スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

4月, 2021の投稿を表示しています

日記781

  この写真を撮りながら、なぜか「ベクション」ということばを思い出した。なぜか。視覚誘導性自己移動感覚。英語でvection。実際には止まっているのに、視覚的な効果で移動しているかのような感覚になる現象のこと。   停車中の列車から、動き出した別の列車を見ると、あたかも自分の乗っている列車が動いているように感じることがある。これは、日常生活でしばしば経験できるこの現象の一例である。 視覚誘導性自己移動感覚 - Wikipedia これを「トレイン・イリュージョン」と呼ぶらしい。日常にひそむイリュージョン。なんにでも名前がついている。 なぜベクションを思い出したのか。おそらく妹尾武治と鈴木宏昭の共著『ベクションとは何だ !?』(共立出版)の紹介文から派生したのだろう。数日前に読みたいと思い、メモしていた。   ベクション(視覚誘導性自己移動感覚)というニッチな心の現象について徹底的に知るための、これでもかというほどの情報を盛り込んだ驚くほどニッチな一冊。 適所、隙間、生態学的地位などを意味するニッチ。写真の変なステッカーはまさに「驚くほどニッチ」な位置に貼られている。狭い地位にぴたっと。適材適所という感じ。キーワード、「ニッチ」から転じてベクションが思い起こされたのだと推察する。 記憶の引き出しは自分のコントロール下にないと、つくづく思う。勝手に引き出されたり、勝手にしまわれたり。記憶は記憶で勝手にやっている。わたしには無意識が高速でやってのけることを、あとから意識的に追いかける癖がある。目を覚ましたとき、ぼんやり夢の意味を解剖するように。 歩くとか立つとか、無意識にできるかんたんな動作も「これ、どうやってんだろう?」とよく思う。意識ってやつはどんくさい。なんもわかってない。後追いの産物。ぜんぶあとづけ。「わたし」なる人物も、後追いの産物だろう。いつもおくれてやってくる。というか、探さないと迷子になる。見つからんと実在が危ぶまれる。

日記780

「ユーモアは基本的に少数派の武器だろう」ときのう書いたが笑いは単に伝達の方法であって少数も多数もないかと思い直す。「コモン・センス」との関係でいえば、きっと先に共通の基盤があってのち笑いが成立する。コモンが先で、ユーモアが後。こう整理したほうがすっきりする。きのうは寝ぼけていた。 今朝、風呂掃除をしながらだいぶ前に読んだK.デイヴィッド・ハリソン『亡びゆく言語を話す最後の人々』(川島満重子 訳、原書房)のエピソードを思い出した。カリフォルニアとネバダの境界に住むネイティブアメリカン、ワショ族の青年ダニーへのインタビュー。  インタビューの最後に、英語よりもワショ語のほうが表現しやすいこと、逆に英語のほうが言いやすいことが何かあるかと訊ねた。英語にはない、ワショに特別な考えや見方ではないかと私は予想を立てていた。  ダニーは躊躇なく答えた。「ジョークです。ワショ族の言葉でジョークを言うと、本当におかしくて、すごく生き生きと響く。でも英語に置き換えてしまうと、どこか違うんです。あとは、腹が立ったときかな、怒ったときは英語を使うほうがいいですね。僕らの言葉にはあんまり怒りの表現がないんです」p.308 笑いと帰属は深く関係していそうな気がする。わたしは笑うとき、ふいに自分が呼び出されるような、再帰的な感覚に捉われる。ジョークは呼び声にも似ている。だから「少数派の武器」という感覚も、あながちまちがいではない。と、ふたたび思い直す。……いつも場当たり的に書いている。   「少数派」「ユーモア」「呼び声」の脳内検索で思い出したのは外山恒一さんの政見放送だ。このパフォーマンスのポイントはいうまでもなく、さいごの「奴らはビビる。……私もビビる」にある。省察的なフレーズを挿入することで、「じつは話がつうじる人だ」と視聴者は安堵する。そこで笑いも生じる。 言い換えると「私もビビる」の部分だけ、ふつうの人になる。奴らはビビる、私もビビる、さらにいえば、これをご覧のあなたもビビる、とつたえている。つまり全員一致でビビる。みんなに共通の感覚を提供するひとことであり、ここが呼び声の入り口として機能している。目線が合い、はっとする。そして恋に落ちる……。みたいな構造。 「少数派」に呼びかけつつ、「私もビビる」だけは多数派の見方とも合致するのね。文脈が統合されて、「別世界の人ではない」と理解でき

