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1月, 2022の投稿を表示しています

日記879

  更新していないと、書き方を忘れてしまう。いっそ忘れてしまいたい気もする。ハナ・ホルカという方が亡くなったらしい。名前を目にして、吹き出してしまった。チェコの方だったか。訃報で笑うなんて、と思いながらもやはりおかしい。ハナ・ホルカさん。これだけを書き残しておきたくなった。数秒の出来事。あとはとりとめのない余談。人の死に対してどう感じたらよいのかも、うっかりすると忘れてしまうような。学びつづけていないと、ちゃんと残していないと、なんでも忘れてしまう。感情さえ。 訃報で笑った記憶をさかのぼる。2009年に、ベンソンという名の巨大なコイが死んだ。あれがさいごかもしれない。どこのニュースサイトだったか、「巨大コイ、ベンソン死す」の大仰な見出しがおかしかった。イギリスでもっとも愛されたコイだという。日本語のWikipediaにも項目がある。 ベンソン(魚) 。 ベンソンは捕まえやすいことで有名だったそうな。「その捕まえやすさ(accessibility)は釣り名人の間で議論を巻き起こしたこともある」らしい。   「釣り人はいつだって彼女が好きだった。なぜなら一尾の巨大魚と写真を撮るチャンスがあったからだ。何人かのまじめな釣り人は彼女が好きではなかった。なぜなら彼女はあらゆる人に心を開くからだ」   「まじめな釣り人」は気難しい魚のほうがお好きなのか、かんたんな獲物を厭うみたいだ。その感覚は、なんとなくわかる。アホウドリを思い出す。この名称も「捕まえやすさ」からきている。ベンソンも同様に「まじめな釣り人」からは、アホな魚だと思われていたのだろう。ふまじめな、ふざけた魚だと。もっとまじめに泳げと。 なお「アホウドリ」に関しては、蔑称だとして「オキノタユウ」へと改称しようとする運動がある。このことを知ったのは、古本屋で購入したダイアン・アッカーマンの『消えゆくものたち 超稀少動物の生』(筑摩書房)に、海鳥研究者である長谷川博さんの私信が挟まっていたからだ。名前を検索してみたところ、彼は「オキノタユウ」への改称運動を行う第一人者なのだった。 捕まえやすいものは、アホとされる。「捕まえやすさ(accessibility)」は「わかりやすさ」と言い換えることもできよう。何年か前、「わかりやすい説明」に関してわかりやすく説いてくれる本を何冊かまとめて読んでいたときに感じた。「わかる」とは

日記878 

  冬のある日 言葉のない手紙が ぼくに届く 京都アニメーション制作の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見て思い出した、曽我部恵一の「メッセージ・ソング」。ピチカート・ファイヴのカバー。作品と直接は関係しない。連想しただけ。この歌詞のように、手紙と「愛」をテーマにしたアニメだった。 手紙は二者のあいだで交わされる。その二者のあいだには、隔たりがある。手紙を可能にする隔たり。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、そんな発信者と受信者の「あいだ」を丹念に描いた作品といえる。ことばが届くまでの「あいだ」。 それは、ことばそのものが立ち上がるために必要な間隔でもある。ともすれば、昨今は忘れられがちかもしれない。ことばとことばのあいだ。あなたとわたしのあいだ。その余白にかならずある、生きた時間。意味がかたちづくまえの時。 多くの「重なり」が描かれる。たとえば、たいせつな人の瞳とよく似た美しい緑色。孤児同士の心の交感。幼い娘が約束した飛翔、そのリフレイン。それぞれの「愛してる」。心は重なりのつらなりではないか。そんな感想を抱いた。感情は比喩となって飛び交う。ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』をぼんやり思い出す。 「心が一つ存在するために、心は必ず二ついる」と臨床心理士の東畑開人さんが書いていた。「心は何度でも再発見せねばならぬ」と東畑さんは語る。 わたしはこれを、もうすこし飛躍させたい。「あなたがひとり存在するために、あなたは必ずふたりいる」と。もしかすると、ふたり以上いるかもしれない。むろん、じっさいにドッペルゲンガーが存在すると主張したいわけではない。人の世には、比喩が存在する。比喩もまた、ひとつでは成り立たない。べつべつのものを比するたとえ、あいだをつなぐための修辞だ。比喩によって、重ならないはずのふたつが重なる。わたしはあなたの比喩として存在している。 主人公の少女、ヴァイオレットは「愛してる」の意味がわからなかった。物語がすすむにつれて、それがすこしずつわかりはじめる。「意味がわかる」とは、どういうことだろうか。こう問いかけるとき、國分功一郎と熊谷晋一郎の共著『〈責任〉の生成』のなかのエピソードを、わたしはたびたび思い返す。 ある講演で國分さんが「自由意志というのは存在しません」と既存の概念を読み換えるような話をしたところ、最後の質疑応答で客席にいた男性

