スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

11月, 2021の投稿を表示しています

日記862

  自分の体の扱いもコミュニケーションのひとつだと思う。つまり、ずれがある。勝手に太ったり痩せたりする。ちょっと待ってよと言いたくなる。ずれがあるところには、どこにでもコミュニケーションの余地が生まれる。外見にかぎらず、感情的な部分もそうだろう。なんでこんなにかなしいのか、たのしいのか。自分のなかのずれをつぶさに見ることで、きっと他人とのコミュニケーションも捗る。 合う、から話すのではない。ずれるから話せる。原理的にそうなんとちがうかな。あんまりずれを意識しすぎてもつらいので、いいところで黙しておくこともたいせつ。ずれへの意識が過剰だと、ことばも過剰になる。沈黙もふくめてコミュニケーションだと思う。ほどほどに言って、ほどほどに言わない。でもそれがけっこうむずかしい。多すぎたり、少なすぎたり。書いては消し、書いては消し。 ことし前半、妙に体が痩せてしまった。危機感にとらわれてもりもり食べていたら、さいきん持ち直した。正確には9月あたりから、やべーと思い始めた。いまがもっとも適した状態かもしれない。多くも少なくもない、透明な状態。まったき健康体。それはそれでさみしいのよね。いないみたいで。わざとバランスを崩したくなる。いじわるしたくなる。やあね。 ひとつ目的が解消されたあと、次にどうするか。そういう話だと思う。大きくふたつの方向がある。すっぱり転換するか、もう必要ない既存の目的にずるずる縛られてしまうか。 「わざとバランスを崩したくなる」という気持ちは、過去への執着といえる。役に取り憑かれる、というか。孤独だとそうなりやすい。役がなくなったのなら、我に返ればいい。食事を食事として、きちんと味わう。欲望のかたちを変える。「必要」から逃れる。いまならそれができる。 「コンディションの良さ」を退屈に感じる人は意外と多いのではないか。そよ風に対して、わざわざ大きなリアクションをしてまわるような。じたばたしたがる。そんなことしなくていいのに。逆説的だけど「不安がないと安心できない」みたいな心象はある。こんなに調子よくて、いいんだっけ? という。不安は、心のおしゃぶりのようなものだ。 ところで、きょうはいい天気だった。いい天気。だから? それで? いや、それだけ。ここで納得したい。それ以上でも以下でもない。いい天気だった。うん。これより先は言い過ぎになる。しかし、やはり、とてもいい

日記861

古代の壁画に描かれていそうな染み。   .  . .    生来の認知能力に介入し、それを意味のまだない方へ押し広げていくには、多かれ少なかれ痛みが伴うのだ。  この最初の一歩を踏み出すとき、助けとなったのは、指や粘土、あるいは小石などの物だったと考えられる。古代の私たちの祖先は、頭のなかでは数を正確に描けないからこそ、頭の外に粘土を並べた。頭のなかでは曖昧に混ざり合ってしまう数量が、頭の外では、物理的に切り離されたままでいてくれたのだ。こうして彼らは、身体や物の力を借りて、生まれ持った数覚を少しずつ分節していこうとした。p.19 森田真生『計算する生命』(新潮社)より。数学嫌いや数学アレルギーについての文脈から、未分化な世界を分節化するには多少なりとも痛みが伴うのだと。いわば内と外を切り分ける痛み。ここを読んだとき思い出したのは、寺山修司のエッセイで読んだボルヘスのことばだった。『ボルヘスの世界』(国書刊行会)に収録されている。 子供の頃、夜の間に閉じた本の文字が、どうしてごっちゃになって消えてしまわないのかと、不思議に思ったものだ。 「頭のなか」と「頭の外」が未分化な感覚。こども時代の宝物のような「不思議」。というか、おとなになっても「頭のなか」と「頭の外」はそれほど分かれていないのではないか。こどものころほどではないにせよ、未分化なところは残ると思う。この「未分化な感覚」は、人によって程度の差がある。数学が得意な人と、苦手な人がいるように。 人間って、いくつになっても幼さが残っている気がする。誰でも、例外なく。曖昧に混ざり合ってしまう感覚が残っている、といってもいい。ここに思いが至るたび、人類ネオテニー説を想起する。 1920年に ルイス・ボルク が「 人類ネオテニー説 」を提唱した。チンパンジーの幼形が人類と似ている点が多いため、ヒトはチンパンジーのネオテニーだという説である。すなわち、ヒトの進化のなかで、幼児のような形態のまま性的に成熟するようになる進化が起こったという。  ネオテニー - Wikipedia Wikipediaでは「進化のなかで〜進化が起こった」とされているが「退化」としたほうがわかりやすいと思う。つまり、ヒトは進化の過程で知性を発達させたのではなく、幼形を保つ退化の過程で知性を発達させたのではなかろうか。わたしたちはいつまでも完成しない

