スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

12月, 2021の投稿を表示しています

日記874

  12月31日(金) 年の瀬は人々がすこし反省的になる。そんな束の間が肌に合う。年が明ければ「おめでとう」と、仕切り直して未来に向かう。過去に向いていた思いが転じる。くるりと、鮮やかに。花火なんか上げちゃって。 そのじつ、わたしたちは過去のつづきを生きている。なんら終わってなどいない。「自由とは過去の力を抑えることだ」という、レッシグのことばを思い出す。自由とは過去を愛することではないかとわたしは思う。対立的な構図を描いた時点で不自由になる気がする。では、「愛する」とは何か。それはしらない。 この世界は基本的に、死者がつくり出したものだ。生まれてこの方、過去の死者たちがつくった方舟に乗っている。遺伝子から、ことばから、歴史から、物語から……。わたしはただ、その莫大な贈与のうえにいる。生きながら、過去のさまざまな時間の延長に身を浮かべる。ささやかでも、なるべく息のつけるすばらしい過去を見つけ出して、その時間を長く繰り延べたいと思う。未来へ。 ラゾーナ川崎の丸善で、鈴木宏昭『類似と思考 改訂版』(ちくま学芸文庫)と、ジャコモ・レオパルディ『断想集』(幻戯書房)を買った。ほしいと思っていた本を、とりあえず2冊。あまり新刊は買わないのだけど、すこしふんぱつする。年末のショッピングモールは大賑わいだった。「コロナ禍」ってなに? と思うほど。 夏の終わり頃、この冬にはまた感染拡大するのかなーと予想していた。でも、そうでもないみたいだ。すくなくとも、日本では、いまのところ。未来のことはわからないな。 ちらっと見かけた車のナンバーが「777」だった。おしゃれな旧車。そのあと、「111」の軽トラックも見た。「だからなんだ」って感じだけど、それは言わずにおこう。たいせつなのは、引っかかりをおぼえた感情を無視しないこと。どんなに些細なことでも。さしたる意味はない。でも、なんか縁起がいいね。こんなものを、ちいさく意味づけておくとたのしい。   ちょっと書き留めておきたい話。 患者も消費者ですから、私はいつも言うのですが、 消費者は賢いけどイマジネーションはそんなに豊かではありません。だから、 このクラム・シェルでワンプッシュ型の携帯電話が出て来るまでに、消費者は「 パッと押すと開く携帯電話が欲しい。だから作ってくれ」 とパナソニックに言ったわけではないのです。常に企業が仮説をして、 これ

日記873

    M-1ではじめて見たコンビ。ランジャタイ。友人から「好きそう」と言われて、たしかに好きだった。しかし、賞レースの結果は最下位だった。審査員では、立川志らくさんだけが高得点だった。なにかランジャタイにハマる特有のパーソナリティがあるのだろう。 脚本家の三宅隆太さんが人の資質を「グランプリ」と「審査員特別賞」に大別しておられたけれど、ランジャタイはどちらかというと「審査員特別賞」をもらうほうだと思う。今回のM-1であれば、最下位ながら立川志らく賞をとったといえよう。多くの人はあきれ返るネタかもしれない。しかし、少数の人に深く訴求する。そんなタイプ。    最大公約数的な観点からは外れてしまうかもしれないけれど、でも、「それ」を美しいと感じるひとはいる、面白いと感じるひとは必ずいる。その数はもしかしたら大勢ではないのかもしれないけれど、同じようにその作品から励まされたりするひとは必ずいる。だから、その価値は「ないこと」にはできないし、したくない。   三宅隆太『スクリプトドクターのプレゼンテーション術』(スモール出版、p.92)   そして、すべての人は個人的な「審査員特別賞」を授かって生きているのだと思う。あなたの存在を「ないこと」にはできない、という。「グランプリ」が多くの人に認められるストレートな肯定だとするならば、「審査員特別賞」は否定経由の肯定だ。広く認められないのはわかっている、でも彼らのネタを「ないこと」にはできない。したくない。させない。そうした個人の意志が「特別賞」として結実する。 余談ながら、三宅さんの語り口は情感に富んであたたかい。たとえば、引用した箇所の「でも」。消しても意味は通るのだけど、「ないこと」にはできないのだ。この「でも」は、意味よりも体温をつたえている。三宅さんの熱を感じる。ちょっとあふれてる。末尾の「できないし、したくない」もあふれてる。「できない」で止めてもいいのに、そうしない。したくないのだ。ここに三宅さんがいる。意味を超過したノイズに体が宿る。「必ずいる」の重複も、三宅さんがほとばしってる。 話をつなげるなら、ランジャタイの漫才もノイジーで人によっては不快だろう。風が強い日に猫が飛んできて飼うことにしたらとつぜん耳から侵入され、ガシャンガシャン操縦されてスチョーン「将棋ロボだー!!!」みたいな。もうぜんぜん意味がわから

