スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

9月, 2019の投稿を表示しています

日記705

9月18日(水) 菊地成孔さんと名越康文さんの対談をみる。かれこれ「vol.13」らしい。twitterで告知にふれて反射的にチケットを買った。過去にいちどだけ、ずいぶん前に参加した記憶がよみがえる。初期のころ。「そんなにやってるんだ」と、すこし驚く。好評なのだろう。なにしろおもしろい。 拡散的で開放的なおしゃべり。頭の中に広い空間をつくってくれる。芝刈り機でブンブン掃除してもらえるようなイメージ。視界がクリアになった。内容についてはふれない。なんとなくの印象だけを残しておきたい。 名越さんは最初から最後までひとりでたのしそう。「自分のたのしさに他人は関係ないね!」といわんばかりのストロングスタイル。安定してテンションが高い。高め安定。でも、ちゃんと会場の反応を気にするそぶりも忘れない。散逸しがちな話の流れも要所要所でもとにもどす。 たびたび足をバタつかせて大笑いする、そのお姿がとても印象的。こどもみたい。きっと、どんなシチュエーションでもいかなる関係であっても態度がさほど変わらないタイプのように思う(そうだといい)。 なんでもたのしめる。それが「こどもみたい」の個人的な定義。「こども」といっても、危うさはぜんぜんない。むしろ安心できる懐の深さ。こども心をおおきめの懐でぴょんぴょんあそばせているおとなだ。そんな精神性につられて、しぜんとこちらもたのしくなる。 菊地さんは、秋のよそおいだった。 人混みで傘はささない。身動きがとれなくなるし、傘同士がなるべく接触せぬよう気をつかって神経がすりへる。濡れたほうがよほどラクだ。どしゃ降りだってかまわない。傘を閉じて早歩きで人混みをさっと抜ける。すると妙な爽快感をおぼえる。これはエスカレーターの行列を尻目に階段を軽快にのぼっていくときの感覚と似ている。 幼いころから、エスカレーターに乗らなかった。階段を選びたがる。物心ついてから現在までそう。親に奨励された記憶もない。生得的なのかな。この気質はなんだろう。みずからの足で移動できないと直感的に気持ちが悪いのだと思う。ムズムズする。 どこか「いち抜けたい」みたいな気分もある。抜け駆けしたい。エスカレーターより早く上に到着して、ひとりで待つ。そのほんのすこしのなんでもない時に息をつく。だれかと歩調をあわせることが苦手なのだろう。

日記704

日常的に写真を撮りながら、なにを撮っているのかいまいち判然としない。「こういう写真を撮っています」みたいな説明がむずかしい。なんとなくのカテゴライズだと「過ぎたもの」が多い。痕跡。主体が消えて、あとに残ったもの。 もう誰もいない。置いていかれた。ついていけなかった。捨てられた。はぐれてしまった。余分なもの。でも、まだ居残っている。迷子のように。そうしたものに共感がこもる。共感なんだと思う。 「まだある」ということ。まだだ、まだ終わらんよ。そう、終わらない。誰かにとってはもう、必要なくなったらしい。だけど、あなたはまだつづいているね。わたしもおんなじ。それはたとえば道端に置かれた飲みかけのアイスコーヒーだったり。よく見るとMサイズ。 あとはもうざっくり「いい感じのもの」を撮る。 人間の心理は自動的に流れる。時間とおなじように。たいてい意志に依らず流されている。つい無意識にやってしまう行動は多い。抵抗はむずかしいけれど、ことばが心理時間の流路をつくる仕切りになりうるのだと思う。 「二つある」と彼は言った。「まず、宇宙全体をきちんとするなんてことはできないと認めること」 「そうして二番目は、それでもほんの小さな領域を、まさにそうあるべき状態にするということ。粘土の塊とか、四角いキャンバスとか、紙切れとか、そうしたものを」 tumblrでみかけた引用。ヴォネガットの講演『これで駄目なら』(飛鳥新社)より。本は読んでいない。古書店で買おうか迷って買わずにおいた記憶がある。お金がなかった。円城塔さんの翻訳。興味深いのは、順番としてまず「できない」が最初にくるところ。 最初にあきらめちゃう。でもそれは、ごくあたりまえのことだった。自分が宇宙全体の中心を担っているわけではないのだから。やりようがない。どうしようもない。しなくてもいいことは、べつにしなくていい。わたしはとてもちいさい。 そうやってひと通りあきらめたのち、残った少しの領域に手をつける。そこへ線を引く。あーでもないこーでもないと。気長に引きつづけること。粘土なら練りつづける。角を立てたり、切り離したり、くっつけたり、包み込んだり。それが「まさにそうあるべき状態」としての、流れを仕切るものとなってゆくといい。 おおきな「わからない」のなかに、ちいさな「わか

