スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2024の投稿を表示しています

日記1016

為末大の『熟達論』(新潮社)を読んでいた。 以下の箇所が私的に示唆深かった。    “例えばごっこ遊びというものがある。子供たちが、砂場でおままごとをしていて「今日の晩御飯はカレーライスよ」と言いながら、おもちゃのお皿に土を乗せる。「わぁ今日は僕の大好きなカレーライスだ」と言いながらそれを食べるふりをする。  この他愛もないやりとりの中には二つの相反する姿勢が組み込まれている。例えばこんなのただの土じゃないかと馬鹿にすれば、ごっこ遊びは成立しない。一方で、カレーライスと言われたからといって本当にそのまま食べてしまえば、相手もびっくりするだろう。本気でそれを信じてもごっこ遊びは成立しない。  それが虚構であると知っていながら、本当のように振る舞うからこそごっこ遊びは成立する。遊びは微妙なバランスに立つ。スポーツは本気でやるからこそ面白いが、一方で試合の勝ち負けを引きずって、負けた相手をずっと恨むようなことがあれば、弊害が大きい。文化祭にクラスで演劇を上演する時に、こんなのお芝居だからとくすくす笑っていたら劇が成立しない。遊びが成立するのは、本当でありながら虚構でもあるという状態を、その場を形成する皆が暗黙に了承しているからだ。” (pp.61-62)   自分の感覚では、ここで例示されたごっこ遊びの「相反する姿勢」は「遊び」にとどまらない。もっと広く、社会性の話だと思う。たとえば何かしら書類と向き合うとき、「こんな紙っぺらになんの意味があるんだ」と疑いだすと、むなしくてやる気が起きない。かといって、「この書類を落としたら人生が終わる!」と気負い過ぎてもプレッシャーで作業に入りづらい。なんとなく信じながらも、まあまあ適当にやっつけはじめる。いい塩梅に信じる心をもって。 貨幣がいちばんわかりやすいか。「こんなものただの紙や金属だ」という姿勢では生きていけない。かといって、執心しすぎて使う余裕を失っても孤独になる。たいてい、付かず離れずの距離を保って生活している。 こうした、いわば「おままごとのジレンマ」は、あらゆる場面で生じうる。わたしは、さまざまな切り口からずーっと、この「信じ過ぎても疑い過ぎてもやってけまへんわな」という図式にこだわりつづけている気がする。ひいては「ふつう」ってなんだろうね、みたいな問いにもつながる(たぶん)。「リアリティ」ってなんだろうね、みたい

日記1015

前回( 日記1014 )のつづき、みたいなものを書こうと思う。かんたんに。ちょこちょこっと、メモ程度に。適当に。(そう言い聞かせないとはじめられない)。 2月のはじめ、以下の記事を読んだ。 【憲法学の散歩道/長谷部恭男】 第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界 - けいそうビブリオフィル きょうは3月7日(木)。時間が経ってしまったけれど、この1ヶ月なんとなく頭の片隅に渦巻いていたもの。  “ヘアは戦地の捕虜収容所で、サルトルは占領下のフランスで、この世に与えられた意味はなく、すべての価値は本来無価値な世界に、孤独な主体が与えるものだと考えた。第一次世界大戦への従軍中に『論理哲学論考』をまとめたウィトゲンシュタインも、同様に考える。戦争を典型とする非常時の下では、すべての価値は剝奪される。あらゆる価値は主体が自ら選択し、無価値な世界に与えるしかない。    しかしそれは戦地での、より一般化すれば非常時での生き方である。通常時の生き方とは異なる。人は一人きりで生きてはいない。人々が共に棲まう日常世界では、人は所与の生活様式を当然の前提とする。価値を含むことばの使い方もそうである。”   このあたり、前回の記事で引用した長田弘の「戦争というホンモノ/平和というニセモノ」と関連する。ひいては、そこから取り出した「一回性/複数性」の二項とも。「ひとり」を前提としたことばの体系と、「みんな」を前提としたことばの体系とのあいだでは、きっとコミュニケーションが成り立ちづらい。そんなことも思う。 社会的には平時でも、人は孤独を宿している。それぞれに個人的な非常時も訪れるだろう。いつ災害に遭うとも、事故に遭うとも知れない。それまでの価値観を変更せざるをえなくなるときがくる。喪失を経て、なお生きている。そこから始まることばがある。 しかし同時に、いかなるときも周囲は価値や意味であふれている。人は孤独を宿しながらも、ひとりではありえない。「体にいくつかの穴が開いているように、孤独にも他者を迎える穴が開いている」と数日前、友人へのメールに書いた(わたしの私信はブログと大差ない)。忘れがちというか覚えていないけれど、わたしたちはみな、母胎から分化してにゅるにゅるこの世に登場した激ヤバな過去をもつ。まるでそんな過去はなかったかのような素振りでサバサバ生きているが、人間は元来にゅるにゅるし