スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2018の投稿を表示しています

日記547

ちょっと前の、刑務所からひとりが脱走した事件のニュースで、警察が逃げる受刑者を追いかける際に「待てー」と叫んだそうですが、なにか逃げるものを追いかける際、たいていはそのとおり待つはずもないのに、ひとが「待てー」と言っちゃうのはふしぎです。銭形警部ごっこでしょうか。「むぁーてルパーン」とわたしだったら言いたくなりそう。だみ声で。 何年か前に出会った、逃げた飼い犬を追いかけているらしきおじさんのことを思い出します。「犬、見かけませんでしたか?」と不意に聞かれ「なんか向こうにいましたねー」とわたしがこたえると、おじさんは大声で「待てー」と叫びながら走り去っていったのです。ふしぎです。漫画みたい。 まず犬に「待てー」と話しかけても、相当しつけが行き届いていなければ通じません。とはいえ犬が目に見える範囲にいるのなら、まだわかります。おじさんは、そもそも目の前に逃げた犬がいないにもかかわらず「待てー」と声を張っていました。虚空に向かって。そうか、ああ。いま「虚空」と書いてみてなんとなく腑に落ちました。あれは、祈りだったのかもしれない。 ことばは、コミュニケーションのためだけにあるのではなかった。ふとした瞬間、ひとは祈ってしまう。それと知らずに、こいねがうものをことばにしている。対応物が具体として存在しない、からっぽなことば。その場にいない犬への「待て―」は、届かぬ願いです。逃げる受刑者を追いかけるときの「待てー」には、もうすこし容量が入っているけれど、これにもカラの祈りが混ざっている。 銭形のとっつぁんが「むぁーてルパーン」と言うのは、祈りもありますがコミュニケーションの要素が大きいと思う。ルパンも待たないけれど、あのふたりは知り合い。名前を認識しあっている。銭形警部の声も、ことばの意味も、ちゃんと伝わったうえでルパンは逃げている。「待て」への回答として。その回答を銭形も了解し、楽しんでいるふしがある。つまりは「ごっこ」です。 ことばのフィクショナルな領域を了解し合い、その土俵にお互い乗って伝達し合う。コミュニケーションはすべて「ごっこ」だと以前、じぶんで書いていたことを思い出しました。 脱走した受刑者に警察が「待てー」と言うのは、「ごっこ」というフィクションの構図をつくろうとしていて、やっぱり祈りよりもコミュニケーションを図ろうとしたのかなー。犬

日記546

体重が13kg増えました。 どうしても受け入れられない疑念がまだあって、ヨドバシカメラに行けば体重計がしこたまあるので、ここで量りまくればまちがいない!!という天啓を受け、量り放題に量りまくったら、だいたい56kgくらい。満場一致で可決。きのう設定した55kgの目標は1日で達成。やりきった。やりがいしかない。写真は店内なので撮りませんでした。 うちの体重計がおかしかったのです。20kgも減るわけがない。設定のせいなのか、親父はふつうなのに。しつけかな。犬みたいに、露骨にひとを順位付けして態度を変えているのか、TANITAのくせしやがって。たしかにわたしはうちの中ではもっとも立場が弱い人間だけど、ちゃんと量ってよ。体重くらい、正確におしえてくれてもいいじゃん。かなしい。もう散歩してやんない。したことないけど。 ひとあんしんでした。 病気かと思ったもの。 めでたしめでたし。 体重計に乗れるだけ乗りまくってヨドバシカメラをあとにする。これを繰り返していたら、店員さんから「体重計荒らし」というあだ名をつけられそう。すみません。もうしませんから。わたしを安心させてくれてありがとう、ヨドバシ。 しかし、やせていたことは確かです。なんか自己のイメージがどんどんちいさくなっているような。このままだとセルフイメージが精子にもどる。「俺の遺伝子にはセールスポイントがひとつもないんだぁー!!」とひらきなおってほかの小癪な精子どもすべてをなぎ倒し、子宮へ疾走して誕生を勝ち取ったあの頃に、もどる。なつかしいなあ。あのときはわたしも必死だったよ。べつにいまもそんなに変わらないか。わたしの人生にセールスポイントはひとつもない。not for sale. 非売品。プライスレス。 * きょう思いついた口説き文句。 お前の夢に出てくるパンダはすべて、俺のメタファーだ! 「うそ、きのうのあのパンダも、あなただったの……?結婚して!」 ってなるよね。夢で見たすべてのパンダがあなたにつながっていたなんて。過去のどのパンダも、あなたの隠喩だったなんて。 続けて、「白のパンダをどれでもぜんぶ並べて~」とPUFFYが歌っていた、『アジアの純真』のあのパンダも俺のメタファーだ!とたたみかければ、もう結婚秒読みでしょう。あの歌詞の謎のパンダは、あなただったの

