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12月, 2022の投稿を表示しています

日記983

    十二月三十一日 火曜日 十二時  やがて、十九の年も過ぎ去ってゆく。  お母さんも昨夜から、勤め口より帰って来られた。  きょうは一日中、大晦の買い出しに、大掃除、煮〆の仕度に過ごす。明朝の元旦は、ささやかながら、雑煮が祝えるであろう。街は、いかにも暮れの感じ。デパートなんかの混雑すごく、盛り場は人の波のよし。  父が亡くなって一年。この一年は実に多彩な年といいつべきであった。けれど静かに考えてみると、もちろん、経済的にも種々の苦労はあったけれど、学生生活としては、一番この年が楽しく有意義であったといえよう。文学班としても活躍し、成績でも首席が取れ、そして学校生活は文芸会あり音楽会あり、短歌会、文学班雑誌発行、とつづいて楽しいことが続々とあった。こんなに充実したことは、かつてなかったといえるけれど――しかし私はこの一年、どんな所が偉くなったか、と考えると、さして偉くもないと思う。心中甚だ快くない。  気立てのやさしい女の子になろうと思ったのに、それもなれず、弟や妹に当り散らしているし、哲学を勉強したいと思ったのに、それもせず遊んでばかり。一体これで、この無教養さで、小説家なんてむつかしいものになれるかしらと心配でならない。来年からは、きっと、しっかりした勉強をしたいと思う。  今、小説をすこし書きかけてるけれど、どうも思う様に筆がすすまない。題未定。傲慢、無関心、冷淡な一少女が、罹災や戦争の影響のおかげで人間的な精神に目覚めてゆく経路と、それに対照して偏見を抜けきれない女親の心境というものなど、描いてみたいなと思っているけれど、筆はなかなか思う様にうごいてくれない。  来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている。来年もまた、幸福な精神生活が送れますように。私は二十歳になる。とうとう、少女の域をこえて出ようとする。さらば、十九の幸多かりし年よ。  あらゆる真実と誠意と純情をこめて、私は果てしれぬあこがれへ、心を飛揚させる。何かしら漠々とした、とりとめのない楽しさが待っていそうな翌、二十歳の年……。  二月には試験があるだろう。三月二十日前後には卒業があるだろう。そして私はどこかへ勤める。そして――そして私の運命はどうなるのかしら。私を引き回すほどの人が果して――全ての少女の場合におけるように――出現してくるのだろう

日記982

  十二月三十日  家には母がゐた。母から金をおろすやうにいはれて郵便局へいつたが、硝子の向うで局員達は火鉢に当たつて雑談にふけりながら「今忙しいから駄目だ」と断る。自分はそこを離れてとある草山の中へふみこんでいつた。自分のそばを歩いてゐるのは、支那人の子供のやうな顔見知の軍属だつた。草山はばうばうとすゝきがのび、自分らのあるいてゐる細いみちの両側にはそのすゝきのかげに白と黒の斑牛がつながれて何匹もうづくまつてゐた。私は誰かをさがしてゐたのだつたが、さういふ、不気味にだまりこんだ大きな牛のそばをあるくことは堪へがたい気持だつた。そのうち左手に牛の向うに数十匹猫がむらがつてみえた。すると軍属の少年は「あ、ゐた」と叫ぶなり忽ちまりのやうにそちらへかけていつたとおもふと、もう一匹の猫となつて、その群の中に消えてしまつた……。  警報でおこされるまでそんな夢をみてゐたのだつた。     『中井英夫戦中日記 彼方より〈完全版〉』(河出書房新社、pp.165-166)より。  

日記981

 十二月✕日  冷たいので電燈に手をかざして温めました。とてもきれいなのに気がつきました。薄くなつて血管のふくらんでゐる赤い指。拡げたり揃へたりしてゐたら合弁花冠のやうに美しく咲いておりました。大切にしやうと思ひました。  花屋の花だの他家の庭の花を美しく思つたり、欲しくなつたりばかりしてゐる私。  夜更かしをしては西洋の音楽家の伝記を読んでおります。えらい人ばつかりです。それはおとぎばなしを読んでゐるやうに面白い。 島田龍編『左川ちか全集』(書肆侃侃房、p.200)より。「冬の日記」。『今日の文学』四巻二号(三四年二月一日)に発表、とある。ということは、1933年(昭和8年)の12月か。左川ちかは、1936年(昭和11年)1月7日に満24歳10ヶ月で没している。 わたしが初めてこの詩人を知ったのは、リリカという人のサイトだった。いまも archive.org で部分的に読める。 リリカの私家版 private edition by Ririka 一時期、この人のはてなダイアリーをよく読んでいた。なつかしい。 山形浩生が「異様に頭がいい」とほめていたことを鮮明に憶えている。その文章も、探せば見つかると思う。あった。以下、引用。   (コメント:某お嬢ちゃんに申し上げておくけれど、実はこういうことはあんまし言われていない(稲葉振一郎ならたぶん、すでにこういうことを言っている人をたちどころに 10 人くらい挙げるかもしれないけれど、でもメジャーではない)。なぜかというと、世間というのはあなたが想像しているよりはるかに頭が悪いから。あなたは自分が(少なくともいまのところ)異様に頭がいいということを自覚する必要があります。あなたが当然のように一瞬で思いつくことも、世間では実は認識されるまでに 5 年、さらにそれがきちんと文献化されるまでに 10 年かかったりするのです。(ちなみに、あなたがそのリードをいつまで保てるかは必ずしも明らかではないので、あまり天狗にもなりませぬよう。ついでに言えば、頭がいいというのは幽霊が見えるのと同じで、必ずしもいいことばかりではありません。どうして他人は当然わかるはずのことがわからないのだろうと、他人のわからなさ加減の見極めにずいぶん悩むことになります)。 https://cruel.org/asahireview/asahirevie

日記980

 十二月二十八日(金)  電灯に関する故障――二つ。この何でもないことなのに、とても、神経的に、きつい。じぐざぐするような状況。やっと電気屋が来て、なおり、このことから解放。(さいきん電気器具の中がコンピューターになっているせい――私の嫌悪するコンピューター社会の、一つの相)。   高橋たか子『終りの日々』(みすず書房、p.122)より。2007年12月28日。高橋たか子は2013年に亡くなっている。これは最晩年の日記。気落ちしているとき、何でもないことがこの世の終わりのように迫ってくる経験はわたしにもある。たまに。しかし、この日記は全体的にこんな調子で、「とてもよく老いておられるなあ」と感じる。嫌味でもなんでもない。ひたすらに老いの様式を見せてくれている。老人は一般に頑迷固陋だ。その頑迷さが、固有の歴史を物語る。その人が歩いてきた道として、できるだけ傾聴したく思う。 12月28日(水) 午前中、頭がくらくらしていた。しごとを終えて、奥渋谷の本屋さんSPBSへ。友人の選書フェアで1冊買う。ロジェ・カイヨワの『石が書く』(創元社)が売り切れていた。ほしいなと思いつつ、値段を見て逡巡している本。数年後にはもっと高騰していそうなので、定価で買えるいまがチャンスだろう。とわかっていながら、そのカネすら渋ってしまう。図書館で借りるだけでも十分だけど。『石が書く』を見かけるたび、おかねのなさを痛感する。 SPBSに寄り道するタイミングは、きょうしかなかった。かつてなくせわしない年末。貧乏暇なし。体調を崩して動けなかったせいなんだけど、また崩しそうな予感がする。頭が重い。予感にとどめたい。全力で寝る。

