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6月, 2023の投稿を表示しています

日記996

「考え過ぎ」と人から言われる。自分では考えないほうだと思う。やることなすこと思いつきに過ぎない。夢みたい。考えていたら動けない。なので、ふりかえると恥ずかしくなる。「なぜあんなことをしたのか……」と。わからない。そういう頭なのだから、致し方なしと諦めている。「考える」ということばにふくまれる、企図の感覚が自分のなかにはない。無目的。 いつも散漫にぼんやりしている。恥を忍んで本日も思いつきを散漫に並べたい。前回の 日記995 に書いた中井久夫の「信」と「理解」って、おそらく「全体」と「部分」の相克でもある。「理解」はどこまでも部分的であり「部分」はついに、「全体」に及ばない。こう書いてみると、あたりまえすぎて元ネタがどんどんつまらなくなってゆく……。その代わり、わかりやすい。つまらないものは汎用的。 部分を全体であるかのように押し付けてしまうと、よくない。というお話。「群盲象を評す」の寓話みたいな、全体像の奪い合いが勃発する。あらゆる「理解」はちっぽけな部分に過ぎない。でも「全体を把握したい」という気持ちが逸って、ときに「部分」を暴走させてしまう。 「全体像の奪い合い」は昨今、其処此処で見られる。「我こそが全体を把握する者!」と言いたがる人は多い。それを信じたがる人も。そんな人間はいないのに。戦争の原因の一端も、「全体像の奪い合い」として抽象的には説明が可能か。 「群盲」で思い出したけど、文芸誌『群像』2023年7月号で保坂和志がこんなことを書いていた。主語が述語を規定するのではなく、述語が主語に保証を与える語り口について。    私はハイデガーがシェリングの〈人間的自由の本質〉を読解する本の中で書いたこの主語と述語の関係に大げさに言えば感動したのだ、世界観のある種の転換が起こった、主語と述語を並べたとき、述語が主語の内実を保証する働きになっている、だから、 「おまえは高校生なんだから高校生は高校生らしくしろ。」  という言い方になる、この文では、目の前にいる「おまえ」つまり言われた側にしてみれば「私」であるその私より高校生の方が認識論だか統辞法だか、文の構造によって生まれる意味では真理値と言うのがいいか、つまり理屈を形成する力関係が上になる、目の前にいる個人を差しおいてその個人が何に属するかの定義が優先される、それは転倒だ、 「ジャズとはブルーノートという音階の

日記995

さいきん以下の洞見をよく思い出す。「信なき理解」の破壊性。中井久夫+山口直彦『看護のための精神医学/第2版』(医学書院、p.230)より。    親密で安定した関係をつくろうとする努力は、長期的にはかえって患者の「うらみ」を買いかねない。理解しようと安易につとめるならば「わかられてたまるか」という怒りを誘いだす。  患者は「わかられない」ほうが安心している。理解を押しつけると、今度は「わかっていない、もっと理解せよ」という際限のない要求となる。人間は人間を理解しつくせるものではない。だから「無理難題をふっかける」というかたちの永遠の依存になってしまうのである。  「理解」はついに「信」に及ばない。あなたの配偶者や子どもを「信」ぬきで理解しようとすると、必ず関係を損ない、相手を破壊する。統合失調症の再発も確実に促進する。  婚約者にロールシャッハ・テストを施行しようとする精神科医はフラれて当然なのである。ロールシャッハ・テストは、治療者の「ワラをもつかみたい」気持ちで手がかりを求めるときにおこなうものである。人格障害といわれる人は「信なき理解」にさらされてきた人であるかもしれない。     患者は「わかられない」ほうが安心している。ふつうの対人関係のなかにも、この感覚はあると思う。すくなくともわたしは、むやみに「わかられない」ほうが安心できる。ある程度は放っておいてほしい。知らないでおいてほしい。他人のこともわからない。わかるものではない。 「問い」は、危険なものだ。その危険を互いに楽しめるだけのフィジカルがある、勝手知ったる間柄でないと、やたらに問えない。 上記の引用は個人間の想定で書かれているが、集団のあいだにも生じる心理的な機微だと思う。「わかられてたまるか」という怒り、「わかっていない、もっと理解せよ」という要求は、twitter等のSNSで政治的なトピックとしてしばしば目にする。 「理解」は手っ取り早いけれど、「信」の共有には時間がかかる。昨今は手っ取り早いほうが是とされがち。しかし、「信」のバッファがなければ「理解」は暴走してしまう。 「信」というと一般に、強固な意志がイメージされるかもしれない。中井久夫の文脈における「信」はすこしちがう。バッファ、つまり緩衝器のようなものではないかと思う。ふわっとした、やわらかい何か。 どちらかというと、「理解」のほう

日記994

5/25/49 今日、ひとつ考えついた――明白、いつだって明白なこと!こんなことを、今さらはじめて、唐突に悟るなんて、馬鹿げてる――なんだかいらついて、少しヒステリカルになる――私がどんなことをやろうと、自分以外にそれを止めるものは何も、何もない……ただ何かを取り上げ、何かから離れる、それを阻害するものがあるだろうか? 自分の環境ゆえにあえて自分から押し付けている圧力だけじゃないのか、阻害要因は。でもこれまでは、その圧力がつねに万能に思えていたので、それに反することをあえて考えようともしなかった……でも実際のところ、何が私を止める? 家族が怖い――とくに母が? 保障と物質的所有にしがみついている? そう、たしかに両方ともある、けれど、私を押しとどめているのはそういう現実問題だけ……大学って何? (以下略) スーザン・ソンタグ『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』(河出書房新社、p.48)より。ソンタグ、16歳の日記。盗んだバイクで走り出しそうな勢い。自由であることの悟り。しかし、それへの躊躇も読み取れる。「私がどんなことをやろうと、自分以外にそれを止めるものは何も、何もない」としながらも、なお自問がつづく。自由であることはたぶん、孤独なことでもあるから。「阻害要因」とは、つながりの総体。 ここで語られているのは、離れる自由。走り出す自由。大いなる自由、とも言えるかもしれない。上記の5/25/49の日記は、「いやはや、生きるとは、壮大なるべし!」と締めくくられている。大きなスクリーンに投影された自由の感覚。 逆に、つながりから立ち上がる小さな自由もある。平行して読んでいた、キム・チョヨプ/キム・ウォニョン『サイボーグになる テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(岩波書店)にこんなくだりがあった。キム・ウォニョンによる。    自分の身体が自分とは無関係の客観的な「モノ」や他者のように見えるとき、自分が何者なのか頭が混乱するけれど、また一方で、その「モノのような身体」を自分の意思で動かせることにあらためて神秘を感じたりもする。キム・ボラ監督の映画『はちどり』で、家族からの暴力や友人の裏切りに疲れた中学生ウニに、ヨンジ先生は言う。  「ウニ。つらいときは指を見て。そして指を一本一本動かすの。すると神秘を感じる。何もできないようでも、指は動