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7月, 2022の投稿を表示しています

日記920

  7月31日(日) 8月はあまり更新しない。7月12日から気まぐれに(ほぼ)毎日、書いてみた。とくに感想はない。ただの気まぐれ。いま外で蝉がカタカタ鳴っている。鳴き声というより、ゼンマイが切れかけたおもちゃみたいに鳴っている。モノに近い音。もうすぐ命が潰えるのかもしれない。 今週からちょっと忙しくなる。祖母との面会の日だけは記録として、何か書くようにする。だいたい月に2回。きょうはスーパーで買い物。藤井風のTシャツを着ているおばちゃんと、メタリカのTシャツを着ているおばちゃんがいた。前者は藤井風ファンなのだろうと推測できる。後者はファンでもなんでもない可能性が高い。偏見。 ラジオでMARINAの「PRIMADONNA」を聴いて、中島みゆきの「世情」を思い出す。       You say that I'm kinda difficult But it's always someone else's fault この部分はあきらかに「シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく」のメロディを模している。わけないが、かなり似ている。かなりどうでもいい話。でも誰かに伝えたくなった。どうしても言いたくなった。こういうとき、ブログは便利。

日記919

7月30日(土) 千葉雅也氏の有料noteを読んでいた。今月で購読をやめるつもりなので、読めるところは読んでおく。貧乏性。そこで気づいたこと。フォローした人がドバドバ流れてくるタイムラインでつまみ食いするより、ひとりの人に流れる時間を読みつづけるほうが自分の体質には合う。だいぶ落ち着く。文章以外でもそれはおなじかもしれない。 もうひとつ、こっちは改めて確認したこと。なぜかむかしから、毀誉褒貶の激しい人物に惹かれる。特有の「キモさ」がある人物とも言えるか。両義性のある人物。「キモさ」を感じない人には魅力も感じない。その「キモさ」はたぶん、「過剰さ」からくる。どっか過剰な人に惹かれる。自分が半端者であるぶん、あこがれもある。いや、「お前も過剰だよ」と近しい人は思うかもわからない……。少々のキモさは自覚している。 きょうは施設の祖母と面会。いつになく穏やかだった。「死ぬの?」と心配になるほど。途中でお互い眠くなる。30分の面会中、「ねむいね」「ねむいよね」と5分に1回くらいのペースで言い合う。毎回、「死」が話題に上がる。そのたび、どう扱えばよいのか逡巡がある。施設の職員さんはたいてい、急いで否定する。「明日にでもお迎えがくるわ」「そんなことないですよ!」という感じ。迷いがない。 わたしは「否定できないな」と考えてしまう。いつ死んでもおかしくない。それは祖母にかぎらない。みんな。自分自身も例外ではない。いつでも、普通に死ぬ可能性がある。さいきん見たインタビューで、ジョナス・メカスが「死ぬことへの怖れはありますか?」と問われ、「ない」と答えていた。「それは普通のことだから」と。さらにつづけて、「何も死ぬことはない」とも語っている。       「死」についての思考は、どうもぐるぐるしてしまう。ぐるぐる。身を任せて、まわってりゃいいのかもしれない。否定したり肯定したり。その場その場でまわっとく。踊るように。 新型コロナウイルスの感染が盛況で、施設によっては面会を制限しているところもあるらしい。うちの祖母が住んでいるところは比較的ゆるい。別れ際に握手もできる。おそらく推奨はしていない。管理者の立場からすれば、できれば触れ合わないでほしいに決まっている。とはいえ、老婆が差し出す手を断ち切るわけにもいかない。わたしもまた、拒否するわけにはいかない。周囲の葛藤をなんとなく汲み取りなが