日記703

死んでる蝶と、生きてる蝶。 だいぶ前にみた草間彌生の作品に、「死の美しさ」というタイトルがあった。彼女のすべての作品がそうであるように、なんだかわからないやつ。たぶん臨死状態に至って初めて「あれ?この感じ草間彌生のやつじゃん!」となるはずのやつ。進研ゼミでやったところだ!みたいなノリで。芸術は死の予習。あるいは復習。 だが果たして、死の感覚は美的なものなのだろうか。死んじゃう感覚。ほんとうはたいしたことのない、拍子抜けしちゃうようなおマヌケなものかもしれない。生理現象のひとつに過ぎない。屁が出るような感覚の。あ、でちゃった。やだわ。コレデオシマイ。 どうであろうがわからないし、それに人間はなかなか果てない。自分をかえりみても、思っていたより果てない。しぶとい。しぶとい鼻毛だ。しかし鼻毛を抜く行為が死につながる危険性もあるらしい。あんがいあっけない。このあっけないおマヌケさもふくめて、まさに鼻毛といえるだろう。わたしたちの生は鼻毛そのものだ。つねに死と隣り合わせの。ロシアン鼻毛だ。 どれだけ抜けたら死に至るのか。果ては見えない。果てのなさゆえ、そこに美しさも投影したくなる。魔がさすのだ。鼻毛も投影したくなる。あんまり果てが見えないせいで。ときどき最果てを見たふりをして、たのしんでいる。くさいものには蓋をして、ときどき開けてたのしむんだ。 藤田一照さんの『現代坐禅講義 ――只管打坐への道』(佼成出版社)という本を読んでいて、ふと「禅とか仏教とかって、自分らがいかにヒマかを競い合うような面があるのではないか」と思った。「競い合う」は語弊があるけれど、忙しない世の中と対比するイメージとしておもしろいからそう書いてみる。 本には「坐禅をしてもなんにもならない」とある。ぱっと見では坐っているだけ。そしてじっさい、なんにもならないらしい。思うに、ヒマのなせる技である。「ヒマ」とは言い換えると、「やってない」ということだ。 ついつい気がつけば「やってるアピール」をしちゃう自分がいる。あれをやってる、これをやってる。俺はやる。やるぞ。やってやる。やってやるってー!!もはや越中詩郎と化している。人間サンドバッグである。サムライ・シローさんである。それはそれでかっこいいおじさんなんである。悪くない。 逆に坐禅は、「やっ

日記702

8月28日(水) 陽の落ちかかるころ、慣れない土地の住宅街をほっつき歩いていた。細い路地で、ふっと入浴剤の香りがした。通り過ぎるほんの数秒だけ。選んだ入浴剤がこの街の空気にもなることを知ってか知らずか。漂う。カルキと雨上がりの夜気が入り混じった、お風呂場の香り。たぶんヒノキっぽい。やや蒸し暑い夕刻だった。このおうちは、いつも欠かさずお湯を張るのだろうか。うちはもっぱらシャワーで済ませている。夏は湯船につからない。節約する。 ひきわり納豆を不器用な左手でかきまぜると、最初はうまくぜんぶまとまってくれない。ひきわりだとわかりやすい。粘りが途切れて、散らばる。箸先の遠心性をキープしつづけないと。利き手の右でなら、ちゃんと包括的に全体をかきまぜられる。 一定のリズムと速度で、お箸をまわす軌道をだいたいそろえてぐるぐるさせる。その運動の持続により粘りの重みがあらわれてくる。粘りを手繰ればたぐるほど、細かく割れたものが重みをともない寄り集まる。豆の細片は切れば切るほどよくまとまる。 詩人のポール・エリュアールは、詩の着想を得るために部屋をぐるぐるまわりながら民謡を歌っていたらしい。そんな逸話が『詩の誕生』(岩波文庫)という本にあった。谷川俊太郎と大岡信の対談本。たしか大岡信の発言だったと記憶する。 これがひきわり納豆をかきまぜるイメージと重なる。ことばをかきまぜるためのおこない。エリュアールはおそらく、民謡のリズムと速度に身体の軌道を乗せて回転することにより散逸する記号の断片を手繰り寄せていたのではないか。自己に内在することばの粘度を上げて接着させる運動、みたいな。想像すると奇行めいているけど、なんというか、詩人なんだからしょうがない。 あるいは盆踊りなんかとも重なる。音楽でぐるぐるまわって、なにかを寄り集めている。場に特有の粘り気と重みを生み出す。真夏の夜の遠心性に巻き込まれるものは何だろう。死者の魂のごときものかしら。よってたかってまわる。ゆるくまとまるリズムに乗って、ひとつの場所を曲がりつづける。見慣れているけれど、これもまた奇行のごとし。日常がわずかのあいだ非日常とかきまざる。 渦に半身を委ねる。渦がための迂路をたどる。まわる行為とは「うながしの形態」なのだと思う。詩のきっかけをうながしたり、夏夜の気分をうながしたり、納豆