日記979

  一九四三年十二月二十七日、月曜日――  金曜の夜、生まれてはじめてクリスマスの贈り物をもらいました。クレイマンさん、クーフレルさん、そしてミープとベップ、みんなが今年もわたしたちには内緒で、思いがけない贈り物を用意してくれたんです。ミープは、すばらしいクリスマスケーキをこしらえてくれました。表面に、「平和、――一九四四年」という文字が書かれています。ベップのくれたのは、戦前のような甘い上等のクッキー五百グラムほど。  そのほか、ペーターとマルゴー、そしてわたしには、ヨーグルト一瓶、おとなたちにはビール一本ずつ。ぜんぶがとてもきれいに包装され、一包みごとにカードが飾られていました。こんな贈り物をもらわなければ、クリスマスはわたしたちの知らないうちに過ぎてしまったことでしょう。 アンネ   アンネ・フランク『アンネの日記 増補新訂版』(深町眞理子訳、文春文庫、p.268)より。いままで取り上げたなかでは、もっとも有名な日記だろう。しかし、「です・ます体」はめずらしい。日記の文体はたいてい、もっと殺伐としている。少女らしさを出すために、「です・ます」で訳したのだろうか。誰かに語りかけるようにつづられている。 ことし9月に出版された、平尾昌宏『日本語からの哲学 なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』(晶文社)という本は、このあたりを考えるうえでヒントになりそう。いつか読むリストに入れている。目次を見るとズバリ、 「女子ども向き」説という章がある。そろそろ買おうか。時が来たか。〈です・ます〉と〈だ・である〉のあいだには深い溝がある。それは感覚的にわかる。でも、あまり深く考えたことはなかった。   12月27日(火) 電車のなかで、立ったまま寝てしまった。めったにないことだ。疲れている。日記にはまったく書かなかったけれど、ちょっと前Covid-19に感染した。それがまだあとを引いている。年末はゆっくり休みたいと思う。ことしの春頃から謎の疼痛もつづく。こっちは慣れてきた。体はだんだん壊れていく。 きょうの電車。21時ごろ。某駅から薔薇の花束を抱えた女性が乗り込んできて、車内の空気が一変した。マスク越しでも、ほのかに香る。なんかおめでたいことがあったのだろう。香りだけ、おすそわけしてもらえた。彩りもよかった。日常に文字通り、花を添えていただく。 スーパーでケーキを買

日記978

  12.26(火) 1. 萩原延寿         次に基金で呼ぶ人         Susan Sontag         Eliszabeth Hardwick(文明評論家、故 Lowell 夫人、NRB の編集顧問)         Meyer Schapiro(Columbia の芸術史、芸術思想史、元 Marxist)         Carl Shorsky(Princeton、Wien の都市の発達と芸術の思想史、ドイツの社民、研究の処女作あり)         藤田氏よいものを書いた、感激した。 [「書目撰定理由――松蔭の精神史的意味に関する一考察」か?]あれについて “思想の言葉” に感想を書く。 (いつになるか分らぬが)        ―丸山先生から呼びや[屋]と云われた。 小尾俊人『小尾俊人日誌 1965-1985』(中央公論新社、p.211)より。1978年12月26日。みすず書房の創業者、小尾俊人の日誌。ってことは、みすずの本かな? と思いきや中央公論新社から出ている。装幀はちょっとみすずっぽい。 丸山真男と藤田省三に関する記述を中心にまとめられている。とにかく淡々と。限られた人にしか読み通せない代物だろう。だいたい日記や日誌などの雑記録は受容者の興味関心が試される。ぶっきらぼうで、まったく不親切な読み物だから。教えてもらうのではなく、見出さないといけない。自分のなかのつながりを耕作するように。 巻末にある、市村弘正と加藤敬事の解説対談が参考になる。へーと思う。へー。しょうじき、そんなに関心が持てない。しかし、関心がなくても粛々と読む。それがたいせつ。いちおう、なんでも通り過ぎておく。ただ歩くこと。 加藤氏のさいごの発言は、自分の考える「自由」のイメージにそぐうものだった。   “丸山さんがあそこまで率直に話した相手は、小尾俊人だけでしょう。小尾さんも丸山さんの前で最も自由になれると言ってましたから、お互いにそうだったのかもしれません。”(p.303) この人の前でなら、自由になれる。自由とはつねに、なにかの前における自由なのだと思う。ある関係、ある制約のなかでの自由。言うまでもないか……。無際限な自由なんてものはない。自由のためには制約が必要。ゆえに、ただのひとりでは自由になれない。 制約は人でなくてもいい。犬といるとき自由になれたり

日記977

   一九五六年 クリスマス  一二月二五日の静かな午前が過ぎて昼食になる、お祝いの日ということで普段よりも御馳走だ。ローベルトは患者たちに混じって舌鼓をうっている。フォーク、スプーン、ナイフの音が、彼には陽気な音楽のように聞こえている。しかし、散策に出かけたい気持ちがむくむくと湧いてくる。暖かい格好をして、雪景色のひろがる澄みわたった光の中へ踏み出す。路は施設を出て薄暗い地下通路をくぐって駅へ続いてゆく、あの友人の到着を幾度となく待った場所だ。遠からず、またいっしょに散策することになるだろう、新年には、天気の良し悪しにかかわらず。 いまや彼はローゼンベルクへ登りたい気分になっている、廃墟があるのだ。あそこへはもう何度かひとりで、あるいは連れ立って、登ったことがある。尾根からは、アルプシュタイン連山への陶然とするような眺望がひらけている。お昼どきはそれはしんとしている。雪、汚れのない雪、見渡すかぎり。かつてこんな言葉で終わる詩を、彼は書きはしなかったろうか?――「雪が降ると、はらりはらりと、ぽろりぽろりと、薔薇が散っていくのを思い出す」とりたててよい詩ではない。でも、それは真実であって、そもそも人間もまた、散ってゆくべきものなのかもしれない――薔薇のように。  孤独な散策者は冷たい冬の大気を深呼吸する。ほとんど食べることができそうなくらいに、たしかな感触がある。ヘリザウはいまや足下にある。工場、住宅、教会、駅。橅と樅の樹々を抜けて、ショヒャーベルクを登っていく、彼の年齢にしては少々急ぎすぎかもしれない。しかし鼓動がどこかおかしいと感じながらも、先へ上へ進まないではいられない。ローザーヴァルトを抜け、ローゼンベルクの西の頂きのヴァハテネッグへ行き、そこから小さな窪地を経て向こうの丘へ赴こう、と彼は考えている。煙草に火をつけたい気分に襲われる。しかしそれには従わない。楽しみはのちほど、廃墟のそばに立つときのために残しておくことにする。――窪地への下りはかなり急だ。それゆえ内またで、木柵にはつかまらず、一歩一歩注意深く標高八六〇メートルの凹みめざして進んでいく、そこで数分ほど休憩するつもりだ。もう数メートル行けば、地面はまた平坦になる。いまはきっと一時半頃だろう。太陽は血の気のない少女のように蒼白い。誇らかにぎらついてはおらず、柔らかく物憂げでためらうようで、今日はもう愛

日記976

   12月24日 「ダ・ヴィンチ」のK嬢が小松左京さんに打ち合わせで会いにいくというので、おれもひっつき虫になる。小松左京さんにお会いするのはほんとに十年ぶりくらいだ。昔はホテルプラザに事務所を構えてらして、ホテル一階のバーでよく飲ませていただいた。一まわりやせておられたが、あの大海のごとく豊かな知性は相変わらずだった。おれはそういう人になかなか巡り合わないので目を見張る思いがした。クリスマス・イブを小松左京さんとK嬢と迎えることになるとは思わなかった。とりあえずメリー・クリスマス。    中島らも『さかだち日記』(講談社、p.201)より。97年12月24日。写真は、2022年12月24日の自動販売機に表示されていた「Merry X'mas」。ことしのクリスマスはこれで満足。  

日記975

    12月23日(金曜日) 晴れ  朝からカウンター。  3人の女子大生が目録ホールをウロウロして、そのうち額を寄せ合って相談をしてからカウンターにきて、これを調べるのはどのようにすればよいか? とコピーを差し出す。「天草版平家物語」などが並んでいる。よく見ると請求記号が書きこんである。これはどこの図書館の請求記号かと聞くと、大学図書館のだという。この図書館で何をお調べになるのですか? 「中世の動詞の研究」という題のレポートをまとめなければならないのだという答え。それなら日本語の研究所の置いてある書架に行ってよさそうな本を選んで、読んでレポートをまとめたらいいのではないかと提案すると、このリストに挙がっている本を手にとって調べて書くようにいわれているので、まず、この本を見たいんです。この本を、この図書館で見るにはどうしたらいいでしょう?  図書館での書名カードの引き方や本の調べ方は習わなかったのですか? と聞くと、1年生だから知らないと胸をはる。それは2年生になったら習うことになっているともいう。書名カードのところに連れていって、書名カードの引き方や資料請求票への記入の仕方、本の探し方などを教える。  これくらいのことは、大学の授業の最初に教えたらどうなんだ、と図書館の利用者教育もしなくてはならないだろうが、結局、必要にせまられなくては覚えないし、分野毎の資料の特性と探し方があるから、文学なら文学の授業の最初の時間に教えたほうが効果的だと思う。もっとも、こうした基本的なことがわかっていないんじゃないかと思うような大学の先生もいたりするから、どれだけ効果があるかわからないけれど。  ついでにいっておくと、学術論文の注や参考文献に記載されている書誌記述には不備なものが多すぎる。不備なもののために学生や後進の研究者がわからなくてウロウロしている。ひどい時間の無駄だ。 カウンター① :続いて中年の女性がきて、フランス語で書かれた聖書はないか?  すぐに洋書の分類目録の1935のところに行って、カードをめくって “La Bible” のカードを示す。これです、というので資料請求票の書き方と3階の人文科学室に行ってからの本の探し方を案内する。 カウンター② :学生。また、コピーを差し出して、この赤線を引いてある本はないかと指差すので、見ると「リーグル美術様式論」と書いて