日記918

7月28日(木) 「パフェは権力者の食べ物」。すれ違いざまに知らない人が話していた。辻斬りに遭った気分だ。頭から離れない。たしかに、権力者邸の蛇口からは生クリームとか出てそう。生クリームとアイスクリームの温度差を舌の上で出会わせながら恍惚の表情で訓示を垂れる社長になりたい。ならなくちゃ。絶対なってやる。 夕食、キャベツの切れ端に味噌をつけてかじっていた。あと、わかめスープ。スーパーで買った焼き鳥。白米。カルキ臭い水。 今朝、カントの『判断力批判』にある「無関心性」の話を聞きかじって、その感じはなんかわかる気がするなーと思った。「美しいものに対する喜びはいっさいの関心を離れたものである」。そういえば、 日記715 にこんなことを書いていた。   冬は西日の色がいい。角度もいい。しかし西日の側からすれば射しているだけ。「いい」だの「悪い」だの、どうだっていい。ただまわっている。それがうれしい。いくらほめても、けなしても微動だにしない。文字通り、空を切る。通じない。ぜんぜん通じない。そんな世界に自分がいる。なんら通じなくとも。「通じなさ」を基礎とした世界に。   要は「夕日がきれいだったよ!」と言いたいんだけど、そのことばを避けて迂回すると上記ような感覚があらわれる。「通じなさ」を基礎とした世界。美の無関心性。カントの考えは措くとして、動物と戯れていても思う。通用しない愛おしさみたいな、そんな感覚はむかしからある。みんな遠くにいる。星に願いをかけるとき、あなたが誰かは関係ない。 先週行った中華料理店のカレンダーに、「言い訳は聞き苦しいだけでなく、同じ失敗を繰り返す元になる」と書いてあったことを、いま急に思い出した。7月の格言らしい。なるほど一理ある。しかし言い訳や愚痴のひとつくらい言えたほうがらくでしょ、とも思う。どっちでもいい。適当にやるよ。8月の格言を見るために、また行く。

日記917

7月27日(水) aikoの「ねがう夜」を聴いていた。歌詞を読むと、幽霊と戦っているような感じがする。夢と記憶の話。記憶は性質として幽霊に近い。幽霊は記憶を具現化した表象といえる。風が吹いてもどこにもいかない。いないと思いきや、いる。いると思いきや、いない。どっちやねん。記憶に苛まれている人は、幽霊と戦っているように見える。 「記憶=幽霊」だとするならば、誰にでも幽霊が取り憑いていることになる。そうなのだと思う。ことばにはつねに両面ある。「あなたに伝えている」即物的な面と、「過去の幽霊と戦っている」混濁した面。絶えずどちらも配合されており、その比率は時と場合に応じて変化する。激しているときはたいてい、幽霊の比率が高めだ。成仏できない淀んだシークエンスのつづきとして、怒ったり泣いたりしちゃってる。 現在地の語り口と、過去のある時点から湧き上がってくる語り口。合わせてことばのモードがつくられる。バイトでクレーム対応をしていたとき、怒られながらしばしば「この人はわたしだけに怒っているわけではない」と感じていた。無意識裡に、べつの時間からも怒りを密輸している。いくつもの過去の記憶が怒っている。ほとんど八つ当たりなのだ。 激しい感情にはすべて、八つ当たりの面がある。複合的だから激しくなる。自分をかえりみても、そう思う。四方八方からどんどん汲み上がってしまい、対応関係がわからない。その感情の大元は、なんなのか。心の根幹を正視することは誰にもむずかしい。我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。記憶の姿は杳として知れない。 ブログなんか書いてる奴は、幽霊と戦い過ぎている。日記はさながらスパーリングの記録か。ほどほどにしたほうがよいのかもしれない。幽霊ばっかり見てないで、ちゃんと怒られないといけない。目の前の人と、話さないと。

