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9月, 2018の投稿を表示しています

日記618

缶チラと釘チラ。 街にあふれるチラリズムを撮影する、チラリズム写真家として食っていけるのではないか。この椅子は空いている。需要がないか。エロいやつかと勘違いした男性に怒られそう。エロい気持ちを台無しにしてごめん。 でも缶や釘もエロいと思うんだ。気持ちをいったん落ち着けて、ゆっくり想像してごらん。彼らの秘部を。あせらずじっと見つめていれば、だんだんと高ぶるものがあるはず。胸が躍るはず。やがて頬がじんわり熱を帯びて、薄赤く染まる。……ね。それは本物の紳士だけに許されし高貴なエロ。動物とはちがう、人間にしかないエロのかたちです。天皇の家系は代々こういうもので興奮しています。そうした情操教育を受けます。やんごとなき至高のエロなのです。たぶん。限りなく確信に近い妄想です。すぐわかりやすいエロに飛びつく庶民感覚もいいけれど、この世界にはもっと多様で豊穣なエロの沃野があるのです。 カバチラとクマチラ。 このちらりとほの見えるかわいらしさたるやどうでしょう。耳からひょっこり出現しているクマ。うしろを向いている黒い塊も味がある。カバにいたっては、まるでソース漬けにされているようだ。プール真っ黒。ほんとうにカバなのかさえわからない。もぐったままぜんぜん出てきませんでした。「カバ」と書いてある看板を信じるほかない状態。背中だけ見せて「さて、オレはほんとうにカバかな?」と水中のカバがほくそ笑む。カバであることはわかっているのに不安になる。カバだろお前。カーバカーバ。……こっち向いてよ。顔をみせてくれ。お願い。 9月29日(土) 朝から頭痛がする。天気の影響だろうか。台風がきているという。雨で肌寒い。ズキズキと脈に合わせて左のこめかみが痛む。いま立ちながら書いています。血流で痛み方が変わるため立ち姿勢。坐るより横になるより、いちばん痛まないと思う。ちょうどいい高さの本棚の上を片付けて、パソコンを置く。本は床に積む。比較的らくでいられる。 メリットは多いかな。立ちっぱなしで機動力を確保しておくと次のアクションをスムーズにおこなえます。腰を落ち着けるとふたたび立ち上がる意志がなくなってしまう。「立つ」「歩く」「しゃがむ」などの動作は連続している。いったん「坐る」までいくと、動作の連続性が途切れる。もういちど「立つ」へ身体をもっていくには微力

日記617

見せておきたい景色がずっと募って 写真じゃ切り取りきれないから 話せば白々しくなるから 連れていきたい気持ちになります イルリメの「トリミング」を聴いていました。なつかしい。Tumblrで流れてきた。たまたま。記憶の澱を不意に掬われる。こういう遭遇のためにネットがある。調べものではない、好きなものだけを見るんじゃない、偶然に触れたいと思う。なるべく偶発性の集合体としてつかいたい。 SNSはどれもいつの間にかフォローが増えてしまってノイジーになる。興味の向くまま。そうなればもう、ノイズの塊から生まれる偶然に身を任せるしかない。アカウントの使い分けはしない。雑音の渦中で惹かれるものを見つける。本屋もCD屋も、じぶんにとってはそういうもの。というかこの世界がそういうもんじゃないすか!人間との出会いも。雑踏の人海に身を投じ、みずから生き餌となったりこちらから食らいついたり。ノイジーでガチャガチャ騒々しくて、ほとほと疲れるけれど、とんだ偶然で澄んだ音が長く響いてゆくことだってある。 カバーしているerinaという方のyoutubeを前からよく聴きます。この方のチャンネルにはいろいろなカバーがありますが、どれも選曲がすばらしいと思う。ほとんど知っていて、かつわたしの好きな曲でもある。erinaさん自身の歌もいい。 歌詞の「連れていきたい気持ち」には、もちろんじっさいに連れ立ってどこかへ行きたいという意味もあるだろうけれど、まず音楽のことなのだと思う。連れていきたい気持ちが音楽になる。見せておきたい音楽の景色がある。写真ではやりきれなくて、話すと白けるから、曲が方法になる。歌うこと。その表現が「見せておきたい景色」であり、「連れていきたい気持ち」だった。 きっと、写真を撮って「連れていきたい」ひともいる。会話で「連れていきたい」ひともいる。あるいは小説で「連れていきたい」ひとも、絵画で「連れていきたい」ひとも、映像で「連れていきたい」ひとも。 つまりこの“気持ち”は創造性の源泉なのだとわたしは思う。「連れていきたい」場所をもつひとの気持ちと、その場所に吸い寄せられ連れていかれたいひとの気持ちがリンクすれば作品が立ち上がり、どこまでもいける。連れていきたい。場所をつくること。いつしか感受の強さに耐えられなくなる前に。そんな歌詞かな

