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11月, 2022の投稿を表示しています

日記952

 十一月三十日  十時、東京へ帰る。籠坂峠の頂上から、富士小山あたりまで濃霧。ほとんど何も見えぬ。   武田百合子『富士日記 中 新板』(中公文庫、p.38)。1966年(昭和41年)11月30日。とくに狙ってはいないだろうけれど、「帰る」「濃霧」「見えぬ」と脚韻を踏んでいる。どうでもいい話。 今日で11月はおわり。今月の日記を列挙してみる。 7日から、だったか。 ・吉岡実『うまやはし日記』(書肆山田) ・著者不詳『創作』(リクロ舎) ・『タルコフスキー日記Ⅱ 殉教録』(キネマ旬報社) ・『タルコフスキー日記 殉教録』(キネマ旬報社) ・二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社) ・武田百合子『富士日記 上』(中公文庫) ・武田百合子『富士日記 下』(中公文庫) ・笠原嘉編『ユキの日記』(みすず書房) ・内田百閒『恋日記』(中公文庫) ・ミルチャ・エリアーデ『ポルトガル日記』(作品社) ・ハンス・カロッサ『ルーマニヤ日記』(新潮文庫) ・池波正太郎『食べ物日記 鬼平誕生のころ』(文藝春秋) ・『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』(講談社) ・川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎) ・内田百閒『百鬼園戦後日記』(ちくま文庫) ・阿久津隆『読書の日記』(NUMABOOKS) ・島尾敏雄『日の移ろい』(中央公論社) ・五木寛之『日記 ―十代から六十代までのメモリー―』(岩波新書) ・山田風太郎『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫) ・武田百合子『あの頃』(中央公論新社) ・神谷美恵子『日記・書簡集』(みすず書房) ・山川彌千枝『薔薇は生きてる』(創英社) ・菊地成孔『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍』(白夜書房) そして今日の『富士日記 中』と。ほとんど自室にある本から引いた。図書館で拾ったものは一冊、池波正太郎だけ。12月の数日で自室の日記本はおおかた尽きる。そっからが本番と言っていい。日記本採集、1年つづいたらすごいと思う。まったく無意味だけれど……。おそろしいほど無意味なことをやり始めた。ひまなの? いや、そんなにひまじゃないの。 今月、書肆山田が廃業するというtweetを見かけて暗澹たる気持ちになった。しかし、誤報だったらしい。めでたしめでたし。あらゆる情報を慎重に吟味すべし!と改めて自分に喝をいれる。 他方で、へんな安心感もある。み

日記951

 1999年11月29日 月曜日 3:00:15 AM  先日自分のバンドのライブがあって、毎日リハしていたわけだが、○○のバカが先日初めてアルティメットファイトを見たと言って興奮していた。というのは前書いた通り。そんで、高井も含めた、全く格闘技に興味がないメンバーとメシを食っていて、ちょうどそのとき「週刊プロレス」を持っていたので、みんなに見せたわけだ。1頁ずつめくって説明してはみんなの反応を見るのはオモロイもの。  みんなが一番楽しそうに笑い、また僕も見せるのが一番気持ちよかったのは前田の襲撃事件でもアルティメット戦でも、グレイシー敗れる。のニュースでもなく、「冬木、電気ウナギと電気ナマズの入った水槽に入って、来るべき電流爆破戦の感電に備える特訓」という写真だ。水槽に横たわり、両手にナマズを持って絶叫する冬木の写真がこれまた素晴らしく(冬木の半笑い加減が最高)、見せていて誇らしい気分にすらなった。これは単なる「大阪仕事」ではない。冬木は、これがプロレスの本道なんだ。というお題目を信じる(反作用として「疑う」も同時に)面と、好きなようになるように流されてみたらこうなった。俺はこれしか出来ない。というローリングストーンの面とのロデオを乗りこなすかなりのサムライであり、濃厚なブルース奏者である。大仁田のような、はぐれ者のロマンティシズムとかナルシシズムがないところがよい。なんというか、アメリカ人ぽい(まあマクマホンのコピーなのだが、コピーだから外人ぽいのではなく、外人ぽいから「これだ」と思ってコピーしたのだろう)。冬木かっこいいぞ。 菊地成孔『サイコロジカル・ボディ・ブルース解凍 僕は生まれてから5年間だけ格闘技を見なかった』(白夜書房、pp.36-37)より。意識と無意識が和合してなにやってるかわからん感じ。しかし曖昧ではなく、確実に「これだ」という感じ。半笑いで疑いながらも、ほんとうにやる感じ。つまり電気ウナギと電気ナマズで電流爆破戦に備える冬木弘道の感じ。 「つくりごと」と「マジもん」の配分が絶妙で真偽不明な感じはプロレスの真骨頂といえる。真偽不明だけどマジでヤバいと噂の何か。それは「伝説」とか「神話」とか呼ばれる「言い伝え」に近いのかもしれない。 プロレスは「真偽不明だけどマジでヤバいと噂の何か」を生成するために頭を使い体を酷使する、とても知的な営みだと思って

日記950

  十一月二十八日 今日は朝っから凄い事を仕出かした。夜ちっとも寝られなかったので、うんと寝ぼうしようと思って、目が覚めてたけど寝ようとしてた。でも眠れなくて、くしゃくしゃしてたら、看護婦さんが、もうお起になったら、今日は安斎先生がいらっしゃるからと云う。そして起きて顔を洗う時に、その事でかんしゃくを起して看護婦さんの前掛をひっぱって破いてしまった。随分凄い力があったもんだと今は思うけど、その時は夢中で、ピリーッと言う音を聞いてはっとしたらもう破けてた。その時は弁償する弁償すると呶鳴ったけど、後で何だかかなしくなって、恥しくなって涙をぼろぼろ出して母さまに話した。そしたら凄いかんしゃくだと言われた。私は軽々しくへんな事を言う、つつしみましょう。     山川彌千枝『薔薇は生きてる』(創英社、p.196)より。1932年(昭和7年)の11月28日。彌千枝さん、15歳。彼女はこの翌年に肺結核で亡くなる。享年16。  美しいばらさわって見る、つやつやとつめたかった。ばらは生きてる。 本の表題にもなっている山川彌千枝の短歌。薔薇のつめたさは触る指のあたたかさを物語る、という穂村弘の解説にうなづく。わたしはこの歌の、「い抜き」が気になる。「生きている」ではなく「生きてる」。「生きている」であれば台無しだろう。 この歌にかぎらず、日記の文章もだいたいが「い抜き」。「寝ようとしてた」「くしゃくしゃしてたら」「破けてた」。とくに言挙げするほどのことではないのかもしれないが、「い」を抜くと幼くなる。少女っぽい。「い」を入れると逆に、それだけでおとなっぽくフォーマルな印象になる。言うまでもないか。 「い抜き」や「ら抜き」は文として性急な印象をもたらす。こどもっぽく、はやるような。思ったことをそのまま書いたような。書く意識よりも、喋る意識が先んじた表現。すぐに伝えたい。「ばらは生きてる」の「い抜き」は、これ以上ない「い抜き」だと思う。軽やかに、速やかに伝わる。屈託がない。「い」を抜かない文体には屈託がある? 多少あるかもわからない。 彌千枝さんのことばはどれも、まっすぐで健やかだ。病に伏せていてもなお。「美しいばらさわって見る」の時点でもう、まっすぐ過ぎてくらくらしてしまう。まぶしい。     11月28日 (月) 公衆トイレで小用を済ませ手を洗っていると、女性が入ってきていきなり「ギャ

