような気もするきょうこの頃です。疑いをさしはさまないひと。わたしは、わたし以外のものの代弁者になるすべを知らない。わたしひとりの正しさや、わたしひとりのふつうしか、わからない。 わたしにとって、社会があることは自明ではない。仕事も、家族も、食べ物も、自分の命でさえ自明なものではない。太陽がのぼり朝がくることも、やがて夜がきて街に闇が降ることも、まったく自明ではなくて、たまに怖い。すべてがバラバラなのだけれど、それを必死になって縫合しようと、来る日も来る日も繕っている。 こんな話が伝わるひとはいなくて、居場所もないから、ネットに文章を書いている。いまこのとき、ひとりだなあと思う。それはうれしい

日記555

6月16日(土) のどがやられてしまったため、病院へ。 お医者さんにいろいろと訴えたら、くすりを7種類ももらいました。ちと訴えすぎたか。訴状をつくるような勢いで訴えた。告発してやった。気に入らないことがあったらすぐ帰りの会で先生に言うもん。いや「のどが痛い」だけでよかったけれど、質問されるから……。 薬局でくすりをもらい、説明を受け、さいごに「なにか質問ありますか?」と聞かれて「あの、くすりを食べる順番は……」と言うわたしに「まず、くすりは噛まずに水で飲んでくださいね」と正確無比なつっこみをいれる薬剤師さんと漫才コンビを組みたいと思いました。その淀みなく流れる美しいつっこみで、いっしょにM-1をとろう。 毎食後、飲む。順番はどうでもいいそう。カプセルの飲み薬には積極性があります。口の中へ水とともに含むと「飲んで飲んで!」といわんばかりに喉の奥へと入ってゆく。待て、早まるな。と思う。カプセルのような固形物をひと飲みにするには助走がいります。いったん手前に戻し落ち着けてから、ぐいっと飲む。あくまで飲む主体はわたしなので、そっちから飲まれにこんでもいいから。と思う。あせらないでよ。がっつかないの。 1日のハイライトとしてはそんな感じです。 以下は、さいきん個人的に身近なところでよく目にする言説一般について、思ったこと。 * わたしは「経験至上主義」のごときものをふりかざす年配者が好きではありません。そんなの若輩者は抗弁できないに決まっているではないですか。それに、あなたの経験とわたしの経験は、まじわらない平行線です。 わたしはわたし、そして、あなたはあなたの時間を生きている。それだけでしょう?たまに偶然それが交錯したり、離れたり、ぶつかったり、うにゃうにゃする。点と点としてつながるだけ。線にはならない。あなたの時間線のレールにわたしは乗れない。他人だよね。わたしにはわたしの線がある。ときおり点に触れて、ぶつかって、離れて、軌道が変わる線。 「行動至上主義」のごときものも、わかるといえばわかりますが、素直に首肯しがたいものがあります。動かないと始まらない。然り。しかしそれをうべなうべきとされるのなら、わたしが引きこもって読書をしながら得てきた現在はなんなのだ。わたしが身