日記877

1月5日(水) 遠方の親戚を連れて、介護施設に入居している父方の祖母と面会。めったに会わないおじさんとおばさんのふたり。祖母と会うのは5年ぶりと言ったかな。面会後は、面食らっていた。わたしにとっては「いつものおばあちゃん」なのだけれど、慣れていないと驚くらしい。いわゆる「ふつう」とは異なるかたちの話法だから。 とても短いスパンで同じ話を繰り返すし、自分の内側で生起する虚構と外側の現実との区別がまったくない。頭で考えたことのすべてが実際の出来事として語られる。怒ったり泣いたり、感情の起伏も激しい。こちらの言う内容については、ほとんどつたわらない。しかし、思うに、感情は通じている。細かな意味内容ではなく、ポジティブな口調かネガティブな口調か。おおまかな感情のアウトライン、それだけは明瞭に通じている感触がある。 「おばあちゃんは、気持ちを話しています。言ってることは感情の比喩です。事実ベースではなく、感情ベースのことばづかい。そして人間は多かれ少なかれみんな、そうやってことばを紡ぎます。感情によって、世界はいかようにも歪む。例外なく、みんなです」。あとで食事をともにしながら、そんな理解の仕方を提示した。ひとつの解釈として、極論めいているけど、本気でそう思っている。 いちばんはじめに湧き起こり、いちばんさいごまで残るものは、感情だろう。ことばの土台は感情をつたえる「たとえ」ではないか。祖母の語りをわたしは、詩文のように受けとっている。いや、祖母だけではない。みんな。あるいは、これも比喩になるが、音楽のようでもある。体の訴える気分に応じた、しらべを奏でている。 歩きつづけるためにどれだけ、どんなふうにまちがって歩き、歌うためにどれだけ、どんなふうにまちがって歌ったか。『旅芸人の記録』は、その痛切な記録なんです。 詩人の長田弘がテオ・アンゲロプロス監督の映画『旅芸人の記録』を評して、こう語っていた。どんなふうにまちがって歩き、どんなふうにまちがって歌ったか。人生のさいごに残るものは、これなんだと思う。 食事の席で70代の親類の話を聞いていても、認知症の祖母の話を聞いていても、おなじことを感じた。歩きつづけるために、歌いつづけるために、いかにまちがって歩み、そして歌ったか。老いた人の時間は、その痛切な過去で舗装されている。どんな話も敬して拝聴したい。 世代差を感じることばをいくつ