日記860

人の人格は、それぞれ劇的に異なっている。私たちは、自分を取り囲む状況を自分で作り上げる。そしてその状況が、さらに私たちという人間を作り上げていく。このようにして私たちを取り囲む状況は、多くの場合、自ずから持続していく。例えば恨みがましく怒りっぽい人は、周囲の人の怒りを引き出すことが多いため、結果的に自分の世界観をより確実なものにしていく。人の長所に注目する人は、ときに相手のいいところを引き出すことができる。しかし、このようにして作られた世界観を変えようとするのは、高層建築の桁を取り替えようとするようなものだ。どんな理屈や議論をもってしても、うまくいくことはそうそうない。唯一効果があるとすれば、それまでに出会ったほかの誰とも違う要素をもつ人とのあいだに関係を築くことだ。それは恋愛を通して起きることもあるし、学校や、職場で起きる場合もある。そしてそれは、良質で密度の高い心理療法でも――特に、自分を苦しめている状況を作っているのは自分だと患者が気づき始めたときには――起こり得る。人はときに、根底から変わることができる。その過程を手助けすることは、簡単ではないが、大きな充実感を与えてくれる。pp.272-273   ランドルフ・M・ネシー『なぜ心はこんなに脆いのか 不安や抑うつの進化心理学』(加藤智子 訳、草思社)より。人は良くも悪くも、自分でつくりあげた世界観のなかに生きる。その世界観はどんなものであれ、他者によってつくりあげられた共作でもある。自他の世界解釈は継ぎ目なく混在しており、分離は容易ではない。人間は創作的に生まれつくのだと、わたしは思う。心をつくり、つくられながら生きてゆく。創作に縁がない人はいない。 上記の引用部分に触れて、さいきん読んだ奈倉友里のエッセイ集『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)を思い出した。奈倉さんがロシア語を勉強し始めたころのお話。    そんなふうにして基礎だろうと応用だろうと歌だろうと節操なくロシア語という言語に取り組んで数年が経ったころ、単語を書き連ねすぎて疲れた手を止めたとき、突然思いもよらない恍惚とした感覚に襲われてぼうっとなったことがある。なにが起こったのかと当時の私に訊いても、おそらくまともには答えられなかっただろう。そのくらい未知の体験だった。――「私」という存在が感じられないくらいに薄れて

日記859

11月22日(月) 古本屋で『サメのおちんちんはふたつ』という本を見かけた。サメの身になるといたたまれない。たとえばわたしにおちんちんがふたつあったとして、知らないところで「永田のおちんちんはふたつ」と言いふらされていたら恥ずかしくてお嫁に行けない。それとおなじ仕打ちだ。しかしサメがこの事実を知ることはないのだろう。こんな本が出版されているとは露知らず、きょうも世界のどこかでたくさんのサメたちが泳ぎまわっている。いたたまれなくなるのは、知ってしまった人間だけだ。知るとはなんと罪深いことか。もう後戻りできない。サメのおちんちんはふたつなのだ。ごめん、サメ。わたしのおちんちんはひとつです。これでおあいこにしてほしい。