日記974

  [フリッツ・]ラング『ニーベルンゲン クリームヒルトの復讐』――クリムト、[オーブリー・]ビアズリー、エイゼンシュテイン   幽霊のお祓い。かつて存在し、もはや非在のもの。私自身の気持ちとぴったり一致している感覚。 十三歳のときにルールを作った:白昼夢は見ないこと。 きわめつけの空想:回復不能な過去の回復。でも、幸福な将来をでっち上げて白昼夢を見ることができたなら……     スーザン・ソンタグ『こころは体につられて 上』(河出書房新社、p.261) より。年代はメモし忘れてわからない。とにかく12/22の記述。その日その日の日記を探す旅はもう今月でやめようと思う。つらい。たんにいま体調が悪いせいで鬱々としてやめたいだけなのかもしらんが、もういい……。やめます。来年からまた、やる気のないブログに戻ります。マイクを置いて、ふつうの女の子に戻ります。 しかし、とりあえず大晦日まではつづける。なんかもう、いっそこの世にも見切りをつけたいような気分だが、そこまでやめない。ふつう、人類は白昼夢を見ている。現世は夢。夜の夢も夢。ぜんぶ夢。その夢を上映してくれる心の幻灯機が擦り切れてくると、虚無感にとらわれる。いまの自分は幻灯機が故障気味なのだ。幻の出力を待ちたい。フィクションが足りない。フィクションがないと人間はなにもできない。

日記973

  DEC 21 12月21日(金)  まだ朝早く、登校前に森林公園で色と光の小さなポケットをさがす。ミヤマガラスたちも目を覚ましていて、大気を切り裂いているところだ。けさのぼくは、その鳴き声を楽しめない――聞きたくなくはないけれど、その音は氷みたいに冷たい感じで、苦しくなる。上着のジッパーをさらに上へ――明るい青の上着で、このあたりではいちばん鮮やかなもの。足もとの草は湿っていて、湖は波で渦巻き、ほとんど黒に近い。気分が沈む。安らかさを求めてきたのに安心感の果てまではぐれてしまった。降りてくる不気味さ。あわてて引き返し、そんな感覚から遠ざかると、そのうち明るさが訪れる。腕時計を見ると、もう遅刻だ。きょうは本気で学校に行きたくない。でも終業日だし、半日で終わる。  ぐずぐずしているうち休み時間になり、サッカー場の裏をぶらぶらしてほっと息をつく。ここは学校のナイススポットで、いまは明るいブルーの空が見えて、凍えそうだけれど雲がないからなおさらいい。ブナの木の幹にもたれて銀色の樹皮を背中に、セーターとブレザーを通して感じる。そういえばきょうは、冬至だってことを忘れていた。いや忘れていなかったかも。けさの気味の悪い散歩が関係しているのかもしれない。ぼくはベッドから引っぱり出され、みんなより先に起き出して、鋼のような湖に引き寄せられ、ユール〔冬至の祭り〕を、アルバン・アーサン〔冬至、「冬の光」あるいは「アーサーの光」を意味する〕を祝った。暗い森を歩いていくと、ドルイド僧〔キリスト教以前の古代ケルト族の僧〕たちがヤドリギを採り、集まってユール・ログ〔クリスマスの大薪〕を燃やしたんだ。小麦粉をまぶし、エールをかけ、去年の残りの薪で火をつけて。  学校から戻ったら、ママがホーリー〔モチノキ〕とツタを集めてきているだろう。常緑樹を。クリスマスツリーも用意されて、ひと部屋を占領し、そこらじゅうマツの葉だらけだ。家にまるごと一本の木があるなんて、わくわくする。いつもなら火を焚くけれど、この新しい家には暖炉がない。暖炉のない冬は初めてで、たったいままでそのことに気づいていなかった。でもぼくはどれだけのあいだ暗闇を受け止めていたかも気づいてなかったわけで、きょうからその影は薄くなりはじめる。ここが節目だ。光がやってきて、家ではキャンドルが灯される――そしてクリスマスへ。きょうは1年でい

日記972

   〈 二一日 〉二〇日。漆黒の闇のなか、到着。風呂に入り、ベッドに入り、一〇時まで眠る。一一~一二時、水中(潮の流れているところ)に建てられた優雅なパゴダのある寺まで、岸辺沿いに至福の散歩。午後、稲垣といっしょに、島に人工的に作られた山の頂上まで遠足。日本の内海の見事な眺め。柔和この上ない色彩。途中に無数の小さな寺。自然神を祀っている。時には喜ばしい石像も。階段の道はすべて花崗岩を切ったもの(標高七〇〇メートルほど)。日本人の自然への愛情と各種の愛すべき迷信の記念碑。――昼、ゾルフから電報。私が身の安全を図って日本に逃げたとするハルデンの主張を否定する件。私の回答は、事情が複雑なので電報では無理、手紙を書く、というもの。晩に手紙を書いた。真実に即して。     アルバート・アインシュタイン著 ゼエブ・ローゼンクランツ編『アインシュタインの旅行日記 日本・パレスチナ・スペイン』(畔上司 訳、草思社、p.190)より。1922年(大正11年)12月20日。ちょうど百年前。アインシュタインがこのとき日本に来たひとつの理由は、ドイツ(ヴァイマル共和国)国内の政治的な緊張の高まりから逃れるためだった。この日の手紙のなかで「ハルデンの主張」について、アインシュタインは「あの申し立ては正確ではありませんし、完全に間違っているわけでもありません」と述べている。「否定しきれないが、あいつマジ迷惑」みたいな内容の手紙。それもこの本に一部収録されている。 「水中に建てられた優雅なパゴダ」は、厳島神社の鳥居のこと。     これ。手前でかっこつけてる男性はわたしの祖父(故人)。祖父は旧国鉄の職員だったため、祖母の証言によると、いつでも無料で電車に乗り放題であったという。どこまででも。にわかには信じがたい話。そんなことがあっていいのか。     12月18日(日) M-1グランプリをリアルタイムで見た。何年ぶりか。じっくり見ると、自分のなかにある好みの基準が浮かび上がってくる(気がした)。その基準とは、「関係のなさ」。関係ないことをやっている演者にぐっとくる。その際、とくに笑えなくてもいい。昨年はランジャタイがいちばん関係なかった。ことしはヨネダ2000がいちばん関係なかった。わ、わかりやすい……。 「関係のなさ」とは第一に、評価者との関係のなさ。きちんと評価されようとしない態度が好きだ

日記971

    十二月  水浦神父からOKの返事。  『マロニエの花が言った』を読みだす。ゆっくり、ゆっくり。何と、たのしいことか。これが机上にあるのを見るだけで、仕合わせ感。パリが、その中にある!  きっと、そのせいだろう、フランスを舞台にしたフランス人の男女カップルの小説が、茫洋と生じてくる。『君の中の見知らぬ女』。このタイトル。そして同じタイトルの詩が、ペン先から迸り出る。詩だけが、まず出来る。これは二〇〇一年に本にしてもらおう。来年はまるまる文学では沈黙となろう。  『私の通った路』本となって出る。横尾忠則さんのカバー装幀すばらしかった。この絵を彼のカードで見て以来、強烈に私は惹かれていたので、その絵を、と彼にたのんだのであった。  贈った人々から、ぽつぽつ礼状が来る。そのことで、この本へむけて、私自身の思いが輪になって集まり広がる。  「あとがき」のところを何度か読み返し、ぼんやり思っていると、夜になって、ふいに、何処かヨーロッパで生まれ変わった人=私が、今、ここ、この家の机の上にあるものを、仄かに仄かに思い出している気分になってくる。この私はもう居なくなっていて、三十年か四十年後、その人が、なぜ思い出すのかまったくわからない、ここ、この家の、机の上にあるものを思い出し、あ、そうそう、澤田和夫神父さんという人がいたっけ、と、『私の通った路』への、彼のお礼状の(きっと装幀の絵にある悪魔のようなイメージについてなのだろう、悪魔とはキリスト風呂にとび込んでくる✕✕✕魚だ、とだけ書いた、✕✕✕のところの読みにくい字を、私が判読しようと努力していたからだろう――)その字づらを、何処かヨーロッパで生まれ変わった人が見ている。でも、その人(つまり私)は、現在、ヨーロッパ人で観想修道女。なぜ日本のことなど「思い出す」のか? と思っている。行ったこともない、まったく知らない日本の、ここ、私の居る家の、夜の時の中に置かれているものを、なぜ「思い出す」のか? 『高橋たか子の「日記」』(講談社、pp.271-272)より。1999年12月のいつか。高橋たか子はカトリックの洗礼を受け、Wikipediaによると81年からフランスで修道生活を送っていたそうだ。「Wikipediaによると」って、おまぬけな情報源だなあ。文字を読み、思い出す。その錯綜した感覚がつづられている。というか、たんに高