日記616

大阪、中崎町。アマントというお店。9月11日(火)。すこしだけ遅い夕飯を食べる。お客さん、だれもいなかった。ひとりくらいいたかな。いや、いなかったと思う。静かな店内。静止したモノ。空間がまるごとぴったり止まる光景。改めて静止を意識することもなかなかない。動くものにばかり目が行くから。止まっている空間が相手でも、眼球はつねに動いていた。カレーを食べた。 葉ね文庫という本屋さんに寄った帰りだった。店主とお客さんが台風被害の話をしていた。店主である池上きくこさんの関西弁は失礼ながらとてもかわいらしいと思う。関西風に言えば、かいらし。抑揚はやわらかく、なんというか、受け身がしっかりとれている感じ。確実に受けたのち明快な反射光を短く投げる。そんなことを思いながら、座って棚を眺めていた。ぜんぜん知らないひとの印象を知らないまま書いている。棚の狭間で、見つからないように黙って止まったもののふりをした。うちの棚にもある千坂恭二さんの本が中古であった。

日記615

おなかいっぱいの状態だとなんにも書くことが浮かびません。ジョブズの言った「ステイ・ハングリー」の内容が身体的に理解できる気がする。でもあしたには忘れてまたおなかいっぱいの無気力になる。そしてまた「ステイ・ハングリー」を思い出し反省する。また忘れる。これがすなわち「ステイ・フーリッシュ」。そんな繰り返しでしょう、日々は。 とりあえず末尾で達観しておけば文章はまとまる。達観は便利グッズです。東急ハンズで売っています。買ってきたので、さっそく使いました。10個入り、800円。すぐれものなのに、1個百円しないからね。達観がお金で買えるなんて、いい時代だ。それもまた人生です。あ、ふたつめを使ってしまった。もったいないからもう達観はしない。ちゃんと戸惑って傷ついて取り乱して生きます。この都会は戦場だから。男はみんな傷を負った戦士。らしいよ。岩崎宏美から得た耳寄り情報です。 写真はバスの窓を這っていた虫。 あまり固形物は口にせず、飲み物でいつも腹を満たしています。水が多い。あとガム。苦学生みたいなジリ貧生活です。だけど栄養はじゅうぶん足りています。皮膚炎は短期間できれいに治りました。脱皮したような気分。じつはじぶん、哺乳類でなく爬虫類だったらうれしいと思う。「イグアナの娘」ってドラマをこどものころに見ていた記憶がある。イグアナが醜いあつかいをされていた。かわいいのに。 舌出して寝ちゃって、かわいい寝顔です。これが世に言う「てへぺろ」かな。顔にピントが合っていないのは、爬虫類が苦手な方へのうすぼんやりした気遣い。神戸の王子動物園です。9月14日(金)。何年ぶりの動物園か。動物園がこんなにおもしろいとは思いませんでした。 おとなしい羊と触れ合えたり、「ゴリラどこ?」とおじさんに尋ねられたり。ゴリラの行方を問われる経験なんてめったにできません。貴重な経験値を得ました。きっと、今後の人生にも役に立つでしょう。「あっちです!」とすぐ言える。王子動物園にゴリラはいなかったんだけど。 パンダやコアラに都市で遭遇できないことと同様に、居もしないゴリラを探すおじさんにもめったに遭遇できません。それとも、あのひとはいつでも探しているのか。どっかにゴリラの姿を。向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。 水面下のワニ。 隠れているつも