日記916

7月26日(火) 土砂降りの雨に濡れながら整形外科へ。謎の疼痛は軽減してきた。通院はひとまず終わりにしたいと先生に話す。2ヶ月ぶんの痛み止めをもらって、「またなんかあったら来てください」とのこと。 待合室で、細身のおばあさんに話しかけられる。骨粗鬆症だという。それよりおでこに大きなアザができていて、痛々しかった。お先に会計を済ませ、「お大事に」と領収書・処方箋を受けとる。帰り際、おばあさんに「お大事になさってください」と手を振った。病院におけるお別れのことば。雨はほとんど降り止んでいた。 数ヶ月前に降って湧いた体の痛みは、ストレスによる心身症だったのかもしれない。全身くまなく検査したわけではないからわからないけれど、いまのところの結論。自分の内には苛烈な攻撃性がある。それを万力で抑え込みつつ、なんとかやっている。 歩きながら、格闘技でも始めてみようかと思案する。ちゃんと殴られたい。よくわからん疼痛ではなく、どうせ痛いならリアルな痛みがほしい。とにかく、エネルギーをうまく発散できていない気がしている。もう何年も。自分の暴力性をいかに飼いならすかは、生涯の課題なのだろう。 幾日か前、「ひとり部屋で爆弾を作るのではなく詩を書いてほしい」と詩人の 奥間埜乃 さんがtwitterでつぶやいておられた。思えば自分は、そんな方向の試行錯誤を下手なりにずっとやっている。ブログもそのひとつ。きょう、秋葉原で通り魔事件を起こした加藤智大さんの死刑が執行されたそうだ。批評社から出た彼の手記を新刊でひとつ買った記憶がある(読んだ記憶はない)。部屋のどこかに埋まっている。 2008年の6月当時は、文化系トークラジオlifeを聞いていた。通り魔事件にふれて、どんな内容だったか。思い出せるのは、柳瀬博一さんが途中で怒りはじめたことだけ。やはり強い感情は記憶に残りやすい。 いまでもアーカイブが残っている ので、もういちど聞くとあの頃の記憶が立体化するかもしれない。 病院から帰宅して、適当にフォローしまくったPodcastを耳にカレーをつくる。AV女優で文筆家の戸田真琴さんが「コンプレックスは愛を待つ場所」と話していた。カレーを食べて、気分転換に英語の勉強をする。語学はとてもいい気分転換になる。それから、海外に住む日本人のPodcast番組をいくつか聞く。旅行代理店でパンフレットを立ち読みするような

日記915

  このおまもり、拾って帰りたかったな。 きのう、千葉雅也さんのツイートを引いて「感覚が重要」と書いた。偶然だろうけれど、きょう千葉さんがnoteで「感覚」についての記事を上げておられ、「あ」と思う。「この季節はセミが鳴いているのが本当にすばらしい」と始まる( 感覚と理性|千葉雅也|note )。有料記事。 溌剌とした書き出し。わたしの感覚だと、蝉の鳴き声が「本当にすばらしい」とは書けない。余裕がないと、うるさく聞こえる。急き立てられているような気分にもなる。圧倒されてしまう。もちろん、「すばらしいな!夏だな!」と感じるときもある。元気なとき。蝉の鳴き声をすばらしく聞くためには、まず元気が必要だと思う。 夜の虫とはチューニングが合う。鈴虫は本当にすばらしい。元気がなくても聞ける。だから、夜の散歩が好きだ。元気がなくても歩ける。「元気」なる概念は理想郷のようなものではなかろうか。そこに行けばどんな夢もかなうという、遥かな世界。どこかにあるユートピア。どうしたら行けるのだろう、教えてほしい。健康ランドにでも行っとけばいいのか。そうだ、「健康ランド」というネーミングはまさに理想郷そのもの。「元気」や「健康」は誰もがほしがる理想状態の謂なのだろう。 「この季節はセミが鳴いているのが本当にすばらしい」という一行は、健康的な理想を体現している。感動的だ。失礼ながら「ええ子やな~」と、すなおな子どもを前にしたような気持ちで読んでいた。どこから目線だ。失礼。しかし記事の全体にふれると、そんなに的はずれではないこともわかった。過去の記憶と紐づいている。 感覚は理性より先行する、ことばの先触れだと思う。さっき、ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』(講談社選書メチエ)に収録されている、古田徹也さんの解説を読んでいた。アドが見抜いたという、ゲーテと後期ウィトゲンシュタインが共有している感情は、たぶん千葉さんの「感覚」とも通じる。   それは、ありふれた日常に起こる現実の出来事を原現象として受けとめ、そのものに驚く、という感情である。「われわれは、ここで間違いなくウィトゲンシュタインの最も深い関心事に触れている。彼にとっては、現実を前にしての驚異が常に根本的な感情だったのだから」(九九頁)。原現象に驚異し、「その背後にあるもの」などを探し求めず、原現象それ自体を学説として受け