日記970

   十二月十八日  夢の中で、あれは誰だったかしら、詩人か歌人、多分「アララギ」のよく知っている歌人と話をしていた。○○氏に頼んで、なんとかいう雑誌に出して貰うんだね、というようなことを言われた。僕は冷くゴーマンにひねくれて答えた。僕は今の詩人なんかほとんど認めていないんです。そっぽをむいて歩きだした。その人は「あなたはそれだから……」と言い、あからさまにケイベツの情を現わした。泣きたかった。まだ、信ずる何かがあった。このうえなく嫌な気持。   北杜夫『或る青春の日記』(中央公論社、p.315)より。1949年(昭和24年)12月18日。北は若いころ詩人を志していたが、途中であきらめたそうな。詩に対する複雑な感情がうかがえる夢。     12月18日(日) ときどき、神の孤独を思う。古田徹也『このゲームにはゴールがない ひとの心の哲学』(筑摩書房)のさいごに、まさしくその指摘があった。    もしも、あるとき我々のうちの誰かに超常の力が宿り、自分以外のあらゆる存在の行動や反応を常に予見して、完全にコントロールできるようになったとしたらどうだろうか。我々はその者を羨むかもしれない。あるいは、「神」と崇めるかもしれない。しかし、その「神」ほど孤独な存在はいないだろう。その者ほど、寂しさから救われない存在もいないだろう。(pp.276-277)   「神の対義語はなんだろう?」と考える。それは、赤ちゃんではないか。赤ちゃんは、なんにも知らなくてかわいい。神は、ぜんぶ知っててかわいくない。赤ちゃんは孤独だと生きていられない。神は究極的に孤独な一者である。 「寂しさ」はたぶん、赤ちゃんにも神にもなれない狭間に生きる人間だけが抱く。『このゲームにはゴールがない』という本は、幼い娘のエピソードから始まり、神の孤独を指摘して終わる。この構成が示唆的だと思う。そのあいだでは、人間的な「懐疑」や「心」や「寂しさ」などについて論じられる。哲学的な人間模様を描いていると言ってもいい。 懐疑は「わかる」とも「わからない」ともつかない中域に生じる。「心」も「寂しさ」も、おそらく同様の中域で発生するものではないか。透明でも不透明でもない。古田氏は「他者の半透明性」ということを書いている。    自分にはコントロールし切れない、ままならない、不確かな他者の存在と、その他者との言語ゲームは、我々に

日記969

  浮遊 1996.12.17  どうしてだろう。どこまでも浮遊していくわたし。ことばがでてこない。なにかをかたちにしたいのに、とりこむことしかできないの? そうしてとろとろとのみこんでいくの。けれどいちばんに欲しいものは手にはいらなかった。ずるりと腕から落ちていって、わたしは懸命に掴みあげようとしたけどそれはなにものこさずに消えていった。ちがう。それはうそ。それはわたしのなかに侵入したのだった。いまもなかに棲んでいる。のみこんだことをどうしてそんなにかくしたがるのかわからないけど、たぶんそれは両方なのだ。中にいて外にいるもの。外にいて中にいるもの。じゃあ中と外を区切るものはなんなの? わたしのからだ? 皮膚が外気から内臓をまもっているように、それは皮膚の外側と内臓の中に息づいているの? いつも見る夢は、自分の尾をくわえた蛇が頭まで飲み込んで裏返る夢。わたしのなかにも蛇がすんでいるのかもしれない。   ∀∀ ユメノツヅキハオモイデナノカ  ∀∀∀∀∀ ユメノツヅキハオモイデノハルカ      ∀∀ ユメノツヅキハオモイデノカナタ。 『デュラスのいた風景 笠井美希遺稿集・デュラス論その他 1996~2005』(七月堂、pp.310-311)より。詩人・笠井嗣夫が編んだ、娘の遺稿集。笠井美希は2005年に28歳で亡くなっている。引いたのは夢日記のような断片。これを読んですぐに思い出すのは二階堂奥歯だ。彼女もよく似たイメージを日記に書いている。   魔法が解けた。 ウロボロスの蛇が自分を飲み込み飲み込み、ついに消えてしまうところを想像する。 最終的には、口から裏返り、くるくると身体を巻き返す形になるはずだ。 その時には、内側は外側になる。 それまでの蛇の中味はなくなるが、世界が蛇の中味になる。 自分の中に潜ってゆく、どこまでも潜ってゆくと、くるんとひっくり返って、内側が外側を向く。 そうだ、私の身体は無に向かって収縮し、溢れ出したものは世界に浸透する。 しかしそれは難しいことだ。自分の内側に入っていくための扉を私はなかなか見つけることができない。     八本脚の蝶 ◇ 2002年7月12日(金)   なにか身体的な違和をつたえているのだと思うが、わたしにはよくわからない。ウロボロスの蛇が裏返る。あまりにそっくりなお話。ユングでも参照すれば適当なことは言えるか。なんで

日記968

    12/16/73 ミラノ [トポイ]とは、レジスタンスのひとたちが書いた遺書に出てくる言葉:   もうすぐ私のせいであなたが被る苦しみについて赦してください   悔いはない   自分は死んでいく……(党/国/人類/自由)のために   自分のためにあなたがしてくれたことすべてに感謝する   Xというかたちで生きつづける   ○○に伝えて、自分は……   もう一度、自分は…… 似てる、国+階級の如何にかかわらず(トーマス・マンがまえがきを書いた本[『若き死者たちの叫び――ヨーロッパレジスタンスの手紙』]――エイナウディ社刊、一九四五年――トルストイ短編集収録の『イワン・イリッチの死』の解説) なぜこれほど似ているのか? 役に立つ意思疎通をしたいという欲求 :(a)簡潔 鮮明 微妙さ、洗練にこだわっている場合ではない このような手紙は何よりも、実際的な交信のため。 その目的は:   苦しみを和らげる(軽減する)   死後も生きつづけること、いかに記憶されるか、を担保する(形成する) (アリストテレスの『弁論術』の実例としてぴったり) そうは言っても違いもある: 相手の重要性、人格の固有化、「極私的な」気持ちを表わすことへの自己規制、「感傷」(この要素が最も小さいのはアルバニア〔+一般論を言えば、共産党員〕の場合で、いちばん大きいのはフランス、ノルウェー、イタリア、オランダ) プロテスタントの国+カトリックの国の違い 手紙を書く相手の大半は母親、父親ではなく――か、妻――子供      スーザン・ソンタグ『こころは体につられて 下 日記とノート1964-1980』(河出書房新社、pp.162-163)より。73年12月16日。思考の断片を記した走り書き。わたしはこういう本を好んで手にしがちだ。想定読者の規模が限りなくちいさい、ごく個人的なことばの集積。ぱっと思いつくものだと『チェーホフの手帖』や東宏治『思考の手帖 ぼくの方法の始まりとしての手帖』などを過去によく読んでいた。ソンタグの日記も図書館で何度となく借りている。 アフォリズム的なことばの切れ端にふれると、ときに閃光が走るような、視界が一挙にひらけるような感覚が得られて癖になってしまう。twitterのタイムラインをえんえんスクロールしつづけるような中毒性と変わらないのかもしれない、とも思う。まったく

