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2月, 2019の投稿を表示しています

日記672

2月16日(土) マニアフェスタ@アーツ千代田3331へ。「約100組の極上のマニアが大集結するお祭り」です。マニアックな賑わい。ゴムホースの写真を撮っている中島由佳さんのブースでクリアファイルを買いました。おしゃれなゴムホースのクリアファイル!(※個人の感想です)。気に入っています。 多岐にわたるマニアックなブースが並んでいて、いちいち惹かれてしまうため散財警報を早めに発令し節約モードで眺めました。タカアシガニでつくられたディジュリドゥ(オーストラリアの先住民族アボリジニの管楽器)が拝めただけで満足度メーターは振り切れて33回転。もう満足。「ディジュリドゥマニア」として来ていたミュージシャンの北川和樹(スマイリー)さんの姿も遠めから拝む。 さいごにマンボウ博士の澤井悦郎さんから、マンボウ属の見分け方などをレクチャーしていただき、ぷらぷら帰りました。いまのところマンボウは大きく3種類に分類されるそうです。マンボウ、ウシマンボウ、カクレマンボウ。この3種。 ウシマンボウは2010年、カクレマンボウは2017年に発表されたあたらしい分類です。マンボウとウシマンボウの大きなちがいは、頭部の隆起と舵鰭にあります。マンボウは頭部に隆起が見られず、舵鰭が波打っています。対してウシマンボウは頭部にコブのような隆起があり、舵鰭がきれいなひとつの扇形です。カクレマンボウについては、ことばだけではわかりづらいため、「 マンボウとウシマンボウとカクレマンボウ 」というページの図解がわかりやすいです。この3種は鱗の形状でかんたんに判別可能だそうです。しかし写真では鱗の細部まで目視できないことのほうが多いかな。 専門家のあいだにも、まだあたらしい分類が浸透しきっていないそうなので、いまのうちにマンボウ3種を見分けられるようになると世の中から頭ひとつ抜きん出ることができます。胸を張って道の真ん中を歩けます。上座に鎮座できます。写真でもよくウシマンボウやカクレマンボウが「マンボウ」と誤記されているそうです。ライバルに先んじてパーフェクトなマンボウ属の見分け方をマスターしましょう。   見たいブースがあふれており、想いもあふれかえって干からびて途中であきらめました。冬の乾燥のせい。こういう場所は、事前に情報を整理してからでないといけません。目星をつ

日記671

ことばの重要な機能のひとつとして、「みずからの不快感の低減」というものがあるのだろうと思います。ひどく嫌悪感を抱いている物事でも、ひとりでことばにして仔細に書き出してみるとある程度は落ち着きます。すべて収まるわけではないにせよ。内面の整理くらいはできます。勢いにまかせて虚空に罵言を叫ぶだけでもいい。ファック! 内側に渦巻く感情を外在化する。たとえば腹を立てている相手を想定しながら、言いたいことを好き放題に書く。伝える必要はない。それだけで胸がすくし、自分の難点にも気がつけます。感情の流路がわかる。流路がわかれば制御もしやすい。流れをせき止めないように。 つねづね、他人と自分は基底の部分では無関係なのだと感じます。いじけているわけではありません。ここに主観的な価値づけはないのです。いい意味も、悪い意味もない。現実世界の見方として、そう思っているだけです。無味乾燥な現実のお話。 家族であれ友人であれ、いかなる関係であれ、「自分ではない」という部分を冷厳に捉えています。あなたとわたしはちがう。こんなにシンプルな、あたりまえのことを何度も書いている気がします。書きながらいつも念頭にあるのは「死」です。自分の代わりに死んでくれる人はいない。死ぬのはどういうわけか他人ばかりです。 わたしの現実性の前提にはこうした認識があります。まったくちがう現実性の認識に基づいて生きている方も多くいると思います。それはそれとして、わたしとはちがう、べつの現実世界なのだと思う。 あなたの現実が知りたい。基底の共有に至ってきっと初めて、関係が始まるから。もしか、そこに真実のひと触れを見留めたら、わたしの認識が改変されるかもしれない。現実はひとつじゃない。むかし松田聖子が歌っていました。「あなたを知りたい。愛の予感」って。季節外れの、白いパラソルを思い浮かべます。 涙を糸でつなげば 真珠の首飾り 冷たいあなたに 贈りたいの 冬になると、わたしの手はずっと冷たいままです。冷え性なのかもしれないけれど、寒さに順応した結果かなーと前向きにも解釈できます。環境への適応力。爬虫類みたいな、冷血動物にちかい体温調節。いちおう哺乳類をやらさせていただいておりますが……。哺乳類の末席を汚しております。 手の温度から人はちがう。「ちがう」からといって、即対立するわけで

