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5月, 2021の投稿を表示しています

日記798

スタイルとは何の盾もないことだ。    スタイルとは何の見せかけもないことだ。    スタイルとは究極の自然らしさだ。    スタイルとは無数の人間がいる中でたった一人でいるということだ。 チャールズ・ブコウスキー『ワインの染みがついたノートからの断片』(中川五郎 訳、青土社、p.275)。自然な態度がいちばんむずかしい。ここでは「自然らしさ」と訳出されている。おそらく、まっさらな自然はありえない。あくまで、らしく。「無数の人間がいる」と「たった一人でいる」が不可分な関係にあることとも並行的なのだろう。純粋なひとりにはなれない。無数のなかに混入する、不純なひとりとしてありつづけること。 「ひとり」という不純さ。ひとりでいるなんて、まったく不純です。人と交われないと、「ちがい」に向き合わざるをえない。ちがっていると居心地が悪い。うまくごまかしたくなる。浮き上がった不純な自己をごまかさずにおける人はセクシーだと思う。ブコウスキーのことばはエロい。無防備な孤独と、性的な魅力は深く関係している。すくなくともわたしのなかでは。 性差の別なく、人の魅力はそこに尽きる。生死の別もない。仏陀とかもセクシーだと思う。孤独だから。というか、孤独な瞬間は誰にでも訪れる。どうにもごまかしのきかないとき。そこにそれぞれの「スタイル」があらわれる。ブコウスキーは自分の魅力をいっさいごまかさなかった。孤独を厭うことは、自分の魅力を厭うことではないだろうか。 かくいうわたしは、ごまかしごまかし生きている。あんまり魅力的でも罪深い……。「罪な人」などとよく言われるように、魅力と罪も深く関係する。そして孤独も、あがないきれない罪悪感と切り離せない。「自然らしさ」は「罪人らしさ」と言い換えることができるかもしれない。 スタイルとは自己の罪状を肯定することだ。 5月31日(月) 帰りに一杯やりたい人って多いんだなーと、路上飲みの集団を横目に思う。わたしはとにかく帰りたい、家にいても頭の片隅で「帰りたい」と念じているような人間なので、街にあふれる「一杯やりたい」の情熱がわからない。帰りたい。 夜7時ごろ、東京都の宣伝車を見かけた。「緊急事態宣言が出てるから家に帰れ」みたいなアナウンスを垂れ流していた。わたしの前を歩くおじさんふたりはそれをチラ見して中華料理屋に入った。膝に水が溜まってどーのこーのと大声で話し

日記797

  くま。     きのうはカッコつけて、「読む人」を代表してる、みたいなことを書いたけどそんなんじゃないと思い直す。そんなんじゃない。ではどんなんかというと、手持ち無沙汰なおじさんです。すっごい手持ち無沙汰なだけです。持て余してる。ここは物置き小屋。たとえるなら、道で拾ったいい感じの棒をコレクションする場所。「これ、なかなかいい感じの棒だよね」とえんえん書いてるだけのブログ。いらないのに、癖で拾ってきちゃうんだからしょうがない。 でもそういうブログがじっさいにあったらおもしろそうかも。比喩ではなく、道で拾った棒について淡々と論評しつづけるブログ。そういうものにわたしはなりたい。キャッチフレーズ風に書くと「手持ち無沙汰で、そぞろ歩き」みたいな。無沙汰で、そぞろ。ぶらぶらしてる。まるで睾丸のように。  国文学者の吉田精一は『随筆入門』のなかで小杉放菴の随筆を「これはたしかに睾丸をぶら下げている人間の文章である」と評したそうだ。岡崎武志と山本善行の『新・文學入門』(工作舎)に書いてあった。原典には当たっていない。よくわからんが、おそらく褒めことばなのだろう。 これを読んだとき、わからないなりに、わたしもちゃんと睾丸をぶら下げている人間として文章を書きたいと思った。じっさいぶら下げているわけだし。あんまりカッコつけているようじゃいけない。 睾丸というのは、通り一遍に解すれば「不如意なもの」の象徴だろう。広い意味で、どうにもならんもの。いらないのに、いい感じの棒を拾ってきちゃうような性癖。いま「不如意」と書いて思い出したのは『ブコウスキーの酔いどれ紀行』(河出文庫)だ。ブコウスキーという作家は、たしかに睾丸をぶら下げている。町田康の解説を引こう。    ブコウスキーは、人生が失敗の連続であり、なにごともぜったいにうまく行かないと定めたうえで、作家である自分という存在を使っておもしろがる、という姿勢を貫いている。  このことが通奏低音としていつも響いているブコウスキーの、しかも紀行であるのだから面白くないわけはなく、カフェに行こうとすれば場所が分からず漸くたどり着いたら店が違っている、或いは閉まっている。バス停はない。窓口に行けば必ず手違いがあって、言語はほとんど或いはまったく通じず、荷物は転がり落ち、人違い、勘違い、手違い、行き違いが交錯して、爆笑、哄笑、挙げ句の果てに生き