日記614

これが先週のベストショットかもしれない。9月15日の土曜日。もう先々週か。先週の土曜は、きのうになる。一週間は日曜日から始まるって、よく忘れる。 ああ、癖でつい「かもしれない」と書いている。良く言えば慎重。しかし、これについての慎重さはいらんだろう。不必要なところまで慎重なのだ。てめえの主観なのだから言い切っていい。これが先々週のベストショットです!寝るおじさん。座るおじさん。これ以外ありえない。決定です。京都の鴨川。 一週間が早い。東京に帰ってから、あきらかに時間が加速している。まとまった期間べつの環境にいると、主観的な時間の流れ方の変化に気がつく。環境に規定される人間の認知は多い。根本の気質は変わらないが、その働き方というか、あらわれ方というか。環境が変わればそこに合わせて生きる方法も変わる。あたりまえか。適応、ということ。 きょうは9月23日の日曜日。ここ数日は、さむかったり暑かったり。毛布をかぶって眠ったかと思えば、昼は真夏の格好をする。クローゼットをひっくりかえしたり、ふたたびしまいこんだり。部屋の椅子が前々から固くてお尻が痛くなるので、ちょうど毛布で応急処置ができた。 ふとメガネと顔の関係を思う。メガネを長年かけていると、顔面がメガネに合わせて変化してゆく感じがします。メガネに依存した顔つきになる。メガネを外しても、どこかメガネの面影が残っている。メガネがないと顔面のパーツが足りないような。そんな気がする。これも適応なのか。もともと「メガネが合う顔」なのではなく、変化を経て「メガネに合う顔」となる。 わたしの顔はメガネがないと完成しないなと思う。メガネを外すと、目が「3」になるもの。キテレツ大百科の勉三さんみたいに。一人称が「ワス」になるもの。語尾はもちろん「だす」で、ひどいときは学ラン姿に変身してしまう。プリキュアやセーラームーンのようなキラキラの変身シーンを経て勉三さんになる。 じつを申せばほんとうは逆で、変身と見せかけてメガネなしの勉三さんがほんらいのわたしであり、ふだんはメガネプリズムパワーでメイクアップしている。これは末代まで秘密の話です。ここだけの話。 京都の佛光寺。境内の食堂で、ゆばあんかけ丼を食べる。そして寝てる人を撮る。むかしデイリーポータルZの林雄司さんがよく撮っていた。「やぎの目」というサイト

日記613

海に夜が入ってゆれた。

日記612

きのうの記事からの繰り返しで恐縮ですが、わたしは性病ではありません。いちおうの診断はアトピー性皮膚炎だそうです。連日、無自覚に紫外線を浴びていた。免疫系がやられるまで。そんなアレルギー体質ではないと思っていた。「肌が弱い」という自覚を強くもたないといけない。なんか塗って外出するとたまに「いい匂い」と言われる。ちょっと恥ずかしい。清潔感は肌の弱さからきています。 写真は神戸、ハーバーランドの夜。9月16日(日)。カップルたちが歩く。いい雰囲気。そこへ、小学生くらいの女の子がひとりでぽつんと座っていた。指をくわえて、ふしぎそうにあたりを見まわす。わたしもふしぎだと思う。みんなペアで身体を寄せ合う。手をつなぎ、歩調を合わせて、ふたりであることを証している。互いに笑いかける、ふとした仕草。相手のほうへ視線を向けるタイミングがぴたり。途方もないことをしているね。 カップルが好きです。第三者として眺めること。野次馬として。きみら、好きなんやね、うんうん。好き合っとるんやね。おっちゃんな、わかる。見てたらわかる。バレバレです。その時間、いいよね。ずっとそうやって、好きでいてください。と、末永く幸あることを願ってやまない。あなたたちの特別なひとときが終わらないように。あしたがこないように。いまがつづきますように。これはどこから目線だろう。 平和ボケも甚だしいが、みんな、誰にでも、好きなひとと特別な時間を過ごすように接することができれば、なんて妄言を吐きたくなる。しかし、そんな世界であれば「特別」がどこかへ行ってしまう。恋がなくなる。境界がなくなる。家族がなくなる。国がなくなる。関係がなくなる。ひとつになる。それがもしかしたら、愛なのかもしれない。万物を外側から囲繞するように。ぜんぶを均一に覆い、おなじものと化してしまうような。宇宙を等価に縁取るもの。暴力と言ってもおなじこと。きっと大きすぎて考えることもできない。ふたりが限界だよ。 自他の境をあいまいにしたい。あなたがわたしであるように。わたしがあなたであるように。でもちがう。わたしはあなたではなくて、あなたはわたしではなかった。差異性の論理と同一性の論理のあいだに、ふたりの関係がある。おなじだったり、ちがっていたり。恋のことばはアメーバ状だった。ぐにょぐにょ。まとわりつく。ときにわずらわしく、ときにやさ