日記872

  12月24日(金) 知り合いから、「神のご加護がありますように」というメッセージを受け取った。クリスマスらしいクリスマスだった。これ以外に「らしさ」は味わっていないけれど、これだけでお釣りがくる。定型句でも、日本人同士のあいだではたぶんめずらしい。 街頭で、LUSHの袋を提げて歩く若い男性を見た。プレゼントだろうか。ケーキをぶら提げている人もちらほら見かけた。チキン屋も賑わっていた。街のようすも「らしさ」と言えば「らしさ」か。マライアは連日、歌っていた。陽射しのあたたかい金曜日だった。 自分は何もしていない。受けとったクリスマスが手に余っている。もらってばかりでは気が咎める。なんとなく、JUDY AND MARYの「イロトリドリノセカイ」を思い出す。「白と黒の記憶もいつか落ち葉に満たされ/神のお気に召されるように」。ふつうに、しぜんに、神について話したいとときどき思う。無防備にひたすら。 いま雨が降っている。地域によっては、夜更け過ぎに雪へと変わるらしい。明日は施設で暮らす祖母と面会。朝早い。いつも、忘れることを思い出すようにことばを交わす。帰りにケーキと、花を買おう。路面が凍結していないといい。神のご加護がありますように。あなたにも。   

日記871

12月19日(日) 神奈川の真鶴まで足を運んだ。twitterでこの町の写真を目にして、行きたくなった。半島の入り組んだ景観のなかを、ひとりで好きなだけさまよう。夢のなかにいるみたいに。それだけの日曜日。 ひとつ手前の根府川駅から海を望める。ひさしぶりに眺めた海はあまりに巨大で、おそろしかった。腹部にゾッと迫るものがあった。 それは、視野が解放される恐怖なのだと思う。都市での生活に慣れた狭い視野が一気に広がる。つかまるところがなくなるような感覚。目を置くところってたぶん、つかまるところなのよ。海は広大で、とっかかりがぜんぜんない。視線の置きどころがわからない。うみこわい。 「こわい」は、「未知」とも言い換えることができる。恐怖心は感情の未分化なまとまりで、時間の経過によってそれがさまざまな想いに分化してゆく。うみやばい。うみすごい。と、すこしずつ興奮に変わる。「こわい」はきわめて原初的な感覚。 怪談に登場する幽霊は、それぞれ多様な感情を連れている。かなしみに取り憑かれた者も、怒りに取り憑かれた者もいる。いずれも「こわい」を起点に語りが派生する。あるいは、お笑いのネタにも「こわい」は頻繁に用いられる。ことしのM-1グランプリで決勝に残った、オズワルドとインディアンスの1回目のネタがそうだった。 「こわい」は感情の卵みたいなものだと思う。タネでもいい。はじめのほうにある未分化なまとまり。こどもは一般に、とてもこわがりだ。「こわい」と感じるときはおそらく、稚気が騒いでいるのだろう。良くも悪くも。こわがりな人は、こどもっぽい。   よそ者には公道と私道の境があやふやに見えて、ハラハラしながら細道を歩いてまわった。「ここは人んちの庭じゃないよなー」と自分に言い聞かせながら、のぼったりおりたり。どこにいても、家々の屋根がよく見渡せる。 地元の人しか通らないような横道に入る。どこに通じているのかもわからないまま。このような先の見えない遊歩はひとりじゃないとできない。誰かがいると、「どこいくの?」となる。「なにしてんの?」とか。しらんけど、こっち行ってみよう。おもしろいじゃん。そんなふうに振り切れない。あらかじめ、防衛的にまとめようとしてしまう。おとなとしての、管理の発想がわたしのなかにもしみついている。ちゃんとマネージメントしないと、みたいな。たったひとりなら、管理はいらない。