日記796

近代印刷文化の中の文学は、個人が(ひとりで)書いたものを個人が(ひとりで)読む、しかも沈黙のうちに、という伝達方法を主流として育ち、受け継がれてきた。だが人の主観性=主体性とは、「ひとり」がつねにすでに多数により構成されている以上、その文学における孤独は見せかけのものにすぎず、文学においては結局、見かけ上のひとりの作者(じつは多数を母胎とするつかのまの代表)が見かけ上のひとり(じつは多数を母胎とするつかのまの代表)の読者によって読まれているという事態が生じている。そうでなければ、じつは何も理解できないのだ。生物学的個体・社会学的個人を超えた、言語意識における個は、けっして孤立することがない。p.238 佐藤=ロスベアグ・ナナ 編『翻訳と文学』(みすず書房)に入っている管啓次郎の小論、「詩、集合性、翻訳についてのノート」より。「つかのまの代表」という表現がおもしろい。いたずらに拡大しちゃえば、わたしたちは「多数を母胎とするつかのまの代表」として生きているのかもしれない。ひとりの主体というより、実質は「代わり」だと考えたほうがわたしはしっくりくる。つまり、どんな行為も発言も何かをrepresentしている。それによって相互に補い合えるしくみになっている。同時に、排除し合えるしくみにもなっている。 ラッパーは口癖のように「レペゼン」を叫ぶが、すべての発言にレペゼンはあらかじめふくまれているのだと思う。人のことばを解釈するときは、第一に「この人は何を代表しているのか?」という問いを置くと話が見えやすい。これはいつか書いた、帰属を探る発想とおんなじ。ことばと立場(その人が置かれている状況)は切り離せない。我ながら一本調子というか、いつも似たようなことばっか考えている……。 では、わたし自身は何を代表してこんなものをうだうだ書きつづけるのか。強いていえば、「読む人」かもしれない。本にかぎらない広い意味で、世界をこんなふうに読んだよと。きょうは夜風が心地よくて、窓を全開にしている。現在の状況を読んでみた。読んだから書いた。読まれた、でもいい。ことばに読まれた。夢に見られた。それだけなのだと思う。ひたすらに。     「読んで、書いて、読んで、書いて、」  気持ちよく本書をすでに読むことができているのなら何よりですが 「読んで、書いて、読んで、」  少なくともここまでこのように読ん

日記795

   シェイクスピアの喜劇『お気に召すまま』(As You Like It)のなかで皮肉屋のジェイキーズが語る名文句がある。「全世界は舞台だ。そして男も女もただの役者にすぎない。各々に出口と入口がある。そして一人が一生のなかでたくさんの役を演じ、その幕は7つの時代からなる」p.147   高橋英光『言葉のしくみ 認知言語学のはなし』(北海道大学出版会)、9章「文は舞台である。主語、目的語は役者である。」の冒頭。このような比喩は文法にもあてはまる、という。   シェイクスピアをもじれば「文は舞台だ。そして主語も目的語も役者にすぎない。そして主語と目的語はたくさんの役割を演じる」となる。文という舞台を演出しているのはもちろん言葉の使い手であるわたしたちである。p.147 とてもおもしろい見立てだと思う。   文とは、ヒトの世界認識や思考の連続の一部を切り取ったものである。比喩的に言えば、話者・書き手(これを概念主体と呼ぶ)によって選ばれた舞台である。主語、目的語、その他の要素はその舞台のなかで演じる主役、準主役、傍役に相当する。p.155 舞台装置としての文。ジャンル関係なく、すべての文は舞台といえる。書くことはすなわち、一個の舞台を構築することにほかならない。 自分の文には、どのような主語が多いだろう。まず「わたし」か。それから「人間」「人類」「ヒト」「世界」などのデカい主語が散見される。どちらかといえば「わたし」よりも、「人間」を主役に据えていたい。つまり、「わたしたち」。 「わたし」なら、わざわざ言い立てなくとも勝手についてくる。画面にこびりついた、どうやっても洗い落とせない染みようなもの。どうにかして、きれいにぬぐい去りたい気持ちもすくなからずある。邪魔くさいから。落として、すっかり透明になりたい。死ぬってそんな感じなんじゃないか。 「死ぬ」までいかずとも、読み書きは「わたし」を不断に変換していく。こすられて薄く広がる。「生きるため」という触れ込みの本は多いけれど、個人的には真逆の感覚でいる。そんなにわたしは、わたしを生きなくてもいい。刻一刻いなくなるために、わたしではないものたちのために、ことばがある。できるだけ遠くへ行きたい。日々、ちゃんと死んでゆきたい。 「生きてたってしょうがないね」と祖母はよく漏らす。そうだね、わたしも毎日そう感じる。でもいったい、何が