日記967

  十二月十五日(月) 『つゆ草』を読む。「ふっつ・とみうら」や「結婚」も収録されている。巻末の「初出誌」を見ると「結婚」の雑誌初出時のタイトルは「やもめ爺と三十後家の結婚」とある。ほんの少し夫人の表情が変った(気がした)、理由が、わかった(気がした)。目を左側の頁に移し、奥付を眺めると、「昭和五十二年十二月十五日 第一刷」とある。そうか、今日は丁度『つゆ草』が刊行されて満二十周年の日なのか。     坪内祐三『三茶日記』(本の雑誌社、p.27)より。97年12月15日。『つゆ草』は川崎長太郎の小説。2022年の12月15日は刊行45周年になる。しかし不勉強ながら、川崎長太郎は読んだことがない。名前を目にしたことは何度もある。未だ中身のない固有名詞。 わたしの頭は中身のない固有名詞だらけで軽い。「名前だけ聞いた/見た」が大量に敷き詰められている。「名前だけ」の量には自信がある。まるで籾殻の詰まった米俵のような頭だ。スカスカでまったく食えない。ただ、軽くてよい。リズムはとれる。つまり、相槌くらいは打てる。しかし相槌以上の情報はない。あー、川崎長太郎ね。坪内祐三の本で見かけた。あの、小説家のね、あれね。はいはい。 ほかにたとえば、いまパッと「シュトゥルム・ウント・ドラング」という単語が浮かんだが、なんのことだかわからない。ドイツ語であることはわかる。ドイツ語である。以上。調べれば「あー」ってなると思う。あれね。はいはい、と。 「ピーターファンデンホーヘンバンド」という謎の呪文もよく浮かぶ。これもなんのことだかわからない。しばらくすると忘れてしまう。またしばらくすると浮かぶ。羽虫が湧くように、ときどき「ピーターファンデンホーヘンバンド」が湧いて出る。いつかバンドを組むとしたら、名前を「ピーターファンデンホーヘンバンド」にしたいなと思う。 バンドといえば、きょうOfficial髭男dismの「Subtitle」という曲をラジオで聞いた。歌詞のワンフレーズが記憶に残っている。「正しさよりも優しさが欲しい」。優しさは正しくない場合があることを含意している。なるほど。そこで思い出したのは、すこし前にバズっていた以下のツイートだ。   悪さをした友達を先生に告げ口したことを鼻高に祖父に伝えたことがある。すると「それは正しい。でも優しくはないな。間違ってるなら本人にそっと伝え

日記番外編 S.S.S.S.

  日記954 で「またの日に感想を」と書いた公演の感想です。「あとで書く」はたいてい書かないのだけれど、書けてよかった。         12月2日(金) 新大久保のR’sアートコートで、「S.S.S.S.」というコンテンポラリー・ダンスの公演を観ました。ダンサーは坂本貫太、柴田和、石山雄三の3人。公式サイトから宣伝文をコピペします。 「対話」 なき世界-------- パフォーマーは本作品において、ダンサーでありミュージシャン。 自らのアクションから生み出されたノイズは、瞬時に組み上げられミニマルミュージックとなり、それをベースに彼らは踊る。   世界のパフォーマンスシーンを見ても、かなりレアなこの構造を補強するのは、 CRZKNY のオリジナル・サウンドトラック。言うまでもなく、先鋭的なダンスミュージック「ジューク/フットワーク」のシーンを代表するサウンドクリエーター。   「侵略」や「暴力」といった言葉を、頻繁に耳にするようになった年に、この作品のクリエーションは始まった。   「コンテンポラリー」よりもコンテンポラリーなダンス作品『S.S.S.S.』は問いかける。 「"暴力" がより身近になって、本当にそれでいいのかよ?」 https://www.info-api.com/ssss.html   ミニマル・ミュ

日記966

 スキー      1980. 12. 14  私がスキーを始めたのは昭和三十年の冬、学習院初等科四年生の頃である。  オフクロはスポーツと全く縁のない半生をそれ迄送っていたわけだが、長男の私が身体の弱いことや東京のゴミゴミした所で生活するよりは、空気のきれいな大自然で家族団欒する方が上等であると考えて、姉、私、弟をつれて志賀高原(長野)に行ったのがものの始めである。  当初は勿論、滑る時間より尻滑り・雪合戦・コーチの人との雪上取組合いが多く、朝日ゲレンデという今行けば平地と呼びたくなるような所を、秩父宮妃殿下がスイスイ滑っていかれるのを見て「早くああいう風に出来たらなあ!」と思っていたのを憶えている。  初代コーチは、十九日の茶会にも来ていたコルティナ・ダンペッツォ(伊)のオリンピック銀メダル猪谷千春の親父さんである。以来、我が国のトップコーチはほぼ全員私を教えてくれていることになる。  高等科に入った頃は、当時スキーを毎シーズン定期的にやっている者はまずいなかったから、私は少なくとも学習院のその年代ではNo.1であった。  高等科では、御存知のように応援団長をしていたし、スキー部もなかったから家族や友人と楽しんだ程度であったが、大学入学と共にスキー部に入部し、レーサーになるか指導者になるかの二者択一をせまられたわけである。     寛仁親王『ひげの殿下日記』(小学館、p.33-34)より。1980年12月14日。これは厳密にいえば日記ではない。寛仁親王が創設され、会長を務められた福祉団体「柏朋会」の会報に寄せておられたコラム「とどのおしゃべり」をまとめた本だという。 ちゃんとしたよそ行きの文章である。あてがある。日記はもっと雑に、あてどなく書かれるものではないか。自分が日記に何をもとめているか、『ひげの殿下日記』のおかげでわかった気がする。行くあてのない彷徨だ。   12月14日(水) 日記957 に「(わたしは)揉め事をどうにかしたい気持ちだけは強い」と書いた。しかし、たいていどうにもならない。もうどうにも止まらない。ひらきなおって山本リンダを歌うしかない。そんな思いが日に日に強まる昨今ではあるが、意外と山本リンダを歌うやり方は正攻法かもしれない。変な奴がいると、そこに注目が集まる。 つまり道化を演じること。道化が足りないのだ。道化はステージと客席とをつなぐパ

日記965

    12月13日(木) 晴  西洋叔父の所へ茶ブ台をとりに行く。その他バン、ナベなどを頂いて、リヤカーを引いて水道々路を走って居たら、城西から帰りの武藤と玉木に会った。しばし話して、17日に清流と一緒に横浜へ行こうなどと約して別れた。城西に通っている連中はずい分多い。自分の今の身はかなり幸福なものに違いない。家についたら、誰も居ないし猛然消耗した。これはやはり陽転のせいだろう。闇市でミカンを買ってきて武蔵を読んだ。一時間程休んでリヤカーを返しに行く。水道々路の気持のよい片すみに腰を下ろして弁当を食べた。体が弱っていると云う事は悲しい事だ。  帰りは明大前から井の頭線で吉祥寺へ出た。遠く紫の秩父の山の彼方に富士が小さく浮んで見えた。明日も晴れるだろう。夜は吉田絃二郎の「多磨のほとり」を読み始めた。     北杜夫『憂行日記』(新潮社、pp.94-95)より。1945年(昭和20年)12月13日。「武蔵」は、吉川英治『宮本武蔵』のこと。古い日記だが、2021年に出版されたもので本としてはあたらしい。出版社の紹介文には「北杜夫18歳の息遣いを伝える」とある。この本にかぎらず、日記にはその人の息遣いそのものがあらわれているように思う。 『憂行日記』の後半は、もっぱら詩のようにしたためられている。目に止まったものをひとつ引く。たとえばこんな。   11月15日 私は雨にも負けてしまふし 風が吹けば飛ばされさうだし 暑ければぐつたりするだらうし 雪なんか降らうものなら忽ち風邪を引く 米はありさへすればいくらでも食ふし ミソや少しの野菜ではとても承知できない でもどうしてこんなにも 本当にこんなにも あの詩が死ぬほど好きなのだらうか いい気なものさ 全くいい気なものさ 今にも 何もかもが根底からひつくりかへると言ふのに そんな夢ばかりみてゐて 現実の世界には通用しない 妄想ばかりしてゐて 一体どう言ふ気なの でもこれが僕の本領で これなくては 僕の一切が 全く消滅すると云ふのだから まあ しかたがないと言ふものさ と まだそんなことを言つてゐるつもりなの 代用灯が唯一のたより あんまりひんぱんの停電に もう腹さへ立たなくなつてしまつた いい気なものさ (p.288)   1947年(昭和22年)11月15日。幻滅と、滅することのない幻とのあいだで揺れる心象。それをユー