日記870

「終わり/始まり」はおそらく集団的な「ともにあるため」の概念で、孤独はどこまでものっぺりとつづく。ひとりの世界では始点も終点もよくわからない。何年か前、重めの自閉症のこどもとあそんだときに深く感じた。彼はつねに始まっていた。時間が区切れない。あの子の感覚がわたしの体のなかにもすくなからずある。 年末は、終わりと始まりを思う。テレビで誰かが「生き急ぐ」と言っていた。ある詩人は、ひとの内面はいつも生き急いでいるところがあると書いていた。逆に、生き遅れるところもあるのだろう。もうすこし早ければ間に合ったのに。わたしたちはどこか早すぎたり、遅すぎたりする。なんかさいきん、そういうことをよく考える。過剰だったり、過小だったり。ちょうどよくいかない。そこがおもしろかったり、もどかしかったり。   このブログをどこかの誰かが読んでいる。それはいったいどのような事態だろう。なんか合うものがあるのか。はたまた、いい感じにずれているのか。何年も書きつづけているけれど、アクセス数はいまがいちばんすくない。だいたい5~10人の方が継続的に読んでくださっている。年末なので、ごあいさつしておこう。ありがとうございます。 ここを見ている5~10人の方々は全員、すばらしい好奇心の持ち主です。そして、おしゃれな人たち。と、勝手に決めつけてみる。「おしゃれ」とは、自分に似合うものや自分の感性に引っかかるものがわかっている、という意味です。主体的な審美眼を備えている、ご自身の感受性の領分を心得ている、そんな人たち。 要は、なにかしらのお眼鏡にかなうっぽい。それ以外に読む理由は考えられません。有益さとは無縁の、役に立たないブログです。いや、広く「心理」に興味がある人には、すこしくらい参考になる部分もあるやもしれぬ。精神医学に関する本をよく読んでいるから。それにしても半端だし、独自の解釈を飛ばしがちなのだけれど……。他人のことは、わからないな。  ともあれ、ここにくる人はセンスがあると確信しています。書き手のわたしにセンスがあるという話ではありません。これは強調しておきたい。そうではなく。読み手として、ラベルもタグも値段もついていない無名のもの(このブログ)を、ご自身の価値基準で拾い上げることができる。その能力は、並大抵のものではありません。一朝一夕では身につかない。きっと、習慣のたまものでしょう。 触れこ

日記869

西田幾多郎の難解さについて、作家の田中小実昌がこんなことを書いていた。    それは、西田幾多郎の考えが、たいへんにユニークだからだろう。ぼくたちは、いままでになんども読んだのとおなじようなことしか理解しない。自分にわかってることしか、わからないのだ。まったくユニークなものにあうとポカンとし、さっぱりわからない。  しかし、わかってることを、くりかえし読んで、またわかった気になるのも、わるくないかもしれないが、それが、ものたりなくなることもある。  ま、そんなことで、西田幾多郎の書いたものを読む。おなじニホン人が書いたものでも、ユニークなものは、知らない外国語で書かれてるようなもので、ひとつ、ひとつの言葉を、新しくおぼえるように読んでいく。 『拳銃なしの現金輸送車』(社会思想社、pp.290-291) 「わからない」を「ユニーク」と捉える。なるほど。たしかに「絶対矛盾的自己同一」なんか、字面からしてユニークだ。こんなこと言い出す人は、後にも先にも西田幾多郎ぐらいだろう。すくなくとも、わたしの身近にはいない。ひとりの哲学者がひねりだした孤独な概念ともいえる。逆にいえば、「わかりやすい」ということは没個性的なのだ。そのぶん共同的。 あたりまえだけど、人は「自分にわかってることしか、わからない」。これも重要な指摘と思う。だから、なにかをわかってもらおうとするときには相手のわかっている範囲に訴える必要がある。付け加える感じ。ちょっとだけ、お邪魔する感じ。相手のユニークネスに訴える。どういう人なのかお互いに知らなければ、わかりあうことも困難だろう。 ネット上での出会い頭の言い争いは、たいてい不毛だと感じる。もう何年も前から感じている。それは上記のような理由による。ことばはそれぞれの置かれた環境、歩んできた経路に依存している。個々人のユニークネスの発露なのだ。おなじ単語でも、微妙に定義がちがうことだってめずらしくない。環境がちがえば、念頭にある風景もちがう。すべての人のことばは孤独で難解だ。ゆえに、おもしろいのだと思う。わからないところへ連れていってくれる。 みんな知らない外国語を話している。そこにわたしはふくまれていない。疎外の感覚がつねにある。誰のどんな話にも、「こんなかに自分はふくまれないのだろう」と感じてしまう。内心の悪癖がある。 たとえば「にんげんだもの」と言われても