日記858

ここんとこ10日くらい、家ではPCを開かなかった。ひさしぶりに部屋でキーボードを打っている。もっぱら電子媒体につけていたメモを紙に変更してみた。アナログの雑味がたのしい。スマホやパソコンを使ったメモは整理に向いている。手書きは混ぜっ返しに向いている。両方をバランスよく使えるといい。切り分ける作業(整理)と、こねる作業(混ぜ混ぜ)。 整理と混ぜっ返しの対比は、「書く」と「しゃべる」の対比でもある。手書きだと、しゃべるように書ける。つまるところ、デジタルな思考とアナログな思考のちがいか。離散的な表現と連続的な表現のバランス感覚を忘れないようにしたい。静的な表現と動的な表現、ともいえる。ものの見方として。D/A変換・A/D変換を念頭に置く。 たとえば「デジタル(離散的)/アナログ(連続的)」の補助線を引いて、ためしに谷川俊太郎の詩を読むと、そのバランス感覚におどろく。有名な作品のひとつ、「二十億光年の孤独」を見てみよう。まず最初の連。 人類は小さな球の上で 眠り起きそして働き ときどき火星に仲間を欲しがったりする 「人類は」と大きく出る。離散的(デジタル)に飛んだ構図から地球を「小さな球の上で」と捉え、次の行はわたしたちと地続きの生活感覚、「眠り起きそして働き」とくる。すなわち連続的(アナログ)。そしてふたたび離陸。「ときどき火星に仲間を欲しがったりする」と。   火星人は小さな球の上で 何をしてるか 僕は知らない (或はネリリし キルルし ハララしているか) しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする それはまったくたしかなことだ こんどは火星方面へ飛び、地球と火星をおなじ「小さな球の上」とリンクさせている。飛びながらつなぐ。そして「何をしてるか 僕は知らない」。読者も、誰も知らない。連続的な感覚を担保するふつうの話。と思いきや、「(或はネリリし キルルし ハララしているか)」。言語の針が火星に振れる。ただし音韻は連続させている(眠り起き働き/ネリリキルルハララ)。意味を離散させたところで、逆接。「しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする」。最初の連との符合。逆接により、離散的な抽象と連続的な心理がクロスオーバーする。さいごは仕上げのように連続性の強調。「それはまったくたしかなことだ」。地球人と火星人がしっかり配線される。   万有引力とは ひき合う孤独の力である 「

日記857

街で見かけたおじさんが「しーらんぴっ」と言って笑っていた。禿げ散らかした、小太りのいいおじさんだった。「いいおじさん」とは、こういう人のことを言うのだろう。「しーらんぴっ」などと口走る精神性を中高年期まで保つことは、至難の業だとわたしは思う。使わないうちに自分のなかからそんな奴はいなくなってしまう。いつの間にか。 たぶんこどものころはわたしも、「しーらんぴっ」に類するような弾みのあることばを使っていた。こどもは体もことばも弾んでいる。おとなになると、体もことばも弾まなくなってしまう。弾力がなくなる。それだけに、「しーらんぴっ」みたいな弾みに触れると、はっとする。「ああ、弾んでいる!」と思った。 もうひとつ。往来で遊ぶこどものひとりが「お前はもう、死んでいる!」と叫んでいた。小学校低学年くらいの、男の子。「ああ、受け継がれている!」と思った。言わずと知れた『北斗の拳』の決めゼリフだ。わたしも小学生のころ使っていた。「天を見よ!見えるはずだ、あの死兆星が!!」も使っていた。「あべし」「ひでぶ」「たわば」なんか、3年前までパスワードとして使いまわしていた。「パスワードっぽいな」と思って。 仕事の帰りに立ち寄った図書館で、大柄な青年が枡野俊明の『怒らない 禅の作法』(河出書房新社)を読んでいた。メモをとりながら熱心に。「それ、近くのブックオフの均一棚にあったよ」と教えてあげたい気持ちを抑えつつ通り過ぎた。他人の読んでいる本を確認するのは下心を透視するようで、あまりいい趣味とはいえないけれど、つい気になってしまう。本はみんな、閉じられている。閉じられたものを、手でまさぐって読む。それはすこしだけ、いやらしい。 あと、書いておきたいことは。今朝、そうだ。自分がよく着るTシャツを、「aikoが着たTシャツだ」と思い込んでいる夢を見た。起きてからそのTシャツを取り出して、ドキドキした。そんなトキメキを着て家を出た。我ながらキモい。「ヒトラーのセーター」という心理学の実験を思い出した。「あなたはヒトラーが着ていたセーターを着てみたいですか」と被験者に質問すると、ほとんどの人は不快感を示すらしい。 「呪い」みたいなもんの影響力はバカにできない。良くも悪くも作用する。これは単なる直感だけど、固有名詞って呪術的なのだと思う。「有名性」と「呪術性」は似ている。とくに有名でなくとも、固有名は呪