日記794

  梅。     5月25日(火) 暑かった。まとまらない日々。筋トレで肩幅が増したせいか、Tシャツのサイズが合わない。何枚か処分する。ゆるふわでらくちんな服をたくさん買いたい。会社の人が眼球エステの話をしていた。オイルで目を洗うらしい。 わたしはよく、目にまつ毛が入ったときなど「目ン玉まるごと取り出して水洗いできたらいいな」と思う。もっといえば、内臓もぜんぶ取り出して洗いたい。こどもみたいに、なんでも解体しちゃいたい気持ちがいまだにある。しかし体は機械的に取り出せない。不可逆だもの。もとにもどらなくなる。 気になって、眼球エステを検索してみた。施術のようすに笑ってしまう。練った小麦粉で目の周囲に土手をつくるそうな。メガネのようなかたちに囲って、そこへオイルを流し、眼球を浸す。つくづく、人間は変なことをする生き物だと思う……。 書店に寄って、横道誠『みんな水の中』(医学書院)を買った。新刊。読み終えたら、感想的な何かを書きたい。それとメタ認知に関する本を中古で1冊。 さいきん路上でお酒を飲む人が増えた気がする。飲みたい気持ちが道にあふれている。そういえば、きょうは月がきれいだった。歩道の隅っこでひとり飲みながら、月の写真を撮る女性がいた。お月見ですね。と思った。    

日記793

  ふたたび養老氏の動画。改めてお話を聞いていると、かすれ気味のそっとした声質に惹かれる。ちょっとセクシー。あるいは、ことばを置く速度、語尾の落ち着き、話しながらひとりで笑う感じも。どうもわたしは声のふるまいを好きになる傾向がある。声フェチらしい。うすうす感じてはいたが、はっきりと意識できていなかった。 動画の前半は「おなじ」と「ちがう」について。「感覚的にものを捉えると、すべてはちがって見える」という。声の質感は固有の存在感をつたえる。容姿もみんな個性的。その一方で、わたしたちはおなじような話をする。「雨の日がつづきますね」「梅雨ですね」なんつって。言語は第一に、「おなじ」を基盤とするもの。   ことばは「うつすもの」であり、人間は「うつし合う」生き物だとわたしは思う。   と、数日前に書いた。これにもちかいお話だと思う。人間は「おなじ」を幻視する。ひとりひとりぜんぜんちがうのに、どっかしらおんなじだと思っている。隙あらば、おんなじにする。もしくは、される。かなりキマってる生き物だ。年中ラリってるといっても過言ではない。言語に酔っぱらっている。 「頭で考えたら人間はみんな平等です。感覚で捉えたらみんなちがいます」と養老氏は言う。ようするに、抽象と具体の乖離を語っている。はなればなれになりがちな抽象的思考の世界と具体的感覚の世界、この両者を縫い合わせるものがアートなのではないか。わたしの理解で短くまとめると、こんな内容。 要約から、似たような話を思い出す(幻視する)。たとえば、さいきん関心があって調べていたヴィルヘルム・ヴィンデルバントによる科学の線引き。   ヴィンデルバントは、なかんずく自然科学と文化科学(精神科学ともいう)の間の線引き問題にも努力を傾注した。自然科学は、法則定立的 (nomothetisch) な方法を用いる。つまり、自然科学は、その対象を普遍妥当的な法則を通して記述する。これに対して文化科学は、一回限りのもの、個別的なもの、そして特殊なものと関わり、個性記述的な (idiographisch) 方法をとる。 ヴィルヘルム・ヴィンデルバント - Wikipedia   なかんずく努力を傾注した人。 自然科学は「おなじ」を記述し、文化科学は「ちがう」を記述する。ともいえる。養老氏の話を加味するなら、アートは法則定立と個性記述の結節点。アーテ

