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6月, 2020の投稿を表示しています

日記730

蚊に刺された患部をどうしているか。わたしは極力なにもしない。かゆみがおさまるまで待つ。最初はムズムズするが、そのうち忘れてなんともなくなる。気にとめない。出来事の多くについて、こんな態度でいるのかもしれないと、ふと思う。たとえば「好き」という感情。これって、かゆみにとてもちかいのではないか。 触れたくて仕方がないところ。適度に触れると、気持ちがいい。しかし強くやりすぎると痛みに変わる。弱く触れてもさらにかゆくなっていけない。この感じ。「あなたが好き」を価値中立的に言い換えると「あなたがかゆい」みたいな、そういう、なんかそういう、そういうなんかである気がする。どちらも「触れたい」という疼きが共通。 好き=かゆみ説。「好きな人」とは、つまり「かゆい人」だ。わたしの場合、「かゆい人」があらわれても極力なにもしない。かゆみがおさまるまで待つ。最初はムズムズするが、そのうち忘れてなんともなくなる。気にとめない。味もそっけもない人生ですね。忘れたころにそれとなく撫でて、寂しさ混じりの安堵感に浸ることもある。気がつけばもう、かゆくなくなっていた。 かゆみがおさまりつつあるとき、うっかり触れてしまって、またぶりかえす。そんなパターンもある。ぬおー、やっぱかゆい。掻けば掻くほどかゆみは持続する。ああ、まったくのかゆみだ。自分のなかで、これは定説化しそう。「嫌い」もまた、かゆみにちがいない。好きだの嫌いだのって、きっと、やわらかい肌のひりひりとした息づかい。 要するにスキンケアはだいじねって話です。世界はこの狭い狭い表皮のうえで生起している。傷にしてしまったかゆみもたくさんある。「なんかかいーな」って、はじめはそれだけだったのに。掻きむしってしまう。それが味とそっけになる、の? 蚊に刺されただけ。こんな原因の、なんてことなさを維持したい。「掻く」という行為は、なんてことのないものを一大事にしてしまう。抑えよう抑えようとして、拡大していく。かゆみと自分の二者関係に固執する行為だと思う。熱烈な二者関係は往々にして盲目的になる。わたしは蚊を忘れたくない。つまり、他なるものを。かゆみはそこそこにして。あなたとわたしを出会わせた自然的な力学に興味がある。蚊と人間の出会い。あるいは、あなたとわたしが存在することの習慣にとてもとても興味がある。ほとんど意識

日記729

やりなおしている。そう思う。過去の、いつかの、やりなおしを生きている。輪廻とか、そんな話ではなく。もっと短いスパン。きのうだったり、1年前だったり。幼少期だったり、思春期だったり。あのときのアレを。 あくまで現実に生きた日のやりなおし。それが現在の自分に課された日々であるような。来る日も来る日もやりなおす。といっても、同じ日はない。歴史は繰り返すのではなく、歴史に対する人間の判断や行動が繰り返す。と、たしか中井久夫が書いていた。そう、人間はどうしたって繰り返しちゃう。だから、やりなおす意志を絶やさずにおく。 ずいぶん内省的になったと、数年前の日記と現在を比較して思う。ことばが内側へ向かい始めた。やりなおして、やりなおして、ようやく。これは良いこと、たぶん。文章も以前より比較的ととのっている。少しはマシになった。 人は、問いを聞くのだと思う。「話を聞く」とは、問いを聞くこと。 さらにそこから、問われる者としてのみずからを照らすこと。いつも問われている。逆にいえば、問われなければなんら聞こえない。同様に、目にも入らない。問いを聞き、問いを見ている。 ただ問いを深めたい。聞く耳と、見る目を保つために。話す口だってそうかもしれない。書く指も。しかし毎度、ありきたりなことばかり書いたり話したり。きのう生まれたみたいに。なんせやりなおしだった。「あたりまえ」を再発明/再発見して、ひとりおどろいてばかり。まったくね。 高校生のころ、数学の教師に「幼稚園からやりなおせ!」と怒鳴られて意気阻喪したけれど、いまなら「それもいいっすね」なんつって笑える。やり残したことは、どの時間にもかならずある。その時だけではとてもとてもやりきれない。いかなるときも、やりきれていない。悲しくても楽しくても。だから、もう、ずっと、やりなおしている。 2020年5月、祖母との同居生活が終わった。何年も居をともにした人がいなくなるのは寂しい。反面、予想していた通り余裕ができた。家という空間の変質を感じる。空間が変われば、時間の感覚も変化する。祖母の時計と自分の時計、2種類の時をつねに意識せざるを得ない状態になっていた。 この半年は特に。24時間態勢のケア労働で、「老い」の一例を祖母からありありと学んだ。人間の壊れ方、というか。人は全員、壊れる。わたしも壊れる