日記545

これはきのうのわたしの体重です。 スマホで撮りました。 どんどんやせてゆく……。食べた量の2倍うんこが出ているのではないか。いわゆるひとつのダークマターが食べ物の消化過程に加えられて、出ちゃうのでは。解明されていない未知のわたしの中の暗黒物質がうんこに溶け込んで排泄されている。暗黒、つまり、あんことうんこがないまぜに。わたしの中の未知の物質が排泄されると、人間的な固有の謎領域がなくなってわかりやすい単細胞な生き物に生まれ変われるのかもしれない。やったね。シンプルに生きよう。ゾウリムシみたいに。 いや、しょうじき受け入れがたくて隠していたのですが、今月のはじめごろ、ひさっびさに体重を量ったら、減りまくりでもう。じぶん60kgくらいと思っていたから。「この体重計、こわれてるのかな」と5回くらい量りなおしました。おなじでした。親父を呼びつけて「ちょっと乗ってみて」と指示をし、乗せたら、親父の体重は「ふつうだ」とのことでした。そんなはずはない。 わたしの足の裏だけ、ちょっと重力の作用が弱くなりだしたのではないか。もしかしたら、ほんのり浮いているのかもしれない。その可能性も否めない。芸人のケンドーコバヤシさんがむかしラジオで「美輪明宏は、よく見ると地面から数センチ浮いている」と証言しておられたが、わたしもそういう人種なのかもしれません。いつでもホバリング。ひとのオーラが見えるかも。がんばれば。がんばらないけど。 ……仮説はいろいろとかんがえられます。 がしかし、いちばん有力な説を認めたくないじぶんがいます。 単純に、やせすぎだろ! 体重も量らずに「太ったなー、やせなきゃ」と半年以上、それだけを思いつづけていたら、知らぬ間に20kg以上もやせていたという。無意識ダイエットです。ひとは思い込みだけでやせます。「やせなきゃ」を意識に刷り込むだけでおもしろいようにやせます。昨年の夏まで60kg台だったのです。ほんとに!! 無意識ダイエットは冗談ではなく、「 運動を想像するだけで筋肉は強さが保たれる 」という研究の結果もじっさいに出ているそうなので、もしかしたら「思う」でやせる部分もあるのではないでしょうか。もちろんじっさいの運動も肝要です。 わたしの身長は170とすこしあります。なんかさいきんあたし、腰のくびれがセクシーになってきたなーとか、身

日記544

空耳アワーの再現VTRによく出ているエキストラさんを、ほかの番組で見かけるとわけもなくうれしいの法則がわかるひととしか会話をしたくない気分に名前をつけたい。 何人かいるけれど、エキストラ界ではとても有名な方々なのだと思う。名前は知らない。調べない。でも顔を見るだけでうれしくなる。空耳アワーの刷り込みによって条件付けされている。このひとがいるってことは、いまからおもしろいことが起こるにちがいない!と無意識レベルで反応してしまう。 デイリーポータルZの配信動画、プープーテレビをよく見ているのですが、同じようにみなさん顔を見るだけでうれしくなります。安藤昌教さんの、ものを剥かずに食べる10秒動画なんか、サムネイルでおもしろくなってしまう。「原子炉の研究者で、氣志團のバックダンサー」というよくわからない経歴もおもしろ過ぎる。そしていまは、週にいちどものを剥かずに食べている。 安藤さんはinstagramでふつうの猫の写真をアップしているだけでも、失礼ながら笑ってしまう。ふつう過ぎておもしろい。なにをやってもおもしろい。わたしの中では存在そのものがおもしろい領域に入っています。もしじっさいにお会いしたら、視界に入っただけで笑い転げてしまうかもしれない。ほんとうに失礼です。尊敬しかないし、馬鹿にするつもりは毛頭ないのですが、会わないほうがいい。どうせおもしろいんだから。 はじめて聞く、ゆでたまごを食べる音。斬新。 これ再生リストで何本も続けて見ていると、永遠に笑っていられます。わたしの幸福が約束されます。気が狂う寸前で止めます。寸止めだから。まだ狂ってはいないはず。 さいきん日記をサボりがちで、書くことがたまります。日々たまります。でもぜんぶ捨てます。あ、ひとつだけ拾いたい。徹子の部屋に梅沢富美男が出演していた回を祖母と見ていて、梅沢富美男のいじり方が日本一うまいのは黒柳徹子だと思いました。うまいというか、相性がすごくいい。梅沢さんの受け方もわかりやすくて。これは書いておきたかった。 梅沢さんは1から10まで丁寧に大声で説明的なツッコミをしてくれるから、徹子さんにも100%つたわるみたいで、梅沢富美男の浮気症いじりをエンジョイしている徹子さんが愛おしかったです。梅沢さんが娘の友人をナンパした話を何度もむしかえす。そのたびに大声で説明的な弁明

