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12月, 2019の投稿を表示しています

日記715

出会いより別れのほうが多かった。一年のあいだ。歳を重ねたせいだろう。感傷はない。繰り返す日がありがたければ、移ろう日もまたありがたい。感謝というより、「ありえない」に近い意味でありがたい。まずはおどろいてしまう。いつもいつも。 冬は西日の色がいい。角度もいい。しかし西日の側からすれば射しているだけ。「いい」だの「悪い」だの、どうだっていい。ただまわっている。それがうれしい。いくらほめても、けなしても微動だにしない。文字通り、空を切る。通じない。ぜんぜん通じない。そんな世界に自分がいる。なんら通じなくとも。「通じなさ」を基礎とした世界に。 記憶とは「包む」ものだと思う。ことばがその包みとして機能する。そんなことを思った。包まずにいれば、こぼれてゆく。ことしは、あまり日記を更新しなかった。時間をかけてしまう。書いては消し、書いては消し。こぼれた。 その代わり、ではないけれど写真を撮っていた。これも包みになる。そういえばこの前、近所の神社で「写真お願いできますか?」と声をかけられた。うしろから。振り返るとスーツ姿の男性がいた。そばにちいさな男の子ふたりと、その母親らしき女性も。着飾っている。七五三詣でのようだった。 若いご夫婦。二つ返事でカメラを預かる。ちょこんとした袴姿の男の子ふたりは、緊張して顔がこわい。双子だという。笑顔が見たくて、「にこにこー」と言いながらおどけてみせた。大きく手を振ると、ためらいがちに振り返してくれた。その隙に撮った。 5枚ほど撮らせてもらう。ちゃんと撮れたか心配になる。いい写真が撮れていますように。「ありがとうございます」とお礼を言われて、くすぐったかった。「こちらこそ」と謎の返事をして立ち去る。ほんとうに、こちらがお礼を言いたい気持ちになった。へんにうれしくて。 写真の依頼はことし三組。うち二組は外国人。みな幸福そうに笑った。レンズ越しの画を鮮明に記憶している。貴重な経験だと思う。すれ違いざま、知らない誰かの目になること。わたしたちの時間を切り取ってほしいと、依頼される。 こんな役があんがい自分にぴったりなのではないか。名もなき通行人Aとして、一瞬だけ目を預かる。思いのほか大役かもしれない。七五三の写真なんか、のちのち長く残りそうなもの。旅行の思い出だって、場合によってはそう。でもわからない。

日記714

12月15日(日) 夜に渋谷の書店、BOOK LAB TOKYOへ。トークイベント。登壇者は臨床心理士の東畑開人さんと、人類学者の磯野真穂さん。「〈病むとは何か〉を考える」という表題。twitterで告知に触れて、立ち見席のチケットを買った。売り切れる前のすべりこみ。 立ち見は望むところだった。なんせ家でも多くの時間を立って過ごす。日頃から無駄なストイシズムを発揮している。おかげでいくらでも立ちつづけられる自信があった。何時間でも立つ気でいた。しかし椅子に空きが出たようで、うながされるまま途中から座らせていただくことに。「立つ気」は鞘に収め、おとなしく座る。 お話を拝聴しながら、山田風太郎のことばを思い出していた。「最愛の人が死んだ日にも、人間は晩飯を食う」。警句めいた一文。ここには異なるふたつの時間感覚が凝縮されている。二度と戻らない一回的な人生の時間と、繰り返す円環的な生活の時間。死は一回。晩飯は毎晩。一回性と円環性の鋭い対比に唸ってしまう。 東畑さんの著書『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』(医学書院)の文脈につなげると、傷と向かい合う「セラピー」は一回性の時間にもとづく概念であり、傷を覆う「ケア」は円環性の時間にもとづく概念だと思う。生の時間には、この両者がつねに絡む。もうない時間と、まだある時間。 磯野さんは、がんを患う哲学者の宮野真生子さんとの往復書簡を通じて一回的な出来事に直面している。ことしの七月に宮野さんは亡くなった。その約二ヶ月後、死の直前まで交わされた書簡は『急に具合が悪くなる』(晶文社)という一冊の本となる。 この本は読みすすめるに従って「覆い」が剥がれていく。もう時間がない。切迫した剥き身のことばがあらわになる。そのさまを対談の中で東畑さんは「実存主義的」と指摘していた。そしてその「実存」がわからない、とも。「実存」はここでの自分の解釈に当てはめると一回性の時間に根ざすものだろう。 東畑さんはつねに多元的な考え方を志向しているようだった。ひとつではなく。「臨床家はケースバイケースの思想をもつ」と。関係あるかわからないが、一人称も「僕」を中心として「私」「俺」と話しながらズレる瞬間があった。おそらく無意識に。ゆれる。一貫しない一人称は「ケースバイケース」の感覚とも

日記713

送信したメールの文章を読みなおす。ささいな誤字脱字が見つかる。すぐに訂正したくなる。忘れものを取りに戻るように。なくした平仮名のひと文字。漢字のひと文字。意味は汲めると思う。見つけてくれる。あわてない。画面を眺める。ほんの数秒。 スマホを置く。指から文字がこぼれていくみたいだ。忘れものより、染みにちかいかも。数滴こぼれた。ある程度はコントロールしているつもりでも、ぜんぜんできていない。あるいは書き出しから、すでにこぼれているのかもしれない。必然性は何もない。偶然の所産をめぐらせている。 誤字脱字には、しぐさの情報が宿る。文字を打つそのしぐさ。システマチックな文字列の中に、エラーを起こす身体がふと垣間見える。文字の背景から身体がせり出す。送るはずではなかった指の運動が送られる。だから、すこし恥ずかしい。 隠すべきものが顕在化する。作為のほつれ。パンツの穴みたいな。しかし、ことばにはもともと動作がつきまとう。どんなものであれすべてそう。整然と並べられた文字の裏で、生身の人間たちが身を隠すようにカリカリとやっている。字をまとうしぐさ。読むべくは、そんな一連の動作かもしれない。そこが色気の在処。 忘れもの、染み、パンツの穴。 でもじつはただの打ち間違いの話。 これは秘密。  喋る、朝から晩まで人間は喋る、なかには夜中に寝言を言うものまであろう。とにかく喋る。その大半が無意味な言葉の浪費であろうと、ぼくはとがめない。ぼくらは言葉の中で生まれたのだ。言葉に溺れないためには、模倣するのだ、美しい笑顔を、力強いリズムを、正確な発音を、ユーモアのセンスを、ぼくらの生まれた土地を忘れないために、土地の言葉、その習慣を、そのゆかしい挨拶を、ぼくらのあとからやってくる人間が模倣しやすいように、しっかりと模倣するのだ、画家が大芸術家の線と色彩を模倣するように、職人が親方のくせを真似るように、芸人が先代の師匠の噺を復元するように……人間が、真の意味の人間になるためには、喋って、喋って、喋りまくるのだ。もし戦争中のように、もし独裁国家のように、ぼくらのお喋りが盗聴されたり、統制されたりしたら、ぼくらは画一的なロボットになるだけだ、微笑みをうかべながら怒声がはりあげられるようなお化けになるだけだ、ぼくらは社会そのものを失うのだ。そして、ゆたかな、言葉の母体