日記964

    十二月十二日(日)  7時から「雪」。大阪に戻ってきた。途中で洗濯。12時過ぎまでつづけ、お昼は関さんからいただいた、小千谷のへぎそば。Qちゃん腹の園子さんとパクパク食べてしまう。園子さんはいまなら3人前は軽くいける。それでいて体重は前より減っているというから、それだけ気合いを入れて乳を出している。  1時間ほど園子さんは買い物にでかけ、その間、ひとひくんと音の遊びをする。人間のからだがいったいどれくらい、おもってもみなかった音を出せるか。エヘラエヘラごきげんのうちにスーと寝てしまい、ちょうどその拍子に園子さん帰ってくる。2時からお風呂。昨日えらく爆発した(いなかったけど)せいか、今日はまた、なにかを学んだような顔でフフー、とお湯につかっている。シャワーも慣れた様子。脱衣所で園子さんにパスし、湯船で、読者の方にいただいたゴルゴ13読んでみる。男も女も同じ顔。  3時30分から仕事部屋にもどり、読売新聞の、タムくんとの書評連載かく。今月は横山剣の「マイ・スタンダード」。クレイジーケンバンドをきくひとも、そうでないひとも、これだけ切実な自伝というのもそうほかにない。4時に終わり、トトト、とおりていき、園子さんからひとひくん受けとる。おっぱい直後なのですぐ寝たのは寝たけれど、1時間くらいあと、しゃっくりとウンコで起きてしまう。片手であやしつつ、ときどき寝顔、ときどき泣き顔を見る。マー愛らしい。  6時に園子さんが座敷にきて授乳開始。飲み終わり、今度は親が栄養満タンにならんなあかんと、秘密の某所からいただいた伊賀牛をあけ、スキヤキを食べていたら、座敷でひとひくんが、オイラもー、と叫んだ。ひとひくんをスリングに入れてふらふらスイングしつつ、しばらくのあいだスキヤキの立ち食い、ビールの立ち飲みをした。途中までアウー、オイラもー、と動いていたひとひくんも1時間くらいで完璧に寝た。そして9時過ぎに目覚め、スリングで目がさめるとほんとうに生まれたてのアノときの顔にそっくりだ。小さな声であやすと、フフヘー、と笑って、乳がほしくてくちびるをツンととがらす。  きのうと違う今日のひとひ。お風呂で僕の方に顎をのせてユラユラ浮かぶようになった。   いしいしんじ『ある一年 京都ごはん日記②』(河出書房新社、pp.386-387)より。2010年12月12日。映像が浮かぶ。擬音語、

日記963

   12月☆日  「世界最強の男選手権 2010予選」(NHK BS1)。ときどき放送してる「世界最強の男」大会、わたしはこういう、世界のどこかで一部の人だけが熱狂してる行事を見るのって好きなんよなー。見た目からして昔話に出てくる「力持ち」な巨体の男たち大集合。東欧と北米中米あたりの人が多いかな。おもろいのは競技が、具体的かつこの大会でしかやってなくて毎回違うオリジナルなこと。車を持ち上げるとかボートを崖に引き上げるとか、巨大タイヤを何回ひっくり返すか、生ビール樽を何個投げられるか、100kgの重りを持って階段を何秒でかけ上がれるか、などなど。何回も優勝してる競合やダークホース的な新星がいて、それぞれの選手のキャラがある。  オリンピックでも、あんまりようわからん競技を「あー、そういうルールなんかー」「この人がこの世界では英雄なんやな」と推測しながら見るのが好きで、そのうちにおもしろさがわかってきて気に入った人を応援する、というのが楽しいんやけど、最近のテレビは日本人が勝てそうな競技しか中継せえへんからおもんない。世界のトップレベルの人らの競技を見ないと、その競技で強い人はいつまでも出てこーへんと思う。     柴崎友香『よう知らんけど日記』(京阪神エルマガジン社、pp.105-106)より。2010年12月☆日。「☆」は任意と解釈して本日、11日とする。 この日記を読んだとき、思わず「見てたわ!」と声に出してしまった。「世界最強の男」、見てた。ずんぐりむっくりの熊男たちが一堂に会してワッショイワッショイする大会。調べたら、いまもやっているらしい。もう10年以上、見ていない。 「世界最強の男」について書いた、むかしのmixi日記がある。あきらかに、いまより文章が生硬だ。もうすこしすっきり書けると思う。しかし、なんか頑張っている。頑張って盛り上げようとしている。過去の自分を褒めてあげたい。お前は頑張っている。ホスピタリティを感じる。いまでは失われたテンションがある。 以下コピペ。   ----------------------------- さいきん、すっかり涙もろくなりました。 先週、BSで『世界最強の男』という番組を見て、ぜんぜん泣ける番組じゃないんですけど、ある場面でうっかり泣いちゃいました。『世界最強の男』は、世界中の筋肉自慢たちが飛

日記962

    十二月十日(木)  長薗さん起床早し。オカユの朝ごはんを食べ、長薗さんは奈良のおばさん宅へ。僕はノートに手書き。  昼から寺町アーケードの額縁屋に園子さん念願のポスターの額を買いにいく。いざ店に来たら園子さん「やっぱポスターのサイズ確かめてきたらよかったネ」と混乱してしまい、店の人に電話帳で調べてもらってみなみ会館に電話し、ポスターのサイズはB全と判明、無事その額を買うことができました。家まで持って帰り、もっぺん橋を渡って重いものセンター。時間が早いせいか地味。家に帰ったら玄関に國田屋からハートランドが届いている。  風呂はいってから、ペングインズ、サム・クック、「ストーミー・マンデイ・ブルース」など、6曲きく、というのは、針を3本使ったから(1本で2曲)。しかしあとで電話した湯浅さんによると、1曲で1本のほうがレコードの持ちがいい、とのこと。ソレハソーカ。ほうれんそう、ゆで玉子レタスきゅうりサラダ、野菜いろいろスープ、いわしのにんにくオリーブオイルソテー、牛素敵。ゲプ。クルセダーズ、フィル・スペクターのクリスマスアルバム、S&Gブックエンド。   いしいしんじ『京都ごはん日記』(河出書房新社、pp.271-272)より。 2009年12月10日。       ストーミー・マンデイ・ブルース。    

日記961

 九日  夜が明けて下向し山の中腹に立って與謝の海を見渡す。天ノ橋立は一文字に海をわたして遙かに切戸の森に接し、山廓水村があるいは遠くあるいは近く霧の間に隠顕してみえる。櫓声帆影が去来して蒼波の中に出没する有様は絶景などといってすまされるものではない。昨日は中野村から登ったが今朝は大垣村に下る。ともに十八町、けわしい道であった。国弊中社籠神社に詣でてただちに橋立を渡る。沙堤一里の間巌石なく、狭いところは十四、五間、広いところでも二、三十間に過ぎない。浪は千歳の松の根を洗い、白砂玉を磨き、風は孤客の衣をひるがえして蒼龍が海を渡るの趣がある。左右の海はひろびろして心気遠く澄み、身は羽化登仙するかと思われた。と、右の方に当って朝虹が立って又ひとしおの眺を添えるのであった。橋立の明神を拝し、切戸の文殊へは一町ばかりの舟渡しであった。  橋立は切戸の浜と成相の山の仏の法の通路  文殊堂の額に草体で帰真と大書し、九歳童卓蔵とあったが嘉永年間のものである。運筆自由闊達にして懐素も舌を捲くかと思われるほどであった。宮津に至るころ雨がひどく降りだした。宮津はもと本荘氏七万石の城下である。ここから由良へは七曲・八峠・伊文字坂など難所の道であったが今は新道が開けて車さえ通じている。由良獄を右に神崎山を左に見て、和江より旧道に入り蔵王峠を越えて舞鶴に出た。ここはもと田辺といって牧野氏三万五千石の城下である。愛宕山という湾の中に突き出た山がある。この山の東側が軍港となって鎮守府が設置されるということであった。今日は松尾寺まで行くつもりで急いだが、雨が降りだして道が捗らず入相の鐘をたよって倉梯の龍勝寺に投宿した。ここは師の坊(滴水禅師)が得度なされた寺で、いまの長老泰龍和尚はかねて相知の仲であったが今日は留守であった。留守番の弟子や客僧などが濡れたものを火にあぶってくれたり親切であった。今日は九里半。 高藤武馬『天田愚庵 自伝と順礼日記』(古川書房、pp.185-186)より。1893年(明治26年)12月9日。禅僧として西国順礼に出た天田愚庵の日記。愚庵は侠客・清水次郎長の養子で、次郎長の生涯を描いた『東海遊侠伝』の著者。歌人としても有名な人物。図書館では短歌の棚に置かれていた。 この本は漢文調の日記を国文学者の高藤武馬が現代語に訳したもの。高藤氏は愚庵に心酔しているようで、ところどこ