日記914

7月24日(日) セブンイレブンでセルフレジの指導を受けた。セルフだと気がつかず、ぼーっと突っ立ってしまう。店員さんがやってくれていたときは、ぼーっとできた。油断ならない。哲学者の千葉雅也さんがtwitterに書いていた、「資本による労働の無償アウトソース」ということばが脳裏をよぎる。店員さんといっしょに労働を済ませ、セブンをあとにした。 ちょっと前、千葉さんのツイートがきっかけでサイゼリヤの話が騒がしかったけれど、わたしもくら寿司に行った感想として似たような角度から書いていた( 日記752 )。 「家畜の管理システム」などと……。くら寿司たのしいよ。こどもは大喜びだよ。「まるで養鶏場のニワトリ気分」だなんて、ひどい。しかし、このブログは炎上しない。なぜなら、読む人がめちゃんこ少ないから。1日のアクセス数はだいたい「5」くらいで安定している。ほとんどいつも反響なし。「世界がお前に無関心なことは、むしろお前にとってラッキーなことだとは思わないか?」という護法少女ソワカちゃんの歌詞を噛みしめる。うん。 ちなみに、話題になった千葉さんのツイートは以下。   サイゼリヤに来たら、番号を記入した紙を渡す形式になっていた。ライス大盛りに一つの記号列が割り当てられている。ひどいと思った。世界は本当に寂しいところになった。これでいいと本気で思っているんですか、本当のところはどうなんですか、と叫びたくなった。 — 千葉雅也『現代思想入門』発売 (@masayachiba) July 5, 2022   読み方はいろいろある。わたしは第一に、「寂しい」というワードが重要だと思う。寂しい。論理ではなく、感覚を書いている。生きてきた年月の上に打ち立てられた感覚なのだろう、と想像する。論難するにしても、まず感覚の共有がなければ伝わらない。ロジック以前の感覚が重要。わたしはそう考える。 そして「感覚の共有」は、かんたんにできるものではない。時間がかかる。長い年月を経ても、何ひとつ共有できないことだってめずらしくない。ことばは、そうやすやすと伝わらない。それはそれでいい。皆がバラバラに感動し、なにも伝えられぬまま死ぬ。そういうものだ。 そういえば、ことしはヴォネガット生誕100年だという。書店でフェアをやっていた。日本共産党も創立100年らしい。1922年生まれ。森鴎外は没後100年。山本

日記913

7月21日(木) 午前1時帰宅。帰りが遅くなると書けない。もうひとつ、余計なことを考えはじめると書けなくなる。余計なことは書きたくない。人生なんかにかかずり合うな。宝物の恋をしま鮮花。とっとこ走るよハム太郎。生足ヘソ出しマーメイド。負けちゃって構わないから真夏は不祥事もキミ次第でダイスケ的にもオールオッケー。そんなわけあるか。余計なことはもうやめよう。大好きなのはヒマワリのタネ。まわるとうれしいハム太郎。やっぱりねむるよハム太郎。だけどやっぱりママがすき。はかせるおむつムーニーマン。このワンバースはガキのパンパース買う金。   7月22日(金) 電車内でソリティアやってるギャルがいた。以上。

日記912

7月20日(水) Amazonで芝刈り機をえんえん検索しているおっさんがいた。満員電車内。30分くらいやっていたと思う。べつのおっさんは、「バック・トゥ・ザ・フューチャーでビフ・タネンを演じた俳優の現在」みたいな記事を熟読していた。さらにべつのおっさんは、異世界転生ものの漫画をものすごいスピードで物色していた。背後ではお姉さんたちが「シックスパックのかたちをした脂肪」について会話中。わたしは幸田文の『動物のぞき』(新潮文庫)を読んでいた。このように、電車内ではふだん隣り合うことのないであろう世界観が高密度でぎゅうぎゅうに隣り合っている。たのしい。 おなじものを見てみんなで盛り上がる感じが苦手。満員電車でべつべつのものを見て、いっしょに揺られていたほうが心地よい……。さいきん芽生えた感覚というか、たどり着いた境地というか。もちろん「ふだん隣り合うことのないであろう世界観」であるがゆえに、危うい緊張感もある。きょうも無事に帰宅できてよかったと思う。 では、世界観が似た人間とふだん隣り合っているのかというと、そんなこともない。そんな奴、ひとりもいない。満員電車のような「ランダムされた関係」がふつうなのだろう。「おなじものを見てみんなで盛り上がる感じ」はきわめて特殊。だから盛り上がる。ちぐはぐなふつうと、同質な特殊。なんかおもしろい対比。 直感的になんかおもしろいけれど、次の展開は思いつかない。直感を胸に寝る。

