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2月, 2021の投稿を表示しています

日記757

多摩川べり。夕暮れどき。立ち止まり、西陽を撮る人々の影が校舎に映えていた。日本には白い建物が多い。これは映画から受ける大雑把な印象で、邦画は洋画にくらべて街の色がすくない気がする。そんなことないかな。白は投影を鮮明にうつす。白の多さはつまり、スクリーンの多さでもある。そう考えるとなんとなくおもしろい。スクリーンの多い街。もちろん印象に過ぎないので、じっさいに日本の街並みが白っぽいのかどうかはわからない。 スクリーンの多い時代。これならいえる。人々が沈むお陽さまを自分用のちいさなスクリーンに投影していた。わたしはそちらに背を向けて、建物の投影を写真機に投影する。投影の投影……。なんかひねくれていて、やだな。斜に構えちゃって。と感じたので、いいわけのごとくふつうに夕陽も撮る。しかし、これはこれで恥ずかしい。あっぱれすぎやしないか。こんなに堂々として、いいのかな。いいか、きれいだったし。でもなー。……なにをしても葛藤にまみれる。 堂々として、いいのかな。こうした気分がわたしの場合、猫背気味の姿勢にそのままあらわれている。さいきんは胸を張ることにもようやく、慣れてきたと思う。深く呼吸をすること。夕陽だって富士山だって撮りゃあいい。何億枚目でもかまわない。 自分は人類全体において、何人目に生まれたのだろう。そんなことをたまに思う。人類としてのエントリーナンバー。どの時点から数えたらよいやら。しらないけれど、生まれた。どういう因果か、順番がまわってきたらしい。こうなったらもう、死ぬまで番を張るしかない。いい感じに世界を見とどけておこう。何があっても。 しかし番長よろしく堂々としすぎていても、どうか。「頭が上がらないな」って気持ちも、それなりにたいせつだろう。「足を向けて眠れない」とか「お天道さまに顔向けできない」とか。そうしたなにか、倫理観を担保してくれる自分よりおおきなものの存在も忘れてはいけない。 さいきん、森喜朗氏の失言に関連して「老害」ということばを何度か耳にした。たしかご本人も口にされていたと思う。医師の高須賀氏によると、「老害とは“他人の目をビクビクと気にしたくない”という、私達の“なりたかった姿”の果て」なのだという( なぜ人は、仕事を辞めると劣化してしまうのか。 | Books&Apps )。昨年、なんの気なしに読んでいた記事をふと思い出した。 「実は

日記756

「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と聞く。これは「アガペーの反対は、エポケー」と言い換えることもできそうだと歯を磨きながら思いついた。アガペー/エポケー両者ともギリシア語に由来し、アガペーは「神の愛」「自己犠牲的な愛」、エポケーは「判断中止」「停止」などの意味をもつ。ざっくりいうと。 とはいえ意味の対照はどうでもよく、個人的な興味は音の対照にある。「ガペー」の反対は「ポケー」。そういわれてみれば、たしかにそうかもしれない。音の説得力がすごいような気がする。ような気がする……。そっちが「ガペー」なら、こっちは「ポケー」してやるぜ!みたいな。 まるで意味のないポケーっとしたことを書いている。有意味なガペーのほうに引き戻すなら、ここからわたしは以下のごとく感じた。不慣れなことばは、意味よりもまず音が先に立つ。そして意味ではなく、音から入ると「良い/悪い」の通念から距離をおける。すこし、ことばの価値的な側面から自由になれる。 「愛の反対は無関心」といえば、即座に「愛=良い/無関心=悪い」と読んでしまいがち。これを「アガペーの反対はエポケー」と言い換えると、「良い/悪い」の印象は薄まる。「ガペーの反対はポケー」なら、なおさら。ポケーもあんがい悪くないんじゃない?と思えてくる。 こうした、いわば「価値観のリセット」はあたらしいことばを身につけるとき起こりやすい。逆にいえば、ふだんづかいのことばには意味とともに感情的な通念がべっとり染みついている。しかし少数ながら、ふだんから通念の薄い乾いたことばをつかう人もいる。   久美子  やっぱり驚異なのよ。百合子さんのしゃべることなんかも含めて、日々新鮮な驚きがあったと思うわ。 百合子  あたしなんかは、テレビ見ながら、このアナウンサー変な顔とか、あッ、この顔キライとか、内容と関係ないことばかり言ってる女なんだから、馬鹿ばっかり言っていると思ってたと思うけどなあ。 久美子  だから、そういうことも含めて驚異なのよ。だって大ていの人は内容について、りこうぶってベチャベチャしゃべるのよ。p.101 『武田百合子 対談集』(中央公論新社)、金井美恵子・久美子と武田百合子の鼎談より。なぜか定期的に武田百合子のことを書いてしまうけれど、わたしのなかでこの人は「ふだんから通念の薄い乾いたことばをつかう人」の好例だと思う。 どこか、とても虚無的で、