日記876

1月2日(日) きのうの記事にすこし追記した。 たいせつにしまいこみすぎて忘れてしまう。そういうことはままある。父方の祖母は、しまったものをいつも探していた。父もそれに習ってか、「しまう人」だ。母は真逆で、散らかす。うちの両親はきれいに真逆だなーと、顔を合わせるたびに思う。 母は発言にもエラーが多い。整理することなく、あたりかまわず適当なことを言う。そうやって場を盛り上げる。父の発言はエラーがすくない(ふざけるときも、ふざけることを意識している。どんなときも考えて「わざと」話す)。母がぶちまける無意識を、父が意識的に引き取るかたちで会話はすすむ。 わたしは息子としてどちらの素養も継いでいるけど、どちらかといえば素地は母親に似ている。その土台に父親的な思考の矯正がかかっている。内面では、あたりかまわず思いつきが飛び交う。しかし、アウトプットは慎重にする。自分を観察すると、だいたいそんなハイブリッド構造になっている。もしかすると、ある種の典型的なパーソナリティかも。ある種。どの種だろう。 部屋はいつなんどきも散らかっている。だから、母譲りな性格かとは思う。父の部屋はいつも整理されていて、ちょっとこわい。ところで今朝、「記憶はパーソナリティ構造に依存してアクセスされるように思う」という ツイート を読んだ。わたしも似たように感じることがある。でもたぶん、発言者の意図からは逸れる。 記憶は時間を縮減した情報の断片だ。そのときどきの状況をどのように縮減するのか、それは性格によって変わる。性格はいわば、「時の圧縮機」みたいなものだと思う。小説を読む経験は、他人の圧縮機のなかに入るような感じかな。さまざまな圧縮方法がある。小説にかぎらず、ことばにふれることは全般にそうかもしれない。 わたしは、できるだけタイトにギュってしたい。凝縮された表現にぐっとくる。時間を万力で締め上げたい。詩はタイトでいいなと思う。自分の文章は長くなりがちなぶん、短文にあこがれてしまう。ながーい詩もあるけれど。 そうそう、「万力で締め上げたい」といえば、NETFLIXで映画『悪人伝』を観た。マ・ドンソクの腕力にもあこがれる。人を掴んでひょいひょい投げるの。     映画の内容と関係ないことを書く。観ながらぼんやり、握力だいじだなーと思った。マ・ドンソクは全身握力の塊みたいな男だ。顔面からもう掴んでくる。とに

日記875

1月1日(土) わかりやすい日。「きょう何日だっけ?」とならない。元日。カレンダーは時を俯瞰する地図だと思う。きょうの日は、一年のうちでもっとも「ここにいる」と感覚しやすい。ここが現在地。 初詣の行列を見た。みんな束になって元日をやっていた。これから2日、3日、4日……と経過するうちに日付の観念が散り散りになる。徐々に迷いが兆す。あれ、きょうは何日だったっけ。いつもみんなでカウントダウンすれば、現在地からはぐれることもなくなるのかな。でも、それはそれで疲れそう。 道端で遭遇した、おじいさんと孫の会話がほほえましかった。「あとでね、じいじにね、お菓子買ってあげる」「お菓子買ってくれるの? たのしみ~!」という。3歳くらいの男の子と、60代くらいの白髪の男性だった。「たのしみ~!」の言い方が奮っていた。正確に記すと、「た☆の☆し☆みゃ~!!!」ぐらいの感じ。大袈裟ではない。正確。 「孫」って、多幸感の塊みたいな存在なのかもなーと想像する。その一挙手一投足がうれしくてしかたがないらしい。 遭遇したひとコマをもうひとつ。適当なオリジナルソングを大声で歌う男の子に、「それなんの歌?」と母親らしき女性が問うと、男の子は「わからん!」と即答してつづきを歌いはじめた。歌いたいから、とにかく歌う。それ以外の理由がいっさい見当たらない純粋な歌唱に触れた瞬間だった。ただただ楽しかった。 そこでこんな記事を思い出した。 日本に足りないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん」 欧州で目撃した、勝利(とビール)を真剣に目指す大人たち 書いた人は、元プロサッカー選手で現コーチの中野遼太郎さん。タイトルで言わんとするところがおおむねわかる。これはサッカーにかぎらず、さまざまな分野に言えると思う。めっちゃ楽しそうに音楽をやる下手なおっさんがいてもいい。もちろんおばさんでも、老若男女問わず。めっちゃ楽しそうに将棋を指す下手な人がいてもいい。ともかく得手不得手の別なく、めっちゃ楽しそうに何かをプレイする人々がその分野の魅力を下支えしているのだ。 わたしは自分の文章がうまいとは思わない。とくに言われたこともない(1/2 追記:おほめいただいたことばをいくつか思い出した。引き出しの奥に、きれいな状態で眠っていた。希少な記憶をたいせつにしまいこみすぎていたみたいだ)。でも、「楽しそうに書いてるね