日記911

7月19日(火) 頭痛。なんかぼーっとしていた。1日の記憶がほとんどない。夕食後、写真のことを考えながら散歩。なんにも考えずに何年も撮りつづけている。すこしくらいなにか言えたほうがよいのではないか。とはいえ、写真はよくわからない。半年くらい前に聴取したなんかの動画内で、批評家の佐々木敦さんも「写真は何がよくて何がよくないのかわからない」というお話をされていた。勝手に心強く感じた記憶がある。ただ、わたしの「わからない」には単なる無知もふくまれるが、佐々木さんの「わからない」はそうではないのだろう。 「わからない」に行き当たって精神科医の中井久夫の話を思い出した。『こころの臨床を語る』(日本評論社)という本から引く。 中井  冗談半分でいわれることですが、若いころは病気の診断はつくけれども、人間がまだみえていない。だんだん熟してくると、精神科の場合は患者がみえてくるけれども、今度は病気がみえなくなってくる。最後はオチみたいなものでして、年をとってくると、病気も人間もなんだかわからなくなるけれども、しかし、なんとなく治る(笑)。病気というものも人間というものもそうそうわかるものではない、ということがわかるのですね。  とにかく、精神科的な見方というものは、精神だけでも一つの全体だし、そのうえその人の生活まで含めて、あるいはからだまで全体的にみるということから、何重にも全体的にみなければならないのかもしれないですね。 冗談半分で無理やりつなげると、写真の習熟にも似たような面があるんではないか。はじめのころは病に浮かされるようにして撮れる。だんだん熟してくると技術が身についてカメラをコントロールできるようになる。コントロールとは、余計なものを削ぐ術である。つまり、病気がみえなくなってくる。さらに先へいくと、病気も人間もカメラもなんだかわからなくなるけれども、しかし、なんとなく撮れる。そんな感じではないかしら……。 写真は全体的な、渺茫たる営みだと思う。個々の生活とフィジカルに深く関係する。中井久夫の語る「精神科的な見方」と冗談半分でつなげたけれど、「何重にも全体的にみなければならないのかもしれないですね」ということばには、写真もそうかもと素朴に思う。 というか、分野に関わらず全体への目配せは必要だろう。わからなくとも感覚的に。以前、ニー仏さんが「全体の構造が見えないまま細部の

日記910

7月18日(月) 食べる気力がなく、空腹で過ごした。どうも食べることがむかしから負担だ。でも食べないと死ぬ。この間でいつも葛藤している。似たような板挟みはほかにもある。人間の群れを忌避する傾向があるけれど、群れなしには生きられない。地球環境が苦手だけれど、地球なしでも生きられない。地球に依存せざるをえない。あなたのいない世界には、わたしもいない。地球依存症かもしれない。 巷で「自然」と呼ばれる性向に反する。あまりに人間的すぎるのだろう。人間に向いてないのかなーと思っていた時期もあった。ちがうんだ。逆だと思う。人間味がありすぎていけない。空腹にもかかわらず、「食べるのめんどくさい」などと思うめんどくさい動物は人間くらいではないか。 しかし、食べていないとさすがにふらふらする。飲みものだけでは暑さをしのげない。明日はちゃんと食べよう。と思って、スーパーでほうれん草と千切りのキャベツを買った。そのあと、薬局でエビオス錠も買う。家の冷蔵庫にネギと豚のカシラがあった。これで炒めものをつくろう。カシラは固いから、煮物にしようかな。寝る前に、ご飯を仕掛けておく。 料理はたのしい。しかしこれが食べるたのしみとリンクしない。食事は苦痛だ。賽の河原で石を積むような感覚に陥る。気を紛らわすために、自宅では部屋中をうろつきながら食べる。年々、落ち着きがなくなっている。  料理をする自分と食事をする自分が離ればなれなのだろう。食べる役の人格が不在なのだ。演じればよいのかもしれない。どういうわけか、つくる役は自然とできる。芸能人の食レポなどを真似して、食べる役を育てよう。それで案外かんたんに解決しそう。 総じて、自分に足りないものは演技なのだと思う。ロールプレイ。名前や肩書がいつまでたっても苦手だ。生まれてこの方、呼ばれ慣れない。しかし、そうも言っていられない。呼ばれたらその都度、ちゃんと演じなくては。あまり気張ってもどうかなーと思うが、食べる役ぐらいしっかりせいよ。死ぬから。   