日記792

イスとタバコの絵。 図3-1を「タバコがイスの右にある」と表現するのは自然だが「? イスがタバコの左にある」と表現するのは奇妙である。図3-1を100人以上の大学1年生のクラスで見せて確かめたことがある。すべての学生が「タバコがイスの右にある」は自然だが「? イスがタバコの左にある」は奇妙だという意見であった。 高橋英光『言葉のしくみ 認知言語学のはなし』(北海道大学出版会、p.40)より。おもしろい。とてもおもしろい。これは「英語でもまったく同様である」という。ただし条件を変えて、「もしイスの底に車輪があり部屋から部屋へと移動している状況なら “The armchair is to the left of the cigarette” (イスがタバコの左にある)は完全に自然な文になる」と。  「タバコがイスの右にある」と「イスがタバコの左にある」は論理的に等しいのになぜパラフレーズできないのか? また、イスが動きやすいと考えるとなぜ奇妙でなくなるのか? それはわたしたちが単純な空間論理のみで言葉を使っているわけではないからである。多様な人間的ものの見方が関与しているためである。人間的ものの見方とは、前景と背景に二分する性向、XとYの相対的大きさと形、ヒトにとっての機能と用途などである。  客観世界ではタバコとイスは平等である。しかしヒトの認知は平等でない。ヒトの認知は差別的である。タバコを前景化しイスを後景化したがる。このためタバコが主語に選ばれる。わたしたちの言葉は無意識のうちにヒトの認知的原理に支配されている。p.41 わたしはここでいわれている「奇妙」にあまり共感できない。そこがおもしろい。「タバコがイスの右」であろうが「イスがタバコの左」であろうが違和感はさほどない(すこしある)。だいたいおなじだ。だけど、多くの人はここにかなり違和感があるらしい。なるほど、そうだったのか……。 これは 日記765 に書いた内容とつながる。数学がどーたら人権がどーたらゆうてた回。「人権」って概念はここでいう「客観世界」にちかい。タバコとイスを平等にあつかうように、どんな人にもひとしく付与された権利。誰もが主語たりうる。それが人権。 「書かれてないことを勝手に推測しない力」は数学で鍛えられる、というツイートを引用していた。「タバコがイスの右」と「イスがタバコの左」のあいだにあ

日記791

鳩。 「意識はランダムになれない」について、ぼやぼや考える。ひとつ前の記事に書いた、養老孟司さんのことば。頭のなかでは賽を振れない。ルーレットをまわせない。意識は規則性に準じてしまう。いわれてみればあたりまえなんだけど、とてもおもしろい。これをめぐって、いくらでも夜を使い果たせる。 自分の撮った写真を見返しながら感じる。ひたすら歩いて、いきあたりばったりの出合い頭に撮りまくっているだけでも、統一感が出てしまう。なんら決めたわけではないのに、似たようなものを撮りたくなる。知らずしらずにランダムを拒んでいる。結果、自己同一性があらわになる。 かといって「何を撮っているのか?」の問いにはうまく答えられない。目につくそのへんのもの。ただ中心ではない、ゴミみたいな、周縁のもの。意識的に選んだわけではなく、しかし無意識でもありえない。自分にとっての写真は意識と無意識の境界に位置している。言語と非言語の境界、ともいえる。あいだをつなぐ、ひとつの結び目。睡眠中の夢と似ている。   「バイアス」は意識がランダムになれないから生じるのではないか。認知の偏り(偏見)を指摘する「なんちゃらバイアス」って名称がたくさんあるけれど、これはつまりあらゆるところに規則性を見出してしまう意識の特性を指摘している。客観的な正誤は関係なく、わたしたちはすきあらば規則性を発見しまくる。 バイアスを排除するためには極端な話、意識をなくすとよい。そうだな……。たとえば客観性の担保された実験の手法に、ランダム化比較試験(RCT)がある。そのひとつ、二重盲検法の説明を引こう。   二重盲検法 (にじゅうもうけんほう、英: Double blind test )とは、特に医学の試験・研究で、実施している薬や治療法などの性質を、医師(観察者)からも患者からも不明にして行う方法である。プラセボ効果や観察者バイアスの影響を防ぐ意味がある。 二重盲検法 - Wikipedia 当事者にはわからないように(意識させないように)試験をおこなうことで、結果の信頼性が担保される。意識はランダムになれない、ゆえに編み出された手法といえる。極端な話でもないか。意識自体がそもそもバイアスの産物なのだと思う。「ランダムになれない」は、「客観的になれない」と言い換えることもできる。あるいは、「公平になれない」とも。 科学的な方法論は「信頼