日記868

おなかをこわす からだをこわす という 肺をこわす、とか 頭をこわす、なんていわない どうしてかな、と考えながら開港資料館の前を歩いていく ぼくの骨髄は 寒暖計で それがきょうはずいぶん低いとおもう 水銀は腰のあたりか うつむいて歩いていると 枯葉がすこし舞って、しつっこくついてくる こんど恋人にあったら たましい、こわしちゃってね、っていってやろうか つぶやきながら 枯葉をけっとばし 愁眉をひらく 検疫所のビルの八階に喫茶店があるのを発見したのは あれは 冬の始め きょうみたいに寒い日で エレベーターを降りながら、 いいとこみつけた、と喜んでいた きょうも そこへ昇って、にこにこしていよう 北村太郎の連作詩、「港の人」のひとつ。88年4月の現代詩手帖から引いた。きょう、古本屋で買ったもの。以下、うすい感想。こんなふうに日記を書けたらいいなと思う。感情のきざしを見逃さないような。時間は絶えず思いの起伏とともに経過する。 写真を撮りながら、すこしだけ感じる。感情のきざし。カメラを手に街をぶらつく行為は、犬の散歩に似ている。自分の感情にリードをつけて歩く。犬がそこらへんのものをクンクン嗅いでまわるように写真を撮っている。思いの起伏にできるだけ敏く。 つまるところ、自己観察なのだろう。わずかばかりの感情の揺れを撮る。では、その「揺れ」とはなんなのか。どういうときに揺れるのか。前々からことばにしたいとは思うけれど、一向にわからない。 人間は飼育する生きものかもしれない。朝、ぼんやり思った。犬のようにカメラを飼育している。猫のようでも、なんでもいいけど飼育している。あるいは、こう言える。カメラという媒体を通して、感情を飼育している。ことばという媒体を通して、感情を飼育している。人間は誰でもきっと、さまざま仕方で感情を飼育している。 放し飼いにする人もいれば、厳しく管理する人もいる。飼育方法には個々のグラデーションがある。日記はことばを通した感情の、伸びやかな飼育方法だとわたしは思う。   綴じ合わされたふたつの季節のように わたしたちは並んでいる 一日一日をそのからだから剥離させて あなたの頁がわたしへと繰られてゆく いつ跡絶えるのだろう かすかな重みを受け止めながら 足元に降り積もる言葉の堆積に 刻みつけられた遠い日付を いくたびも反芻している 金子千佳の「日記」という詩。

日記867

古本屋で「人生を肯定するまなざし」と書いてある背表紙を見かけた。たしか井上ひさしに関する新書だった。中身の話はしないので、ぼんやりした記憶のままつづける。気になったのは、「人生を肯定する」というフレーズ。もともと誰の人生も肯定されているように思う。わざわざしなくても、途方に暮れるほど。わたしたちは、つねにすでに生きてしまっている。気がついたら肯定されていた。 たぶん、人間の価値観は否定や禁止の道程に宿る。自分にいかなる規制をかけるか。あるいは、かけられているか。人生はそうして、だんだん弱くなっていく過程ではないか。チェスや将棋の布陣は、なにも動かさない最初の並びが最強という話を思い出す。まっさらな可能性を交互に限定していく。駒を動かすたびに、すこしずつ弱くなる。横一列にまとまっていたものがバラバラになってしまう。ひとりになりゆく過程ともいえる。 可能性は時間とともに限られてくる。ことばも、書けば書くほど話せば話すほど不自由になるような……。沈黙した状態が最強なのだ。ひとこと置いた瞬間にぐらついて隙ができる。そうして自分の不自由を思い知ることで自由の余地が浮かび上がるのかもしれないし、不自由を強化するだけなのかもしれない。わからない。「自分を知る」とは、自分の不自由を知るってことなんだろう。 ことばの「隙」を介して人と話す。不如意な弱さでつながる。人間の社会はきっと、そういうふうにできている。このブログは、わたしの抱える不自由がよくあらわれている。「それしかできない感じ」というか。それしかできない感じ。お年寄りを見ていて思う。人はだんだん、それぞれのかたちで「それしかできない感じ」になる。 わたしはわたしの不自由を行使することしかできない。自由はおそらく、自分から発するものではないのだ。他者から受け取るもの、ではないか。あなたの不自由がわたしを自由にしてくれる。わたしの不自由があなたの自由につうじている。そうであるといい。すくなくともわたしは、そんな循環を思い描きながらことばを使う。 読み書きは緊縛プレイみたいなもので、我慢強さが必要だと思う。どんな本も我慢して読む。一冊の書物は、ひとつの不自由のかたちともいえるだろう。人の話に耳を傾けることもまた、その人の抱える不自由を聴くことだ。 ある妨げを受け取ることによって道が分岐する。水の流れをイメージしている。妨げによって