日記856

他者はわたしではない。でもそれだけでもない。「わたし以上のわたし」と解することも可能かもしれない。超わたし、みたいな。わたしを超えたわたし。つねに超えてくる。そういうものとして出会っているふしも、なきにしもあらず。全員、見事にわたしを超越している。おそろしいほどに。その意味では、みなさん超人です。 ちょっと心配されそうな発想だけど、あながちないとも言い切れない。わたしを超えているという意味において、わたしではない。他方で、わたしを構成する一部でもある。つまり、わたしを超えたわたし。意外としっくりくる。そうか、みんな超人だったのか。どうりで!うん。「どうりで!」と思う。そして「超えてくる」他者との交流から、わたしにも超人性がフィードバックされる。超人的ネットワークのなかで生きてる。なんて元気な世界観だ。 ……それはさておき。小堀鷗一郎『死を生きた人びと 訪問診療医と355人の患者』(みすず書房)を読んでいて、「あとがき」にこんな引用があった。 私は探り出したい、糊づけもせずに 日々の切れはしから成る生きた物語が何によってつなぎとめられているかを ロシアの詩人、パステルナークの詩だそう。正確には引用の引用、リュドミラ・ウリツカヤ『通訳ダニエル・シュタイン』(新潮社)に引用されているパステルナークの詩。 前回の記事で、神を見つけたいだの「ふつう」を知りたいだの書いていたそれは、こういうことに近い……というか「これやん」と思った。この世のありとあらゆる日々が、何によってつづいているのか。ひいては、わたしの連続性を担保するものとは何か。そんな問い。   自分のオブセッションは、「生きた物語」の混乱からきているのだと思う。「連続してる感」の欠如。どこかで断絶が起こった。過去の記憶がほとんどない。いちど、いなくなってしまった。そういう人はいつの世も、どこの国にも、一定数いるのだろう。いや、程度の差はあれど、誰にでも起こりうるのではないか。語ることをやめると、記憶はなくなっていく。いともかんたんに。 と、このあといろいろ書いたんだけど、パソコンとWi-Fiの調子が最悪で自動保存がきいておらず、消えてしまった。公開に失敗してやりなおそうとしたら、ここまでしか保存されていなかった。こっからなんやかんやあってメルヴィルの『白鯨』がどーのこーの書いていた。しかし、どうやって『白鯨』につなげ

日記855

 ラスタ用語に、「アヤナイ I&I」という表現がある。ラスタマンたちは、「あなたと私 You&I」という代わりに、この「アヤナイ=私と私」を使うという。人はともすれば、「あなたと私」という対峙的な二者関係において、相互理解の美名のもと、相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試み、それに応じなければ、相手とのあいだに垣根を築くものだ。しかし、「アヤナイ」は違う。「相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う」という態度なのだ。p.212   松本俊彦『誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論』(みすず書房)より。すこしだけ、勝手に補足したい。「対峙的な二者関係」のあいだには、それぞれの持ち寄る「通念」が存在するのだと思う。引用文中の「相互理解」をわたしなりに読み替えると、「相互の通念的な理解」なんではなかろうか。つまり「対峙的な二者関係」は、一回的な個と個の二者関係ではない。反復が前提にある。 相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試みるのは群れとしての人間だろう。ひ弱なひとりとひとりなら、わざわざそんな取り越し苦労はしない。お互いがお互いの信じる「ふつう」を要求しだすと諍いになる。お互いの信じる「群れ」と言ってもいい。その基礎には反復がある。過去に繰り返してきたことの集積。 「私と私」は、「ひとりとひとり」とも解釈できる。その上で「相手を自分のことのように思う」。このとき重要なのは、「のように」を忘れないことだ。あくまで比喩的な想像であって、他者はわたしではない。わたしはひとりで、相手もひとりだった。個人的な倫理観としては、絶えずそこに立ち返りたい。言い換えれば、「わかる」と「わからない」の両方を勘案したい。 比喩は越境を可能にしてくれる。それは言語のすばらしい機能である一方、危うい面もある。しかし人間は混同を生き抜いてしまうもので、群れとして互いの領分を侵し侵されながらぐちゃぐちゃ歩むしかないのかもしれない。そんな気もしている。言語は群れの符牒でもある。ひとりであること、一回であること、「わからない」を堅持しつづけることは、とてもむずかしい。  凶悪な少年犯罪が起こると決まって、ワイドショーのコメンテーターは、これといった根拠もなしに「規範意識のない子どもが増えている。学校でもっと道徳教育をすべきだ」などと主張する。そのたびに私は、おまえ