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1月, 2021の投稿を表示しています

日記755

1月24日(日) 年が明けてはじめて、介護施設の祖母と面会した。相変わらず施設内に入れてもらえない。当面は無理か。いまにも雪へと変わりそうな雨のなか、窓ガラス越しに電話をかける。短い時間、短いことばを交わしあった。人はすこしずつ名前をなくしてしまいたい生き物なのではないか。帰り際に、なんとなく思う。 施設のなかではおそらく、なにをするにも名前が必要になる。自分の名をいちいち意識せざるを得ない暮らしを想像する。馴染みのない人々に囲まれているのだから仕方がない。家族間であれば名乗ることはない。はじめから身体的な質感で接することができる。わざわざ名によって自己を顕示しなくとも、お互いに「いるね」とすぐわかる。 持ち物をさしいれするとき、かならず名前を書くよう施設の職員さんから注意を受けて、なんともいえない気持ちになった。どこまでも名前がついてまわる。言ってしまえば、それだけよそよそしい場所に祖母は置かれている。 「名前がついてまわるのは、さびしいことだよ」と親に話した。誰もそんなことは考えない、らしい。「持ち物にかならず名前を書く」という規則から、「さびしさ」を読み取る人間は少数派なのだろうか。それもさびしい話だ。   どんなことがあっても、子供の名前のほうにではなく、生きものの名づけようもない魂や皮膚の色つや、心の照りかげりのほうに味方して、味方して、味方しすぎることはないと思っている。   荒川洋治と井坂洋子の共著『理屈』(フレーベル館)より、井坂さんのことば。「味方して、味方して、味方しすぎることはない」。わたしもそう思う。ぜんぜん味方しなかった過去の出来事もぽつぽつ浮かべ反省しつつ……。 祖母はいつも家族にしかわからない態度で、家族にしかわからないことばを話してくれる。新年早々、ちょっとだけお怒りのごようすだった。ずいぶんむかしのことを、思い出したのだと。記憶が原型をとどめないほど滲んで、事実とは異なる内容ばかりだけれど、正すことはしない。聞き取るべくは「心の照りかげり」だけでよいのだと思う。 客観的な同一性よりも、主観的な異質性の味方につく。人はファクトベースで生きているわけではない。これは肝に銘じておく。「さびしい」と言われても、以前のわたしは「主観的すぎて困る」と思っていた。なんなら「知るか」と反感さえ抱く始末だった。いまなら、理に落とそうとせず、体で受け

日記754

郡司ペギオ幸夫の『やってくる』(医学書院)にある、「他でもあり得たことへの気づき(p.285)」というくだりに感動した。 日記749 で、國分功一郎と熊谷晋一郎の講義録『〈責任〉の生成』(新曜社)を引きながら書いた「意味がわかる」って話にもつながる。國分さんのお話をもういちど引こう。   そこで引責の話なんですが、僕の書いた『中動態の世界』がオープン・ダイアローグを考えるうえでたいへん参考になると考えてくださった方々がいらして、関連のシンポジウムに呼んでいただき講演した際、最後の質疑応答で、「私は犯罪の加害者なんです」と前置きされてから感想を述べてくださった中年の男性がいらしたんです。僕はその講演で、「自由意志というのは存在しません」という話をしたんですが、その男性はその話を聞いていて、涙してしまったと言うのです。そしてこんなことをおっしゃいました。「自分はずっと罪の意識を持たなければならないと思ってきたけれども、それがどうしてもうまくできなかった。ところが講演を聞いていて、自分ははじめて罪の意識を感じた。自分が悪いことをしたと感じた」とおっしゃったんです。僕はびっくりした。pp.45-46 犯罪加害者の男性は、講演を聞いてはじめて「意味がわかった」のではないか。と、前に書いた。では、ここでの「意味がわかる」とはどういうことか。郡司さんのことばを借りればそれは「他でもあり得たことへの気づき」となる。 後悔や罪の意識はまさに「他でもあり得た」と気がついたとき、やってくる。他でもあり得たのに、そうでしかあり得なかった自己のズレをかえりみて人は悔いる。なぜあんなことをしてしまったのか?あのとき、もっとべつの行動があり得たのではないか?と。 「意志」という概念はおそらく、「他でもあり得た」その可能性を潰してしまう。ズレを隠蔽してしまうのだ。それ以外あり得なかった。なぜなら、それが自分の意志だったから。こうなってしまっては罪の意識が入る余地はない。熊谷さんは『〈責任〉の生成』で、さいごにこんな怒りを表明している。   二〇一六年に起きた相模原殺傷事件の犯人の裁判所での言動が、少なくとも私にとって許しがたかった理由の一つは、彼が自分の行為について、自分の意志で行ったということを認めなかったからではない。いや、むしろ彼が過度に、自分の意志にのみ帰属させたことが許しがたかったのだ。

日記753

寒いと手足の血管が収縮して、動かしづらくなる。そのまま冷えきってしまえばやがて動かなくなり、さいごは壊死する。動かしづらい部分はうっすら死にかけている部分ともいえる。手足にかぎらず、全身がたぶんそう。動きを止めると死ぬ。 「やわらかさ」が生涯を通して重要なのだと、さいきん身にしみて感じる。このくらいのことは10代で感得しておきたかった。全身を適度にバラすこと。固いと体は、無駄についてきてしまう。ついてくると、バランスがとりづらい。転びやすい。「転ぶ」は言い換えると、「ぜんぶがついてくる」ってことだ。全身が一気にズコーッとなっちゃう。立ち姿勢は適度に体がバラけているからこそ可能となる。 部分部分の自律性がたいせつで、それを保持するためにストレッチをおこなう。部位ごとの切り離し。やりながら、時差をつけているのだと感じる。体の同時的なまとまりをすこしずつほどく。指の一本一本から順に自律させて、べつべつの時間をあたえていく。    眼のためにあるものと耳のためにあるものとが重複してはならない。p.78 年始にディスクユニオンで購入したロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)より。映画監督のメモ書きだけれど、ストレッチに役立つ知見もふんだんに得られるすぐれもの。冗談ではなく、半ば本気でそう思う。 固い体はつまり、重複的なのだ。たとえば股関節が固い状態は、大腿骨と骨盤が重複して動いてしまう状態といえる。大腿骨のためにあるものと骨盤のためにあるものとが重複してはならない。股関節をほぐせば、大腿骨と骨盤のあいだに時間差が生まれる。ついてこないように、余計な連動をほどいて、すれちがいをつくる。これは全身、どの部位でもおなじこと。    人は、手で、頭で、肩で、どれほど多くのことを表現しうることか!…… そうすれば、どんなに沢山の無駄で疎ましい言葉の数々が消え失せることだろう! 何という倹約! p.174    ようするに「無駄口を叩く暇があったらストレッチでもしてやがれ!」って話だと思う。そう読めなくもない。ブレッソンがそこまで言うならもう、ストレッチするしかないでしょう。というわけで、暇さえあれば体を伸ばすよう心がけたい。なにより、いい暇つぶしになる。ひとりでできて、お金もかからない。何という倹約! 昨年は股関節が中心だった。ことしの抱負は背中。長年の猫背が祟ってガ