日記611

約一週間、関西をぶらぶらして300枚以上の写真を撮りました。数多の写真の中で、もっともイケてるショットが神戸の高架下。これです。このイカすTシャツほしい。どこで売っているんだ。わたしもズボンにインして着るんだ。着たいんだよ。ねえ。ねえったら!カメラを構える青年の内なる静かな想いと感嘆符を背に、彼は暗い高架下から照りつける残暑の陽射しのもとへと去っていきましたとさ。 正確には354枚。写真は多く撮ってほとんどボツにします。デジカメ便利。残すもの以外は消す。たくさんあると取捨選択がめんどうだと思う。その日その日にやっておくべきでした。とりあえず1枚。この写真は残す。 9月19日(水) 皮膚科に行きました。行きつけではないところ。駅にちかいけれどガラガラの医院。お昼過ぎ。待合室にはじぶんひとり。問診票を書き、提出するとすぐに呼ばれる。診察室に入るなり「なに?どうしたの?」とやたら馴れ馴れしい白髪のおじいさん。「医者と患者」という関係性を固定した態度ではない。ぱっと見、医者とは思えないくらいラフに白衣を着こなす。緊張せずにいられて、ほっとする。わたしはそのほうが話しやすい。 腕の発疹を見せる。すこし触れて「え?きれいだよ」と言われる。やった、ほめられた。しかし口説かれているわけではないし、それで満足なら医者はいらない。「ほかは?」と聞かれて、足と何箇所か見せてからさいきん旅行に出たことなど考えられる原因を説明してもおじいさんは返事があいまいではっきりしない。「キンタマってラジエーターみたいな冷却装置なんだよ、暑いと精子が死んじゃうから」とキンタマの話だけは何故か詳しくしてくれる。 要するに陰部も見せたわけですが(性病ではなく腕や足の発疹と同時にでてきた症状)医者が目の前にいる感じがしないため、おかしなことをしている気もした。初対面のおじいさんに下半身を見せている。これが「医者と患者」でなかったらなにをしているのか、わけがわからない。初対面で肌を見せてキンタマの話に花を咲かせる爺さんと青年。あきらかにおかしい。やはりもうちょっと医者であってほしい。形式の重要さを知る。 わたしもキンタマトークに乗っかり「なるほど、細かいシワで表面積を大きくして熱を逃がすんですね」と理解をしめす。キンタマへの理解力をほめられる。なぜか話が弾んでおじいさんの学生時