日記949

 十一月二十七日(水)   この二、三日、二ヶ月余ぶりで気分のいい日が続く。もうつわりの時も過ぎたのかも知れぬ。ふしぎに気力を生じ、生活や仕事の設計をする気持になる。さしずめ生活の為、ほん訳仕事を始めようと思う。定収入を得るため進駐軍の方へ apply〔応募〕して見ようかと考えている。知っている人々の紹介はたやすく得られるが。この方が却って無責任で独立的で気持がいいのではないかと思う。倹約倹約とただ消極的な生活をするより大いに収入も得て栄養その他をよくし、来たるべき出産にそなえたいと思う。最近ろくな本もよまないが(自然科学方面は別とすれば)トマス・マンの「シータの死」では大いに文学への渇きをいやされた。それから一昨日医局からロンブロゾの Das Weib〔女〕を借りて来てよんでいる。結婚してもやはり問題は Vergeistigung〔精神化〕にあった事を今にしてしみじみ悟る。私たちの人生を単に「生活すること」のみに終わらせぬよう、この生活があくまでもより遠大な Aufgabe〔課題〕の為の培地であるように不断の vision と精進が必要である。真と善と美と。 『神谷美恵子著作集10 日記・書簡集』(みすず書房、pp.83-84)より。 1946年の11月27日。さいごの一行に時代を感じる。「真と善と美と」。 日記947 に引いた山田風太郎も「真善美」ということばを書いていた。1942年の日記だったか。知的な精神性を体現する価値観として、ある世代まで合言葉のように共有されていたのだろう。いまはとんと聞かない。真善美系YouTuberとか、いないかな。ドナルド・トランプは “truth” を掲げ政治活動をしているが、ちょっとちがう。 昨今のネット上では、「真善美」なんて言えば言うほど怪しくなる。というかそもそも、これ見よがしに掲げることばではないのかもしれない。胸中に秘めておく。私的な日記にしたためておく。そのような使い方であれば損なわれない。人前で言うことではない。 「価値観とは、必殺技だ」と考えたことがある。かめはめ波や元気玉は、ひとつの価値観なのだ。邪王炎殺黒龍波でもペガサス流星拳でもなんでもいいが、ようするに「俺の価値観をくらえ!」ってことではないか。同様に「真善美」もまた価値観であり、必殺技である。つまり、闘争を余儀なくされたときにだけ他言できる。 「価値観

日記948

   日々雑記 十一月  ある日。  H(娘)が隣りの茶の間から、あ、おかあさん、たいへんなことが起りました、と襖越しに静かな声で言うのを、朝、ふとんの中で聞いた。襖をあけると、Hが新聞をひろげて、しゃがんだ恰好で見ていた。「ここ。ここ」人さし指で押えたところに、島尾という太い活字と、島尾敏雄さんの困ったような顔に撮れている笑顔の写真があった。  こんな風に、新聞の訃報で眼をさましたのは三度目だ。一度目はマリリン・モンロー、二度目はケネディー。一度目と二度目は、夫が枕元へきて低い小声で起した。どんな日も夫は私より早起きだった。夜中に起き出して朝御飯まで、原稿用紙をひろげた机に向ってじーっと坐っているのだから。  百合子百合子、マリリン・モンローが死んだよ。ケネディーが死んだよ。  ケネディーのときは、嘘ばっかり、とひっかぶってしまったふとんをめくり、本当だよと新聞を見せた。マリリン・モンローのときは夏の盛りで信州の山奥の湯治場に逗留していた。秋になり東京の家へ帰ると、深沢七郎さんがふらりとやってきた。当時、小説『風流夢譚』で右翼にいいがかりをつけられ、住所不定となって暮していた深沢さんは、一ヶ月に一度か二度、気が向くとどこからかやってきた。「こないだ、マリリン・モンローが死にましたねえ。あの人は腕なんか綺麗だったねえ。腕だけ写真でちらっと見てもはっとしたね。モンローだってことすぐわかった。ほかの女とはどこかちがった出来だった。でも綺麗な女は綺麗なうちに死んだ方がいいですねえ。ブリジット・バルドオなんかも婆あになるまで生きてられちゃがっかりだ。モンローが死んだとき、生きてるってことは人の死んだ知らせを聞くことだって思いましたねえ」鰻重とって食べようと夫が言っても、食べたくないと言い、あれもいらない、これも結構、とお茶だけ何杯も啜りながら、そんなことや、そのほかのこともしゃべり続けたあげく、ギターをとり上げ、途中三べんぐらい間違え、その都度丁寧に弾き直したりしながら、按摩さんのように首をかしげて「楢山節考」を歌い(泣虫の夫は聴きながら涙をこぼし)、レコードを二枚くれて、ふらりとどこかへ帰って行った。 武田百合子『あの頃 単行本未収録エッセイ集』(武田花 編、中央公論新社、pp.222-223)より。11月の「ある日」。日付はなかった。ただ、島尾敏雄が亡くなった日は昭和6

日記947

   十一月二十五日  ○地上には白い霧が淡く降りているが、空は燦爛たる蒼い日の光に満ちた美しい朝である。田町駅から会社へ半里の路を、大股に歩きながら、自分は始終微笑を洩らし続けた。  何かこの頃は愉快でならない。天気のよいせいであろうか? それもある。自分が働いて生きているという満足感の為であろうか? それもある。が、歓喜は心の内面から仄かに照り通ってくるような気がする。  「真」とは何であるか? 「善」とは何であるか? 「美」とは何であるか?  これを追い求める心が、漸く微かながら萌え出て来て、それが魂の内側へ次第に廻り込んでゆく最初の出発点に立ったような喜悦の念である。  日記は魂の赤裸々な記録である。が、暗い魂は自分でも見つめたくない。日記を書いて置こうと思い立ったのも、この悦ばしく明るい魂のせいかも知れぬ。しかし、嘘はつくまい。  ○アダムス・ベック『東洋哲学夜話』を読む。 山田風太郎『戦中派虫けら日記 滅失への青春 昭和17年~昭和19年』(ちくま文庫、pp.9-10)より。本の冒頭、昭和17年(1942年)の11月25日。山田風太郎、20歳。最初の日記。「はじまり」はなんであれ、わくわくするものだ。「はじまりはいつも雨」という説もあるが、この日記のはじまりはじつに晴れやか。  「日記は魂の赤裸々な記録である」という。日記とは何か。まいにち他人の日記を読んでいると、つい考えてしまう。ひとつ思ったそれは、部分であり全体であるということ。山口尚『難しい本を読むためには』(ちくまプリマー新書)を読んで得た着想。 「読書とは行ったり来たりの運動だ」と山口氏は書く。とくに部分と全体をグルグル往還するものらしい。『難しい本~』を読みながら、これは読み方であり書き方でもあるなと感じていた。まさにグルグル。いや、すべての読み方指南は書き方指南でもあり、書き方指南は読み方指南でもあるのだと思う。読み書きは行ったり来たりの運動だ。 日記は一日の積み重ねから成る。部分を積み上げて全体を築こうとする目論見であるといえる。一日単位のなかにも部分と全体の関係がある。その日の部分部分を並べ、全体を俯瞰し、ふたたび部分へ――といった運動として読める(書ける)。 「グルグル回りにうまく入り込む」「自分と文章とのあいだに一定の循環関係をつくる」といった山口氏の考え方は、個人的にとてもしっく