日記554

ひびの入ったプラスチックの欠片を拾いました。 電灯にかざし、キラキラさせる儀式。 わたしはこどもか。原始人か。 と思いながらも写真を撮る。 ゴミを拾ってよろこぶアラサー。 さいきんさむくて、いけません。 喉をやられてしまい、声がでない。 発声すると、天龍源一郎みたいになります。ガビガビでなにを言っているのかわからない感じ。わたしに天龍のものまねをさせたいのなら、いまがチャンスです。ひとはその一生のうち3回だけ、天龍源一郎になれるのだと、古来からの言い伝えがありますね。わたしにとって、その第一回目がきょう、いま。このとき。わたしはいま、玄武や白虎などの中国の霊獣の中に、ギリギリで入りそこねたという伝説の幻獣、天龍源一郎とおなじ状態なのです。夜叉や阿修羅などの仏法を守護する八部衆にもギリギリで入りそこねたという伝説でお馴染みの、あの天龍源一郎です。もしかしたらこれ、発声せずともなにを言っているのかわからないのかもしれない。ということは、わたしはいつも、これまでも、これからも、なにを言っているのかわからない人間なのではないか……。 たいへんな疑惑が浮上してしまいましたが、疑惑は疑惑のまま、そっとしておきましょう。ミステリアスなままで。暴いちゃったらおもしろくない。正解なんかないの。それか、越後製菓だから。すべての道がローマに通ずるように、すべての正解は越後製菓に帰するのです。 ここ2日ほど、龍角散のど飴でなんとかキープしていたけれど、そろそろ限界。お迎えがきたようです。ありがとう龍角散。あなたの役目はおしまい。あした病院に行こう。咳き込む。咳は全身にダメージがきます。ゆいいつ良い点があるとすれば、腹筋が自然に鍛えられているような気がしないでもないところ。ええ、気がしないでもないだけです。 咳き込むとすぐにあばらが痛くなります。身近な友人や家族などにこういう症状を羅列して教えると、さいきんはすぐに調べて「あれじゃないの?これじゃないの?」と病名をたくさん貼っ付けてくださるので、おもしろいです。ありったけの病名をつけられたい。病名プリーズ。人生は、できるだけ多くの病名がついた人間の勝ちなのです。そういうゲームだから。健康なひとはごめんなさい、敗北を抱きしめて。貼りつかずに余った病名は、売りに出します。うちの畑で耕した病名です。身体を張って編み

日記553

意志が強いのか、弱いのか、よくわからない奴だなーときのうのじぶんの日記を読み直して思いました。わかりづらい。掴みどころがない。ただひとつだけ、思考の癖としてはっきりしていることはあります。 集団化できない。 わたしはひとを個人として見ることしかできない。じぶんのことも、そう。たとえば「こういう所属のこういう肩書です」と自己紹介をされても、そこにあるひとつの社会集団の情報やイメージから「そのひと」を導き出そうとは思わない。みずからに組織の顔を貼り付けることも苦手。人間を数字に置き換えることも、苦手です。 でも、やっていれば慣れるのだと思う。数字だらけの世の中です。たいてい肩書だけで人間の情報はまわされます。そういうことにも慣れる。もう慣れている部分もあります。ひとは、なんでも慣れるよ。どんな暴力でも、それが日常になってしまえば、慣れる。青くさい潔癖症も、まいにち汚物にまみれていれば香ばしく燻される。ダンディな燻製になるんだ。 「次のあたりまえをつくろう」。なんかのキャッチコピーにありました。いま調べたら、JR東日本でした。「当たり前」と、漢字の表記だった。「あたりまえ」は平仮名の表記が好きです。倉橋由美子の毒っ気に満ちた小説論『あたりまえのこと』を思いながら、この平仮名5文字を書きたい。 きっと、JR東日本のキャッチコピーは「次の(社会の)あたりまえをつくろう」という意味なのだと思う。隠された「あたりまえ」の前提がある。言わずとも読み取れ、という、いわば「あたりまえ」のあたりまえ。わたしは、わたしのあたりまえだけでじゅうぶん。ひとりぶんのあたりまえしかわからない。ごめんなさい。 たぶん、わたしはもう、ずいぶん前から、いつ死んでもいいと思っています。はっきりとは意識できないけれど、そういう心持ちが身体の隅の方に沈殿していることは、わかる。「がんばろう」とか「生きよう」とか言われると、身体的なレベルで薄気味が悪くなる。うすら寒い。生命力が、さほどない。ごく微弱な光でもまぶしい。 就活なんか、むりに、いろいろと取り組もうとすると、「そうまでして生きていたくないなー」という思いがずしんと重く背骨にのしかかる。ただ、てめえを生殺与奪する権利をてめえだけが握っているとも思わないから、まだここにいる。あるいは、じぶんを人質にとって、見苦しい言い訳を