日記779

シャフツベリは、人を畏怖させるものとしての宗教に懐疑的で、次のように語る。「閣下、要するに、私のみたところ、宗教を陰鬱に扱うことによって、宗教がこのように悲劇的なものとなり、事実、このように多くの暗い悲劇を現世にもたらしているのです。」そしてシャフツベリは、トマス・モア、シェイクスピアと同じ英国人らしく、ユーモアの効用を説く。 「上質のユーモアは狂信に備える最善の防衛手段であるだけでなく、敬虔と真の宗教の最善の基礎なのです。」   上智人間学会『人間学紀要 40号』、五十嵐雅子「シャフツベリの思想に見る寛容」(pp.131-132)より。調べものの途中でたまたま見つけた論文。なんとなく気になり、シャフツベリを検索してみると、12人いてビビった。イギリスの伯爵位として、代々受け継がれている名前らしい。引用中のシャフツベリ伯爵は第3代(1671-1713)。  個人的な直感だと、宗教とユーモアは相容れない気がする。それを「敬虔と真の宗教の最善の基礎」と説くシャフツベリなる人物に興味が湧いた。きょうの発見。あと、前々から「寛容」という概念にも興味がある。しかし、シャフツベリの邦訳はないのね。この論文は「 学術情報リポジトリ 」からpdfでダウンロードできる。  シャフツベリは、宗教や政治においてのコモン・センスを語ることの困難さに言及する。「共通の」とは普遍性を持つ言葉であるはずなのに、何がコモン・センスであるのか、多数派(majority)が決めてしまうのであれば、今日コモン・センスであったものが明日は違うということになる。また、イギリス人やオランダ人にとってのセンスが正しいということになれば、トルコ人やフランス人のセンスは間違っているということになる、と彼は述べている。(pp.134-135) 宗教とユーモアは、この「コモン・センス」の捉え方において矛盾をきたすのではないかと感じる。言い換えれば、普遍性と相対性をいかに架橋するのか。ここに興味がある。これは何度も書いている、「みんな」と「ひとり」の問題と並行的に思う。結局いつもおんなじことを考えている……。ユーモアは基本的に少数派の武器だろう。 ちなみに引用した論文の著者である五十嵐雅子氏は、いわゆる「 悪魔の詩訳者殺人事件 」で犠牲となったイスラーム学者、五十嵐一氏の妻。「五十嵐雅子さんの単著はないかな」と検索してみ

日記778

ぬか床が自分に似てきている。ペットが飼い主に似るように。具体的には、匂いが自分の体臭にちかいような。ぬか漬けの食べすぎで、わたしがぬか床に似てきているのだろうか。飼い主がペットに似るのか。どちらもあるのか。ぬか床は手の常在菌も培養するらしいので、冗談ではなく似るところはあるんだと思う。 なんか気持ち悪かった。山椒を振ってごまかしておく。あした煮干しも入れておこう。     4月の満月は「ピンクムーン」だそう。写真はモノクロに加工したため、青白ムーン。月と猫はつい撮ってしまう。二大「なんか追っかけちゃうもの」。 いまに始まったことではないが、本を買うだけ買って読む時間がない。でも家にあれば「いつか読もう」と思える。もうそれでだけでいい気さえしてくる。まるで平井堅の「瞳をとじて」だ。瞳をとじて君を描くよ、それだけでいい。それしかできない……。 街の人出は微妙に減った。きょう街角で拾った声。「あの道を果てしなぁーく果てしなぁーく行くとマックがあるんだよ」。果てしない道の先にマックがあるらしい。スーツ姿の太ったおじさん同士が話していた。知らない人の会話を積極的に記録していきたい。すれちがいざま、一瞬だけ聞こえる意味不明な断片。こんなちょっとしたものにおもしろみを感じる。

日記777

 そこでいま、この「生」の波上曲線の上に、もしも、このような個体の「死」を記入しようとすればどうなるか? それは、この波の頂点から、長短さまざまに枝分かれした1本の引込線の突端に、1個の点として打たれるよりないものとなろう。ひとびとにとってどんな言葉をも超絶したと思われるこの出来事も、以上のことから、それは、生の本流の上には位置することのない、いいかえれば、食から性への位相転換に付随して起ったひとつの“挿話的”な出来事であることがただちに推察される。   三木成夫『生命形態学序説 ―根原形象とメタモルフォーゼ―』(うぶすな書院、p.21)より。種族保存の営みである「生」のマクロな流れからすれば、個体の「死」は1個の点、ひとつの挿話であるという。逆にいえば、そんな挿話の過去から現在に至る総和がこの世界なのだろう。歴史とは、挿話の総和。日々に挿話を加え、ミクロな1個の点を打つ。それが日記。 4月12日から、まいにち更新を再開して、きょうで2週間。あんがいモリモリ書けるので安心した。強制的に書くほうが性に合っているのかもしれない。「やらされる」のたいせつさをこのごろ実感する。やろうとしなくても勝手にまわる、そういう状態がなんにおいても理想的。 「好きで書いているのだろう」と思われそうだけれど、そんな積極的なものではない。「乗りかかった船」に過ぎない。ふわーっとなんとなく漕ぎ出したら、降りる地点がわからなくなってしまい、ぐるぐる漂流しつづけている。出発点も目的地も見失って、もはや方向性もクソもない。どうしよう。しかし、これでいいのだ。 写真に関してもそう。始まりも終わりもわからなくなって、単に癖で撮りつづけている。そうなってしまった流れにしたがう。個人的な感覚だと、「好き」なんてもんはつづきゃしない。人間関係とおなじだ。しょうがない。たいていの人間関係はしょうがなくて、どうしようもなくて、いかんともしがたくて、容赦がない。それでも、なんとかやっていく。 「生きていることとは四季色とりどりの移り変わりにこの肉体がしたがうこと」というゲーテのことばが『生命形態学序説』には引用されている。「したがうこと」が生きることのきほんにはあるのだと思う。といっても、単にしたがうばかりでも始まらない。最初の漕ぎ出しには抵抗力が必要になる。初手のふんぎりさえつけば、あとは否が応でもまわってしま

日記776

清水ミチコにならってホーミーでそのへんのカラスを呼んでみたが、ダメだった。ふつうに逃げる。逆に警戒される。ハトも逃げる。野生相手は難度が高そうだ。しかし、寄ってたかってバサバサこられても「ウワアアアアア」となるだけだから、こなくてよかったか。 介護施設にいる祖母が「なんでもいいから本がほしい」と言っていたので、ブックオフで探す。均一棚から『これが俺の芸風だ!! 上島竜兵伝記&写真集』(竹書房)を手にとる。サイン本だった。パラパラ開き、棚に戻す。祖母には適さない。下ネタが過ぎる。写真も際どい。でも、わたしは嫌いじゃない。自分用に買うか一瞬だけ迷う。 買ったのは『作家の猫』(平凡社)と、梅佳代の写真集『男子』(リトル・モア)の2冊。活字よりヴィジュアル寄りの本を選んだ。動物とこども。帰りに、緊急事態宣言で図書館が閉館すると知った。不当だと思う。 夕方、激しい雨が降った。写真の、アスファルトに書かれた「すき」は流されて消えただろう。傘がなくて、わたしも風雨に流され消えそうだった。思考は自由ではない。どうしようもなく自由ではない。と、謎の呪詛を頭の中で唱えながら濡れていた。