日記790

家事をしながら、この動画を聞いていた(見てはいない)。10年前におこなわれたシンポジウム。過去にも、いちど聞いていたと思う。きょう「おすすめ」にあがってきたので、すすめられるがままもっかい拝聴。以前より深く理解できた気がして、うれしくなる。とくに養老孟司さんのお話が刺激的だった。 気になったのは、街の案内板を比喩にして人間の認知を語るくだり。案内板にはたいてい、地図に現在位置の矢印が加えてある。わたしたちの頭のなかにもおなじような地図と自分の現在位置がセットで入っているのだという。つまり、空間定位能力が働いている。 この比喩を養老さんは臨死体験の幽体離脱につなげる。神秘的な話ではなく、あくまで人間の認知特性として。さいごギリギリの意識状態においてかろうじて残っているものが「体と、その体を上から見ている私のふたつである」と。現在位置と俯瞰図のふたつ。 人間の視点はおそらく、ひとつではない。そういえるんじゃないか。まとめるとそんなお話。わたしなりのことばであらわすならこれは、「ひとり(=現在位置)」と「みんな(=俯瞰)」の問題そのまんまだ。人はこのふたつの綱引きによって世界を感覚している。 完全に孤独ではなく、完全に世界と溶け合うこともできない。中間でふわふわする半端な余波が「私」ってやつなんじゃないかなーと、わたしはイメージしている。「ひとり」と「みんな」が寄せては返す。どっちつかずで、持て余しちゃってる。自己意識は収まりの悪い「余剰」であり、定位しきれない。だからこそ自由がある。余っているからこそ。収まりが悪いからこそ。そこに何かがやってくる。 郡司ペギオ幸夫の『やってくる』(医学書院)を思い出した。「あとがき」で『腐女子のつづ井さん』(KADOKAWA)について書いてある部分。    マンガや小説を読んで、ヒーローとの恋愛関係を夢見る者を、「夢女子」と言うそうです。これに対して腐女子は、ヒーローとヒロイン(共に男性であることが多い)の関係を遠目で愛でている者なのです。つまり夢女子は一人称的当事者として(マンガの)世界にかかわりますが、腐女子は一人称ではなく、かといって冷静に客観的に(マンガの)世界を三人称的に傍観するのでもない。腐女子は徹底して受動的に、世界から引いて、しかし世界を愛でている。p.297 わたしのいう「私」はこの腐女子にちかい。当事者でも傍観者でも

日記789

5月13日(木) 「背骨コンディショニング」を試している。ダルビッシュから聞いた。あの、野球選手の。とりあえずYouTubeで「背骨コンディショニング」と検索してみたところ、ちょっと怪しい風采のおじさまがあらわれた。日野秀彦という、この人が創始者らしい。わりと好きなタイプの怪しさだ。 日野背骨矯正のチャンネルから適当な動画を選んですぐそのとおりやってみると、かなり効く。じわーっと体の熱が全身にいきわたるような。よさげな感触を得たので、自分なりに解釈しながらつづけてみようと思う。自分の体に添って、観察を絶やさないことがたいせつ。「体一般」は存在しない。受け取った情報はひとまず個体のスケールに落とす。 「自分の専門家は自分」ということばを思い出す。小瀬古伸幸『精神疾患をもつ人を、病院でない所で支援するときにまず読む本』(医学書院)より。    精神疾患をもつ人を地域で支援する時の最終到達目標は、「自分の専門家になる」です。「自分の専門家になる」とは、良い時はどのような状態なのか、悪い時はどのような状態なのかを自分であらかじめ知っていて、言語化できることです。p.19 立場は関係なく、誰でも持っておくとよい視座だと思う。もちろん自分のすべてを自分ひとりで把握することはできないし、その必要もない。しかし、できるかぎり知る努力はしておきたい。体の状態はなにより、観察してみるとおもしろい。五体満足の「健常者」であっても感覚できていない部分や、うまく使えていない未知の余白がたくさんあるはず。それに、いつかは誰もが体に異常をきたすのだから、知っておけば「いつか」への備えにもなるだろう。 人は日一日と壊れていく。自分の壊れっぷりを観察しつづけることも、人生の楽しみのひとつではないか。いい感じにおもしろおかしくバカになっていけるといい。いい感じだといい。 そうそう。 「自分の専門家は自分」から、さらにもうひとつ連想が飛んだ。    書くといっても、初めのうちならば他人の本を材料にして書くこともできるだろうが、いずれはその種が尽きるときが来る。そのときモンテーニュは、かれが一番知っているはずの自分という人間を本の材料に選ぶことを思い付いた。「それから私は、他のすべての材料がまったくなくなってしまったので、題材と主題として私自身を私に提供することにした。これは野蛮で、型破りな企てをもった、