日記866

すべてのことばには護教的な側面があると思う。広い意味で、信じるものを守ろうとする。これは自己理解の仕方として、そう思う。そんな自己理解から人の話を聞いたり、本を読んだりしているふしがある。内側を見る視座と、外側を見る視座はつながっている。おどろくほど緊密に。 人が嘘をつくのは、何かを守りたいからだと友人から聞いた。そうだとするなら、すべてのことばは嘘なのかもしれない。極端だけど、素朴にそう感じるときもある。裏に隠されたものがある。穿った見方をしている。いや、むしろ正直すぎるせいでこうなったのか。嘘とまことも不可分な補完関係にある。あらゆる対義語は密通する。 こんなことを思ったのは、「進化心理学はアメリカの新興宗教」という指摘をtwitterで見かけたから。その含意は知らない。ただ勝手に浮かんだことを書く。 そもそも心を扱う分野は人間の宗教性をさまざまなかたちでパラフレーズしているもんではないかと、わたしは感じる。これはもちろん、個人の感覚に根ざした乱暴な見方だ。「そういう感じがする」というだけ。「心理」には、宗教っぽさをつねに感じる。だからおもしろい。外野からそんなふうに眺めている。 ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(岩波文庫、上下巻)を読みたいと思いながら、何年も積んである。いまならおもしろく読める気がする。人間は誰でも宗教性を身にまとっている。ひとりであり、複数であるその限りにおいて。意味不明かもしれない。わたしもそう思う。 感情の最前線に興味がある。なんであれ境界の付近は危うい。信心は感情の最前線といえる。知性は感情によって駆動され、感情は信心によって駆動される。そんな感じで心を思い描いている。何かを信じたり、疑ったり。そのはじまりを成立させるしくみはなんだろう。心のはじまりは……。わかるとは思わない。しかし、ずっと気にしている。   12月4日(土) すっきりした話に矛盾を投げ込んで不協和を起こす。なんかそういうことを自然にやってしまうクセがある。それと知らずに火種を投げちゃう。あまりよろしくない。せめて自覚的でありたい。やるならわざとやりたい。不意打ちは自他ともにダメージが大きいから。 スーパーの端っこで、幼い女の子がうれしそうにジャンプしていた。2~3歳くらいかな。なにかうれしいことがあってジャンプしているのではなく、単にジャンプしてうれし

日記865

  きょうインターネットで出会ったもの。 ロイ・フラー(1862-1928)のダンス。はじめて観た。ジュディ・オングをめっちゃ激しくした感じだ。楽しそう。「おんなはうみ~」どころの騒ぎではない。謎の深海生物みたいなことになっとる。 ……すごく頭の悪い感想である。検索してみると、どうやら多くの人がジュディ・オングや小林幸子を想起するようだ。思っちゃったんだからしょうがない。にしても激しい。観ながらなぜか笑いが止まらなくなった。「楽しそう」ではなく、楽しい。まったく楽しい。