日記909

  7月17日(日) ディスクユニオンで相倉久人『機械じかけの玉手箱 ロック時代への乱反射』(音楽之友社、1975)を買う。レジの若い女性がとてもゆっくりした人で、ありがたみを感じた。ゆっくりされるとありがたみが出る。商品を袋に入れて、袋の口をテープで止めて、渡してもらうまでのなんともいえない時間。会話が途切れたときの沈黙を、フランス語で Un ange passe(天使が通る) というらしい。それを思い出す。しばし天使が見えた。 300円だったけれど、たいせつなものを受け取った気分になる。焦ってはいけない。焦りはありがたみを削ぐ。ブログも毎日更新しないほうがよいのかもしれない。いや、ありがたみもクソもないか。きょうで6日目。 きっと、待ち合う関係がありがたみをつくる。待っててね。待ってるよ。これが成約すると、ありがたい情念の発露が起きる。おまちどおさま。ありがとう。 待てなかったり、待たせてもらえなかったりすると、ありがたみが削がれてしまう。ありがたみに取り憑かれると、忠犬ハチ公や岸壁の母みたく永遠になにかを待つハメになる。逆に、ありがたみゼロはなんだろう。なにも待たない。待たれもしない。よくわからん出来事。青天の霹靂。 「待つ」が消滅した人の世界では、なにもかもが無意味で突発的に巻き起こるのかもしれない。せわしなく。待つことしかできない人の世界では、なにもかもが有意味でありがたく、それはそれでめんどくさい。凡そ人は待ったり待たなかったりして、適当にやる。

日記908

いい眺め。 7月16日(土) 施設の祖母と面会。「寂しさ」と「孤独」はちがう、という話を聞く。「寂しさ」は誰かを思うときに生じる。「孤独」は、なんにも思わない境地。祖母はそう定義していた。いつも、おなじ話を何回もする。「寂しさ」と「孤独」の話は、あたらしいレパートリーだった。その場で思いついたのか、ずっと温めていたことかはわからない。 祖母の話は、音楽だと思う。リズムキープがうまい。DJみたいな気分で相槌を打っている。ペースを乱さないように。ふたりで踊れるように。面会時間は30分とかぎられている。序盤は悲しげに始まって、すこしずつ朗らかになり、終盤またしっとりしてくる。話す内容はおなじでも、感情は変化に富む。 耳が遠くて、話しかけても即時的には届かない。しかし、数分ズレて届くことがある。わたしのことばを、自分のことばとして思い出したように話してくれる。聞こえているのだ。すぐに反応できないだけで、聞こえている。「耳の遠さ」には、ざっくり2種類ある。単純なボリューム調節の変調(伝音難聴)と、認知的な意味理解の変調(感音難聴)。 うちの祖母の場合、伝音はそこそこいける。でも、即時的な感音がうまくいかない。ただし、時間をかければわかってくれる。遅れがあるものの、聞こえていないわけではない。まさに遠い。すこしだけ遠くにいる。 「耳が遠い」ということばの含蓄におどろく。「聞こえない」、ではない。遠い。だから、じわじわ伝わる。ことばの伝わる速度としては、ふつうなのではないかと思う。ことばは、すぐに伝わるものではない。なんか言われても、「いや、そうかなー。どうだろう、うーんそうかもしれない、わかんないけど、あーやっぱそうかもな、そうだな、それな!」みたいな迂回路を経て、はじめて受容できるような。わたしがひねくれているだけか……。 自分の言葉を逐次通訳されたことのない人は、話のリズムが乱されてやりづらいイメージを持ってることが多いけど、一度経験すると、自分の言葉が2倍の時間をかけて丁寧に語り直されることに喜びを感じる人が多い。言葉って本来こういう速度で伝わっていくのでいいんだよな、と思ってもらえるのかも。 — 田村かのこ Kanoko Tamura (@art_translator) June 24, 2022 書きながら、このツイートを思い出した。文脈はまったく異なる。しかし祖