日記787

ここ数日、めんどうな書類に苦しめられていた。 人類学者の磯野真穂さんが以前どこかで、書類の苦手さと球技の苦手さを絡めて語っていたことを思い出す。もちろん冗談めかしてだけど、わたしも書類と球技が苦手なのでなんかわかる気がした。どちらも枠に収めないといけない。書類は属性、球技はボールを既定の枠内に収める。「コントロール」をめぐる攻防が根底にはある。 走りっぱなし、飛びっぱなし、投げっぱなし、そういうシンプルな競技ならむしろ得意かもしれない。ひとつのことをひとりでこなすだけなら人並みにできる。しかし集団でボールをまわすような競技はわけがわからない。社会性がないってことか……。 いや、ないわけがない。わたしも人間なので社会性はある。いちおうながら社会生活を営んでもいる。正確にいえばこうだ。みんなでボールをまわし合うタイプの社会性はない。ひとりで何かを淡々とこなすタイプの社会性はある。つまり社会性のタイプがちがう。その上で、自分なりの社会性はそれなりに発揮できている(と思う)。 書類はボールに似ている。きっちりパスできないとやり直しになる。どこ投げてんだよ、と。書きながら、すぐ怒るこわい先輩とキャッチボールしているような気分になる。どんな暴投も笑顔でフォローしてくれるやさしい先輩ならいいのに。なんて甘えた妄想を浮かべつつ、枠内にことばを収めていく。 いまさっき書き終えた。不備がありませんように。 手形。 5月9日(日) きょうから夏。やたら暑かった。カラダが夏にナル。夏なんです。夏しました。2021年の夏は5月9日から、10月初旬までつづくと予想する。

日記786

    神田橋條治『改訂 精神科養生のコツ』(岩崎学術出版社)を読んでいた。神田橋先生はオカルトも辞さない方なので、そのへんは私的なリテラシーの許容範囲に照らして留保を置きつつ。参考になりそうなところは参考にする。「自己流」をつくってほしいと、あとがきにもある通り。   この本では、いろいろな方法を示しましたが、どうぞ、皆さんそれぞれ、自分に合うように工夫し、変えて、役立ててください。自分の痛みは自分にしか味わえない、自分の苦しみは自分にしか分からない、苦しさから脱け出せたときの喜びは言葉に表せない、のです。この本に示していることはすべて、あなたが自己流の養生法を作ってゆかれる際の、ヒントや目の付け所を示しているにすぎません。p.227   この本にかぎらず、あらゆる書物はヒントを示すものだと思う。リテラシーとは答えを見つけ出す能力ではなく、ヒントを咀嚼する能力のこと。ヒントは広く共有されうる。しかし答えは「自分にしか分からない」ひとりきりの、寄る辺ないものではないだろうか。 個人的に気になったのは、うつ病と「数値目標」との関連。これは『座談会 うつ病治療 ―現場の工夫より―』(メディカルレビュー社)でも話題にあがっていた。そっちを引こう。   数値目標に達しなかった人の中には、「関係ない」とか言って努力しない人もいるのよ。そういう人はうつ病なんかにならないんだね。数値というものはこちらの帰属意識によって初めて力を持ってくるものだから、帰属意識のない人はもちろん数値目標に達しない。むしろ、数値目標をクリアして“うつ”になる人が多いんでしょうね。空しくなってね。p.181   「数値というものはこちらの帰属意識によって初めて力を持ってくる」。射程の広い卓見だと思う。応用が効く。たとえば科学者に不信感を抱く人がいたとして、そんな人に科学的な数値を「証拠」として示しても無力なのね。そもそも科学への帰属意識がないから。 数値は絶対的なものではない。一部の集団内でうんぬんされる指標だ。それをどう受け取るかは「データの読み方」以前に、帰属意識に大きく左右される。 だから人に何かを説明するときには、相手の帰属意識をまず考慮したほうがきっと伝わりやすい。その人がどのような集団の成員として目の前にいるのか。相手の帰属からロジックを立ち上げる。人の思考は多かれ少なかれ何らかの共同体に縛