日記960

  父方の爺さんが撮った写真。 リアル・マウンティング。      12月8日(水曜)  朝食後、昼まで、残り三回となった雑誌連載の原稿を見直し、日本に送る。イシグロ論の出典の調査で、一個所、読んだ記憶のある発言が見つからない。ここにあると思っていたインタビューを入手したら、そこになかった。イシグロに詳しい教え子のM君に問い合わせのメールを送る。  午後、洗濯に必要なクオーター(二五セント硬貨)を手に入れるべく、Aとともにダウンタウンのコインランドリーへ行く。住んでいるアパートの裏庭に住人用の大型洗濯機と乾燥機の小屋がある。コイン式で、洗濯機はクオーター六枚、乾燥機はクオーター四枚を要する。両方使用すると、一度に十枚。ファーマーズ・マーケットなどで機会があるたび、お釣りにもらい、ためておく。でも今回のように旅行帰りだったりすると、追いつかない。これまでにも、コイン欠乏の事態が何度か起こり、わざわざそのために、買い物に行くこともあった。色々考えた末に、そうだ、コインランドリーだ! と思いあたり、数日前の夜、このアイディアに二人、興奮して寝たのである。  ウェブで、サンタバーバラ市中のコインランドリーを調べ、ここが良さそうという裏通りのランドリーを見つけ、到着してみると案の定、コイン両替機がある。しかし、当ランドリー利用者のみ使用可。素知らぬふりで、Aが四ドル分、私が四ドル分、コインに換え、早々に退散する。強盗団の気分。車内ではやった!と意気揚々。帰り、車内を清掃するというので、近所の車清掃ステーションに寄ると、何とこれがコイン式で、ここにもコイン両替機が二台もある。使用者制限の告知もない。さらに五ドルを両替。車を掃除し、小銭入れに入りきらないコインを抱えて帰ってくる。  さっそく洗濯。夜、昨日購入したマグロを解凍し、ヅケ丼を楽しむ。  今回の息子との旅行では、とにかく耳がついていけないことを痛感。何とかもう少し聞こえるようになりたい。精を出してラジオ番組を聞こうと、テリー・グロスのインタビュー、Radiolab をiPodにダウンロードする。   加藤典洋『小さな天体 全サバティカル日記』(新潮社、pp.253-254)より。2010年12月8日。加藤典洋このとき62歳。両替ひとつで、じつにたのしそう。   2022年12月8日(木)  晴れ。満月。いろいろと意欲が

日記959

  十二月七日 今日なり。 亦無為に不真実に一日の過ぎ行けり。十一時放課ただちに講堂に集り奉祝の万才を三唱して散会。 十二時より三時まで停車場方面に散策、夜は漢文を復習し、吉田弦二郎『光落日』を読む。 今日も亦甚だ快晴、小春日和なり。漫歩の意をそそること切なりき。 正午頃京都に書を認めたれども破り棄てたり。現在の我にはかかるなまぬるき友情は不必要なればなり。筆少しもすすまず、この上書きつづくるの苦痛をおぼゆれば即ちここにて筆を投じて床につかん。只々、倦怠そのものの姿なり。     『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社、p.146)より。1925年(大正14年)12月7日。 伊東静雄、満18歳。「今日も無為に過ごした」みたいな反省は日記に書きがちだ。たぶん2022年の若者も書いていると思う。わたしもいつか書いたような気がする。日記あるある。 2022年12月7日の関東も快晴だった。漫歩の意をそそること切なりき。つまり、お散歩日和。丸い月が出ている。明日がことし最後の満月だという。 日記925 (10月1日)に書いた、脳梗塞で倒れたおじいさんから電話があった。退院したとのこと。「心配かけてすまねぇ」と酒焼けした嗄声でおっしゃる。「よかったっすわー!」と心から喜んだ。 入院中はリハビリ三昧で、退院後も「一生リハビリしなきゃなんねえ」とか。「リハビリリハビリ」と何回連呼していたかわからない。リハビリの成果でだいぶよくなったらしい。しかし、じっさいお会いするまでわからないなーと思いながら話半分で聞いていた。滑舌はよかった。来週、ご自宅に訪問する約束をして電話を切る。ちょっと安心。関係ないが、宮台真司も退院した。 夜、部屋の掃除と本の整理をしていたら、室生犀星の『女ひと』が二冊あった。新潮文庫と岩波文庫。   “人間はただあきらめきって死ぬというばかばかしいことはしない、生涯じゅうのものをたぐりよせてその中で賑やかに笑って、たのしいことを描けるだけ描いてから死ぬものであろう、そしてそれらは本人しか知らない秘密の中で死んでゆくのであろう。” 『随筆 女ひと』(新潮文庫、p.51)   ここに線が引いてある。中古で買ったものだ。前の持ち主が引いたのだろう。  

日記958

    12月6日(日) 北海道・札幌 三角みづ紀 すぐに溶けてしまう かたちを崩して 逃げないで、と額が叫んだ アラームが鳴るまえに 灯油ストーブを点けて フライパンをのせる 黒くて重いもの たっぷりの油に 生きる ための適度な刺激 ニュースでは 会ったことのないひとが ひたすら謝罪をしていた ふたりの日常の音は 静謐な氷点下で 愛情から情を剥ぎとって 愛がいい 愛だけでいい じつは陽性で入院していたんだ という友達の心配はした 会ったことのないひとの 不倫への謝罪には興味がない たった一文字を いつも剥ぎとっている   『空気の日記 23人の詩人が綴ったコロナ禍のリレー日記365日』(書肆侃侃房、 p.324)より。2020年12月6日。不倫への謝罪には興味がない。わたしもそう思う。会ったことのあるひとでも興味がない。   「空気の日記」は書籍と、web上でも読める。    空気の日記 | SPINNER 新しいweb上のコミュニケーション&マガジン     三角みづ紀といえば、2009年のブログ記事をなぜかたまに思い出す。リアルタイムで読んでいた。 もう28年間生きてるはずなのに なんでか知らんが 生きることに 慣れない 慣れ ない | 三角みづ紀     このことばを、2022年になっても反芻する。 いつまでたっても慣れない。 生きること。    

日記957

   十二月五日。  今日は午前ちゅう、ずっと新聞を読んですごした。スペインでは妙な事件が起こっている。おれには、どうもよくそれがのみこめない。記事によると、王位につく者がいなくなって、王位継承者を選ぶことで、臣下の者が難局に逢着し、そのため不穏の空気さえ醸成されているということだ。どうも奇態な話だ。王位を継ぐ者がないなんて、いったいどういうんだろう? なんでもある貴婦人が王位を継ぐことになっているそうだが、女が王位につくなんて、そんなことがあってよいものか? 王位には国王がすわらなきゃならないものだ。ところが、その国王になるものがいないという。国王がいなくては、すまされまい、一国に国王がいないなんて、そんな法があるはずがない。王さまはいるのだ、しかしそれが、きっと、どこかにこっそり隠れているだけの話さ。たぶん、国内にいるんだろうが、なにか一門の紛争があってか、それとも隣りの強国、つまりフランスか、どこかの国がこわくて余儀なく姿を隠しているのにちがいない、それともほかになにかの子細があるのかもしれない。 ニコライ・ゴーゴリ『狂人日記 他二篇』(岩波文庫、p.205)より。横田瑞穂の翻訳。サンクトペテルブルクの下級官僚が徐々に狂っていくようすを描いた、1830年ごろの小説。この伏線は次のページで急展開を迎える。  二〇〇〇年、四月四十三日。  今日はたいへんめでたい日だ! スペインに王さまがいたのだ。見つかったんだ。その王さまというのは――このおれだ。今日はじめて、それがわかった。うちあけていえば、まるで稲妻が照らすように、ぱっとそれがわかった。いったい、どうしてこれまで自分が九等官だなんて思っていられたのか、わけがわからぬ。あんなとほうもない狂気じみた空想が、まったくどうしておれの頭へ浮かびえたのか? まだだれ一人おれを精神病院へ入れようと思いつかないうちで、まあまあ仕合わせだった。いまや、おれにはなにもかもがはっきりした。いまのおれには、いっさいが手に取るようにはっきり見える。ところが、いままでは、いっさいがまるで霧にでもつつまれたようで、おれにはなにもわからなかった。どうしてそうだったかというと、人々が、人間の脳髄は頭のなかにあると思いこんでいるせいだと、おれは思う、そんなわけのものじゃけっしてないのだ、人間の脳髄はカスピ海のほうから風に送られてやってくるのさ。