日記543

むかし呑み屋さんで高畑勲の話をしていたら店主からもらいました。かぐや姫の物語、プロローグ。宣伝のために配っていたのかな。宣伝だとしても、いただけたのはひとえにわたしの人徳です。いつも路上で知らないひとからポケットティッシュをたくさんいただけるのも、むろん、人徳です。なん往復しても配ってもらえます。ポケットティッシュ長者です。年に数回おまわりさんから職務質問をされるのも、わたしのたいへんな厚徳からにほかなりません。任意で事情を質したくなるほど徳が厚いのです。 仏門に入れば、それはもう徳の厚くて高い僧侶になれそうな気がします。人生の半分は丸坊主で過ごしているし、「坊主以外の髪型にはしない」とこのごろじぶんを見限ったので、髪型の部分に限っては、すでに僧侶ですと言い張っても過言ではないでしょう。 はい。金曜ロードショーで『かぐや姫の物語』が放送されていて、後半だけ観た感想を記しておこうと思ったのですが、時間が経ってしまいました。いまは5月21日、月曜日の昼。感想は、浮かんだ瞬間にその気泡が沸騰したままの熱量をもって書き留めておかないと忘れてしまいます……。即興でしか書けない。なんだかすべて忘れてしまうね。 いま思い出せる、ひとつの場面についてだけ。この映画は過去に2回くらい観たけれど、いつも居心地が悪いのは、捨丸とかぐや姫が手をつないだり抱き合ったりしながら地球を飛びまわるところ。描かれるすべての色が鮮明になるシークエンス。単純にふたりのイチャイチャが気恥ずかしい。それと、あの多幸感を担保しているものは、忘却のうちにしかないのだと感じてしまって。 なにもかも忘れて飛びまわる。いつか月に帰らなければならないことも。そう、飛びながら月が視界に入ったとき、かぐや姫は思い出して取り乱す。そして、落下してゆく。わたしはそこで、安心する。ほら、うっかり、忘れていたよね。メメント・モリ。あのシークエンスは「うっかり」が見せる美しい夢。ひとは、うっかりします。そこにたぶん、幸福がある。あそこで居心地が悪くなるわたしは、あんまり、うかうかできない質なのかな。 幸福は 忘却 のなかにあり、記憶のなかにはない。 少しの 忘却 は記憶から遠ざかり、多くの 忘却 は記憶に近づく。 忘却 は人を結びつけ、記憶は人を離れさせる。 記憶は、 忘却 よりもしばしばわれわれをあざむ

日記542

四角いかたまり。漫画のひとコマだったら「ゴゴゴゴゴゴ」と鳴ってる気がする。たぶん『童夢』のイメージ。超能力者の爺さんと少女が戦っている。 * 夜になって、お風呂に入って、歯を磨いて、終わらないことは明日にまわして「あとは寝るだけ」という時間がいちばん好きです。寝るのみ。シンプル。これを人生単位におし広げると、「あとは死ぬだけ」。そうなればわたしはいちばんたのしいのだろうと思います。余生。 ここ数年はじっさい「あとは死ぬだけ」と思っていたようなきらいもありますが、そうもいかないのかな……。そうもいかないのかな!!そうもいかないらしい。でもなにを強制されようがひそやかな姿勢としてのこの思いは保っておきたい。 同居している祖母はよく「やることがなくてつまらない」とぼやきます。やることがないなんて、最高じゃないかと思う。なんにもしなくてよいのです。逆に言えば、なにをしてもいい。いまあるもの、居残った自分を使って。あとは死ぬだけだよ。やることなんかなくっても、だいじょうぶ。なのに。 * 図書館の、その日に返却された本が並ぶ棚に『間違ってカレーが来ても喜べる人は必ず幸せになる』(マキノ出版)という本がありました。要するに、カレー好きは幸せになるんです。カレーの本です。 あれ、ちがうっぽい。高津理絵という方のご著書。スピリチュアル・カウンセラーなる肩書の人らしい。「幼少時より不思議な体験をくり返す」とプロフィールにある。うん。本はそっと棚に戻す。タイトルだけに触れて感想を書きたく思います。 もし飲食店で注文とちがうものがきたら。喜ぶことはないけれど、わたしはかまいません。たとえばナポリタンを頼んでイナゴの佃煮がきても、いや、首はかしげる。いちおう質問をして「間違えました」ということならば「べつにイナゴの佃煮もおいしいですからぜんぜん、せっかくだし、もったいないし」などと言って食べます。 ナポリタンもイナゴの佃煮も「食べ物」という点ではおなじです。食えりゃいい。あきらかに食品でない、花崗岩をお皿に乗せ「召し上がれ」とばかりに運んできたら、さすがに「わしゃ、ガッちゃんかえ!」と思いますが、食べ物の範囲であればかまいません。 それでも「ガッちゃんに見えた」とのことなら納得です。「クピポー」と言います。裏声で。だけど心配してしまう。疲