日記946

  十一月二十四日 雨  うかうかしてゐる間にはや十二月も近づいた。  来年は、一月一日から日記をつけやう。今年のやうなへまをやるな。  正月はやはりいつになつても懐しいものだ。本日映画があった。馬鹿らしい。  (人間は、次に生れて来る者の為に、一生けんめい働いて死んで行く。それで良いのだ。)  僕は、この言葉に多くのぎもんを持つ。  我々の祖先は我々の為に多くのものを残した。  精神上に於いて又物質上に於いて。  精神上に於けるものが宗教である。  物質上に於けるものが科学である。  その二つにまたがるものが芸術である。それは、精神的な意志を物質的に表現した。  それ等の遺産によつて、我々は多くの幸福を得た。  我々はその幸福を享受するだけではいけない。それに対する恩をかへさなければならぬ、ぎむがある。  それらのものを一さう発展させ、より立ぱなものとして、後の社会に、我々の子孫に、伝へなければならぬ。  人間は何の為に生れて来たか、それは不可解である。  だが我々は、人類の子孫として生れた以上、前の事を行ふギムがある。  又、我々は幸福を求める。物質的な幸福と言ふものは存在しない。真の幸福は、精神の幸福である。  幸福を、我々の為に求めやうとするのは間ちがつてゐる。  幸福は、我々の祖先によつて我々にあたへられてゐる。  我々は、昔の人とくらべていかに幸福であるか。  我々は、我々の子孫の為に、又次の社会の為の、幸福を求めなければならぬ。  現在に満足せよ。我々の先祖に感謝せよ。  次の社会として、我々の子孫の生活としては、現実はあまりに不完全であることを認識せよ。次のよりよき社会を、人生を、子孫にあたへる為に努力せよ。   五木寛之『日記 ―十代から六十代までのメモリー―』(岩波新書、pp.22-23)より。 1947年11月24日。五木寛之、14歳の記述。このようなことを考える14歳の青年は、いまどき存在するのだろうか。「人間は何の為に生れて来たか、それは不可解である」。ここから藤村操を連想する。1903年(明治36年)、萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」として16歳で華厳の滝から身を投げた煩悶青年。14歳の五木寛之は同じく「不可解」としながらも、絶望していない。なんかしらんけど、生まれた以上「ギムがある」と。 おなじ「不可解」に行き着いても、

日記945

 十一月二十三日  払暁四時半の入港。それでも妻は迎えに来ていて、埠頭の照明と船からの明かりの中で、しきりに傘を振っていた。小雨が降っていた。深夜の町歩きは危険だからといつも注意しているのに、妻はやっぱり迎えに出て来てにこにこ笑っている。早朝のタクシーはいよいよその数が減って港では乗ることができないまま、寝静まった町をふたりで久保薬店のあたりまで歩き、道端でしばらく待っていてやっとつかまえることができた。  畑が奇麗に整理されていた。オクラが少なくなり、なすとトマトが目立っている。まえのものを抜きとって土をならしているところもあった。門のそばの小菊の群れ花も色が褪せ、すがれてしまった。  空はくもり、なんとなくうそ寒い感じがして冬の気配がしのび寄っていたから、電気ごたつの机を出して、その上で仕事をすることにした。  旅行のあとは、不在中の受信物や新聞にひと通り目を通す作業が控えているが、不毛な習慣だと思いながらもどことなくたのしい仕事なのだ。   島尾敏雄『日の移ろい』(中央公論社、p.163)より。 昭和46年(1971年)11月23日。この本は、いまはもうない古本屋さんで最後に購入したもの。『続 日の移ろい』とセットで100円だった。ほかにもおもしろそうな本が投げ売り状態で、後日リュックでも背負ってまた来ようと思っていたら店がなくなっていた。事前の知らせはなく、急になくなっていた。「雰囲気で察せよ」ということだったのか……。後日、twitterでその店の廃業に触れながら、「あの宝の山はどうなってしまったのだろう」と書き込んでいる人をみかけて、ちいさく頷いた。    11月23日(水) 朝から晩まで雨。さむい。父方の祖父(故人)の写真を整理する。施設の祖母に見せるため。探したら大量に出てきた。おもしろいので、インスタにすこしずつ載せようと思う。いちおう父の許可を得た。仏壇にも手を合わせた。 あたらしいアカウントから、ぼちぼち。1日3枚かそこらスキャンする。不毛な習慣が増えていく……。確かに不毛ではある、不毛ではあるが、どことなくたのしい仕事なのだ。 https://www.instagram.com/g3no_photo/    

日記944

  (2016年)  11月22日(火)  朝、地震で目を覚ましてから一時間くらい、動物の動画とかを見て過ごした。それから寝て、起きて、ヘミングウェイを一編読んだ。不思議なほどに、読めば穏やかな心地が得られるという効果が持続している。とてもいい。ヘミングウェイは大昔に『老人と海』を読んだことがあるだけで、他を知らないので、これはもしかしたらヘミングウェイを読むタイミングなのかもしれない。  私は午後の日ざしを肩越しに受けながら、そのカフェの片隅に坐って、ノートブックに書いた。ウェイターはミルク入りコーヒーをもってきた。それが冷めると、私はその半分を飲み、書いている間、それをテーブルの上に残しておいた。書くのを止めたとき、私はセーヌ河のそばを立去りたくない気持だった。河のよどみに、マスが見られたし、水面は丸太を打込んだ橋脚の抵抗にあって、押したり、なめらかにふくらんだりしていた。ストーリーは戦争からの帰還についてであったが、その中では、戦争のことには何もふれていなかった。  ともあれ、明け方には、河は相変らずそこにあるだろう。私は、河や、国や、これからのすべての出来事を描かねばならない。そういうことを毎日やる日々が目の前につながっているのだ。他のことはすべてどうでもよかった。 アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(福田陸太郎訳、土曜社)p.84 阿久津隆『読書の日記』(NUMABOOKS、pp.104-105)より。 ほかのことはすべてどうでもいい。そういうものがほしいと願ってやまない。「これさえしていれば」と思える何か。以前ある若い僧侶が「この教えにしたがっていればいいと、ここにすべてがあると思えた瞬間がある」といったような話をしていて、羨望をおぼえた。あるキリスト者は神との邂逅を「温泉を掘り当てたようだった」と語っていた。すごいなーと、すなおに思う。 ヘミングウェイにとってのそれは、文学だったのだろう。『読書の日記』の著者、阿久津隆さんにとってのそれは、書くことや店に立つこともふくめた営みとしての「読書」なのかもしれない。 何かに強く帰依したい。その思いを何十年も抱きながら、だましだまし過ごしている。あるいは、だまされだまされ。両方か。だましだまされ。それはそれで悪くはない。友人と会うたびに「出家したい」と話す。そこで決まって「はやく出家しろや!」とツッコまれ