日記552

めっちゃもやし。 こういうものを撮れるとうれしい。 豚こま肉などもたまに落ちている。 こそこそとあたりをみまわしながら瞬時に撮ります。 ただのもやしではなく、豆もやしというところもいい。 路上の栄養。森のバターとか、畑のお肉とか、そういうキャッチとおなじです。これがストリートのビタミン。いつも路上に栄養を。路上つながりとして、ストリート・シンガーにも分類できるでしょう。こいつだって夢を追って田舎から豆ひとつで上京したのです。東京という乾き果てたコンクリートジャングルに少しでもうるおいを与え、耕そうと必死で声を上げた。すなわちこれは、飛び散ったストリート・ドリームの欠片。俺がNo.1ヒップホップ・ドリーム!と叫ぶ声がとどろく。ただ、マイク握りたくて!思い出すぜあの、土砂降りの野音。皇居まで響かせた爆音。次の人生ってどんな風。聴いてるか、リアルな音楽。あのときのたった、一度の過ちが分かれ道だった。そう、こいつが体現しているものがまさに新宿スタイル。ストリートのリアル。昭和の面影が消えた街の中で、新たな景色を眺め企んでたマイメンの姿。あるいは、路上で思索を広げる哲学者の相貌にも似ている。古代ギリシアでいうところのディオゲネス。みずからを犬になぞらえた樽の中の奇人。アレキサンダー大王にも一目置かれたという哲人です。路上の豆もやしは、現代のディオゲネスなのです。犬儒学派の系譜に属する。おなじ犬儒派を標榜する評論家、呉智英さんの後輩にあたる豆もやしです。沖仲仕の哲学者にも近いものを感じます。簡素な思索、そしてファナティシズム。打ち捨てられた豆もやしの中に秘められし熱狂。路上に身をなげうって。もういいですね。 じぶんでもしつこいと思う。でも、くだらないなんて言わせない。路上の豆もやしからどれだけのものを読み取れるのか、こういうところで人生の豊かさが決定づけられるのです。と、本気で思っています。通り過ぎてはいけない。そこに埋蔵された時間を読む。ありもしないものでもいい。じぶんの懐にあたためている風呂敷を、ありったけ、広げてみる。 いや、とてもくだらないけどね。やっぱり言っていいです。だいたいくだらねえとつぶやいて、冷めたつらして歩いている。なぜもっと大上段に構えない。なぜもっと深刻そうに論じない。だって、犬儒派だもの。 とはいえ、ベタな冷笑家はきらいだ

日記551

先週の水曜からのわたしの疲労っぷり、そしてその後の脱力っぷりたるやたいへんなものがありましたが、ただ通過しただけでぜんぶ“これから”なのです。人生ね、ちゃんとしてこなかったから。それは、「できなかった」部分もあれば「してこなかった」部分もあります。意志によるところと、よらぬところ。でも、総括としては「してこなかった」と意志的に書きます。あらゆる偶然や、事故や病や他人からの痛みも恵みもすべてひっくるめ、わたしの意志です。不遜なまでに、そう言い切る。「神意に添う」とは、そういうことではないか。 まずは誕生から、わたしの意志だった。いや、でも、正直に言うとそこまで雄々しく言い切れない。ためしに言い切ってみてから気付く。そんなことない。この世に生まれたいと願ったおぼえなんかない。もう出てきちゃったものは仕方がない、としか思えない。生きたいと強く意志したこともない。ただ一定の時間ここに居た。そのほうが、たぶん、よかったから。でも「ありがとう」と、なんら持たざる者のゆいいつの富として、感謝を言う。 「でも」が肝心です。屈託なく生きてなんか、いられないから。幾重にも屈折している。そうでなくもなくもなくもなくもない、くらい。もっとかな。しかし結論はシンプルに。でもやるんだよ。 いまから「ちゃんと」の軌道に乗せるのか、あるいは「ちゃんと」をばっさり切り捨ててすべてから逃走するのか。あいだをとって、横道に逸れつつも「ちゃんと」を目指すか。「あいだ」がベターだろう。それにしても短期間でこんなに疲れっちまって、体力がないなーと思います。体力は、習慣からつちかわれるものですね。持続、ということ。 終電で家に帰ると、トイレへ頻繁に起きる祖母と玄関で出くわすことがあります。「おかえり。夜は変な人に気ぃつけなさいね」と繰り返し言われる、社会から見ればその「変な人」がまずはじぶんの孫であることにお気づきでない。たぶん、死ぬまで。だから、わたしはふつうだ。ちゃんとしている。ふつうのあぶれ者。360度ノーマル。あなたのことばを守りたいから、ちゃんとする。 と感じながら、小林勝行の「108bars」を思い出す。このひとのように荒れてはいないし、自己認識としてはまじめ過ぎて少しくらい荒れてもいいくらいなものだけれど(でも荒れない。凪が好き)。凪が過剰で知らんうちに妙な時間へ