日記785

ねこのゆっくりとしたまばたきは愛情表現であること。これは先日とりあげた、人間同士がまばたきの同期によってコミュニケーションを図っていることと考え合わせるとおもしろい。ねこにかぎらず、もしかすると人間は動物ともまばたきでコミュニケートしているのではないか。そして動物もそれに応じているのでは。のでは。 京都大学霊長類研究所の調査 によると、人間以外の霊長類のまばたきも社会的なコミュニケーションのツールとなっている可能性があるそうだ。おもしろいなー。異種間のまばたき交流に関する研究はないのだろうか。 まばたきの研究はまだまだ伸びしろがあると思う。多分野にわたって、さまざまな仮説が考えられる。というか、単に個人的な興味から期待してしまう。勝手にわくわくしているだけ、ともいえる。 非言語コミュニケーション全般に興味があるのよね。人間はことばの意味だけでコミュニケーションを図っているわけではない。あたりまえといえば、あたりまえの話。わたしは一要素に過ぎない「ことばの意味」を過大視しがちだから、非言語的なあたりまえの領域をもっと知りたいと思う。 隠されたウラ設定を知りたい、みたいな気持ちもすくなからずある。   路上の張り紙。 バカは痛みを感じないらしい。 チェ・ゲバラがこどもに遺した最後の手紙を思い出す。   世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい資質です。 「バカは痛みを感じない」という含みも読みとれなくはない。張り紙のことばは戯れ言のようで、意外と深い。痛みはそう、「気づく」ものなのだ。胃痛に見舞われて初めて胃の存在が具体化するみたいに。痛みの感受によって初めて「世界のどこか」が具体化する。     5月5日(水) 木曜日かと思っていた。朝起きて「あれ?」となった。水曜日だった。曜日や日付の感覚は、とてもふしぎなものだ。ずれると生理的に気持ちが悪い。きょうは休日だった。だいたい家にいた。風がつよかった。雨が降りそうで降らない天気。近所の公園でひとりの女性がウクレレを爪弾いていた。  

日記784

  牛乳石鹸の広告。 手洗いに「解除」はありません。終わりなき手洗いを生きろ、みたいな。手洗いは永遠なり。つまり「感染症対策に終わりはない」と。そんな含意かと思う。自然相手なのだから。地震対策や台風対策とおんなじ。自然はキリを知らない。 始まりも終わりもないもの。それが自然。「始まり/終わり」を想定する思考は社会的。線を引く、カテゴリカルなことばの使用に依存している。では、自然にちかいようなことばの使用法があるとしたら、それはどのようなものだろう。   驚くのは 僕らの五体が石油になるということだ 何十万年もあとに 思念が油の中で揺れるというのだ   書きながら、犬塚堯の「石油」が浮かんだ。唐突に「何十万年もあと」を語る。なんと、思念が油の中で揺れるというのだ。ここには始まりも終わりもない。あるのは、ただ永遠の上に浮かんで生きる驚き。自然にもっとも接近することばは詩なんだと思う。   それか、牛乳石鹸の広告。  