日記943

   十一月二十一日 木 二十七夜  晴。朝の内は切れ雲があったが後昨日の通りの快晴となり暖し。朝平山来。お酒が未だ手に入らぬおことわり也。又出張にて伊豆へ行くから二三日はいないと云う事なり。午後省線電車にて兜町へ散髪に行く。帰りに郵船へ寄り生駒氏に会い、又、永沢、竹中、庄司三君にも会った。以上の四人に御馳走帖を一部宛進上せり。東京駅迄生駒氏等の自動車に同乗し省線電車にて帰る。今日もお酒の気なし、止んぬる哉。政府の決定にて漢字制限新仮名遣いと云う事になり、毎日新聞はこないだから紙面に実施していたが、今日からは朝日もそうなりそうなり。甚だ読みづらし。成る可く要領だけ勘で見て文章は読まぬ様な事になる。時事新報だけは故の通り也。 『内田百閒集成23 百鬼園戦後日記』(ちくま文庫、pp.267-268)より。昭和21年(1946年)11月21日。内田百閒は多くの日記を残している。とても筆まめ。頑固なほど。この日の日記にある「漢字制限新仮名遣い」についても頑固に反対しつづけ、旧仮名遣いを生涯つらぬいた。 旧仮名遣いは、いまもweb上でときどき見かける。少数ながら受け継がれている。字面に厚みと重みを感じて、それだけで威力がある。漢字の詰まった黒い塊。新仮名遣いは平仮名が多くやわらかい。旧仮名に比べて白い。 わずか数十年でことばは様変わりする。ほんとうに、すっかり変わってしまうものだと、古い本を読むと思う。わたしがいま使っていることばも、やがて古くなる。すでに、やや古いのかもしれない。こんなスタイル。 短文が苦手だ。twitterやLINEなどで用いられる速い書きことばに適応できていない。いまのところ……。できる気もしない。ついていけない。わたしの書きことばは絶望的に遅い。この「遅さ」はすなわち、「古さ」でもあろう。ようするに、「話す」と「書く」のあいだに葛藤がある。 流行語にも、ほとんどついていけない。唯一、「激おこぷんぷん丸」はいまだに使っている。最上級の「激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム」まで使う。こういうコテコテの表現が好き。おもしろく怒りを表現できる。というか、「激おこスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム」の字面を見ると怒りが収まる。口に出して言ってみてもいい。唱えるうちに沈静化する。しかしこれもすでに古い。     11月21日(月) 今月7

日記942

  二〇〇五年十一月二〇日 犬猫屏風と結婚式  洗濯物を早く乾かしたくてコインランドリーに行く。コインランドリーはよそよそしい、ふだん音沙汰ないからや、狭くて音がどらんどらんとリズミカル、棚に詰め込まれた雑誌の一頁までもが完全に湿ってて蛍光灯がちりちりと震え、なんだか恐ろしい気持ちになる。あ、恐ろしい、と声にしてみるとあんがい間の抜けた形容詞でもって、一気にどっ白けて恐ろしくもなんともなくなった。  乾燥機はあと六分なんで待つ。しんとしてる音とどらんどらんを全背中で受けて黙って座ってる。動いてるのは私の洗濯物入れた乾燥機と誰かのを洗ってる洗い機がひとつ。  その洗い機にはまるで漬け物石みたく蓋のところになんか荷物が置いてあって息苦しく見てるだけでなんだか私の肺の上に鉄板を置かれてるようなよう。盗まれるの防止であろうなと、乾け乾けと思ってたらその洗い機が突如ものすごい勢いでごんごんと暴れ出した。  洗い機の中、左右にごっらんごっらんと体をぶつけて中でもがいておるような暴れが洗い機の中で、それが脈絡なく繰り出されて私は唾を飲みじっと見ていた。洗い機は動物が風呂上がりのようにぶるっとし暴れて蓋の上の荷物が落ちそうになっていた。  私は猫か犬やと思った。猫か犬が洗い機に落とされて回されているのやと思った。猫と犬が回されてるところを考えてみた。犬猫、つながる犬と猫の顔、四つの目と無限の毛、八つの足とちいさいギザギザの歯、飛び散る茶色や白や黒、小さい脳の匂いや思い出が黄金色にたなびいて、台風一過の夕焼けみたくなんだか分厚い屏風になって。  洗い機の主を待って中をちらっと確かめようと私の乾燥機が止まってだんだん冷えてきてそれでも主は帰ってこないで私は帰ってこない主を待ったが犬猫はずっとどらんどらん、凹凸のどらんどらんを聴いてるうちに、犬猫の鮮やかな屏風の前で結婚式をあげるおばあちゃんとおじいちゃんの夢をみた、おばあちゃんは今のおばあちゃんで奇麗なお化粧で角隠しで笑ってた、おじいちゃんは上は軍服、すこぶる若く、下はフンドシ一丁で辛そうな姿勢でしゃがんでた。 川上未映子『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(ヒヨコ舎、pp.143-144)より。写しながら、みごとだなーと思う。なんか圧倒的。しばらく忘れていたノリが湧き立つような気にもなる。真似したくなる。 自分が書くときには

日記941

 一九三六年十一月一九日 ショルデン  およそ一二日前、ヘンゼルに自分の家系に関する嘘についての告白を書いた。それ以来、自分はどのようにすべての知人に完全な告白ができるのか、そして、すべきなのかについて考えている。それを私は望むとともに恐れている! 今日は少し具合が悪く、風邪気味だ。「困難なことが実現できる前に、神は私の命を絶とうというのか?」と考えた。事が良くなりますように!   イルゼ・ゾマヴィラ編『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』(鬼界彰夫 訳、講談社、p.102)より。ウィトゲンシュタイン、47歳。風邪気味で神を疑う。そして、「完全な告白」を望むとともに恐れる。ここを読んで、古田徹也『このゲームにはゴールがない ひとの心の哲学』(筑摩書房)の帯を思い出した。 “娘が、卵焼きの味について本音を隠していた。その瞬間、娘は父にとって不透明になった。” 上記の日記も、不透明さに関する煩悶だと思う。自己の不透明さ。隠したものがある。それを白日のもとにさらすべきか否か。さらに連想したのは、マタイによる福音書の「密室の祈り」。祈るときはひとり密室で、というおしえ。祈りの次元では、隠れることが告白とつながる。身を隠すことで透明になれる。 祈りとは、言わないまま言う行為だ。言わないまま言う。どっちやねん。人間のことばにはすべて、祈りがふくまれているとわたしは思う。言わないまま言ってる。隠された奥行きがある。ある程度は隠れていないと、人は発言できないのではないか。 吐いたことばがぜんぶ真実になってしまうとするなら、おそろしくて何も言えたものではない。適度な嘘が語ることを可能にしてくれる。嘘とは言い換えれば、解釈の余地。卵焼きの味について本音を隠していた、その本音にもまだ隠れた部分がきっとある。などと、あまり疑いだすと、『このゲームには~』のテーマである懐疑論の沼にはまる。 いくらでも疑える。それをわたしは望むとともに恐れている。疑い得ない真実も同じく、望むとともに恐れている。暗すぎても明るすぎても視界はひらけない。望むでも恐れるでもなく、言わないまま言う。切断しながら接続する。祈りの次元で話がしたい。  

日記940

十一月十八日(月曜) 晴 〔昼〕 マカロニグラタン、コーヒー PM、サンケイ・中島原稿トリ。 〔夕〕 冷酒、タイのしおやき、その他、親子重 〔夜〕 太兵衛そば   池波正太郎『食べ物日記 鬼平誕生のころ』(文藝春秋、p.149)より。昭和43年(1968年)11月18日。すばらしく簡潔。全体にわたってこんな調子。まさに「食べ物日記」そのもの。看板に偽りなし。 「太兵衛そば」は港区麻布にある蕎麦屋「永坂更科 布屋太兵衛」のそば、だそう。いまもある老舗の蕎麦屋さん。こういう本を参考に食べ歩きをする人もいるのだろうか。 11月18日(金) 池波正太郎に習い簡潔に。体調の悪い日だった。朝から強めの耳鳴り。軽いめまい。夜にかけて収まる。付き合いで外食。春巻きなどを食す。腹痛に見舞われる。上から戻してすっきり。歌いながら帰る。       オレ、穴を掘る。脇目もふらずに掘る。マイ労働歌。  

