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12月, 2023の投稿を表示しています

日記1013

今日は大晦日。 ふりかえると毎年、知らない誰かとお知り合いになる。誰かしら。来年も、いまは知らない誰かと知り合うのかもしれない。毎年、お別れもある。暑い盛りの8月、「いまどこですか?」というLINEが頻繁にとどいた。約束した記憶がない。知り合いのおじいさんからだった。たぶん、ボケている。何日かつづいたので、「もうすぐ着きます」と返信をしておじいさんの家まで行った。約束した覚えはないけれど、彼はわたしの知らないところでわたしと約束したのだ。スーパーで買った寿司をお土産に持参して、いっしょに食べた。それが最後になった。先月、亡くなったらしい。8月の約束した覚えのない約束については、いまだに整理がつかない。ときどき夢に出る。何件も届く「いまどこですか?」。書く気になれなかったけれど、なんとなく今年のうちに記録しておこうと思った。 わたしの預かり知らないわたしがいる。たしかにいる。そういうことをぼんやり思う。生き霊みたいな。「記憶ちがいだ」「妄想だ」と切断してしまえばそれまでだけれど、それでは納得がいかないから、もうすこしべつのことばでもやもやしてみたい。抱えておく。 忘れることと、思い出すことは不可分なのだろう。忘れるから思い出す。過去の約束を何度も思い出せる。そうして何度でも繰り返し同じ夢を見る。最後に夢見てくれて、うれしく思う。 “人生は反復であり、反復こそ人生の美しさであることを理解しない者は、みずから首をつったもおなじで、くたばるだけの値打ちしかないのである。” キルケゴールの『反復』。そんな罵倒せんでも……と思う。でも、そうかもしれない。年末年始には決まって「繰り返し」を思う。わたしたちはぐるぐるしている。おそろしいほどぐるぐるしている。できるだけ良い感じにぐるぐるしていたいものです。よいお年をお迎えください。 いま、時刻は午後6時。たぶん、カウントダウンなんかせずに粛々と寝る。さっき散歩していたら、こどもたちが登り坂を勢いよく走り抜けていった。ふもとにいる母親らしき女性がそれを見守りながら、「ナイスラン!」と声を上げていた。  

日記1012

12月23日(土) 友人と会う。よく晴れた一日。空気が乾いて空が高い。呼吸をすると鼻の奥が痛む。乾燥に弱いのでマスクを重宝する。立川で見つけたうさぎのマンホールがかわいかった。それから三鷹の禅林寺で太宰治のお墓に手を合わせる。わたしはそんなに太宰を読んでいない。失礼ながら形式的になんとなく手を合わせると、笑いが込み上げてきた。「蛭子さんみたいになっちゃった」と自分でつっこむ。漫画家の蛭子能収さんは、お葬式がどうにも喜劇に見えてしょうがない体質らしい。    “自分でもこの抑えられない衝動がなんなのか考えてみたこともあります。たぶん、僕は建前で悲しいふりをするのが苦手で、なのにそこにいる全員が揃いも揃って見事に神妙な顔をしているのを目にすると、もう葬式全体が“喜劇”のように見えてくるんです。そして、いちどその「魔のループ」に入ってしまったら、完全に終了です。がまんすればするほど、笑いが僕を攻め立ててくるのです。” 蛭子能収「葬式に行くのは、お金と時間のムダ」 「自分の葬式にも来てほしくない」 (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)    なんとなくわかる。ひところ年末に流行っていた、「笑ってはいけない」で笑う力学に近いのではないか。あの番組は、笑ってはいけないのにいかんともしがたく笑ってしまう「魔のループ」をうまいこと演出してみせる。目の前でおかしなことが次々と巻き起こるのに、そのすべてに神妙な顔をして付き合わなければならない喜劇性。 「ひどい奴」と思われそうだけれど、お葬式とか、お墓に手を合わせるとか、ちょっとおかしい。葬儀にかぎらず、儀式一般に馴染めない不信心者が社会に一定数いる。儀式は、その共同体に染まっていない人間からすれば基本的におかしい。「いただきます」と手を合わせるところから妙だ。外国人か、あるいは何も知らないこどものような視座で人々を眺めてしまう。はたまた異民族の参与観察に訪れた人類学者か。 蛭子さんはある部分「染まれない人」なのだと思う。「独自の文化を生きる人」とも言える。それは「孤独を抱えた人」でもある。容易に感情を共有できない。通じ合うために、考えることを余儀なくされる。 わたしが笑ってしまったのは儀式一般との距離に加え、とくに太宰に心酔しているわけでもないせいだろう。「知らないおっさんの墓に手を合わせてい