日記670

さいきん決めている、家での1日の食事に欠かさないもの。米、卵4個、納豆2パック、鶏肉、バナナ2本。と野菜。ブロッコリー、ほうれん草、オクラ、にんじん、白菜、トマト、玉ねぎ、レタス、キャベツなどのどれか。野菜は時宜に適った安いものを食べます。あるいは見切り品で安かったもの。「米、卵、納豆、バナナ」は毎食かならずのレギュラー陣です。 飲みもの。緑茶、コーヒー、豆乳、お湯、水。のどれか。お魚も週に2度以上は食べます。お酒は自宅では飲みません。いまのところ決めた食生活はこんな感じです。1日2食で、間食はいっさい無し。水をいつも傍らに置いて飲むくらい。朝はコーヒーと白湯でおしまい。これをなるべく保ちたい。 卵、納豆、鶏肉、バナナなんかを買い溜めしていると筋肉バカみたいで恥ずかしい気もします。筋肉を意識はしますが、そこまでがっつり肉体改造したいわけではありません。「目覚めてから少しでも短時間で体温が上がりやすくなればいいなー」くらいの感覚です。冬は特に。ぱっ!と起きたい。 ただ、自分の性格上やり始めてから軌道に乗りだすと一気にストイックになる部分もなきにしもあらずです。それほど根詰めることなく、無理なくゆるくやりたいと思います。このブログのように。 先々週は豆と鶏&豚の挽肉と、適当な野菜とトマト缶、それからスパイスでチリコンカンをつくりました。先週はキーマカレー。余りを強引にスープ化。きょうは日曜日です。週の始まり。今週の献立を考えます。 中華っぽいどんぶりにキーマカレー。要するに「多文化共生」を表現したかったんです。うそです。器は適当です。きのうからジップロックの袋でトマトペーストなどに漬けておいた鶏むね肉を、今朝になって炊飯器の保温機能を使い低温調理しています。70℃くらいのお湯を入れて、そこに袋をそのままぶっこむ。1時間かそこら保温。初の試みです。ちゃんとできるかわからないけれど、実験。 以前、「食にこだわりがない」とたぶん書きました。でも料理は楽しんでやります。「こだわりがない」の内容は「わがままを言わない」くらいのことです。なにが嫌いだの、なにがないとダメだの言うことはない。うるさいことは言わず、ことさら求めることもない。適当なあるもので腹を満たすし、なくても死なない程度ならかまいません。飢餓状態になれば求めます。死ぬから。そうでな