日記939

  今日の日記。 ハンス・カロッサ『ルーマニヤ日記』(新潮文庫、pp.87-88)より。1916年。カロッサ、38歳。この日記は彼が第一次世界大戦のさなか、ドイツ国民兵軍医としてルーマニアの地で従軍した2ヶ月あまりの記録。    十一月十七日。未明銃撃があったが、ほどなく 熄んだ。陽がでると空が晴れた。透明な雲の薄い膜のうしろには、杯種のような形をした黄金色の 、 虧け行く月しろが懸かっていた。担架卒が来着して、漸次全負傷兵が運ばれて行った。ピルクルは居残らねばならぬ。脈がほとんどなく、屍体になってオイトーズへ行くことだろう。弟が一時間の暇を貰ってピルクルを見舞ったが、もう話もできない状態になっていたので、その一時間を利用してまだ息のある兄のために墓穴を掘り、十字架を削り、その上に青鉛筆で丹念に戦死した兄の名前を書き誌した。  九時、旗をかかげた僧侶に引率されて、銃と弾薬を持ったルーマニヤ兵士三名がやってきて、ハンガリーの大尉に会いたいといった。そして無条件の降服を申しでた。行列は多少芝居がかっていた。この芝居がかりということにかけては、われわれよりルーマニヤ人やハンガリー人の方がたしかに上手らしい。時は平穏に流れて行く。寒気はやわらいだ。南風が黒い岩の氷と雪をとかす。まるで近くに暖炉でもあるように、ひどく暖かい空気の流れにぶつかることが再三再四だった。色あせた太陽はその輪郭をぼっとにじませながら吸取紙のような白い靄の中に包まれていた。夕方、ハンガリーの衛生見習士官たちが彼らの大きな背負い籠の中から長い壜と上等なきれいなガラス・コップを取りだして、熱い酒で自分たちやわれわれを元気づけてくれた。 遠い視線と近い視線が混交している。銃撃(近い視線)から、晴れた空にかかる薄雲と欠けゆく月を見遣る(遠い視線)。眼前の人々を描くばかりではない、遠い自然の描写が戦地の息苦しさをやわらげてくれる。カロッサの記録は、どこか余裕がある。巻き込まれている感覚と、そこから遊離する感覚のふたつを持ち合わせている。 いるようでいない。いないようでいる。みんなといる部分と、ひとりでいる部分があって、そのあわいに書記言語の空間が滲み出す。そうした書きぶりを「文学的」と呼ぶのかもしれない。 ひとり部分を抜き出してみる。   陽がでると空が晴れた 透明な雲の薄い膜のうしろには 杯種のような形をした黄

日記938

   11月16日  私たちはパリで十五日間過ごした。帰って来た時には二百冊の本を携え、気持ちは完全に萎えていた。パリという都市が存在しているというのに、ポルトガルに住まなくてはならないとは! パリの人々の恵まれた暮らしぶりに驚いた。飢えている人は見かけなかった。私も参加した名高い昼食会。ジャン・コクトー、(ブカレストから到着したばかりの)ポール・モラン、ジョルジュ・デュメジル、ルネ・グルッセ〔フランスの東洋学者、一八八五 - 一九五二〕と知り合えた。グルッセは『アジア新聞』に載せた書評で、あなたの『ヨーガ』はヨーガについて書かれた最良の本だと明言した、と教えてくれた。改めて、このようなヨーロッパの人々に向かって言うべきことが、まだ私には残されている、と気づかされた。  シオランとともに終日過ごした。逆説とリリシズムに満ちた饗宴。マリカと知り合いになった。  前線の状況はますます悪くなっている。だがなぜだかわからないが、もう恐怖を感じない。大惨事にはならないような予感がしている。あるいはもっと正確に言うなら、現在の危機が全ヨーロッパを巻き込む事態となっているため、もはやただルーマニアのことだけを考え、一地域の観点から状況を判断することができなくなっているからだろう。   ミルチャ・エリアーデ『ポルトガル日記 1941-1945』(奥山倫明・木下登・宮下克子 訳、作品社、pp.194-195)   “1941年、ルーマニア公使館の文化担当官としてリスボンに赴任したミルチャ・エリアーデは、新たに自分に向き合い、精神を集中させるために日記を綴っていく。”と帯裏にある。精神の集中に、なるかな。引いたのは1943年11月16日。エリアーデはシオランと仲良しらしい。シオランにも友人がいたのだ。 11月16日(水) この日、すれちがった人が読んでいた本(主に電車内)。 ・村田沙耶香『殺人出産』(講談社文庫) ・辻村深月『ツナグ』(新潮文庫) ・岸見一郎『マルクス・アウレリウス「自省録」を読む』(祥伝社新書) ・筑波大学附属小学校算数部 編『算数授業研究』(東洋館出版社) あと、60代くらいのおじさんがマンション管理法に関する本を読んでいた。『算数授業研究』なる雑誌があるらしい、これは初めて知った。へー、おもしろそう。読んでいたのは40代くらいの男性。スーツ姿のシュッとした人。

日記937

明治三十九年  十一月十五日  夜八時過行く。雨降りの闇夜なりしかば妹尾の角燈を借りて行く。清さんは歴史を復習しつゝありしが我の角燈を見て、マア巡査さんの様なと云う。堀野の間に入る。暫くして隣り間より「孝高」は何の読むやと尋ぬ。其語調は我に尋ぬるが如し。されど我もそれには答ふる不能。「コータカ」と覚えて居たら好いでせいと云う。後また暫く経て、清さん我等の所に来り「駐輦」の意義を聞く。されどこは堀野が教えたり。  我と堀のと相対して予習せる間絶えず隣の間の清さんの 咿 唔聞ゆ。秀吉時代の復習らし。あゝ清さんよ、全力を尽して勉強せよ。而して後 ――数年の後、天晴良妻たれ、我の……と考ふ。  帰るとき、また角燈を見て何とか彼とか云う。ふと清さんの机の上を見しに書物の傍らに子猫一匹整然と端坐せり、其対照の愛らしさ云ふべくもあらず。我猫が居るなと云へば、あなたの角燈(それ)を見て目を大きくして居ると云ふ。左様ならと云へば堀のも清さんも共にさようならと答ふ。而して清さんの声のみ我耳に残れるは如何。 内田百閒『恋日記』(中公文庫、pp.89-90) 1906年11月15日。百鬼園先生が17の頃。ここに書かれている「清さん」は、のちに妻となる。「天晴良妻たれ、我の……」という思惑通り。 「孝高」は人名であれば「ヨシタカ」ではないかと思う。でも、文脈が不明なのでわからない。黒田孝高という戦国時代のキリシタン大名がいる。あ、「秀吉時代の復習」とあった。おそらく黒田孝高のことだろう。 11月15日(火) 初冬らしい空気の静まり。昨日まで暖かかった。暖かいと賑やかに感じる。ここ数年来の天気はやけに鮮明だ。暑さ寒さがはっきりとわかる。もともとそんなものだったのかな……。むかしはもうすこし変化が微細で、あやふやだった気がする。自分の身体的な変容もありそうか。 いつも夜10時ごろにひとりで散歩をする。今日は体が芯から冷えた。犬の散歩をする人とすれちがう。吠えられる。これもいつものこと。夜、深い時間帯に連れ出される犬は傾向として、すこしユニークなところがあるような……。やたら吠えたり、興奮してまっすぐ歩けなかったり。逆に、めちゃくちゃゆっくり歩く老犬も見る。三本足の犬も見かけた。 すこし前、早朝の散歩が日課だったときもある。朝に出会う犬は、ふつうの速度でまっすぐ歩く。すれちがう人々も朝は健やかだ。