日記775

「想像なくして人は生きられない」と、きのう書いた。ここでいう「想像」は要するに時制だ。時制に失調をきたすと社会から置き去りにされてしまう。「死にたい」ということばはおそらく、「あるひとつの時制から離脱したい」と言っているのだろう。 わたしが「死にたい」と感じるときはたいてい、本気で死にたいわけではない。「じゃあ、どういう意味なんだ?」と積年の謎だった。つまり時制への拒否感なのだ。語学が堪能だと「時制への拒否感」をコントロールしやすくなるのかもしれない。いや、きっと語学だけではない。    そこに一冊の本を置く。ただそれだけで、何でもないような日常の光景のなかで、ずいぶんまわりの風景が変わってくる。というか、まわりがはっきりとよくみえてくるということがあります。「もう一つ余分に次元をもったいま、ここの人生」。作家のミヒャエル・エンデとの会話でエアハルト・エプラーという人がいったその言葉がわたしは好きですが、本とつきあうというのは、その「もう一つ余分に次元をもったいま、ここの人生」への欲求なんだとおもう。p.109   長田弘『笑う詩人』(人文書院)より。「あるひとつの時制から離脱したい」という欲求は、この「もう一つ余分に次元をもったいま、ここの人生」への欲求につながる。読書だけではなく、音楽を聴いたり映画を観たりしてもいい。なんでもいいんだ、余分な次元なら。 エヴァンゲリオンの庵野秀明監督は「痛そうだから」自殺しなかった。「痛そう」という想像。これがいちばん原始的なかたちの「余分に次元をもったいま、ここ」なのだと思う。自殺していない「いま、ここ」においては痛くない。実際の痛みはやってみないとわからない。しかし想像するに、痛そうである。この余分な次元。 余分な次元は自分でつくることもできる。文章を書いたり、楽器を奏でたり、映像を撮ったり。歌ってみたり、踊ってみたり。さいきんわたしは、ホーミーの練習をしている。モンゴルやトゥバで盛んな倍音唱法。余分が過ぎる気もしないでもない。 ちなみに清水ミチコさんはホーミーで動物を呼べるらしい。   わたしもたぶん呼べる。

日記774

痛みを取り除く治療と、痛みを取り戻す治療。ふたつあるのだろう。うつ病治療は後者の、痛みを取り戻す治療に該当する。と、素人ながら考えた。きのう自分が書いた内容をふりかえって、こういうことかなと。 患者さんがごくふつうに「痛い」と言えるようにする。痛みはありすぎても、なさすぎてもいけない。治療はつまり、痛みの正常化といえる。痛すぎるならばそれを緩和する。痛みが消え入りそうなら、すこしずつ痛みの賦活を手伝う。うつ状態は無感覚的で、生きるために必要な痛みが消え入りそうな状態なのだ。 「治療」というと痛みを取り除くことばかりをイメージするけれど、逆もある。この洞察は個人的におおきな発見だ。痛みを付与する方向の治療もあると。なるほど。完全なるひとり合点だけど、ものすごく納得感がある……。 ここで書いている「痛み」には、「痛そう」という想像もふくまれる。というか、想像的な痛みこそが重要なのだとわたしは思う。想像なくして人は生きられない。 4月23日(金) 油断して薄着で出かけたら、夜風が寒かった。そんな中、警察官に囲まれている全裸のおじさんを見た。年に一回は見る気がする。気のせいだろうか。春らしいと思う。彼は春の使者なのだ。しかし春の使者とはいえ寒そうだった。服という便利なものがこの世にはあるよと教えてあげたくなった。 金曜日。疲れが溜まっている。なんとなく街の人の数が減ったかな。いつも自炊しているが、きょうは中華料理店のお弁当を買って帰った。とりあえず眠りたい。  

日記773

雪見だいふく。  それと、外来診療を続けている患者さんがすっと元気になった時は、別れを告げに来た時と思ってもいい。わけもないのにすっとよくなっているんですね。帰りに飛び込もうかと思って来ている時は、うつ状態がずいぶんよくなるんですね。p.177   ようやく読み終えた『座談会 うつ病治療 ―現場の工夫より―』(メディカルレビュー社)。引用は、神田橋條治医師の発言。「出口が見える」とか「終わりがある」とか、そういうことが人にとってどれだけの希望となっているかを思う。たとえそれが「死」という出口であっても、そこには希望がある。「終わりのなさ」はどんなものであれ、つらい。 楽しい出来事もえんえんつづくとなれば徐々に疲労をきたす。どんなに美味しい食事でも、永遠にそれしか食べられないとなれば地獄だ。終わることが何よりの希望であり、贅沢なのだと、わたしは感じる。何もかも終わるから大丈夫だと、いつも自分に言い聞かせる。何もかも終わるから。  終わりなき深みに嵌まらないためには、日々の細かな終わりを愛おしむといい。先の見えない、数え切れないほどの明日を、ひとつひとつ数えるように。静かな声で、ちいさく刻む。ありがたいことに、きょうも終わってくれる。2021年4月22日はもうやってこない。 毎日毎日が、私たちに、消滅すべき理由を新しく提供してくれるとは、素敵なことではないか。 エミール・シオラン『告白と呪詛』(紀伊國屋書店)の一文。悲観的、虚無的といわれる思想家のシオランだけど、じつは希望を語っているのだと、わたしにはそう思えてならない。つまり、終わりを語っている。彼のアフォリズムはこの世の出口を眼差すための、これ以上ない贅言だ。 「贅言」は通常、悪い意味で使われる。無駄で余計なことばを指す。しかしあえて「贅言」として讃えたい。必要ではなく、不要な視座からものごとを見る。そこにこそ人生の贅沢がある。ポップに変換するなら、「すべて忘れて帰ろう」と言っている。わたしの中では藤井風の「帰ろう」とほぼおなじである。ほぼ。 話を戻そう。 神田橋先生いわく、「ありがとうございました。先生によくしていただいて、お陰様で……」なんて言い出す患者さんは危ないそうだ。「感謝」と「終わり」はおそらく深く関係している。弔事に至ってはじめて赤塚不二夫への感謝を述べたタモリを思い出す。 つづく中井久夫のエピソード