日記956

  12月4日 鮭と長ネギのピリ辛みそ炒め、チンゲン菜と貝柱のクリーム煮、トマトと豆腐のサラダ、白菜と人参入り玉子スープ。 「今日の晩ごはん。暢気文庫の献立日記」より。2012年12月4日。トマソン社のPR誌『BOOK5 第8号 特集 日記その新世界』に載っている。日記採集の参考になる号。暢気文庫さんはtwitterに献立をつけているそうで、『BOOK5』ではそれを沢村貞子著『私の献立日記』風にまとめている。いまもちょくちょく献立をtweetされているみたい。料理の参考になる。   12月4日(日) きょうの晩ごはんはなんだったか。クリームシチュー、白菜とピーマンと人参と鶏もも肉の甘辛あんかけ炒め、納豆、白米、カブの漬物、ベビーリーフとブロッコリーのサラダ、柿、リンゴ、バナナ、ヨーグルト。我ながらちゃんとした食事。ちなみに朝と昼は食べていない。この点はちゃんとしていない。明日は今晩の残りを食べる予定。明後日までこの残りかもしれぬ。 それと、日曜日にはいつもホットケーキをつくる。ホットケーキミックスに卵2個、牛乳、はちみつ、塩、ミキサーにかけたほうれん草とえのき茸、フルーツグラノーラを混ぜて焼く。フルグラで味と固さがととのう。さらに人参を追加するときもある。気分次第でなんでも入れてしまう。卵3個のときもある。これを1週間ぶんの朝食とし、次の日曜日までにすこしずつ食べる。 さいきんはだいたい、1日1食か2食で過ごしている。夏の一時期3食にしたが、やはり負担に感じて基本2食でまわすことにした。あまり食べないほうが調子がいい。空腹が心地よい。食後は、体内の情報量が増えてなんとなく忙しい感じがする。胃腸から閑古鳥が鳴くぐらいがちょうどいい。 今朝は凍える寒さだった。やたら寒いと思ったら、窓を開けっぱなしで寝ていた。どうりで。明日の朝も冷えるという。戸締まりには気をつけたい。 図書館でいろいろ借りたり返したりしてから、紀伊國屋書店で文藝別冊の『増補新板 中井久夫 精神科医が遺したことばと作法』(河出書房新社)と『現代思想12月臨時増刊号 中井久夫 1934-2022』(青土社)を買った。隅々まで読む。 業者さんに家のWi-Fiをなおしてもらった。サクサク繋がる。

日記955

 十二月三日  昨日は、休息と修理の一日。今日は大工事。僕たちは橋作りの人夫に早変わりする。道がダホメの国境でペンジャリ川に切断されていて、その橋は雨季のあいだに、いつものことだが、流されてしまい、まだ架けなおされていなかった。夫役人夫たちと一緒に、橋を復旧することになる。今晩は、堅い地面に残っている橋台のうちの二つを繋いで、丸太の橋を二つ作った。三番目と四番目の橋台のあいだの空間は、不必要に広い他の橋台の縁から取った石塊で埋めた。  ダホメの警察官たちが対岸に姿を見せ、一番近い村の人たちを徴募して、向こう側の工事を始めた。  まず男たちがやって来る。堂々としていて、ほとんど真っ裸(人により、陰茎を持ち上げている紐、四角い小さな前かくし、細い獣の皮など)、そして筋肉がとても逞しい。若い娘たちが次に来る。身につけているのは緑の葉の房だけ、そして頭は剃っている。魅惑的な娘たち。見つめるのが快い、ちょうど橋台のあいだを、とても感動的な音を立てて、とても速く流れ去る水を見つめるように……。  今夜、僕たちは川の近くにキャンプする。工事は明日夜明けとともにまた始められる。まだ残っている仕事に比べれば、朝のあいだの故障など、ものの数に入らない。たとえば、河馬が穴を開けた地面を通らねばならなかったり、トラックが泥にはまったり、等々……。何でもないことばかりだった! グリオールはもう対岸の土を踏んできた。彼が通った連絡路は、まだ繋がっていない二つの橋台に架けたたった一本の丸太、他の二つの橋台のあいだに架けた二本の丸太、さらにまた別の橋台のあいだに架けた二本の丸太、それからすでに工事済みの部分だ。僕が今この文章を書いているとき、グリオールとリュタンは銃を装塡している。猟にいくのだ。ボーイたちはトラックに閉じこもっている、《カパ》やライオンが怖いから。  他方、マカンはカブレ族(対岸から来た人たち)に対してもっとも激しい恐怖を示し、《奴らはブッシュの追剝だ!》と断言した。ママドゥ・ケイタはというと、彼らの裸に憤慨していた。とくに、人夫たちの一人が帰るときに、前かくしを取ってしまったので。     ミシェル・レリス『幻のアフリカ』(平凡社ライブラリー、p.251-253)より。1931年12月3日。これだけ読んでも意味不明だと思う。意味不明だと思いながら写した。本の紹介文を引く。   

日記954

 十二月二日 晴  朝五時半宿営地を発し酒安に宿営す 一昨日まで此の地には敵の敗残兵が居りし地なり耳をそがれた友軍の死体を見る ある分隊長の手記より。 『彷書月刊 2003年3月号 特集 日記のぐるり』(弘隆社、p.31)に載っている。くだん書房の藤下真潮氏によると「この記録は、昭和十二年日中戦争の勃発により召集を受けた九州の教師であるK分隊長の一年余りの記録である」とのこと。1937年の12月2日。   淡々とした記録。耳のない味方の死体を見てどうだとか、感想は記されていない。死体を見る。以上。全体的にこの調子で、緊張感がある。「思い」は弛緩の産物なのだろう。戦場ではいちいち思いをめぐらせていられない。すべてが終わったあとに、無いことにした「思い」が症状としてあらわれるのかもしれない。 日本の軍人はよく日記をつけていたそうな。それを敵軍に拾得され、情報がつつぬけになっていたんだと、ゲンロンカフェで荒俣宏氏が話しておられた。へーと思う。対して米国の軍人は手紙をよく書いていたそうで、この差はおもしろい。 きょうは電車のなかで、中井久夫の『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫)を読んでいた。中井は「戦争に負けることほど、国民を我慢させ、勤勉にさせるものはありません」(p.308)という。さらに「残業とか、単身赴任とか、猛烈社員とかいうのは太平洋戦争の後遺症です。それ以前はそんなことはない。日露戦争の最中でも」(p.309)と。 この見方が妥当かどうかは措くとして、戦争というものは終結してもなお長期にわたって影響を残すものなのだろう。太平洋戦争の、敗戦後の影響下にわたしも生きている。つい近視眼的になって、自分たちの環境を歴史の流れに位置づけることなんか忘れがちである。 12月2日(金) 大久保にコンテンポラリー・ダンスの公演を観に行く。練習段階から何度か見学させてもらったやつ。会場はほぼ満員だったかな……。またの日に感想を書きたいと思う。書けない可能性もある。うとうとしていたお客さんが一斉に顔を上げるタイミングがあって、まるで振り付けられているようだった。終盤、音楽がガツンとくるところ。ご挨拶せずにぬるっと帰ってしまい、失礼だったかもしれない。すみません。少しとどまる、ほんの少しの気合いが足りなかった。

日記953

      12月1日(水)  マラソン大会。8000mと少し。走った。結構走れるものだ。650人で走ったうち447番。     『だいありい 和田誠の日記1953~1956』(文藝春秋、p.200)より。1954年(昭和29年)12月1日。和田誠18歳。ちなみに前年のマラソン大会は439番。   日記は、まだ何者でもなかったころの“その人”に触れられる。たいてい、のち有名になるにしても、無名時代からさしたる変化は見られない。その人は最初からその人だった。   よほどのことがないかぎり、人間はあまり変わらないのだと思う。愚直に自己の一貫性を保とうとする。むろん、経験や知識や環境によって細かくは変化する。しかし大きくは変わらないのではないか。出目には逆らえない。朝起きて体が虫になっていても、ザムザはザムザのままなのだった。   マラソンといえば、わたしもよく走る。夜中に、まったく車の通らない直線道路を全力疾走する。それを何本か繰り返す。結構走れるものだ。定期的に全力を出さないと、全力の出し方を忘れてしまう。ときには、近所の急坂を全力で駆け上がる。   これって、自分のなかでは暴力衝動と似ている。とにかく暴れたい。がんじがらめの体を解放するようにパーッと走ると、すっきりする。肉体を適当に飼い慣らす方法として走っている。なんでもいいけれど、ときどき制限をなくして思いっきり何かしないと息苦しくて発狂する。きっと多くの人が飲み会などのイベントで行う、ごくふつうのことだ。集団でパーッとできない質だから、ひとりで黙々とやっている。       12月1日(木)   窓をあけると冬の匂いがした。