日記550

書店の在庫検索機を使おうとしたら、だれかの検索した画面がそのままになっていました。画面には『うつくしい自分になる本』と。著者は服部みれい、というひと。「なれるよ、がんばれ」と思いました。だれだか知んないけど、あなたならなれます。本の内容も知らないけれど。中原昌也の『サクセスの秘密』みたいな皮肉めいたものだったらすみません。がんばらなくてもよいです。ボリス・ヴィアンの『北京の秋』みたいな内容とまるで関係のないタイトルである可能性も否めない。それだとがんばりようがない。 しかし「ベタにそういう本」である可能性がいちばん高いと思う。『うつくしい自分になる本』を手にするひとは、「いまのじぶんはうつくしくない」とお思いなのでしょうか。だとしたら「生きろ、そなたはうつくしい」と言いたくなります。それを聞いたあなたは本を片手に「人間の指図は受けぬ!」と言い返してほしい。「その喉を切り裂いて二度と無駄口たたけぬようにしてやる!」と言われたい。 それか単に、この著者のファンなのかな。いずれにせよ、この本であなたがうつくしくなれるのなら、よいのだけれど。わたしはあなたのうつくしさを応援しています。「まだ言うか!人間の指図は受けぬ!」という幻聴をこだまさせつつ。しまいには米良美一の歌まで流れてくる始末でも。 * よくお酒を呑んでよく寝ていたら体重が61kgに増えました(またヨドバシカメラで計測)。むかしから「呑む子は育つ」といいますね。増減が激しい。でも60kgの目標は達成。これをキープしつづければ健康長寿。5世紀くらい生きられるだろう。5世紀もなにしてろってんだ。ひますぎるなー。うれしい。でもあんがい、すぐなんだろうな。 年末に「はやいねー」とまいとし言うみたいに。「もう300歳だよー」と言うと、400歳くらいの先輩に「300代はもっとあっという間だよ~」などと、したり顔で言われるんだろう。いくつになっても同じだ。ひとが100万年くらい生きるとすれば、「1万年と2千年前から愛してる」とか、「8千年過ぎたころからもっと恋しくなった」とか、そういう愛の告白が流行るにちがいない。中には「1億と2千年あとも愛してる」というひとも出てくるだろうが、それはちょっと欲張り過ぎです。そんなに愛さなくともよいでしょう。よほどのヒマ人か。ヒマ過ぎてイマジンですか。 *