日記936

今日の日記。 笠原嘉 編『ユキの日記 病める少女の20年』(みすず書房)より。 裏表紙の概要を引く。  「ある年、母に伴われて病院をおとずれた一人の婦人に会った。小柄で、やせこけていて、化粧気のない、年のわりに老けてみえる、少し頭の大きめの彼女は、私に決して逆らいはしなかったものの、ついに一言も心の底から発することのないまま逝った。いつも私の及びうる距離の少しばかり向うに立っていて、大きな眼でまたたきもせず私の言動をじっと見つめ、私に少なからず職業的無力感を覚えさせながら去っていった。十数年前のことである」(編者)  並々ならぬ文才の持主である一人の少女が八歳のときふとしたことから日記をつけはじめる。それから間もなく喘息という宿痾をえ、青春のほとんどを病床ですごさねばならなくなった彼女は、その眼をもっぱら自己と家族の内面へと向けだす。そして日々の克明な記録はノート六十冊分にも達する。しかし不幸にして彼女は心を病む。二十歳のときである。その後まもなく彼女は筆を折り、再び筆をとらず、数年後心不全のため世を去る。  これは最後に主治医となった一人の医師が御家族の援助をえておこなった六十冊からの抜粋である。狂的世界の心象を描いた手記や日記は数多い。しかし心の病をうるはるか以前からの長い過程を、これほど入念に書きこんだ記録は知られていない。健康と病気をへだてる隔壁の微妙さ、しかもそれが行きつもどりつしながら越えられていく様子、それらをわれわれは感動をもってここに読みとることができよう。なお、これは大きくなったらぜひ作家になりたいと叫んでいた彼女が、この世にのこした唯一の作品であり、したがってこの作家未然の作家の病跡学(パトグラフィー)のための無二の素材でもある。  十一月十四日  ピートは私に親しいゆえのぶ遠慮なことを言う。私は親しいゆえの言葉と思っていたが、それは軽蔑だとさとる。彼にとって近しい私を軽んじることはやさしい。そして私は何も逆わない。が、それは何という苦しみだろう。私は尊敬されたいとは今は思わない。しかし彼にとってさえ私の欠点や私の自暴自棄の行いのかずかずが仮借なく映じるとしたら、私はもうどこにも憩いを見出さないだろう。ピートに注いだ私の愛情と保護はそのまま現在のさびしさとなる。  私は過去に幼い全心をもってママンの愛情をまった。だからいま私がママンの愛情を信用

日記935

 十一月十三日(木) 快晴  昨夜私は風邪をひいたらしい。頭が痛く胸も痛い。昨日入れた色硝子に陽があたっている。  暖炉に赤く陽があたる。薪の入っている大籠には緑色の陽が。鏡にうつる私の顔はコバルト色。庭の土も、赤、青、緑の陽があたっている。色盲になったようだ。  焚火の灰を畑にいれる。大工の置いていったゴミをもやす。梅の木をまわって、一本ずつ、根本に肥しをいれる。今日は暖かい。  隣りからバナナとにんじんと大根をもらう。  昼 パン、スープ、ハンバークステーキ、サラダ。  主人の散歩について大岡さんの家の方まで行った。  夕方の支度をしておいてから門まで上ると、西の空は火事のように赤く、西の山々は黒い切り抜き絵のようだ。富士山の大沢くずれのあたりがバラ色に暮れ残っている。鎌のような下弦の月が浮んでいる。  ロシア旅行のとき、中央アジアのどの町だったか、宿の夕食のあと手持不沙汰の皆は一緒に散歩に出た。水たまりのような池のところで道はゆきどまっていたので、途方に暮れて、水たまりのような池の前で皆で佇っていたっけ。そのとき、これと同じ月が浮んでいた。「琵琶湖の北の方、湖北というんですか。あすこに似ていません?」すると皆、自分が湖北に行ったときの話を口々にしはじめた。中央アジアにいることなんか、この町の景色のことなんかそっちのけで。  夜 塩鮭茶漬(主人)、牛乳とのりまき餅(百合子)。  御飯が終ったころ、隣りのおばあさんがシメサバを持ってきてくれる。それをまた別に食べる。おいしい。隣りのおじいさんとおばあさんは、自分が作ったものを自分が勝手に持ってくることになっているらしい。おじいさんは畑の大根とかにんじんとか。自分の作ってみた佃煮風の食べものを。おばあさんは自分の作ったシメサバとかおすしを。それは勝手にやっているらしいから、一日に三度位たて続けに色々と貰ってしまうこともある。  今夜も暖かい。  テレビでキックボクシングをみる。福島三四郎対ピマンメクの試合。ぺちゃぺちゃとしゃべる解説者とアナウンサーがうるさい。  主人、キックをみてからねる。ねる前、急に「明日は天気がわるくなるといってたから、明日の朝早く帰る」と言う。  食物ののこりを始末する。 武田百合子『富士日記(下)』(中公文庫、pp.119-121) 昭和四十四年(1969年)の11月13日。   何回も読み

日記934

   十一月十二日 晴  昨夜からダンロのオキで豆炭を熾し、アンカを二つ作る。  今朝は風が冷たい。正月に吹く風のようだ。  朝 ごはん、コンビーフ、大根おろし、のりまき餅、スープ(玉ねぎ)。  十時半、関井さん、カギを取り替えにくる。倉庫のカギの具合もわるいので直してもらう。障子を嵌めこむためのカーテンレールも長すぎるので切ってもらう。  カギ千二百円。  南隣りの庭のように、斜面の勾配のきついところに丸太を入れて段々を作ることも頼んでおく。今年中には出来るように。  十二時半列車便に下る。富士山は頂きに白い雲が巻きつき、あとはすっかり晴れている。  山芋を買いにスタンドに寄る。おじさんは本のお礼を言って「山芋は呉れてやる。いっぺんに沢山呉れてもうまくなくなるから、チョクチョク呉れてやる」と、大きいのを二つぶら下げてくる。東京へのお土産用に藁づとになったのを買うと百五十円にまけてくれる。  回数券を買う。御胎内の検札所に人がいないので、そのまま五合目へ上る。六月以来だ。二合目から崖にはつららが下っている。奥庭入口のあたりで引き返す。三合目の樹海台に車を駐めて、聖母像を観に行く。この前までは立札がなかったので気がつかなかった。イタリヤからきたという大きな大きなマリヤ様は白い大理石でキリストを抱いて佇っている。キリストもマリヤ様も王冠をつけている。マリヤ様の顔はいやらしくない威厳がある。背景のコンクリートの壁には、世界各国からきた瑪瑙、石英などの貴石が嵌めこまれ、寄贈した国の名前が彫ってある石もある。天照大神の石、というのもあった。マリヤ様の佇っている台のところからは、河口湖、三ッ峠、御坂峠、ゴルフ場が見えた。私たちと入れちがいに、外人の神父様と信者らしい男一人女二人の組が、マリヤ様をみに上ってきた。男は東南アジアの人らしかった。  主人、熔岩を拾う。御庭のあたりにも、マリヤ様のあたりも、冷たい冷たい濃い空気が漂い流れていて、急いで車の中へ入ってしまう。大沢くずれから少し上ったあたりには落石がひどかった。頭位の石が落ちていて、泥もくずれてきていた。この間の台風のあとだからだろうか、倒木も多かった。  昼 肉うどん。  夜 ごはん、豚しょうが焼、コロッケ屋のコロッケ(百合子)。  明朝東京へ帰るので、弁当の焼きにぎりを作る。ポコは早めに馬肉を食べる。  あとかたづけを終