日記772

ふつうであり、特別である。ワン・オブ・ゼムであり、オンリー・ワンである。「みんな」であり、「ひとり」である。どちらも然り。ふつうに特別。これがいちばんニュートラルでバランスのとれた精神状態なんだと思う。個と集団が継ぎ目なくスルッと通じている状態。 たとえば人前で何か発表するとき、緊張してしまう。それは自分が矢面に立つオンリー・ワンになるせいだ。先日、野球中継を見ていたら「どうすればマウンドで緊張しなくなりますか」という視聴者の質問に解説の佐々木主浩さんがこう答えていた。「みんな緊張するよ」。 簡にして要を得たご回答だと思う。つまりオンリー・ワンに偏った精神状態を、ワン・オブ・ゼムに引き戻すことを言っている。ひとりで緊張するとガチガチになるから、そこへ「みんな」を注入する。みんな緊張するんだ。そうすると、すくなからずリラックスできる。 逆にワン・オブ・ゼムへの偏りには、オンリー・ワンを呼びかけたほうがよい。たとえば「自分はいくらでも替えの効く存在だ」とヤケになるとき。どうせ誰でもいいんだ、大勢の中のひとりだ、物言わぬ数字だ、と。現在のわたしは、こっちに偏りやすい。十代二十代のころはオンリー・ワンに偏りやすかった。ライフステージの変化によって、精神的な偏りの傾向も変化するのだと思う。 ブログを書くことはたぶん、オンリー・ワンの注入になる。しかしこれも数多ある個人ブログのひとつに過ぎない。路傍の石におなじと半ばしらけつつ。あまり自大にならぬよう。こうしたバランス感覚がたいせつなのだと心得る。 オンリー・ワンばかりを主張したり、ワン・オブ・ゼムばかりを主張したり、そうなってくるとバランスが崩れている。人の感情はおそらく、このどちらかの偏りをつたえている。すくなくともわたしはそう聞いて、そう読む。自分自身に関しても、そう捉える。 偏りは病のもとでありながら魅力にも変わりうる。なので、均せばよいというものでもない。わたしは基本的に憂うつな人間だが、それが悪いとはまったく思っていない。自分のネガティビティに自信をもっている。これもひとつの視点だと。そうなるとむしろポジティブである。 自己受容も均す方法の一種といえば、そうなのかもしれない。 「均す」というより反転か。   ともあれ。きのうは「オンリー・ワンへの偏り」を強調したけれど、「どっちもあるよな」と考え直したのだった。きのう

日記771

       ここでミスをした、叱られたなどの「状況」に陥った時のことを考えてみましょう。「自動思考」つまりその人の考え方の癖が出てきます。それは、悲観的なものであったり、自分や他人を責めたり、自分と関係づけたりしがちなわけですが、それは決して誤った考え方とは言えません。問題なのは、その見方がオンリー・ワンになることです。数学や物理の答えと違って、状況に対する見方は一つだけとは限らないわけですね。そこで、元の見方を否定しないで「見方A」「見方B」「見方C」などいくつかの見方を加えて、元来の「状況」をバランスよく総合的に見ていけるようにする。言わば、「オンリー・ワン」から「ワン・オブ・ゼム」への転換、それを手伝うのが認知行動療法なんですね。pp.128-129     『座談会 うつ病治療 ―現場の工夫より―』(メディカルレビュー社)より、原田誠一先生による認知行動療法のご説明。以下は、わたしのズレた感想。 強い感情の発露はきっと、オンリー・ワンである自己の発露なのだろう。 「オンリー・ワン」がおびやかされたとき、「オンリー・ワンである自己」が主張を始めるのかもしれない。人の感情は「オンリー・ワンである自己」を物語る。喜ぶ人、怒る人、かなしむ人を、この視座から見ていたい。あるいは自分自身のことも。 恋愛なんかは顕著に「オンリー・ワン」がおびやかされる出来事だ。まさか、この僕が!この私が!みたいな。不思議な引力に逆らえず崩れてく。誰かに恋をしてしまう。そこで、強い感情とともに「オンリー・ワンである自己」が目を覚ます。オンリー・ワンをおびやかす相手に向かって、オンリー・ワンを主張する。反意の一種。 だいぶズレた感想である。       カン・アソル(Kang Asol)という韓国のシンガーソングライターが好き。数日前SoundCloudでたまたま聴いて、何回もリピートしている。自分は四六時中このくらいのテンションなのだと思う。いろいろ見たり聴いたりしていても、結局ベースはこういう感じ。かぎりなく眠りにちかい覚醒。 Jinhee JEON · 아무것도 아닐 거면서(sketch) 関連して、Jinhee Jeonというシンガーも好きになった。 だいたいおんなじ感じ……。          こんな方もみつけた。 Hyunseo Parkさん。 とてもいいですね。憂鬱と官能