日記864

きのうは「言えなさ」と依存について書いた。他方で、コミュニケーション化され得ない残余こそが「その人」をつくるのだとも思う。個人は影として彫琢される。いるときよりも、いないときに前景化する。そういうイメージでとらえている。 孤独は体に悪い。しかし、体がひとつである以上なくすことはできない時間だ。「体は体に悪い」と言うにひとしい。つきあっていくしかない。「自分と向き合う」という常套句があるけれど、あまり健康的なことではないと思う。じっさい大病を患ったときなどに、しばしば強いられる。あるいは、独房のなかとか。就職活動で病む人がいるのもわかる。わたしはまいにち数十分の瞑想をする。瞑想は毒をもって毒を制すような方法だと感じている。いつも毒がまわってしょうがない。キマってる。 哲学のむずかしい概念も「付き合っていけるかどうか」だと倫理学・中世哲学がご専門の山内志朗さんは書いていた。スピノザの「実体」を説明する文脈から。 実体、これはギリシア哲学に由来し、様々な場面で用いられるが、定義しようとすると難しい。基礎的な哲学的概念は、基礎的であればあるほど、したがって頻繁に用いられる概念ほど、正面から考えれば分からなくなる。いや、そういった概念は「分かる」かどうかが決定的な点ではないと思う。それを使いこなし、付き合っていけるかどうかが大事なのだ。その点では人間と同じだと思う。分からないから付き合わないというのでは、人間関係は広がらない。 『わからないまま考える』(文藝春秋、pp.30-31)   「わからない」という状態は毒気をはらんでいる。不快な状態だ。人間関係も基本的によくわからんしめんどくさい、不快なもんだと思う。しかし、だからといって放棄するわけにはいかない。おなじことは「自分と向き合う」にもいえる。根気強くつきあっていれば、刹那であれ「わかる」こころよい瞬間がおとずれるかもしれない。 これは極私的な感覚に過ぎないが、セックスも不快だ。あれ以上に不快なことはない。まじで気持ち悪い。でも、うまいことやれば快につながる可能性もある。男性でこんなふうに感覚する人はすくないのかもしれん。女性がどうだかも知らんけど。わたしにとっては哲学も「自分と向き合う」も同様に、まじで気持ち悪い。しかし、うまくいけば快につながる。ごくまれに。そういうものだと思う。 麻薬もまた、快をもたらす毒だった。薬

日記863

   依存症の根本的な原因は、私たちの学習能力にある。つまり、人間から学習能力を消去すれば、物質乱用を撲滅できるということだ。p.405 ものすごく足元にある、あたりまえの指摘。ランドルフ・M・ネシー『なぜ心はこんなに脆いのか 不安や抑うつの進化心理学』(加藤智子 訳、草思社)をざっと読み終えた。目先ではなく足元を照らす。そういう本かなー。というか、自分は足元系の本ばかり手にしがち。 極端な話、わたしたちはみんな何かに依存している。一部の界隈でよく引かれる、小児科医の熊谷晋一郎さんのことばを思い出す。自立とは依存先を増やすこと。依存症の専門医である松本俊彦さんの本を読んでいても感じたけれど、「依存」はつまるところマイノリティを名指すことばなのではないか。広く日常的な使われ方として。 たとえば、テレビゲームをしない集団のなかにひとりだけテレビゲームをする人がいたら、「あいつはゲーム依存」とレッテルを貼られてもおかしくない。みんながテレビゲームをする集団であれば、そんなことにはならないだろう。テレビゲームをする集団のなかでも、メガドライブだけをずーっとやっている少数派がいれば「あいつはメガドライブ依存」と呼ばれるにちがいない。 つまり、コミュニケーションのレンジの狭さが「依存」とされる。魚に詳しいさかなクンさんは魚にどっぷり依存しているけれど、「魚依存」と呼ばれることはない。魚を介して社会と広くつながれているからだ。魚をテーマに多くの人とコミュニケイトできる。メガドライブだけをする人も、得意のメガドライブを使ってコミュニケーションの幅を広げることができれば「依存」とは呼ばれないだろう。 わたしの部屋には本がたくさんある。本と縁のない人がこの光景を見たら、依存的な印象を抱くと思う。そのとおり、依存している。しかし、おなじく本を買い漁る人から見れば「その程度か」と思われるかもしれない。それもまた然り。その程度だ。足の踏み場はしっかりある。全体を把握できるほどの量で、さほど依存してはいない。 ただ、身近に似たような趣味の人がいないため、自意識としては依存的だと感じる。ようするに、「言えなさ」を抱えている。ネットに文章を書くのは依存先を増やす作業かもしれない。換気口みたいな。書きつづけたおかげでつながれた友人もいる。このような気難しい話をおもしろがってくれる人はすくない。「気難