日記907

  梅雨が明けて猛暑がきたと思いきや雨の日がつづく。気温も落ち着く。天気がいったりきたり。ためらいがちなきみ。夜中に散歩すると空気がひんやりしている。すでに秋かと思うほど。しかしまだ7月だった。早とちりはいけない。夏を待とう。期待してる。 瞑想と筋トレを再開した。体調が戻ってきたため。とはいえ万全ではない。さいきんYouTubeで格闘技の試合を無限に見てしまう。あらゆるジャンルの対戦が世界中から無限にアップロードされている。ぜんぶ見てたら人生が終わる。そう、ぜんぶ見てたら人生が終わる。これは肝に銘じておく。100人くらいで何回も復唱したい。せーのっ、ぜんぶ見てたら人生が終わる! 終わっちまえばいい。かまわん。という投げやりな気持ちがないわけでもない。と思いつつ、格闘家の体を見ていたらなんとなく瞑想と筋トレがしたくなった。しなきゃいけない焦燥に駆られた。神経がやられて以来、自分の体を忘れよう忘れようとしていた。痛みをないことにしようと。それではいけない。付き合うこと。世の中、すべては付き合いなのだ。本音を申せば、付き合いで仕方なく生きている。それ以外ない。付き合い主義者。   「忘れよう忘れよう」で思い出したこの曲。   真夜中過ぎに目が覚め朝まで どうしようもない気持ち持て余すよ それもまた付き合いです。どうしようもない気持ち? いいじゃん、付き合っちゃえよ。付き合い主義者として、こんなノリであらゆることに対処していきたい。「我々は自分と折り合える限度においてしか、他人と折り合えない」というヴァレリーのことばを胸に。まずはてめえとどこまで付き合える(=折り合える)か。ブログの毎日更新を再開したのも、つまるところ自分との付き合いの再開なのだろう。 そういえば、きょう友人にメールしていた。「オッケー、付き合うよ!」って。そのせいか。「付き合い主義者」などと思いなし始めたのは。

日記906

7月14日(木) 疲れている。めっちゃ疲れている。はやく寝よう。仕事の帰りに図書館で文學界の8月号を読んだ。特集「入門書の愉しみ」。ぱらぱらめくりながら、上田岳弘の頁に目が止まった。「首吊り芸人は首を吊らない。」という文字列。何年もひそかに熟読しているブログのタイトルだった。たぶん、2009年ごろから読んでいる。 2013年か。文藝賞でデビューした小説家、桜井晴也のブログ。上田さんは、このブログから「文学養分を補っていた」そうな。「このブログは書く人になろうとする精神の記録でもある」という。その通りだと思う。「作家になる」と掲げて書きつづけ、ほんとうにデビューした。その過程をわたしはひとりの読者として、ぼんやり眺めていた。 いつか乗代雄介のブログみたいに書籍化してほしい。いつか書籍化してほしいブログはたくさんある。有名無名の別なく。好きな書き手の文章は、こっそりプリントアウトして束ねている。セルフ書籍化。そんな、ちょっと気持ち悪い趣味がある。 「なんかワシ、文学やら芸術やら呼ばれるものに惹かれる傾向がある」と気づいたきっかけのひとつは、桜井さんのブログだったかもしれない。あるいは、その周辺のリンク。井上瑞貴という詩人のブログ、「坂のある非風景」も好きだった。二十歳ぐらいのころ、むさぼり読んでいたブログのひとつ。いっとき読めなくなっていたけれど、いまは復活している。 文学が好きだから、そこにたどり着いたわけではない。「なんかおもしろい」と感じる対象がどういうわけかそのへんに多かった。いつもカテゴリーは、あとから知る。適当に関心を追いかけていたら、どいつもこいつも詩人だった。みたいな経験が多い。文学を追いかけているわけではないのに、文学と遭遇してしまう。 「なんか調べごとをしていると、だいたいハイデガーとアーレントに行き着いてしまう」と哲学者の國分功一郎さんは話しておられた。それぞれに「なんだか知らんが、結局ここに行き着いてしまう」という人物なりジャンルなりがあるんではないか。きっと、誰にでも。行こうと思って行く場所ではなく、流されて終に漂着してしまうようなカテゴリー。わたしのそれは、文学なのだろう。ほかにもいくつかあると思う。いまは浮かばない。疲れている。