日記1011

  言語を固めていく、獲得していく方向性と、言語をなくしていくというか、やわらかくしていく方向性の両者に気を配る。端的にいえば “being(~である)” と “becoming(~になる)” のふたつ。一方向性と多方向性、ともいえるかもしれない。 中井久夫はとにかく “becoming” の人だと思う。相手の身になる。樹木相手でさえ、「樹の身になって」「隣人としての樹をみる」などと書く。ちょっと過剰なほど「~になる」。「徴候」というキーワードにも “becoming” 的なふくみがある。他方で、「~である」を打ち立てる理論的な視座も忘れない。「~になる」ばかりではなく、距離をつける。そのバランス感覚が読み味として快い。 しかし、ご本人は徹頭徹尾「~になる」タイプだと思っていたらしい。高宣良 編『中井久夫拾遺』(金剛出版)に興味深い証言がある。精神科医、市橋秀夫のコラムから引く。    “彼は病者の治療に当たって、内部に入り込み、病者へのエンパシーというよりも、自身と照合を繰り返して描き出していたように思えてなりません。それは同時に病者のみならず治療者をも危機に追いやる諸刃の剣でもあったはずです。初期の中井はそれを回避するために二つの方法を採用したのではないでしょうか。距離とセラピストフッドです。距離を作るために採用したのは風景構成法・なぐり描きでしょう。自分と病者の間に介在させることで安全な距離を保ったのだと思います。彼は私に「みんな私のことが総説を書ける人と思っているけども、書けません。私が見ているのは鳥瞰図ではなく、虫瞰図の世界です」と述べられましたが、近接距離で見ていたというか、寄り添うというよりはほとんど一体になって見ていることを言語化しているという感覚を私に与えます。”(p.91)   総説は書けないのだと。「鳥瞰図ではなく、虫瞰図」。「トップダウンではなく、ボトムアップ」と言い換えることもできそう。カテゴリーが先にあり、そこへ事物を当てはめていくような思考様式ではない。自身の具体的な経験から、関係に応じて、相手の出方に応じて、現象に応じてことばを立ち上げる。それを徹底する。あらかじめ整序されたロジックがあるのではなく、目の前の混沌を地道な実験でかき分けていくような物腰。 ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書――自閉症者と小説

日記1010

12月17日(日) 中野ムーンステップというライブハウスで、「 unMARIE's 年忘れ音楽祭 」。年末らしいイベント。出演は、 もらすとしずむ・尻軽シティガール・MOTAHEAD・unMARIE's の4組。それぞれ unMARIE's のメンバーが掛け持ちしているバンドだそう。よくわからないまま行った。DMでお誘いいただいたこともあり。ひきこもり気質が年々ひどくなっているため、連れ出してもらえる関係をたいせつにしたいと思う。遅刻して最初の尻軽シティガールは見れなかった。2番手はもらすとしずむ。     Vocalの 万里慧さんと、Machineの田畑さん。 イベントの副題が「 カニとツルツルとイケオジ来るってよ! 」ということで、「いまどき容姿いじるってどうなん?」と田畑さんがつっこんでいた。お笑いコンビ、シシガシラの脇田さんもM-1グランプリで「ハゲはいじっていいの?」とつっこんでいた。わたしも「こういう写真は悪いかな」と感じたが、悪戯心に抗えなかった。この角度を見つけてしまった。「イベントのタイトルにもなっているし」という甘えもある。親愛として受け取っていただければ幸い。「いたずらっぽさ」は写真を撮る動機のひとつとしてつねにあるかな……。悪気がある。 3番手、 MOTAHEADの写真はない。後方に退いてしまったため。演者もさることながら、前列のお客さんも熱かった。わたしの眼前では、テンガロンハットの白人男性がゆさゆさ揺れていた。頭を振りまくっている最前列のお客さんを見て「首痛めないかな」といらぬ心配をしてしまう。余計なことばかり考える。 トリは主宰の unMARIE's。   ドレス姿の御三方。照明で青みがかるベールが美しかった。ときおり奥のほうにうつる影のシルエットもよかったけれど、角度と距離的に撮れず。もらすとしずむ以外、はじめて見るバンド。客層の差を眺めながら、それぞれのコミュニティがあるんだなーと感じる。服装から異なる人々が混ざり合っていた。 自分は相変わらず、どこに行っても疎外感がある。それはもう生まれ持った性質であって仕方がないのだと、このごろは腹をくくった(「ひらきなおった」とも言える)。ただ、音のなかにいるときだけはちがう。とくに爆音だと、言語が無効化されるせいかもしれない。内心にくすぶっているのは、言語的