日記541

よー、そこの若いの 俺の言うことをきいてくれ 「俺を含め誰の、言うことも聞くなよ」 CMでよく耳にして、昨年のNHK紅白歌合戦にも出演を果たしていた竹原ピストルさんの歌。「よー、そこの若いの」と若者に呼びかける歌詞です。おもしろい詞。がっつりと矛盾したメッセージを放っています。ダブルバインドみたいな。ひとを苛む矛盾ではなく、治療的ダブルバインドっていうのかな。解放的な。 とはいえ、「誰の言うことも聞かなくていいんだ!」とその通りに解放された瞬間、すでに竹原ピストルの言うことを聞いてしまっています。聞いても聞かなくても釈迦の手のひら。ピストルの手のひら。どこを見ても竹原ピストルがいる。「竹原の言うことなんかもう聞きとうない!」と目をつぶり耳をふさいでかぶりを振っても、竹原ピストルの髭面が脳裏をよぎり、汗まみれのしかめっ面で歌い出す。「俺を含め誰の、言うことも聞くぅなよ~♪」。いやだ!もうこれ以上、言うことを聞かせないでくれ!こうなったらもう竹原ピストルが存在した記憶をこの世からどうにかして抹消するか、あるいは竹原ピストルと一体になるしか、わたしたちに残された道はありません。 竹原ピストルの矛盾した命令をかわすために、あしたからわたしも竹原ピストルを名乗ろうかしらん……。そうすれば命令する側、すなわち体制の側につける。いや、そんな極端なことはせずとも、ほどほどに聞くし、ほどほどに聞かない、くらいがふつうの現実的な塩梅か。なにもそこまで必死こいてかわそうとしなくても。そんなに真剣に言うことを聞かなくてもいい。 こうした矛盾を孕んだメッセージは教職者や聖職者といった、ひとの上に立つ人間がやりがちだと思います。上司や先輩でもそうかもしれません。それとこんなにわかりやすく露骨ではないにせよ、アーティストはたいてい自己の矛盾をこねくりまわしています。 たとえば学校の教師だったら「帰れ!」と生徒を怒鳴りつけて、その命令に従いほんとうに生徒が帰ると「なんで帰ったんだ!」とまた怒り出すのは、あるあるネタだと思います。「わからないことがあったら、なんでも聞いてくれ」という上司に、ささいな質問をすると「そんなことくらい自分で考えろ!」と一喝される、みたいなエピソードもあるあるかな。質問にもその上司のための配慮がないといけない。 あるいは、疑うことをひと