日記933

二〇〇二年一一月一一日(月) 津原泰水「玄い森の底から」、「夜のジャミラ」、「脛骨」、「天使解体」、「約束」。 今ふかく吸い込む息と共に私の血管を巡る言葉。指先がどくどくと脈打つ、身体の芯から先端まで届いて私に混ざる物語。まばたきで起こる風も心音も言葉になるほどに物語を飲み込め私のからだ。この世界のこの私ではなかった無数の私たち、聞いて。 私が読んだ。 この物語が届いたのは私のところだった。 合わせ鏡に映る私どこまでも連なるの視野の限りその一人一人聞いて。 私が読んだ。 私に届いた。 あなた達の分、私が読む。あなた達の代わりに。机に向かう私の周りにはもう音はないのです。違う、ないわけではないの。遠い耳鳴り。 頁を捲る指白い。爪の先まで届けこの言葉たち。私が存在したこの世界にこの物語が存在し、そしてそれらは出会った。 存在するのは捲られる頁と読みとる私。 ではなくて、物語の生成。世界がはじまるように。 二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社、pp.242-243)より。 友人とこっそり始めた読書会のなかで、さいきん再読した本。以前(10年前くらい)に読んだときとは感じ方が変わった。初読のとき、二階堂奥歯は年上のお姉さんだった。いまのわたしは気づけば、この人より長く生きている。 津原泰水も亡くなっていたことを、今日たまたま知る。図書館の追悼特集の棚に名前があった。そして家に帰り『八本脚の蝶』をひらいたら、ちょうど11月11日にこの記述。ということで引いた。 写しながら、気恥ずかしさを覚える。陶酔的で、だからこそある種の人にはたまらない本なのかもしれない。自分としては距離をとってしまう。でも嫌ではない。この人の文章には、異様な冷静さも備わっている。読めばおわかりの通り、上記の文は始めから終わりまでリズムがコントロールされていて、心地よい。我を忘れてはいない。隅々まで意識が張り巡らされている。 そしてなにより、客観的な一行がある。「存在するのは捲られる頁と読み取る私」。ここでいったん引いてから、「ではなくて~」とまたすぐに戻る。読みながらなんとなく、ものすごく熱いものと、ものすごく冷たいものが同居している感じを受ける。同居して「ジュワ~」ってなってる。「ジュワ~」って。 日記の終盤、「君は人形だ。ふりだけでいい。生きているふりをするだけでいい。」(p.385)と熱い励ましのメッ

日記932

  十一月十日 日曜日 ストックホルム  アンドリューシャの件に関しては、いまのところなんの進展もない。明日、パルメと二度目の会見がある。ローマではラリーサと一緒に外務省に行った。われわれの力になりたいという話だった。だがどうやって? 上院議員で政府に強力なコネを持つ弁護士のジーノ・ジューニのところに行った。アンドレオッティ〔元首相〕は彼に、一週間待ってほしい、そうしたら家族を招待するために必要な措置をなんとか考えるから、と言ったそうだ。モスクワからは悪い知らせが届く。ひどい毎日、ひどい年だ。神よ、見捨てないでください!   アンドレイ・タルコフスキー『タルコフスキー日記 殉教録』(鴻英良/佐々洋子訳、キネマ旬報社、p.545)より。 1985年11月10日の日記。昨日は「Ⅱ」から引いた。ならばと今日は1冊目。タルコフスキーの日記は、2冊とも古書市場で高騰しているみたいだ。わたしが買った古本屋では、2冊セットで5,000円だった。それなりに高いが定価よりは安い。何年前だったか……。いまは日本の古本屋とamazonで見るかぎり1冊7,000円以上の値がついている。 「アンドリューシャ」とは息子のアレクサンドル・タルコフスキーのこと。アンドレイはソ連から西側に亡命したが、息子は故国にとどまっていた。そうした状況のなか、いろいろ言ってる日記(ひどいまとめ)。「ひどい毎日、ひどい年だ。神よ、見捨てないでください!」。アンドレイ・タルコフスキーはこの翌年の86年12月、54歳で亡くなっている。 11月10日(木) 自分の日記はべつに書かなくてもいいか、という気もする。電車内、向かいに座る若い男性が『世界を変える思考力を養う オックスフォードの教え方』(朝日新聞出版)という本を読んでいた。世界が変わるといいね、と思った。横にいたおじさんはYouTubeでレクサスに関する番組をずーっと見ていた。レクサスいっぱい買えるといいね、と思った。 「自分の日記」といっても、自分のことは避けがちである。たまたま出会う他者のことを書く。そのほうが偶然性に満ちていておもしろい。共立食品の「ハロウィン手作りお菓子コンテスト」というページを眺めている年配のおじさんがいて、応募したのだろうか? と想像する。あるいは、知り合いの応募作が載っているのか。いずれにしろ優勝するといいね、と思った。 共立食品が

日記931

  十一月九日 月曜日  思いがけずゴスキノのタチャーナ・ストルチャクから電話、あなたのやっていたのは本当に資料収集者としての仕事で、校正者としてのものではなかったのですね。答え――全くそうです、それだけのことです。  この履歴書、書類づくりは何のためだろう。パリ行きのため? だとしたら、またもやラーラを置いてひとりで行けと言われたら、何と答えたらよいだろう? それとも、このストルチャクとでも一緒に行けと? あとにイタリアの企画が控えていることを考えて、今回は諦めて引き下がるというのはどうだろう? 黙従に意味があるか? いや、みんなくたばれ。一戦を交えて、何としてもラーラを連れて発てるようにする。  考えが浮かぶ。最愛の息子を失った人間について。息子に捨てられる。愛しても愛は返ってこない。ふり向きもせず息子は家を出て行く。父親との絆から逃れて解放感を味わう息子。古典的な問題設定だ。子らへの愛にやみがたくとらわれた両親と、自らの人生を追求しようとする子らの無関心。とはいえ、親を盲目的に愛し、その死に際し深い嘆きに見舞われる子供たちも一方には居る。  聖アントニウスの材料集めを開始。決定的に重要なのは体系であるとの確信。ポール・ヴァレリーが方法というものについて書いている。体系を打ち立てることによって、人間の感情と知性とをひとつの凝縮した全体へとまとめ上げることが可能となり、この全体性が、新たな、質的に新たな特性を生み出す基いとなる。  体系はひとつの閉じた円環、ひとつのリズムであり、その独自のバイブレーションは、この体系との共震によってのみ生じ得る。  「自己制約は、自己認識および神の探求という名のもとに考案された、かの伝統的体系のひとつである。」  「規則あるいは方法をひとつでも見出した人間を私は尊重する。他のものは全て無価値だ。」 ポール・ヴァレリー  「理性とは思うに、宇宙が自らを能う限り迅速に抹消しようとして案出した、かの方策のうちのひとつではあるまいか。」 ポール・ヴァレリー   どこかに書きとめたかどうか忘れたが、一九六二年ニューヨークでストラヴィンスキーと知り合った。記憶違いでなければ、あるロシア風の喫茶室で。  一旦認識の諸階段をのぼりつめたならば、あらゆる知識の空しさに思い至らずにはいられないはずだ。知識の獲得は何がしかそれ自体価値あることと思われが

