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10月, 2022の投稿を表示しています

日記927

  10月9日(日) 新宿から渋谷まで歩く。雨のなか、50分ほどかけて「RUBY ROOM」というライブハウスへ。初めて行く場所と思いこんでいたが、平成女学園の看板で記憶がよみがえった。ああ、ここか。なるほど。前に来たときも同じバンドを見た。もらすとしずむ。 このバンドと自分との関係をすこし整理しておきたい。そもそものきっかけはSNSのnoteだった。noteが始まって間もないころだったと思う。整備される前の、ほとんど空き地みたいな状態のとき。適当にあそんでいるおもしろそうな人を適当にフォローしていた。そのなかのひとつが「もらすとしずむ」だった。 noteの始まりは8年前(2014年4月)、もらすは結成7年だそうなので、たぶん最初期から見ている。なんとなく見ている。じつになんとなく。もらす側からしても、「こいつなんとなくいるなー」といった存在なのではないかと思う。 追っかけたいとか、ファンだからとか、それほどの熱意はない(申し訳ない!)。でも、イベントがあれば行く。なんとなく。よくわからないけれどなんか居着いてしまった、妖怪みたいなやつだと思ってもらいたい。座敷わらしとか、豆腐小僧とか、そういう無害な類の。   しかし「なんとなく」ながら、一方的にへんな縁を感じてもいる。というのも、もらすとしずむを知るより前に、主要メンバーである10さんのことは認識していたのだ。 それはnoteもまだ始まっていない、8年以上前。「残響塾」というサイトの文章をわたしは好んで読んでいた。「残響塾」はもうひとつ、残響レコードという音楽レーベルが運営するワークショップ的な何かの名前でもあり、10さんはこちらの関係者だった。 名前を同じくするふたつの「残響塾」は、たまたま名前が同じであるだけで(たぶん)縁もゆかりもない。文章の残響塾が好きなわたしにとって、残響レコードのほうはたいへん失礼ながら「じゃないほう」だった。とはいえ「これとこれは関係ないんだな」と詳細を確認した際、10さんの存在は視界に入っていた。「関係ない」と見切りをつけた側の人と、いずれ関係しまくることになるなんて、予想だにしない。 なんであれ、確認はだいじです。 まとめると、まずnote経由で「もらすとしずむ」なるバンドを知り、のちにそのメンバーである10さんが「じゃないほう残響塾」近辺の人だとわかって、ごく個人的に「この人、

日記926

「あなたが苦しめてくれれば私は苦しみに耐えてゆける」(二階堂奥歯『八本脚の蝶』ポプラ社、pp.155-156)。たとえば「みんな苦しいんだ」という横並びの語り口と、「あなたがわたしを苦しめている」という個別の語り口だったら、どちらが慰めになるだろうか。あるいは、どちらがエロいだろうか。 わたしはどうせなら「あなた」に苦しめてほしいと思う。「みんな」より、「あなた」がいい。ところで、「あなた」とはなにか。国葬のスピーチでも頻出していて、すこし気になった。虚空の安倍氏に対して、「あなた」と呼びかける。この二人称には、特異な空虚さがある。 米沢陽子「二人称代名詞「あなた」に関する調査報告」:「あなた」は無色の二人称詞で、その本質的な機能は、相手との社会関係を「表示しないで」絶対的に二人称を指すものだと述べた。ここで重要なのは、それが日本語のコミュニケーションに不可欠な社会関係表示の原則にそぐわないということである。 — 最首悟 (@ssaishu) August 23, 2021 書きながら、これを想起した。去年の8月か。リツイートしたのち、引かれている調査報告のpdfも紙に印刷して読んだ記憶がある。 ◆ 米澤陽子(2016)「二人称代名詞「あなた」に関する調査報告」『日本語教育』163   「あなた」には親密な響きと、よそよそしい響きの両極がある。使用文脈によって様変わりする。米澤氏は報告のなかで、“現代語の「あなた」はその本質が無色なのだ”と書く。「無色」という概念は、不特定多数を指す「あなた」について国語学者の森田良行が提起したもの。米澤報告の文脈ではこれを「社会関係を表示せず相手を指す言葉」と再定義して拡張的に用いている。 日本語のコミュニケーションでは社会関係の表示(役割の表示)が基本にある。しかし、「あなた」にはそれが認められないのだとか。たしかに、逸脱的な感じは受ける。無色。無職でもよさげ。異邦性、と言い換えてもよいのかもしれない。特殊性というか。ともかく社会関係の外側、役割の外側に「あなた」の位置がある。「あなた」は良くも悪くも、関係を特殊化するのだろう。 「異邦性」ということばが浮かんだのは、デヴィ夫人が「あなた」を多用するから。サンプル1の連想に過ぎないけれど、全員を十把ひと絡げに「あなた」と呼ぶ大味な話法によって彼女は役にとらわれない「異邦の人」

日記925

  国葬のニュースで『山縣有朋』という書名を聞いたとき、「群像社の……?」といっしゅん勘違いした。あれは榎本武揚だった。ぜんぜんちがう。ヴャチェスラフ・カリキンスキイ『駐露全権公使 榎本武揚』(藤田葵 訳、群像社、2017/12)。上下巻ある。去年だったか、真夏の暑い日に古本屋で見かけて「こんな本があるのかー」としばらく立ち読みした。棚に戻して「こんど買おう」と思っているうちになくなっていた。 岡義武『山縣有朋』は岩波文庫。山縣と榎本はまったく異なる人物だけれど、名前のリズムが似ている。内実ではなく、第一にリズムで記憶しているのだろう。やまがた・ありとも、えのもと・たけあき。ともに八文字。四文字、四文字で区切る感じ。二文字で切ってもいい感じ。譜割りが似ているから混線したのだと思う。同時代人だし、歴史的にも近いといえば近い。 群像社と岩波で思い出すのはアレクシエーヴィチの版権。群像社の島田さんと鎌倉のブックフェスタでお会いした際、なにも事情を知らなかったわたしは『戦争は女の顔をしていない』の話を思いっきり無邪気にしてしまった。その後、群像社が 増刷できなかった ニュース を知って頭を抱えた。無知は恥の淵源である。それでも快く応対してくださった島田さんの名刺は、いまでもたいせつにとってある。 名刺といえば、そろそろ衣替えをしようとクローゼットを整理していたところ、ジーンズのポケットからくしゃくしゃになった郡司ペギオ幸夫の名刺が出てきた。ペギオ!とびっくりして、なんか笑ってしまった。意想外の名前。名刺ごと洗濯していたようだ。ことしの3月にもらっていたのだった。あの日からペギオはポケットのなかで縮こまって春夏を過ごした。この秋からはちゃんと名刺として、名刺入れに編入させる。どうしようもなくシワシワだけれど、伸ばして伸ばして保存する。ほんらいはもっと伸びる子だと思う。     10月1日(土)  痴呆患者は現実状況の変化に適応することがむずかしい。環境の急な変化は避けたほうがよい。配偶者の死(とくに妻)、転居、入院、施設入所などで痴呆が急にすすむことがある。一般に老人は“移植”に弱く“植え傷み”する。 中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学 第2版』(医学書院、pp.255-256)より。2020年の5月から、「環境の急な変化は避けたほうがよい」と知りながら祖母を施設に“移