日記1009

  12月6日(水) 図書館で借りた大里俊晴『マイナー音楽のために』(月曜社)に、前の人の貸出票が挟まっていた。 ロングシーズン マイナー音楽のため 虚空へ とある。短い詩のようだと思った。ながい時間と、ひろい空間が喚起される。季節を跨いで、がらんとした虚空へ。マイナー音楽のため。『ロングシーズン』は佐藤伸治の詩集。『虚空へ』は谷川俊太郎の詩集。 12月7日(木) 近所に障碍をお持ちの方が住んでいて、朝早くから大声で泣いている。かなしい気分で起床することが多い要因のひとつはそれかなと思う。泣く夢もよく見る。夢に彼の泣き声が浸潤してくるのかもしれない。いままで関連づけていなかったけれど、そう考えると納得がいく。加えて、夢の中で感情が発露しやすい自分の体質もある。 感情というのは、掛け違いが起こりやすい。乱暴に書いてしまうと、すべての感情は複合的な掛け違いなのだと思っている。原因を同定できないほどに絡み合った。「あなたが好き」と言っても、その感情には「あなた」以外の多くのものが含まれている。たまたま想いを流し込める藁人形が「あなた」だった。「あなた」は流路をひらいた人。あるいは、綿あめの棒みたいなイメージ。「あなた」という棒を軸に、ふわふわと雲のような感情がまとわりついて「好き」が成形される。そんなふうにみている。「嫌い」も同様。 よくわからない比喩かもしれない。まあいいか。とかく感情はしらずしらずに漕ぎ出してしまう。熱をともない、さまざまな風景を巻き込みながら。そして、たまたまぶつかったちょうどいいものにぐるぐる絡みつく。その裏には複雑な因果の連鎖がある。なんかそういう感じだと思う。 書店で立ち読みした本に、「悲しみがいかに怒りの形であらわれてきやすいか」と書かれていた。表現の仕方も掛け違いやすい。つねに複合的であり、ひとつではないから。怒りにはかなしみが混入している。「好き」は「嫌い」へと容易に反転する。どんな感情も一筋縄ではいかない移ろいを描く。旋律のような、動的階調のどこかに位置している。 立ち読みしたのは、稲葉俊郎『ことばのくすり』(大和書房)だったと思う。たしか。   12月8日(金) 朝の電車、ひとりごとを発するおじさんと同じ車両に乗り合わせる。なにを言っているのかわからない。でも、日本語っぽい。ふしぎなことば。たまに「アウシュヴィッツ」と聞こえる。あきら

日記1008

11月25日(土) “誰も母の存在を認めることはできなかった。父以外は。きっと私でさえも。” 『鈴木いづみ 1949-1986』(文遊社)に収録されている鈴木いづみの娘、鈴木あづさのことば。「父」はジャズ・ミュージシャンの阿部薫。友人とのふたり読書会で読んだ一冊。「存在を認める」とはどういうことか。 日記1006 に引いた、オルガ・トカルチュクの「優しさ」と関連する何かだと思う。あるいは、「読める」とはどういうことか。ここにも関連してくるような。 このブログを読める人がいる。どこの馬の骨とも知れない人間が書いた雑文。大多数の人にとってはなんの価値もないだろう。役に立つ内容でもない。しかし少数ながら、読む人がいる。なぜ読めてしまうのか。「なんかある」と思っているのかもしれない。なんか。好意的にせよ嫌うにせよ。「なんかいる」でもいいか。なんかいます。 文章には幽霊のような性質があるんじゃないか。見える人には見える。読める人には読める。なぜこの人のことばが読めてしまうのだろう。そう感じさせる無名の書き手がネット上にいる。なぜかわからないけれど、出会えてしまった。むろん、それは「日本語が読める」という以上のなにか。 音楽にも似ているかもしれない。感応できる曲、できない曲がある。そういえば、倫理観と音楽の好みにはつながりがあるんでないか? という研究を最近みかけた。 Music preferences and moral values: New study uncovers surprising connections 主にイタリアのfacebookユーザーから抽出したデータだそう。眉唾かな。ある曲を「聴ける/聴けない」の差はどういうところにあるのか。写真にも「見える/見えない」がある。こういうのは詰めていけば結局、「偶然」や「運命」としか言いようがない謎の因果なのかもしれない。鈴木いづみと阿部薫の出会いのように。人との出会いも、もれなく全員どうして出会ったのかわからない。なぜめぐり逢うのかを、わたしたちはなにも知らない。自分自身をはじめ、あらゆる存在が謎。   小石はなんていいんだ 道にひとりころがって 経歴も気にかけず 危惧も恐れない あの着のみ着のままの茶色の上衣は 通りすぎていった宇宙が着せたもの   エミリー・ディキンソンの詩。ときどき、自分が道端の小石と