日記610

じぶんが将来どうなりたいとか、どうなれば幸福かとか、なんでもいいけど未来への問いを設定すると必然として顔を覗くものが「死」です。まさしく自然に、必ずおとずれる。おそらく多くのひとは、それは伏せて考える。んなもん勘定に入れたって実益がともなわない。意味をなさない。たったひとりで生きているのならそう。しかし「死」を勘案しない人間関係によって構築される社会って巨視的に持続可能なのか。「死」に当事者として相対することばが不在の国は浮薄に過ぎる。吹けば飛ぶ。生きて死ぬことは「まわす」ことだ。いずれ何もかも手放し、あずける。これも経済。エコノミーではなく、経世済民ということ。地に足がついていない。吝嗇に生きている、哲学のない国。 人類史において、これだけ「死」の影が薄くなった時代もないと思う。正確には、目を背けることが可能になった、というべきか。影は依然として黒く濃厚にまとわりついてくるがふりかえらない。どうでもいいけど。たぶんそのほうがいい。死ぬのはいつも他人ばかり。 「死」は極端ですが要するに、じぶんの未来はじぶんだけのものではない。そこに思いが及ぶ。これも個人的な感想です。くそくだらない。だれにも押し付けはしない。決して立派なものではないし、実利的でない。くだらない感想。仕事しろ。 * 9月10日(月)の朝です。すこし涼しい。きょうは雨がちの東京。から大阪へ行く。長距離移動をすると省かれる「あいだ」がもったいない気もする。ほんとうは歩いて行きたいくらいだ。あいだの道を見ていたい。すっとばしてしまうのは趣味じゃない。でも数日かかる。ドラクエなどのRPGでもマップを隅から隅まで行き渡り、村人ぜんいんの話を聞いてからでないと進めなかった。ちゃんとひとの話は聞かないと。しかし「時間の無駄」と思われることをよくする。何が無駄で、何が無駄でないかはじぶんで決める。その通り、生まれてから死ぬまですべてが無駄だ。うれしいね。いいから仕事しろ。 関西にもっていく本。なんだろう。織田作之助とか。ベタです。福岡には夢野久作をもっていく。みたいな。アフリカにレーモン・ルーセルをもっていく、みたいな。火星には『火星の人』をもっていく。遭難してもいいように。ヒマラヤにはピーター・マシーセンの『雪豹』がいい。アッシャー家に行くときは『アッシャー家の崩壊』。アッシャーという

日記609

渋谷道玄坂。適当に撮る。観光っぽい写真。時間旅行をしているようだ。交差点を眺めていると、ときおりふと立ち止まり写真を撮るひとの姿が見受けられる。すでに懐かしい気もする。安室奈美恵さん。10年後にこの写真を見て、むしろ真新しく感じるようならおもしろい。時代がかっている。2018年の写真。街の写真は、時を経るとおもしろくなる。たぶん。 変化が激しい。東京って。看板ひとつ変わるだけで道に迷う。行くときにはなかった、路上の染みひとつでも迷いがちになるのに。街の景色がめまぐるしく変わる。数年ぶりに福岡へ行ったとき、風景がさほど変わっておらずびっくりした。もちろん変化もあったけれど、記憶通りの場所が多かった。博多、天神、西新商店街など。人間の多い場所は多少の変化もある。ちょっと繁華街から出ると、ひとつも変わらなかった。東京都心はどこも人間が多い。刹那的な街。 それでも既視感にまみれている。なんなんだろう。変わり映えのない変化がつづく。いつも懐かしい。テレビだって懐古モードの番組が多い。歌番組は特に。人々が老いたのだと思う。2018年、9月。東京のごく個人的な肌感覚。なんだって見たことのある気がしちゃう。だけど道にはしっかり迷うよ。 10日から関西に滞在する。バスでゆらゆら。夜行ではなく、昼行にした。本が読めていい。夜行は眠れないし、暗いし、なすすべがない。揺られるのみでも悪くないけれど中途半端に退屈。もっと選択肢を広げて深く退屈したい。大阪までだいたい6時間か7時間くらい。 地図上だと、大陸の横に浮かんでちいさく見えがちでも日本は広い。台風の影響もぜんぜんちがう。地震や台風がくると「地球にいる感覚」がする。地面が勝手に動くって、おそろしいけれど、おもしろい。生き物みたい。いまの科学技術では予測不能なタイミングで動き出す。災害はかなしいこともある。しかし、どんなかなしみも関係なく地面は動くし、風は吹いて、海は荒れる。 地球と人間の無関係性を思う。そしらぬ顔だね。いくら人間が生きていても無関係だ。関係といえば、物理法則と結ぶのみ。「物理法則」だって人間が人間にわかるよう編み出したものなのだから、ぜんぶ人間の都合。関係ないといえばない。正確には「ただ在る」としか言えないのではないか。「関係」は突き詰めると、ぜんぶないと思う。わたしもただ在る。肉親とも関係ない