日記783

三木成夫の「眼球は脳のつづき」という指摘から、まばたきに関する研究を思い出した。人間は意味の切れ目でまばたきをするのだとか。動画のなかでは「共通の句読点」と言い換えられている。大阪大学の中野珠実准教授によるプレゼン。 「わかる」ないしは「わかろうとする」とき、人はまばたきをするのではないか。記憶を同期させている、ともいえそうか。中野准教授によると、まばたきの同期は円滑なコミュニケーションのために必要なものでもあるのだという。 「わかる」とは補うことだと思う。円滑なコミュニケーションの在り方はすなわち、円滑な補完関係の在り方でもある。凹と凸を組み合わせるように、お互いの話を適切に補い合えているか。まばたきはその確認機能を無意識に果たす。 文字のみでのやりとりで行きちがいが生じやすいのは、補完関係の確認(まばたきの確認)が身体的にできないせいだろう。文意をうまく補完できなかったり、逆に勝手な補完で勘違いしちゃったりする。読む人に目配せしながら「意味の切れ目」を文章上にきちんと置くには、そうとうな配慮が必要になる。 哲学者の東浩紀さんが以前、「多くの人は句点を適切に置けない」と話していた。文と文を明瞭に分割できていないのだと。日本語はとくにヌルっとしていて、切れ目がわかりづらい。やろうと思えば一文をどこまでもヌルヌルと書きつづけられる。 文から文へ。意味が割り切れていないと受け手が切れ目(まばたきのタイミング)を把握しにくい。句読点はまさに、まばたきそのものといって過言ではない。 息の長い一文を畳み掛けるように書いて「読ませる」作家もいる。そういう方法もある。しかし安易に真似をすると不恰好になる。いや、どうだろう。もしかすると人によって向き不向きがあるのかもわからない。わたしは短く切る向き。 書くことは意味を分かつことであり、同時に意味を分かち合うことでもある。句読点を「まばたきのマーク」と捉えてみると文章への意識もすこし変わってくるのではないか。書くときも、読むときも。どうでしょう。 ともあれ、視界の暗転と意味の切れ目が同期している事実は非常におもしろい。わたしたちは一瞬の暗闇で通じ合う。プレゼンの最後のほう、定型発達者と自閉症者のまばたき比較も興味深かった。まばたきと人間の認知機能は深く関係しているようだ。そう、眼球は脳みその露出部なのである。 まばたきしない人はこわ

日記782

木肌がすこしあたたかいとき。そんな詩があった。高橋順子の。詩集を探したけれど、部屋のどこかに埋もれてしまったみたい。 手先が冷える寒い日には、木肌がすこしあたたかい。 ふと、まなざしをとらえる、日々の木洩れ日…。細くわらう声がする、秘かななみだは深く隠される。日常には宇宙の茫漠と条理がこだましているのだろうか。やがて聞こえてくる未来の鼓動に耳を傾ける詩集。 Amazon.co.jp: 高橋順子詩集成: 高橋 順子: 本 いつか読んだ詩集。内容はすこしも思い出せない。記憶まで埋もれた。でも一篇だけ、タイトルを鮮明におぼえている。 木肌がすこしあたたかいとき。  ところで眼球の3重の壁は、実はどれもが脳のつづきである。すなわち目玉というのは、脳の一部がブランデーの杯のように突出して鼻の両側のくぼみ(眼窩)に脂肪の座ぶとんをしいて顔をのぞかせ、外をながめているものと考えられる。 三木成夫『生命形態学序説 ―根原形象とメタモルフォーゼ―』(うぶすな書院、p.166)より。おもしろい。眼球は脳みその露出部。読みながらわたしは、潜望鏡をイメージした。潜水艦が海上のようすをのぞくように、体内を泳ぐ脳がにょっきり体外のようすをのぞいている。「目を合わせる」は「脳を合わせる」と言い換えてもけっして大げさではないのだ。 ここからは個人的な妄想だけど、ディスプレイもまるで目のようだと感じる。画面は見るものであり、見られるものでもある。わたしはいま目から目へ、脳の露出部から脳の露出部へ文字を打ち込んでいる。これは一方通行の作業ではない。打ったそばから見られている。目に浮かぶ、もうひとりとの対話が始まる。 画面に浮かぶ表象はすなわち、もうひとつの目に浮かぶ表象である。これはけっこう重要な感覚だと思う。「目に浮かぶ」とはいかなる事態か。見たいものは同時に、見られたいものでもあるのではないか。スマートフォンのディスプレイは何よりも饒舌に人の欲望を語る。脳の露出部そのもの。 『生命形態学序説』は生物学の本でありながら筆致が文芸的でたのしい。というか、三木成夫の著作はみんなそう。卓抜な比喩が随所に見られ、飽きない。そして壮大。遥かな話はいつまでも聞いていられる。 5月1日(土) きょうは午前中、晴れ。午後から雨。午前は陽射しがあたたかく、午後は風雨がつめたかった。朝早く、布団とシーツを洗って干す。そ