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10月, 2019の投稿を表示しています

日記708

とあるイベントに行った。人がおおぜい集う。その写真を知人に見せると、「人がおおぜいあつまる場所で、誰もいない写真ばかり撮ってる」といわれた。自分でもそう思う。「なんのイベントかまったくわからない」とも。 写真はほとんど無思考・無目的で撮る。無目的性だけが本義。のはずが、ふりかえってみると共通性があって、一定の視覚の枠組みがほの見える。おなじ目的のもとに、おなじひとりの人が撮ったのだろうなと思う。くせがある。ふりかえれば撮影者の面影が浮かぶ。それがわたしなのかどうかは知らない。 人間をむやみに撮ってはいけないと思う。すこしだけ、禁忌に感じている。「魂が抜かれる」と父方の祖母が話していた。それに習ってか、父もおなじことを言っていた。わたしも幼少期から「抜かれる」と聞かされていた。みごとなすりこみ。 父は半ば冗談めかしていた。幼いころわたしはそれを半ば、本気にしてしまったフシがある。我ながら純粋に。祖母も半分くらい本気。「本気→冗談→本気」という流れの継承。3人とも「半ば」は共通。向きが異なる。本気のような冗談。冗談のような本気。 写真をずらずら並べると意味ありげに感じる。でも意味はない。なんだかんだ意味づけてみたくなるけれど、ほんとうは歩きながら目にとまったものを考えなしに拾っただけ。歩行中は、3分の1くらい寝ているのだと思う。無意識で歩く。いちいち意識しながら足を動かさない。視界もそう。勝手に過ぎる。歩きながらうつる風景は、夢の記憶の断片にちかい。 無意識を浚う。そぞろに浚われた断片を束ねる芯としてのことばが〈わたし〉というひとつのまとまりをかたちづくる。自分のことばで束ねなくとも、まとまった画がそろっていれば他人が勝手に統合してくれる。 名前と紐付けて、「この人っぽい」と。あるいは「路上観察っぽい」とか。「あれっぽい」「それっぽい」。既存の枠組みをあてはめて理に落とす。なんでもいい。わたしの名ではなくとも。 ことばは「埋めぐさ」の側面もある。意味のすきまをどう埋めるか。写真と写真のあいだを埋める論理はなにか。未だ意味するところのないすきまが意味の育つ触媒となる。常日頃、うまいこと空欄を埋めたいと思って、どこか気持ちがうろうろしている。 すきまの多い配置には意味をはめこんで整理したくなる。コンビニ

日記707

正しくありたい。でもぜんぜん正しくなんてなれない。その循環。あやまつ自己を視野に収めつづける。正しくあろうとする方法として。「知る」ためには、無知の自覚が不可欠であるように。すなおに「知らなかった」とおどろくこと。 わからない。保証のなさだけが、ことばを発する動機なのだと思う。疑い深い不信心な想いがことばとなってあらわれる。信じたい。でもぜんぜん信じられない。その循環だとも言える。語るたび裏切りを繰り返す。自己の度し難さを視野に収めつづけること。 信ずべきものを、信ずべくがゆえに、いかに信じていないか。個人的に信頼のおける方々の語りはみなそのようなおもむきを帯びていると思う。すくなくともわたしは、そのような人間だけが信頼に値するのだと感じる。自己をいかに解体するか。いかに意識の代謝を機能させるか。合成と分解のサイクルによって平衡をたもつ。永遠に壊れないかのようにふるまうものは、うそくさい。 言語には、成り立とうとしているけれども、同時に壊れようとしている力が含まれていて、だからこそ生きている。と、多和田葉子は書いていた。そうだ。「生きているということ」がすべての前提にあるのだった。思い出して、びっくりする。あたりまえすぎるから。でも、見落としがちな事実なのだと思う。あまりにも自明な傍らの謎。 生きているということ。 その、生命力がこわい。 ゴキブリのキモさについて友人と何気なく話していて、ふと思った。ゴキブリはむきだしの生命力を誇示してくる。強烈に「いる」のだ。いるいるいるいる。めっちゃいる。どっかにいる。家で見つけると、気になってしょうがない。殺しても殺してもいる。意識の一部がごっそりもっていかれる。 人間の赤ちゃんも同様にこわい。あいつらも生命力のむき身だ。生まれてからしばらくはもう全力でずっと「いる」。丸出しでいる。ただただ生きている。その特有の磁場に意識のリソースをもぎとられる。もはやいないことにはできない。全存在を賭け、本気でいるのだ。 「赤ちゃんとゴキブリはその点で同じ」と乱暴に言い放つと、ぽかんとした空気になってしまった。いささか直感的に話しすぎたせいだろう。「生命力」といえば、ゴキブリと赤ちゃんの二大巨頭がまず浮かぶ。冗談めかしたが、とくに奇をてらったわけではない。 「いる」から考えるとわかりやす

日記706

9月23日(月) 9月はトークイベントに、2回。気分が落ちているとき、専門家の話をゆったり聞くと活気づく。行き詰まりがちな意識の消化が促進される。勉強にもなるし、ひとつ良い対処法をみつけたと思う。十代のころは閉じこもって深夜ラジオの録音をえんえん聞いていた。それの延長か。 都甲幸治さんと五十嵐太郎さんのトーク。神保町ブックセンターにて、「現代建築と現代文学」。アメリカ文学研究者の都甲さんがゲストを迎えてお話する『世界文学の21世紀』というシリーズの四回目。自分が行くのは初回の「ヒップホップと現代文学」以来。そのときと比較すると、ずいぶん腰を据えてじっくり話し合う回だったと思う。 都甲さんは見た感じ、ご自身の好きなポイントから話を始める。メモを参照しつつ。パーソナリティが先に立つ語り出し。対して、五十嵐さんは資料的な堅い知見から積み上げるように語り始める。主観的なパートは、まず脇に措く引いた語り口。たぶん、そんなおふたりの遠近感が徐々に噛み合ってじわじわと落ち着きが醸成されていた。 日が経ってしまったため記憶があまりない……。やはりすぐに書き留めないといけない。反省する。「村上春樹の小説は、近代から現代にかけて生じた人間の苦悩をつかいやすくパッケージ化している」というようなお話が印象に残る。 伝播力の高い物語は、ひとつの時代の感情のいれものとして機能している。それを軸にべつの時点からまたべつのいれものがつくられる。行き渡った国際様式が、さまざまな地域でローカライズされる。読まれれば、書かれる。いれものからいれものへと感情の形式が書き注がれていく。 お客さんはどちらかというと建築系の方が多かった印象。質問が建築寄りだった。わたしはただ、気分転換に来た人間。どちらにも興味はあった。ことしの初めに、平田晃久さんの『建築とは〈からまりしろ〉をつくることである』(LIXIL出版)という本を読んでいた。薄めで、密度の高い本。ソリッドな文章は「建築家っぽい」となんとなく思う。 都市とは、限られた地表面に対して表面積を増大させるはたらきである。p.48 こんなふうにことばをするりと抽象化させる記述は気持ちがいい。抽象は連想の隙を呼び込む。表面積が増える理由のひとつは、流入するものを消化・吸収するためだろう。まるで腸壁のように。膨大な人口