日記549

湘南工科大学の講義で聞いた「THINKからACTION」にからめて、「ことばと身体の距離」ということを書きました。ことばを身体にうつすこと。これは「移す」であり「写す」でもあります。言語を身体に写し取ること。 「言語を身体に」といっても、言語が先か、身体が先か、それは一概に断言できません。ひとや時と場合にもよるでしょう。同時的かもしれない。わたしの生体を通した認識では、絶えず入れ子になっているような気がします。ぐるぐる。 脳が先か、身体が先か、みたいな問いも浮かびますが脳も身体の一部なので、身体の機能は切断せずに統合的に見たほうがよいでしょう。脳もふくめて一個の身体です。しかし言語に関しては、生まれつき備わっていない、他人からもらった異物なのです。ことばは、わたしの中の他者。生まれてから教わったもの。書くことは、この他者とふたりぼっちになる作業です。 身体動作と脳の話だと、ベンジャミン・リベットが発見した準備電位なんか想起しますが、〈わたし〉は脳に局在しているわけではありません。首がもげたらひとは死にます。もっといえば、わたしが意志し意識できることはわたしの中にだけ存するわけでもないと思う。地球がなくなったらひとは死にます。もちろん、純粋に科学的な話からは飛躍をしています。わたしの個人的な自己認識の話です。 わたしがいま生きている実体験として、わたしの生体や認識を可能にしてくれているものは、脳だけじゃないし、一個の身体だけでも、わたしだけでもない。わたしから見える環世界のすべてがわたしの意識をかたちづくっている。そのうえでわたしの意志的な決定が日々なされているのです。早い話が環境との相互作用として自己がある。では、自己はどこまで自己なのか。他者はどこまで?わかんない。わたしのことばがあなたのことばであっても、わたしはかまわないと思う。 環境の初期設定は動きません。わたしが生まれたときすでに、この土地の環境は出来上がっていました。時すでにお寿司。日本語ということばが話され、日本という国のあらゆる制度設計も成され、わたしのまわりにはひとがすでにたくさんいて、生活があり、遥かな過去の時代から社会があった。すでに長い歴史があった。 とおいとおい過去から連綿とつづいてきた時間の途中で、わたしは生み落とされました。すでに出来上がっていた歴史の全体、

日記548

このイカした蛾のたたずまいはなんだ。 なんだコラ。チミ。小一時間、説教したくなります。 が、その前に謝罪をひとつ。きのうの記事中、菊地恵理子さんの「地」が「池」になっておりました。すみません。すべて訂正済みです。菊地さんと菊池さんの問題は、きのこの山とたけのこの里の問題とおなじくらいセンシティブなので細心の注意を払う必要があります。へたしたら血を見ます。戦争の引き金になります。内戦が起こります。大量の火薬が埋まっている一帯なのです。 そして蛾です。このフォルム、なんでこんなにかっこいいんだろう。ため息が出る。頭の真ん中にあるラインもいい。おしゃれ坊主みたいな。エグザイルにいてもおかしくないレベル。というか、いたんじゃないか。元エグザイルメンバーなんじゃないか。はぐれエグザイル。焼けて色褪せた古紙のような翅の色味も、すばらしい。目の醒めるような美しさはないけれど、渋い。ずっと見ていられる、いい渋み。いいなー。わたしもこういう生き物になりたかった。二足歩行なんかもう飽き飽きなんだよ。脚が六本にならないかなー。かなりキモくなりそうだけど。わたしは哺乳類。あなたのようにはなれない。そのイケてるたたずまいはなんだ。以上。 きょう、スーパーで拾ったこどものことば。「サラダスティックなのに、どうしてママはカニカマってよぶの?」。小学生くらいの女の子。なんだろう、商標の問題ですかな。たしかにそこにあった商品名はサラダスティック。正しいことをおっしゃるお子さんだと思いました。親に盲従しない。ちゃんとちいさな疑問でも口に出せるし、お母さんもちゃんとなにごとかをこたえていた。風通しのよい親子の関係を築けているのだなーと、この一瞬の光景だけでもわかります。聡明な子です。 「カニカマ」というものの由来は諸説あるそう。なぜカニが採用されたのか。日本人の食生活にとっての「カニ」の位置付けも関係してくるでしょう。この国の食文化におけるカニとはなにか。カニの地位について。どうやってカニは、にせものが売られるほどのスターダムにのし上がったのか。カニのくせに! カニって、わたしはブランド的な価値しかなくて、じっさいそんなにおいしくないと思う。これは何年も前から主張しつづけているが、だれからも同意が得られないことのひとつだ。おいしさの価値は、はっきりいってゼロです。わたしにとっ