日記905

    「クイズ!どこで恥ずかしくなったでしょうか?」を見た。「 人間はどこで恥ずかしくなるのか? それは他人にはわかるのか? 恥の概念にせまるクイズです 」と概要欄にある。深く考えても浅く楽しんでもおもしろい。すばらしいクイズ。人間はどこで恥ずかしくなるんだろう。 「見てる人が見えなくなるとすごい恥ずかしい」という古賀さんの発言がもっとも示唆的だと思う。「不安になると恥ずかしくなるのかな」ともおっしゃっている。たしかに。ふたつの発言を掛け合わせて「ひとりになると恥ずかしくなる」と言うことができそう。逆に、ジロジロ見られる恥ずかしさもある。それもまた、仲間外れにされるようなものだろう。 あるいは……怯むと恥ずかしくなる。「恥ずかしさ」は「怯え」と近い。どんなことでも、堂々とやりきれば恥ずかしくない。そのためにはやはり、なんかしらの支えが必要なのではないか。その「なんかしら」が、古賀さんの言う「見てる人」に当たる。たぶん人間でなくてもいい。それぞれのリアリティを担保してくれる何か。守護霊でも神さまでも「見てくれている」と信じていれば、堂々と歌って踊りきれる。にちがいない。 「証城寺の狸囃子は正解のある踊りだから恥ずかしくないのでは?」という、これも示唆的な感じがする。「正解のある踊り」とは、いわば「みんな知ってるアレ」である。「みんな知ってるアレ」なら怯む心配も、ひとりになる心配もない。みんながあなたのリアリティを担保してくれる。 「恥ずかしさ」の淵源はたぶん、リアリティの破れ目にある。歌詞が出てこなかったり、見てる人が見えなくなったり。ふと「虚」に気づいてしまう瞬間、みたいなとき。「あ、虚しい」と。「恥ずかしさ」と「虚しさ」は、ほとんど同義語ではなかろうか。とても近い。あるフィクションのリアリティが破れかけたとき、恥ずかしくなる。そのほつれを放置すればやがて、虚しくなる。 恥ずかしさは瞬間的で、虚しさは持続的? なんかそんな気がする。太宰治が書いた「恥の多い生涯」とは、ようするに「あるフィクションのリアリティが崩壊しまくる(嘘がバレまくる)生涯」と言える。「恥ずかしさ」は虚実の裂け目と関係している。そしてこれは、 日記904 で引いた借金玉氏の「カルトに引っかかりにくい人」のツイートともつながる。  ラーメン屋が「ヘイ!スープ入りました!」って叫ばせてるの、あれ普

日記904

しどろもどろのからだを楽しむ。冗長なことはいいことだ。幾度目かの毎日更新を再開したい。またふたたびの再開。何回でもはじめられる。たぶん8月まではつづける。なんでもいいから書く。鋭く張り詰めた線は切れやすい。たるんだ冗長な線はとらえがたい。切れても切れても迂回路を介してなんとかなる、ゆるみを導入したい。どうあってもよかった。そんな日々を送りたい。せめてことばの上では。「こうあるしかない」という緊張をたるませ、冗長性を汲み上げる。可能性を回復させる。読み書きはたぶん、そのためにある。 5月某日、生稲晃子は待ち合わせ場所だった。「いま生稲晃子の前にいます」と友人に送ったgmailのログが残っている。池袋駅東口で演説(のようなこと)をする生稲晃子の前で、わたしは突っ立っていた。メールを送信してほどなく、生稲氏はいなくなった。まずいと思った。すぐに「生稲晃子は去りました。東口横断歩道の付近にいます」と送信。人間を待ち合わせ場所にしてはいけない。なぜなら、移動するから。生稲晃子は待ってくれない。 7月10日、同氏は参議院議員に初当選した。一介の待ち合わせ場所から、国会議員にまで成り上がってえらいことだ。どおりで待ってくれないはずである。わたしはといえば、駅前でぼーっとしていた5月の頃となにひとつ変わらない。下手をすると二十年以上前から変わらない。待ち合わせ場所として使える、めずらしいタイプの人間かもしれない。それはそれで強み。ということにしたい。 ずっとおなじ場所にいる。たまに立ち止まる人がいて、時がきたら去っていく。そんな感覚がある。通り過ぎる人々を道の端っこで他人行儀に眺めている。時を止めた部分がある。淀みにはまって抜けられない。 心象の比喩ではなく、具体的にそう感じるときもある。たとえば飲み会に行っても、誰とも話さず隅でじっとしているとき。見るからに淀みだ。ライブハウスの隅でひとりうずくまっているとき。ZOOM会議でひとことも発さないとき。あるいは学生時代にさかのぼって、教室で、校庭で、としても同様だった。 そういえば精神科医の斎藤環氏がきょうこんなツイートをしていた。 今から極論を言います。ひきこもりこそは究極の「正気」。だから社会参加という「狂気」を遠ざけようとする。 — 斎藤環・内田良『いじめ加害者にどう対応するか」 (岩波ブックレット) (@pentaxxx) J