日記770

 哲学者の立場はまことに悲劇的である。かれはほとんど誰からも愛されていない。文化史のどの章をみても、哲学は敵視され、しかも極端に相違した側面から敵視されている。哲学ほど攻撃と敵視に対して傷つきやすいものはない。哲学の可能性からしてたえず懐疑の対象となっているので、すべての哲学者の最初に手をつける仕事は、哲学の擁護である。哲学が可能であって無益なものでないという証明である。哲学は上からの攻撃にも下からの攻撃にもさらされている。すなわち宗教からも、また科学からも攻撃を受けている。真の哲学は大衆の支持などといわれるものを味わったためしがない。哲学者は「社会的責任」を遂行する人間といった印象をまったく与えない。p.11 『ベルジャーエフ著作集 第4巻 孤独と愛と社会』(氷上英廣 訳、白水社)より。ニコライ・ベルジャーエフは19世紀後半から20世紀前半に生きたロシアの哲学者、思想家。古本屋さんでなんとなく購入した。なんとなくながら、自分にとって得るところが大きい気もする。 読み進めると「哲学と神学の葛藤、個体的な思惟と集団的な思惟の葛藤」なんてフレーズに行きあたる。これは、ここで何度も書いている「ひとり」と「みんな」の葛藤そのもの。わたしはずっと、哲学的な感受性と宗教的な感受性の葛藤にもがいているのかもしれない。まー大それた葛藤だこと。 哲学は「問いにおいて科学に対立し、答えにおいて宗教と対立する」と永井均も『哲おじさんと学くん』(岩波現代文庫)に書いていた。   つまり哲学には二種類の敵がいるわけだ。一方には、そもそも問いの設定の仕方が非科学的だと言って非難する人がいて、他方には、答え方があまりに理詰めで人間の機微に触れていないといって拒否する人がいる。p.15 書き写しながら、いま、なぜかボルヘスの小説を思い出した。   ギリシアの迷路を知っているが、これは一本の直線だ。その線のなかで、じつに多くの哲学者が迷った。p.198 J.L.ボルヘス『伝奇集』(鼓直 訳、岩波文庫)。短編「死とコンパス」中のセリフ。ゼノンのパラドックスの話だろうと思いつつ、脱線してぜんぜんちがう連想をする。哲学者はひとつのことをしつこく考えつづける。比喩的にいえば、自己の直線的な宿命に殉じる人種なのではないかと感じる。 短期的に都度都度ものごとを考える人はいくらでもいるけれど、えんえんひとつのこと

日記769

きのう「写真と貨幣は似ている」と、トンチキな思いつきを書いた。きょうもきょうとてトンチキをつづけるなら、「写真家と貨幣発行主体は似ている」としたほうが正確かと思う。つまり、主体の問題を考えたかった。しかしトンチキだ。自分でもちょっと何言ってるかよくわからない。「写真を撮る≒お金を刷る」ということか。債務としての写真。みたいな。     4月18日(日)    新宿の写真ギャラリーPlace Mに立ち寄った。「旅しないカメラ10」というグループ展。やはり、写真は撮る人によって変わる。あたりまえか。各人べつべつの信用力をもって貨幣を発行している。債務のあり方が飾られている。そうやって見ると、より引き込まれるかもしれない。ギャラリー内は誰もおらず、静まり返っていた。 ひさしぶりの新宿。相変わらず道に迷う。人間が多い。にぎやかな二丁目の路地を抜けて帰る。「あいつキンタマがでかくてチンコがちっちゃいのよ!」と、どこからともなく聞こえた。爽やかな日曜の夕方だった。 靖国通りを歩きながら、藤井風の「帰ろう」を聴いていた。「帰る」と「忘れる」はセットなのか。忘れられない状態は、帰れない状態にひとしいのか。たしかに居場所のなさが記憶の淵源にはあるような。そんなことを思う。帰る場所とは、自分が安心していなくなれる場所だ。名前を忘れられる場所。   「きっといつかは帰りたいんだね?」 でもどこへ? 帰る場所はどこにもない。もう取り返しはつかない。 ただ記憶の中で、いくつもの声がひゅうひゅう鳴り響いている―― 住所、住所、住所、住所、と。 沼野充義『亡命文学論』(作品社)に載っていた、ニーナ・ベルベーロワの詩を思い出した。

日記768

地上の星。  人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である。俗にこれを芸術という。p.6     古本屋さんで『西脇順三郎コレクションⅣ 評論集1』(慶應義塾大学出版会)を買った。その帰りにブロッコリーとニンジンとホウレンソウを買って、おなじカバンに詰めた。   さいきん寒い。皿を洗いながら「写真と貨幣は似ているんじゃないか」と謎のひらめきを得た。わたしの感覚では、どちらも「切れる」ためにある。匿名的な性質があり、借り物である……。でもわからない。感覚だ。意味不明な思いつきでしかない。 雨音がする。  最近ときたま考える。本当は、圧倒的な量塊を持つ過去に押しつぶされないために住宅は在るのではないか、と。まじまじと見れば、過去は圧倒的だ。普段は考えないだけで、あるいは思考の外に追いやっているだけで、だれにとっても、どんな家でも、過去は圧倒的な量塊を持っている。  けれど、それをまともに受け止めていては、今を生きられない。建て主はもちろん、建築家もそんなものを受け止めていては設計はやっていられない。ある程度の効率の中で処理をしていく。それが経済社会の暗黙の了解事項だからだ。だから限られた時間のなかで、過去を切り離し、与えられた条件のなかでかなり無理をして形を与えようとする。pp.125-126 建築家、内藤廣の散文集『空間のちから』(王国社)より。雨粒が窓を打つ音から、この「圧倒的な量塊」ということばを連想した。雨の量塊もまた圧倒的で、なすすべがない。過去をせきとめるように窓をしめきり、部屋にこもる。住宅は環境を静止させ、打ちつける過去からわたしを守ってくれる。外の世界では追いやられた過去が鳴りつづけている。 部屋は自然環境に左右されない。よほどのことがないかぎり。かぎられた空間のかたちは、かぎられた時間のかたちでもある。過去にまみれている暇はない。しかしなお、過去の音は消えない。ぬぐいきれない記憶につまづく。ときに侵食される。それを食い止めるように忘却しつづける。 ブロッコリーの茹で汁でコンソメスープをつくった。