日記930

十一月八日(金) 幸田へ。スプレーを買ってパチンコ。 久しぶりにミルキーウェイへ。麻雀五百五十円負け。オンザロックを飲んでいる。 著者不詳『創作 1973年10月―1975年7月』より。 『創作』は高円寺で円盤というCD/レコードショップを営む田口史人氏が古物から拾い上げた日記を本にしたもの。引いたのは74年の11月8日。金曜日。 かつて、そんな日があった。誰の日々も、飾らずにそのまま記述するだけでじゅうぶん興味深いのだと思う。なにごとかを言おうとする必要はない。自分を一般化する必要も、特殊化する必要もない。ただ、そうあった。日記はそんな態度で書くことを許してもらえる、唯一のジャンルではないか。それぞれの平時をあらしめる。 このブログは「日記」と銘打っているけれど、なにかを言おうとし過ぎている。いつも、なにかを言おうとしてしまう。いや、それが自分にとっての「平時」なのかもしれない。公開されていようがいまいが内容は変わらない。ごちゃごちゃ書いている。固有の「普通」をやり通せばいいのか。しかしそんなに振りかぶってことばを使っちゃいないよ、誰も。   11月8日(火) 日記925 に書いたお爺さんのようすを親近者からうかがう。入院中の病室で暴れるため、拘束状態なのだとか。やるせない。はやく退院できるように願う。こわいのだろう。「暴れる患者は恐怖から」と中井久夫は語っている。すこし写す。  患者さんのこころの底の共通点といえば、恐怖です。「暴れる患者は恐怖から」と言ってまず間違いありません。医療者への個人的な怨恨から暴れるわけじゃないことを忘れないようにしましょう。例外はもっともな場合がけっこう多いです。いちばん多いのは屈辱感を起こさせる場合です。これは患者であろうとなかろうとほめられたことではありません。  赤ん坊は泣き出したらだいたい十五分は泣いていますね。即刻泣きやませようと思ったらかえって火に油を注ぐみたいになって、いつまでも泣いてしまいます。暴力も同じだと思うのです。暴力的になっている状態はだいたいは十数分くらいでしょうが、長く続く場合は本人のこころのなかにも周囲の人々の反応にも、火に油を注ぐものがあるのでしょう。よく見ていると中休みが何度もあります。  『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、pp.77-78) 同じ本のなかで中井は、「暴れるのはエネルギーが

日記929

11月6日(日) 施設の祖母と面会。かれこれ何ヶ月もおなじ話のループを聞いている。そろそろほかの話も聞きたいと思い、むかしの写真をいくつか持参した。思惑通り、新鮮なループを拝聴できた。写真が示す場所ごとに、別のループが語られる。1枚1枚の紙片がCDやレコード盤のような機能を果たしていた。写真をもとに過去の場面が永遠にループしつづける。 曲と記憶は音が似ている。きょく、きおく。性質も似ているのかもしれない。記憶はそう、音楽に似ている。そして、その再生の鍵は場所にある。写真は場所を持ち運ぶ。わたしたちはいくつもの場所を持ち寄って話をする。記憶とはつねに、「そこにいた記憶」なのだろうか。架空の場所であれ、そこで時間が流れた記憶。 これはいつも感じることだけれど、祖母の話は歌に近い。通常のやりとりはできない。歌に合いの手を入れるように応答する。とにかくまわっている。ぐるぐるまわる。そのグルーヴをつかまえて。祖母の話と歌との共通項は、「身勝手さ」にある。 歌う人の前では通常の会話が成り立たない。相手がひとたび歌い始めたら最後、為す術なく「イェーイ!」などと言って盛り上がるのみ。ふつうに話しかけても歯が立たないのだ。祖母もまた、ふつうに話しかけても歯が立たない。話し始めたら最後、とりあえず「ヘイ!」とか「カモン!」とか言いながらいっしょにぐるぐるまわるしかなくなる。 通常の会話で使用する日常言語の観点からすると、歌はとても身勝手だ。というか、かなわない。祖母の話も同様に、日常言語では太刀打ちできない。うまく乗っていくしかない。自然とこちらも歌の世界に巻き込まれてゆく。歌には歌をもって応じるほかないのである。 線的に積み重なることばの運動を忘れるにつれて、人の思考は音楽に近づく。さいごには、その身に宿したリズムだけが残る。気詰まりな意味が漂白され、ただ流れるままの音になる。もともとことばがそうであった、太古の姿に還るように。 考えながら、武者小路実篤の「ますます賢く」を思い出した。    僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。  人間もいくらか老人になったらしい、人間としては老人になりすぎたらしい。いくらか賢くなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当のことはわからない。  しかし人間はいつ一番利

日記928

10月29日(土) 「しおちゃん、いつまで3さいなの?」。幼い女の子が問うていた。お母さんらしき女性は「つぎのお誕生日までだよ」と答える。山手線のなかでのこと。池袋で友人と会う。前に同じ人と同じ場所で会ったときは生稲晃子が駅前で演説まがいのことをしていた。そこで立ち止まり「生稲晃子の前にいます」と連絡したとたん、晃子がいなくなってしまい焦った覚えがある。使えない晃子。おなじことを前にも書いたか。この日、生稲晃子は最初からいなかった。なぜか、ふたたびの晃子を期待している自分がいた。 ジュンク堂で本を見て、近くの喫茶店で休んで、古本屋に行ってお別れ。「休日だな」という感じがする。パーフェクトな休日だった。喫茶店で右隣の席にいたお兄さんは唐十郎の本を読みながら、なにやらメモしていた。前方にいた若いカップルは旅行の計画を立てているようだった。背後から住宅購入に関する会話も聞こえた。 古本屋で、シェイマス・ヒーニーの『プリオキュペイションズ ――散文選集1968~1978』(国文社)を買う。〈冬を生き抜く〉と帯にあり、時宜にかなう希望を感じた。手にとったとき、栩木伸明『声色つかいの詩人たち』(みすず書房)に「すべてはうまくいくだろう」というヒーニーの詩があったかな? とぼんやり想起したけれど、ちがった。栩木氏の本にあたると、「すべてはうまくいくだろう」はヒーニーと同じアイルランドの詩人、デレク・マホンの作品だった。   屋根窓のむこうで晴れていく雲と 天井に映る満ち潮のゆらぎを見つめて うきうきしたら、どうしていけないのだ。 人が死んでいくことはあるさ、それはもちろんだが そのことにばかり言葉を費やす必要はあるまい。 命令など受けていない手から、詩行が流れだす。 油断おこたりない心が隠された水源だ。 なにはともあれ太陽は昇り 彼方の町々は美しく輝いている。 太陽の光の騒擾のまっただなかに横になって 私は一日のはじまりと雲のゆくえを見届ける。 すべてはうまくいくだろう。   友人と池袋の駅で別れ、新宿まで歩く。写真を撮りながら、ぶらぶら。ハロウィンが近いこともあり、仮装している人をちらほら見かけた。どこだったか、途中で撮影会もやっていた。「魔女の宅急便」のキキかな、かわいらしい女性の姿。横切るときに一瞬だけ目にうつる。 仮装姿で怒っている若い女性も見かけて