日記540

新しい朝が来る 夢をあとにして目覚めるけれど なぜそうなのかはわからない A new mornig comes. I wake up leaving my dreams, And I don't know why. ジョン・ブロックマン編『知のトップランナー149人の美しいセオリー』(青土社)にあった詩の一部です。長谷川眞理子の翻訳。書いたのは、エルンスト・ペッペル。日本語の訳書だと『意識のなかの時間』(岩波書店)というものがあるみたい。絶版だそう。「絶版が惜しい」という複数の嘆きを見ました。気になります。 人間の意識ってたぶん、物理法則にちゃんと従っていない。いい加減な時間認識、空間認識でここに浮かんでいる。地球といっしょに。あんたたち、ちゃんとあたしに従ってよね!と物理法則に怒られそう。ちょっと男子たち!ふざけないで!って怒られそう。物理法則は女性なのか。風紀委員なのか。おさげの眼鏡っ娘なのか。なんでもいいけど。「いま」とはなんだろう。 答えを探し 説明を求め、 でも、それなしで生きていく Looking for answers, Searching for explanations, But living without. 詩のタイトルは「信頼を信頼する」。心にひっかかった連を書き出しました。それなしで生きていく。いくら答えらしきものを説明しても、されても、まだまだどうにも埋まらない余白がある。でも「ない」って、空虚で不安な反面、とっても自由。「反面」ではなく相補的なのかもしれない。不安に駆動される、自由がある。 安心なんかしてはいけない。考えるときには。なんにも考えたくないときにだけ、安心したい。眠るとき。安心してふかく眠りたいがための思考でもある。 不安なことや、嫌悪感や、ちょっとした違和感でも逃さずとらえて検分しつづければ、だんだんとじぶんのことばのピントも合ってくると思う。じぶんのことばの焦点距離を測るために、不安と向き合う。 「知のトップランナー」みたいなタイトルの本は恥ずかしくて敬遠しがちだけど、載っている名前がほんとうにオールスターキャストな感じがしたから、図書館で立ち読みしました。しかし借りない……。きっと読んだらめちゃくちゃおもしろいと思う。さいきんこういう、つまみ食いばか

日記539

はぐれメタル。ちいさめ。 夜に負けて、溶ける寸前の。瀕死。 ひとの幸福に水を差すことは避ける。膝カックンしてやりたくなっても。河原で採集したオナモミを投げつけてやりたくなっても。あるいは、逆も然り。ひとの不幸に水を差すこともしない。同様に。マックス・ブロートがフランツ・カフカに向けて書いた「君は君の不幸の中で幸福なのだ」ということばを思い出します。 じっさい、不幸に見えても、不幸の中でたのしそうにやっているひとはいます。個人個人の目に映る、「美しい不幸」というものも、ありうる。悲運の軌道から描かれる幸福。いいじゃないですか。それが、そのひとに美的価値をもたらすのであれば。不幸の中でなら、凛として生きていける人間もいます。幸福が似合わないひと。たいせつなのは、美醜。あくまで、わたしにとっては。 幸福の絶頂にいる成功者のことばにも、不幸のどん底で這いつくばる者のことばにも、あるいは、なにもできずに途中で逃げ帰って、ケツをまくった半端者のことばにも、救われる人間はいます。大きな声で語れるような成功体験や失敗談がなくとも、半端に分岐したがゆえに、そこで存在したかもしれなかった過去を語ることができる。 ひとの人生は、いま目の前にある現在だけではなく、あり得たかもしれない可能性、という仮定法過去にも支えられています。もちろん未来における、あり得るかもしれない可能性、にも。過去にかすめた可能性のまぶしさに、目が潰れてしまうこともある。 いま『やれたかも委員会』という漫画のタイトルを想起しましたが、読んでおりません。いろんな場所で目に入るけど、読まず嫌いをしているかも委員会です。いまの自分自身に、それほど「やりたい」という欲がないから、あんまり乗れないのかな。「やれたかも」みたいな短距離の性的な欲求でまわる男性的なことばの経済圏に、いまいち乗れていないじぶんがいる。そのぶん読めば、遠い距離感からの感想が言えるかも委員会ですが、読む気にならない。 性欲がないわけではなくて、短絡的な性欲がつまんないと思う。あと「やれたかも」ということばに、一方向的なこどもっぽいリビドーを感じてしまい、欲動を全面に出した挑戦的なタイトルがゆえに、正面から敬して遠ざけたくなる。 でも、ひとりでよがっている男の子のいじらしさが、いいのかな、たぶん。「やれたかも」ということ