日記767

ヒップホップグループ、舐達麻のG-PLANTSとDELTA9KIDが大麻所持容疑で逮捕されたという。もうひとりのメンバー、BAD SAI KUSHはセーフ。twitterでは「まさか、あの舐達麻が大麻なんて!」みたいなネタが飛び交っていた。知っている人にとって、舐達麻と大麻はあたりまえに紐づく。名前からして「達磨」ではなく「達麻」だ。逮捕に意外性はない。 甘くやわらかいサウンドに非合法で叙情的なリリック。 初対面の人と、この曲をつうじて仲良くなった思い出がある。「1の位 10の位 100の位 さらにFLY」といっしょに笑いながら歌った。舐達麻には熱狂的なファンが多い。わたしは「一部で流行っているので勉強のつもりで聴いた」くらいのニワカリスナーだけれど、思わぬつながりをつくってくれたことには感謝している。 きっと「非合法な彼らのスタイルを許容できる者同士」って部分で心理的な距離が一気に縮まったのだと思う。そこまで受容してるんだ、と。わたしの場合、社会的には褒められたものではない部分でつながれる人とは関係が長くつづく。 不良っぽい人のほうが接しやすい。もしくは脛に傷のある人。隅に追いやられがちな人。フランスの作家、セリーヌが『またの日の夢物語』に書いた献辞が好きだ。 4月16日(金) 「汗くさいっすけど、どうぞ~」と機嫌よく靴を脱ぐ青年がいた。職務質問の現場だった。青年の服装は全身ダボダボの、いわゆるB系ファッション。それを警察官3人組が靴の中まで確認していた。何かを探しているようだった。通り過ぎた後ろで「靴下も!?」という素っ頓狂な声が聞こえた。そこまでして、何も出なかったらどうするのだろう。お詫びにピーポくんのぬいぐるみくらいあげてほしい。   きょうの電車のなか。『小規模マンション大規模修繕のカラクリ』(セルバ出版)という本を手にしたおじさんが座席でウトウトしていた。そのとなりでは京都国立近代美術館のバッグを持った40代前半くらいの男性が本を読んでいた。すこし距離があったので、なんの本かはわからなかった。くやしい。分厚くて小難しそうな単行本だった。

日記766

ひつじ。 一ヶ月ほど前から、利き手ではない左手で納豆を混ぜている。納豆はまいにち食べる。すこしずつ器用になってきた。うれしい。と感じて、気がついた。これってあれだ。もういちど引用しよう。『うつ病治療 ―現場の工夫から―』(メディカルレビュー社)より、神田橋條治氏の発言。  僕は、「いまから薬を減らしてみようと思うので、ニッパーを買ってきなさい」と。「錠剤を半分に切るためのものだから、手芸用のニッパーがいいですよ。包丁だと、錠剤を切った時にどこかへ飛んでいったりするからね」って。それで半錠ずつ減らしていくんだけど、同時に、上手にニッパーで半分に切れるようにトレーニングもする。うつ病患者というのは、熟練する、上手になるという志向ができれば、それがポジティブ・フィードバックになるような人が多いです。名人と言われるような人は、大抵うつ病になるような人です。技術の向上が重要な意味合いを持っているようなパーソナリティの人。そういう人に、ちょっとシンプルな精神療法を試みているんだ。p.63 「左手で納豆混ぜるの上手になってうれしい」みたいな、「ちょっとシンプルな精神療法」ってこういうことなんだ。いまのわたしは「うつ病患者」ではないけれど、つねに憂うつな気質ではあるので無意識にケアしていたのかもしれない。 たしかに思い返すと、自分のなかで技術の向上が重要な意味合いを持っている気もする。ものすごく腑に落ちたきょうの夕食だった。ものすごく腑に落ちた。       4月15日(木)   電車のなかで、目の前にいた若い女性のカバンに「圧強め」というバッジがついていた。「圧強めなんだ……」と思った。ここんとこ、まいにち電車のなかのことを書いている。電車のなか大好き人間みたいだけど、どちらかといえば嫌いだ。嫌いだからむしろ強く記憶に残ってしまうのかもしれない。 20代後半くらいのサラリーマンふたりが同僚の転勤について話していた。ひとり広島に飛ばされたという。「俺もワンチャン大阪行くところだったよ。残れてよかった」と。若い人はよく、「ワンチャン」と言う。「one chance」の略。好機をあらわす表現かと思いきや、悪い可能性にも使うらしい。ひとつ学んだ。残れてよかったね。 駅のホームで、男子大学生ふたりが「就職、誰よりも早く決めたいね!」と力強く宣言していた。「がんばれ!」と思った。知らない人の