日記608

かわいいやつがいました。 死んでいるみたい。きれいに。 死因はなんだろう。 こちらのほうがぼんやりマイルドでよいか。こういう写真は嫌がる向きもおありでしょう。それはもちろん勘定にいれたうえで載せます。誰が見ても見なくてもいい。世界に開かれたワールドワイドウェブだけれど、ごく個人的なアドレスでもある。閲覧者も個人的な視線で眺めると思う。 老若男女だれしもに開かれていてもつまらない。公的であり私的でもあるところがいい。ネット上でこのバランス感覚をいちじるしく欠くと人間関係がこじれる。そんな光景はよく見かけます。少し崩す、くらいのバランスがおもしろくていい塩梅なのだと思う。カジュアルな装い。公私をおしゃれに着こなす。 深く個人的な内容が普遍に届くこともある。表面的な「公」の意識は時々のモードに過ぎない。時代によっていくらでも変化しうる。流行り廃り。炎上を避けたいのなら、いまどきのモードを掴む感性が必要だと思う。あるいは、あえて炎上を狙うことも同様に。 このブログに狙いはない。「こうやればこう反応が返ってくる」、そんな機械的な予測のもとにある表現は好きではない。そもそも脳味噌がカニ味噌とおなじ組成なので狙いも予測もつかない。いい出汁になるのみ。「よくわからないけど、わたしにはこう思えて仕方がない。あなたはどうですか」という、おずおずとした態度でいたい。 わたしには、ちいさな爬虫類の死骸がかわいいと思えて仕方がない。そして、すこしかなしい。それがいとしい。こんなところでどうしたんだろう。ひらべったくて。さわってもうごかなかった。土に埋めました。 ネットに限らず、人間の生活は私的であり公的でもある。全体から細部へ、細部から全体へ。放縦で複雑に絡まる網目の流れの上に人間が浮かぶ。現在時のモードをできる限り参照しつつ、時間軸も広く考える。なるべく。ずいぶんと殊勝なこころがけですこと。 ぼくがいまここにいること。きみがいまそこにいること。 知らない人の日々の生活を深く知ること。 プライベートとパブリックの間を軽く飛び越えること。 自分と他人の境界をあいまいにすること。 それぞれの人生が尊く置換不可能であることをあえて知ること。 理解不能な他人を愛すること。 不用意で軽率な行為、それを楽しむこと。 メガ日記の目的

日記607

ラスト歯医者の帰り道、苔が輝いていました。こういうもので、“ああよかった”とぜんぶチャラになる。単純な感じでいい。これで十分ではないか。夕陽に照らされるきれいな苔がありました。これでつながれる。首の皮一枚。おおげさじゃないんです。ぜんぜん。 歯医者の受付で「また来年の1月あたり検診に」と言われる。いま予約しますか?と尋ねられ「先はわからないから、大丈夫です」とことわる。予定がないことに幸福を感ずる。逆のひともいる。予定のない、まっさらな日々はつらいという。それはあまりわからない。ひとりで歩いているだけでいいのに。何かしろと言われる。「決めろ決めろ」と。最後はすでに決まっているのに。  生きていたくもなければ、死にたくもない。この思いが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明るくもならず、唯しんみりと黄昏て行く雪の日の空に似ている。  日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩 ( かれ早かれ来ねばならぬ。 永井荷風「雪の日」 以前も引用したと思う。どっかで。 よくこれを思い出す。 晩夏です。