日記538

グラノーラをふやふやにして食べようと、牛乳に漬けて数分放置していたら、それを見た祖母が怪訝な顔をして、ひとこと「あんた、納豆に牛乳かけて食べるの?」と。色が茶色で、似てますけどね、惜しいです。「グラノーラというやつだよ」と袋を見せながら教えました。 べつに納豆と呼んでも、いいです。祖母だけのテクニカルタームとして、わたしにだけなら、通じるから。ふたりだけの共通言語。「グラノーラ=納豆」。いちおう「グラノーラ」という単語は教えましたが、「納豆みたいなの」と言い換えておりました。それでいいよ! もちろん、外でもグラノーラを納豆と呼んでいたら、知らないひとからは、おかしな老婆だと思われるかもしれません。でも祖母がグラノーラを買い求めることや、友人とグラノーラの話をする可能性は低いので、よいのです。 家庭や身内の関係で通用していることば、社会の中の不特定多数へ届けることば、ともだちのあいだで通用していることば、組織内、サークル内、チーム内などいろいろ、使用されていることばには、同じ日本語でも、その場その場で微妙な差異があると思います。細かく見ていけばきっと、伝える相手ひとりひとりの単位からちがうことばを使っている。あなたとわたし、ふたりだけのことばづかいがある。 きれいにすべてを切り分けられるものではありませんが、すべて統一もできません。わたしは、ことばの使い分けがひとより苦手だから、ふだんからどこでも通じることばづかいをするように、気をつけています。基本的に敬語です。いや、混ぜているかな。混ぜていますね。それでも、ていねいさは心がけて、かつ親しみやすさも。できればね。 ことばを発するとき、「相手に通じる」はだいじですが、いっぽうで「じぶんに通じる」というところも、相手以上にたいせつだったりします。ちゃんと違和感なく、すんなりみずからに通じることば。じぶんが気持ち悪くないことば。社会で流通していることばや、他人から言われることばには、気持ちの悪いものがあふれていて、それはそれとして耳に入れつつも、気持ち悪いものをわざわざ取り入れて内面化する必要はないのです。 たぶん祖母にとって「グラノーラ」は意味不明で気持ちが悪い。「納豆みたいなの」なら、すんなりとみずからの腑に落ちる。ちゃんと受け取ってから、じぶんで気持ちよく言い換えればいいんです。あるいは

日記537

写真がたまっていて、どれをここに載せたか載せていないか、わからない……。貧乏性なのでなるべくボツにせず、保存してあるものは使いたい。ガチのボツはすぐに削除しているから、保存してあるということは使うということ。過去のわたしが使おうとしたのだ、たぶん。視界に入る、ということは、なにかしら意味を帯びてしまう。 今週、母とスーパーへ買い物に行ったとき、似たような話をしました。うちの母は、買い物へ行くとかならず、お菓子を買わないと気が済みません。「太るから食べないように気をつけてるのよ」と言いながら買い物カゴにおせんべいを入れる。ミニバウムを入れる。シュークリームを入れる。「買うってことは、食べるってことだよね」と、わたしが言うと、「食べないよ、でも買いたいの」と矛盾した主張を平気でします。 「目の前にあったら食べちゃうんだから、さいしょからないほうがいいんだよ」と説得を試みても、頑として「買う」と言います。おとなになってから、このひとの言動を「母親」ではなく、ひとりの人間として見つめつづけていて思うのですが、希望を述べるときのアウトプットがたいてい矛盾しているので、その背後にある見えないロジックを推し量り、整理してあげないと、じぶんでもじぶんの言いたいこと、第一に優先して欲するところがわかっていないのです。そういう複雑なことばづかいをするひとだ、と二十歳をこえて初めて理解できました。母のミステリアスな矛盾をつねに解きほぐそうとして、わたしの国語力が鍛えられたようなところもあるのかな……。 つまり、母はふたつの相反する願望に引き裂かれながら行動している。そういう行いって、どうしても罪悪感が残ってしまいます。「太りたくない、でもお菓子も食べたい」。あちらを立てれば、こちらが立たず。これだとたぶん、買い物をしたあとにやましさが残って、ささいなことだけれど精神的によろしくない。やましい思いを抱きながらも、ついやってしまう行動は依存的。こういうささいな罪悪感の積み重なりが、ゆくゆくは大きな変調をもたらすことも、あるから。 わたしがお菓子は買わない方向であーだこーだ言っても、かたくなに「買う」と言うので、そこは揺るぎないのか!と観念して「じゃあ、食後にちょっとかじって満足できるようなのね、あとをひかないお菓子がいいよね」と言って、ミニバウムだけを買いました。スナッ