日記765

バンクシーっぽいうさぎです。  エレクトゥスが最初に学習を開始したとき、いかなる脳も孤立してはいなかった。人間の脳はネットワーク化されている。まず、その脳は体の中でネットワーク化されていて、進化的に、また生理的に、他の臓器につながっている。しかし同じくらい重要なのは、脳は他の脳ともネットワーク化されていることだ。哲学者のアンディ・クラークが以前から言っているように、文化はわれわれの脳を「超巨大化」する。脳という器官は、文化の海の中で他の脳器官とつながる。この点は強調しておくに値する。pp.182-183 ダニエル・L・エヴェレット『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白楊社)を読んでいた。引用箇所、とてもだいじな洞察だと思う。きのう書いた「ほんらい、世界は何も切り分けられない」にもつうじる。人類にはいまもなお、分かれていないぐちゃっとした精神性が残っている。「個人」ではありえない。ぐちゃーっとしていて、だけどいかんともしがたく「個人」でもある。この矛盾について、いつも考える。この矛盾について。 言語が進化するにつれて、言語行為、間接的言語行為、会話、語りは、協働や、暗黙の(語られない)情報や、文化や文脈に大きく依存することは明らかだ。これまで言語が機能してきたのは、そのやり方でしかありえないからだ。p.386   言語には状況に則した切り離しがたい暗黙の情報がつねにふくまれる。そうとうな訓練を積まないかぎり、テキストをうまく腑分けして書く/読むなんて曲芸はできない。見ず知らずの者同士でも共有可能な読み書き能力は、ものすごくアクロバティックなものだと感じる。 「書かれてない事を勝手に推測しない力」というのはわりと訓練が必要で、主に数学でそれを鍛える。 — Ohkubo KOHEI (@kuboon) December 13, 2020     そう、数学は自分の文脈を脱しないと理解できない。勝手な推測をいれる余地はない。おそらく、多くの人が数学に困難を感じるポイントはここだ。イマココの文脈をぶっ飛ばすアクロバティックな訓練が必要になる。数学は思考のアクロバット。それだけに、身につければスイスイ飛べる。どこまでも飛んでいける。    この身体、この感情、この意欲といえば本来はすむところを人はなぜか、自分のこの身体、自分のこの感情、自分のこの意欲と言わずにはいら

日記764

傘の先っちょについてるヒラヒラです。 多くの人はめんどくさがるけれど、自分にとってはそこまでめんどくさくないこと。それが「向いてること」なのかもしれない。でも適当にやれてしまうぶん、自分ではなかなか気がつけなかったりもする。人から指摘されてはじめて、「めんどくさい」を攻略している自分に気がつく。 きのうの日記を読み直して、足したり引いたりした。どうしても短時間で書いちゃうと雑になる。雑でもいいんだけど、雑だと気になってしまう(よくないんじゃん!)。吹けば飛ぶよな個人ブログだからといって、あまり無責任でも悪い。めんどくさいことをやっている。   書き直す理由を煎じ詰めると、自分でも自分が何を考えているのかわからないせいだ。最初は特に文意が不鮮明。だから何度も読み直して、自分の考えを汲む必要が生じる。作者(自分)の気持ちを考える。推敲の余地は無限にあり、わかっていない部分はつねに残る。しょうじき、誰かに教えてもらいたい気持ちがある。「ねえ、いまわたし、なに考えてると思う?」。でもこんな奴、うざすぎる。 この質問は書物にぶつけているのだと思う。 『うつ病治療 ―現場の工夫より―』(メディカルレビュー社)を読んでいて、「自分のいいたいことはこういうことだったかも」と思った。引用は精神療法界隈で「達人」と呼ばれている、神田橋條治先生による持論の要約。    「文字言語というものは切り分けるものだから、本来グラデーションで流動するようになっている生理的な世界と一致している精神機能を切り分けることになる。文字言語が侵入してきて切り分けられたものに適応するように脳が機能させられていくところからいろいろな問題が起こってくる」というのが、僕の論なの。p.21 日記750 で長々と書いた内容がここに凝縮されている。だいたいこんなことをわたしも考えていた。神田橋先生がもっとかんたんにいってた。生理的な世界はグラデーションなのだ。というかほんらい、世界は何も切り分けられない。文字は道具であり、便宜だ。 便宜的な自己と、生理的な自己との葛藤がある。社会生活はきほん、文字に刻まれた便宜のはからいでまわっている。便宜的な都合の割り切りに、割り切れない生理的な身体がぐるんぐるんふりまわされてしまう。そういう葛藤について、ASDの身体的特徴からあれこれ考えていた。これは多かれ少なかれ、誰にでもある葛藤

日記763

    日記に回帰しようと思う。 日記回帰。 夜に短文を日毎つける。 あまり考えず雑に。   YouTubeで「リハはつらいよ」という動画を見ていた(30分~はじまる)。臨床心理士の東畑開人さんと、作業療法士の仲地宗幸さんがご登壇なさっている。司会は理学療法士の張本浩平さん。対人支援のお話。なんだけど、一般的な対人関係につうじる話でもあると、わたしは思う。 東畑さんは「心」という掴みどころのないものについて考えておられる方。でも、ぼんやりした話はしない。たいていパキッと分析してくれる。そこがいい。たとえば動画のなかで、「周波数」なる曖昧な概念について話を振られたとき(56分ごろ)に見せた「鵜呑みにしない感じ」。ここにわたしは信頼を置いている。 人との周波数が合う/合わないみたいな感覚は、たしかにある。でもそれってなんだかわからない。「周波数」ってなんやねん!と個人的には思ってしまう。めんどくさい人だけど、そこを不問に付したくない。しかし実際の会話の場面では軽やかに流すだろう。なぜなら、めんどくさいから。 そういえば動画のなかで、「めんどくさいことを肩代わりする」というお話があった。たとえば皿を洗う。掃除をする。そういう細かな肩代わりがケアとして機能する。きっとことばをつかってあーだこーだ考えることも、「めんどくさい」の肩代わりなのだと思う。 多くの人は、ことばをめんどくさがる。個人的な肌感覚では、ちょっと信じられないほどめんどくさがる。たしかにことばを尽くすのは非常にめんどくさい。でもわたしはたまたま、めんどくさいことを厭わず考えられる人間だから、こうやってうにゃうにゃ考えている(あまり考えない予定だが!)。 我ながらめんどくさい人間だけど、これがめぐりめぐって知らない誰かのケアになっている可能性もなくはないので、よしとする。なくはない。というか、まず自分自身のケアなのだった。めんどくさいな、と思いつつ。「めんどくさい」を厭わないところからケアが始まるのかなー。 「めんどくさいことを肩代わりする」。これって商機を見つける発想でもある。皿洗いの肩代わりには、食洗機がある。掃除の肩代わりには、掃除代行サービスやロボット掃除機などがある。経済は基本的に「肩代わり」でまわる。世界はめんどくさがっている。 東畑さんが動画内で説明している「ケア」の概念と労働はかなりちかいのでは