日記606

前の記事のつづきをひとつ。 「残酷なもので5・3」というお題に対してクソ正直に残酷なものを考えなくともよかった。と気がついたのでメモ。「残酷なもの」と解釈する枠組みがあらかじめ定められているのだから、すこしだけ寄せれば十分。ど真ん中で残酷なものは、よほど正確にど真ん中を突かない限り凡庸に堕してしまう。 友人の回答「思い出が・ひとつ」は、お題の解釈が有機的に機能する点でとても優れている。つまり、受け手に開かれている。「顔面が・破裂」は解釈の余地なく残酷だけれど「思い出が・ひとつ」は残酷な枠組みにあてはめるとイメージが変わり、豊穣な意味の沃野が拓ける。 べつの例を挙げれば「戦争が・終わる」。安直な現代のイメージでは良いこととされる。しかし「残酷」の枠組みで捉えると、アクチュアルな意味を帯びると思う。映画化もされた、こうの史代の漫画『この世界の片隅に』は「戦争が終わる」の残酷さを描いていた。玉音放送を聞いた主人公すずさんの反応がわかりやすい。 最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね? いまここへまだ五人も居るのに! まだ左手も両足も残っとるのに!! うちはこんなん納得出来ん!!! 漫画下巻からの引用ですがこのページを開くと自動的に泣いてしまいます。全自動で鼻がぐずぐずいう。こんなに即席で泣けるじぶんがいやだなあ。安い涙だ。次のモノローグはさらにいけない。「戦争が終わる」の残酷な表現。 飛び去ってゆく この国から正義が飛び去ってゆく ひとつの価値観の終わり。 若く、素朴な人間には特に解し難い現実があったのだろうと想像する。   ……………ああ 暴力で従えとったいう事か じゃけえ暴力に屈するいう事かね それがこの国の正体かね うちも知らんまま死にたかったなあ…… こんなに残酷なことはない。戦争が終わった。日本は敗戦した。知らないままのほうがよかった。どうしたらいいのかわからない。たとえばこのように解釈の枠組みによって、「戦争が終わる」の平和なイメージも変わる。 だから、「残酷なもの」と言われてクソ正直に残酷なものを連想するわたしはひどい単細胞のクソでした。クソはよくないか。「真正直な人柄がうかがえる」と思っていただければよい。「顔面が・破裂」も、それほどきらいではない。「そのまんまやないかー

日記605

なんでもいいからイカれた映画が観たいと思って、TSUTAYAで借りたのは『マッドボンバー』。バート・I・ゴードン監督、1973年の作品。マッド+ボンバーならまちがいなし、という確信のもと借りました。派手な「ボンバー」をすこし期待しましたが、カネのないイカれた映画でした。低予算。でも、いい役者がいい顔の気狂いを演じればお安くドープな映画になります。 この映画をひとことで要するに「男はみんなジャック・ニコルソン」ということだと思ったのですが、ジャック・ニコルソンは出演しておりません。しかも、この場合の代名詞となるジャック・ニコルソン怪演映画『シャイニング』は1980年の作品なので『マッドボンバー』より後発です。「男はみんなマッドボンバー」と言ったほうが正確か。でも『シャイニング』のほうがポピュラーでピンとくる。 岸本佐知子さんが訳して編んだ『変愛小説集』(講談社)に入っている短編「リアルドール」に「男はみんなジャック・ニコルソン」的なセリフがあり、映画を観ながら思い出したのでした。 主要な登場人物は、爆弾魔・レイプ魔・鬼刑事。女性のあつかいがとにかくひどい。なぜかフェミニストの集会を爆破しちゃう。なぜだかわからない。 と、ここまで書いて。 下書きに保存しておいたのが8月31日。現在は9月4日。ああ、日が経つのは早い。思わずしみじみとしてしまいます。もう『マッドボンバー』の内容も、うろおぼえ。たしか冒頭、こんな。路上にゴミを捨てたおっさんをチャック・コナーズ(爆弾魔)が背後から呼び止め「拾え」と胸ぐらをつかむ。「お前が世の中を悪くしている」と脅す。過剰な「正しさ」をふりかざす。社会秩序のためなら暴力も厭わない歪な男の感覚が即座にわかる。チャック・コナーズの大きな顔がいい。大きな体格もいい。大きなものはいいものだ。神経質そうな巨漢で「正しい行い」をする爆弾魔の役。いいチャック・コナーズを拝むことができます。これだけでも満足。 正しい男が、理性的に狂っていた。きっかけは過去の感情的な出来事だった。感情を理で固めようとするから気狂いになる。そんなに理性は偉くない。感情は感情で表現すればいい。「感情をコントロールする」とは抑圧することではない。じぶんの抱いている喜怒哀楽をなるべく正確に捉え、範囲を定めてつたえることだ。表現すること。 いや、それを