日記669

イカしたへこみが撮れました。こいつのかっこよさに、いったい幾人の通行者が気がつくのでしょう。みんな通り過ぎるけれど、こんなにかっこいいもんがここにあるのだよと大声で喚いたらおそらく通報されるのでブログに書いています。たぶん「ブログに書く」という仕方のほうが伝わりやすいし。なるべく警察のお世話にならず、かつ効果的な「お気持ち」の昇華を心得たいものです。自分も他人も不快にならずに済むような。なるべく。透明な仕方。 赤ちゃんが生後、最初に身に負う感覚は「不快」とされているそうです。書店で立ち読みした稲葉俊郎さんの『ころころするからだ』(春秋社)という本に書いてありました。長じても、感性はいつだって不快感から育ちそうなものだなーなんて飛躍したことを思いながら書店をあとにしました。 人は積極的にものを考えない。少なくともわたしはそうです。平和な時間は、ぼーっとやり過ごしてしまう。思考の胎動を感ずるのは決まって、不快なときです。「不快」というとネガティブな印象が濃厚なので少し平らに言い換えると、異物が侵入したとき。笑えるものでも、感動的なものでも、この異物をどう処すか。異物が端緒となって問うことの始まりに向かいます。 身体にうまく浸透していかないものをいかに取りこむのか、あるいは排するのか、繰り返し循環させて薄めるのか。思考という抽象物も、身体という具象から発される反応のひとつです。脳みそも胃や肺やなんかと同列の器官だと思います……。 「考え」の最初の最初は、自分が思っているよりずっと単純で原始的な反応です。異物感。不快。赤ん坊のときに得られた感受性。それが意識の網の目をくぐり、複雑なわたしに反映される。意識による「ひねり」を経て自己が生み出されているような。 「ひねり」の加減は人さまざまです。自分には馴染みようのない鉛のような異物も、強靭な顎で器用に咀嚼して芸術にしちゃう人がいる。絶え間なく五感から受けとる異物感に耐えかねて死んでしまう人もいる。わたしにとっては、まずわたしそのものが異物だった。こいつがいなければうまくいくのに。何の話をしているのだろう。異物が異物について考えている。ことばという、これも異物を使いながら。 人間のことばがドライヴされる下地には、抵抗が潜んでいるように思います。これは個人的な感想です。どんなにやさしいことば

日記668

四海、波穏やか。 どうすればなんもかんもみんな綺麗に得心がいって終わるのか、みたいな「最終回答」を探している気がします。自分の考え方の核には「終わらせること」が、ずしんと重い腰を据えながら鎮座して動かない。答えなんか得られはしないのだろうとわかっていつつも、暗闇の中で薄明の射す時間を幻視している。夢見ている。夢見る頃を過ぎてもなお。 納得できない物事には圧倒されます。気圧される。ときに迫りくるその圧力を押し返そうと反発もしてみるけれど、そんなことをしても無駄だとのちのち悟る。お決まりの反省。理解できないものは理解できないままに受け容れるほかない。もちろん、あたまが足りない部分もあります。時間が足りていない場合もある。焦っている。もっと老いたほうがよいところ、どこか若さを逸してしまったところ、両面がある。 さいきん英単語を覚え直しています。ほとんど忘れたことをもういちど。同じ単語の意味をそっくりそのまま繰り返していると、徐々に記憶がつながれてゆく。わたしの記憶は混ざりやすい傾向があると、学習の過程で思います。記憶力はたぶん悪くないけれど、滲みやすい。単語の意味が脳内で入れ替わってしまう。特に「con」から始まる単語はまぎらわしいんです。 「英語の本をじかに読みたい」という漠たる思いが何年もあったから、遅まきに始めてみました。いっぽうで「語学は苦手だ」という学生時代の意識も抜けない。でもコツコツやる。もう勉強は「やらされる」ことではないんだから、苦手に思う必要もない。サボっても間違えても咎める人間はいない。語学なんて間違えてナンボです。 というより、ありとあらゆる学習は「間違い」をつぶさに見つめる時点から推力を得ます。「間違い」から始まる。いかに間違ったのか。なぜ間違ったのか。自分はどんな間違いを犯しやすいのか。状況やパターンの把握。そこから正常化へ向けふたたび行動をする。勉強に限らずそれができない人間は、きっとなにひとつ学べない。 言語学習は、「わからなさ」に蓋をする練習でもあります。なぜこの単語がこの意味なのか、突き詰めればわからない。よく人が連れて歩く四足で鼻が効く動物を“dog”と呼ぶことに必然性はない。同様に“犬”と呼ばなくともよい。dogと言い張れば犬はdogになる。 「言い張る練習」とも言えそうです。「犬ではない、dogだ