日記762

  桜の写真を載せておきます。 写真って、誰でも撮れる。集合的。あるいは公共的、というか。撮影者はわたしでなくてもいい。桜の写真なんか、あふれかえっている。しかし、この桜はわたしが撮らなければあらわれなかった像でもある。「みんな」と「ひとり」が両立するもの。なんかそういうことをずっと考えている。 どちらかというとわたしは、誰でもよくなりたい。instagramでよく使用されるハッシュタグ、「ファインダー越しの私の世界」とは真逆の感覚で写真を撮っている。ファインダー越しの誰でもいい世界。この写真を撮った人は、いまこれを読んでいるあなたでもいい。 誰でも撮れる。     「猫も王様を見ることができる」ということわざを思い出す。金井美恵子のエッセイにあった。13世紀、イギリスの大憲章(マグナ・カルタ)で制限された王権から派生した、風刺的なことばらしい。王様がそうそうお目にかかれない特別な存在ではなくなり、そのへんの猫でも見ることができるただの人間になった。そんな意味合い。 民主主義制度下の権力者は「公僕」といわれる。おおやけに奉仕する人。でも人間には「私」の部分もどうしたってある。どうしたってある。みんなのことばかり考えてなんか、いられない。だいいち、そんなお人好しはたぶん権力者になれない。公的なふるまいに加え、我欲があるからこそ、のし上がれる。このへんの葛藤は時代がどうあれ、なくならないのだと思う。 人の内面はわからない。「私」は覆われている。写真には撮った人がいるけれど、たいていその人は写っていない。分け隔てられる。自撮りも自己愛の発露より、自己分離の一種だとわたしは思う。加工の隆盛がそれを物語る。そうやって、自分をちょっとだけ、自分ではなくする。未加工でも、撮ってもらった自分でもそう。時間的に分離される。なんであれ、まず「分離」を旨とする表現が写真ではないか。切断、といってもいい。 あたりまえだけど、写真は距離がないと撮れない。レンズを被写体にくっつけたら、真っ暗になる。でもそれはそれでおもしろいかもしれない。距離のない写真。おもしろくないか。触れるとさえぎられる。触覚は、さえぎる感覚ともいえそう。もしくは覆う感覚。「私」は適切に覆われていないといけない。身体が皮膚でぴったり覆われているように。むきだしの「私」は痛い。 「触れる/触れない」。ここに、絵画と写真のちが

日記761

 われわれは自分が unique one(世界の中でただ一つ)であると同時に one of them(大勢の中の一人)であることを「知って」いる。通常は前者のほうが後で、これを「唯我論的自己の発見」とし十歳前後に多いとする。後者のほうが先で、通常、「こころの理論」すなわち自分以外の人間には自分と相似たこころ(知情意)のあることの発見といわれている。だから、カトリックの新トマス学派などは「自己は他者からの贈物である」というのであろう。この二つを論理的に統合することはできない。論理的とは言語的表現によってということである。つまり、この双方は論理的に一方から他方を導き出せるものではなく、言語的に関係を表現できない。pp.260-261   中井久夫『統合失調症の有為転変』(みすず書房、2013)より。 前回の記事から自己引用しよう。   「ふつう」はつねに矛盾とともにある概念で、そこがおもしろいとわたしは思う。どこにもないようで、どこにでもある。包摂的であり、排除的である。ふつうでありたくないようで、ふつうに焦がれる。個体としてあり同時に集団としてある。そうした人間世界の一筋縄ではいかない諸相に興味がある。わたしたちは「ひとり」と「みんな」のグラデーション内で色を変える、カメレオンみたいな存在だ。   「ひとり」と「みんな」はそのまま、中井久夫の書く「unique one」と「one of them」につうじる。わたしたちはこのふたつの「論理的に統合することはできない」矛盾とともにある。 さらに追記として、こう記した。   「個体としてあり同時に集団としてある」と書いたけど、「同時に」ではないかもしれない。まず人の集まりがあって、すこし遅れて「個」が立ち上がる。「私」とはたぶん、遅れてやってくるざわめきのような、なめらかにいかないきしみのようなもの。   これは「こころの理論(one of them)」が先行し、「唯我論的自己の発見(unique one)」が十歳前後に遅れて生じる、とされている言説につながる。自分の感覚的な記述に、ひとつ裏付けが見つかったようでうれしい。とっくに考え尽くされていることを、周回遅れでゼエゼエ追っかけているだけともいえる。 「ふつう」は論理の外にある。なんだかぬらぬらした概念だ。ゆえに理屈っぽい人は「ふつう」や、それに類する「常識」「世間」「