日記536

金網についていたヘアピンを激写。洒落っ気のある金網です。ちょっと印象が変わったよね。すごくいいと思う。かわいい。素敵だよ。モテる男性は金網のおしゃれも褒めます。ホットドッグ・プレスに「金網を褒めろ」って書いてあったから。金網にモテます。あんまり人間にモテたい気はない。金網にモテたい。 それはいいとして。 なんとなく思ったことをひとつ。 ブログなんか書いているひとは「ネタが尽きる」とよくおっしゃります。 わたしにもかつてあったような感覚だけれど、いまはあんまりイメージがわからなくなってしまった。この日記のネタは尽きません。生理的な習慣だから。おなじことをことばを変えて何回も書いているのかもしれないけれど……。まったくおなじことばを繰り返し意識的に書き付けているときもある。べつにいいと思う。 馴染みの頻出フレーズが出た場合、「ヨッ、待ってました!」みたいな相槌を入れていただければたのしめます。でも、たぶん、そんな読み込んでいるひとはいない。と思う。歌舞伎の見得を切るような感じで同じことばを打っている。その場で、その都度のしっくりくるものを探しながらも、「しっくり」がたまたま重なる。その重複にきっと自己同一性が宿っている。流れつづける時間の中にも、おなじものがふっと浮かぶ。しかしそれもまた、もとの水にあらず。同じに見えてもちがう。幻視。固定はできない。しない。日記は流れなのです。久しくとどまりたるためしなし! 「ネタが尽きる」と言われるときのイメージはたぶん、流れではない。止まっている。固定化されたみずからの内にあるストックが尽きる、貯めてあるネタを小出しにして、それが減ってゆくようなイメージでしょう。おそらく。身を削っているのかな、おつかれさまです。 流れなら、やまない。生きている限り。死んだってもしかしたら終わらないのかもしれない。死んでみないとわからない。死んだらあともどりはできないけれど、1日だっておなじ。過ぎてしまえば、あともどりなんかできない。わざわざじぶんで削らなくとも、生きているこの身は知らず知らずにゆっくりと削られている。いまのところの、この世界では、そうらしい。いや、わたし以外のひとは、タイムリープしているのかも。わたしはなにも知らないモブキャラ。 モブキャラは生きていても、死んでみても、つなぎでしかない。つなぐ、つ

日記535

わたしはたぶん引くことはたいへん心得ているけれど、じぶんが出るタイミングがまったくわかっていないのだなーと思うきょうでした。会話をまわす場面でのお話。Webで文章を書くことはわたしの場合「出る」ではありません。これは突っ立っているだけです。「ここにこういう者がいる」と、それだけを示している。他人をどうこうしたいわけではない。出てはいません。さらして、受けること。「出る」じゃなくて「出す」かな。デトックス。積極的な意志によるものではない。排便とおなじ。 会話では、わたしがしゃべることによって、まわりのひとのことばが変容してしまったり、思考が途切れてしまったり、うしなわれてしまったり、そういうことを過度におそれている気がします。逆に言うと、そのひとがそのひととして発言する声が聞きたかったり、補助線となる繋ぎのことばを投げたり、押し殺して無きものとしがちな考えもすくい上げたり、そういうことをしたいのだろう。よい聞き手になりたい。 おそれていることを裏返せば、じぶんの欲求が見えてくる。ネガティブな感覚をつぶさに見つめることでしか、自己を知ることはできないと思う。 就活アウトロー採用という企画の説明会に行きました。キャリア解放区代表の納富順一さんがていねいに説明をしてくださる。説明の中で使用されていた画像のひとつに、見覚えのあるギークハウスのようすがありましたが、納富さんは「ニートの家かな」とおっしゃっていて、知らずに使っていたのかな。「ネットで拾ったイメージ」として。そんなことないかな。糸柳さんが寝っ転がっていたよ。それ以外はすんなり聞けました。わたしの想像していた企画とぴったり合致していて、ここに来てよかったと思う。なにより、ことばが通じそうなひと。社会のことば、組織のことば、といった集団のことばよりも、個人のことばで話してくださっていたような印象。 説明会に来ていたひとの就活への斜に構えたようなことばに釘を刺していたのも、わたしにとっては安心材料でした。わたしはふつうに正面から就活をして、もがいているひとも否定したくはない。なんにも否定しない。時代状況に則した価値転換は必要だと思うけれど……。じぶんには向かない慣習があるだけ。単純に、わたしはわたしの領分を守りたい。 就活アウトロー採用は、べつのやり方を提示して選択肢を増やしてくれるものだ

日記534

古本に書き込みがありました。岩波文庫の『ルバイヤート』。1949年1月15日、第1刷発行。わたしの手元にある本は、1987年5月11日の第34刷発行。11世紀ごろのペルシアの詩人、オマル・ハイヤームによる四行詩の作品集。小川亮作の翻訳で、 青空文庫でも読めます。 何年も前に買った本ですが、書き込みに気がついたのはきのう。 1989.7.28 サラリーマン7年目の迷い、として。 と書いてあるのかな。かつてのこの本の持ち主がもし、大学の新卒で就職し、サラリーマンを始めたのだとしたら、7年目だと三十路前後くらい。いまのわたしとおおよそ同年代で、おもしろいなあ。わたしなんか、これからだ。迷いっぱなしで。いまも。 この本を売りに出したということは、もう迷いはなくなったのですか。あるいはkindleを買ったのですか。青空文庫でも無料で読めますものね。2018年の現在だと50代後半くらいになっている計算かな。生きていれば。前の持ち主は、還暦ちかいのかもしれない。 本は時間を綴じ込んだメディアです。古本だとその時間の連なりが増える。書物とは、無数の過去が織り重ねられた紙の束。無数の“いま”と言ってもいい。 1989年の夏、迷えるサラリーマンの手元でこれが読まれた、いま。11世紀ペルシアでオマル・ハイヤームが詩を書いた、いま。その詩が絶えることなく世界へ伝播し、原典から小川亮作が日本のことばに移し替えた、いま。翻訳が完了し岩波文庫の赤帯として出版された、いま。名著となり長く読み継がれ34刷目が発行された1987年の、いま。その中の1冊が買われ、やがて古本として売りに出され、わたしが購入して2018年にこうしてふたたびいま、開かれる。読む者のまなざしが、すべてを同じいまに変えてゆく。 こうした過去の“いま”たちが、ひとつでも欠けていたらありえなかった、この瞬間わたしの目に見えるいまがある。きっと書物に限らない。そんな危ういバランスの世界でずっと、生きてきたし、これからも生きてゆくのだろう。 哀しいほど脆弱で複雑な、いまのこの時に、どんな種を蒔けばじぶんにとって望ましい変化がおとずれるのか。皆目わからない。次の一歩が前か後ろかも。後退が結果として前進につながることもある。迷ってためらうが、ためらってばかりいてはどこへも行けない。 『ルバイヤー

日記533

4月24日(火)の写真。 午後4時ごろ、名古屋市科学館を出ると雨は本降り。 すぐにホテルへと向かう。 部屋で荷物を整理して、ゆっくりくつろぐ。 外は雨。不要な散策はせず。 翌日、名古屋の電車内で聞きかじった会話。土地土地のひとの容姿について。主に女性の見た目なのかな。会社の同僚らしき男女ふたりがそばで話していた。男性が会話に積極的で、女性のほうはもっぱら聞き手にまわっていた。「東京のひとはテレビに出るような美人か、テレビに出るような不細工か、二極化している。広島や福岡はかわいい子が多い。南の方が女性はかわいい」みたいな、たまたまとなりにいた知らない男性による、主観100%の与太話をなぜかおぼえている。 こういう話にわたしは乗れない。じぶんに向けて言われたわけではないから、乗る必要はないのだけれど。そんなことないと言いたくなる。わたしも対抗心を燃やして主観100%で言わせていただくと、女性はみんなかわいい。男性もかわいい。そのどちらでもないひと、どちらでもあるひとも、異物としての美しさを放つ。「異物」とあえて記す。「エリート」とも言い換え可能。フラットに均す必要はない。不細工だって不細工なりにかわいい。「エレファント・マン」と呼ばれたジョゼフ・メリックもかわいい。バレバレの嘘をつき続ける政治家もかわいい。刑務所から脱走した囚人もかわいい。その囚人の犯した罪に、よってたかってその場しのぎの益のない解釈をほどこすワイドショーの司会やコメンテーターたちもかわいい。脱走した囚人が捕まる瞬間の映像を見て、「もうちょっとでかわせたのに!惜しかったね~」と言いながらお茶をすするうちの祖母もかわいい。 要するに、総じて人類はかわいい。みんなジャイアントパンダに見える。わたしの眼球にはパンダ・フィルターが装着されている。むろん平成不況や、ゆとり教育のせいでこうなった。時宜にかなった感性である。しかしパンダはクマ科だ。力も強い。うかつに近寄ると危険なところもある。かわいいからといって、油断はできない。 これが現状のわたしの目にうつる人間全般の評価だから、あなたの価値観はとても狭苦しく感じちゃって聞いていられません。と、ここで密かに反論しておく。もっとボケボケの目で人間を見よう。広く透き通った大きなボケを、ください。つばさがほしい。 4月25日(水

日記532

味噌煮込みうどん。名古屋の山本屋本店です。 4月24日(火)のつづき。 おいしい。やたら白過ぎる洋服を着ていたため汁が跳ねないか心配でしたが、ちゃんと紙エプロンを用意してくださる。周到な心配り。むかしからかな。それでも慎重に、細心の注意を払いながらゆっくりと食べました。 わたしは「おいしい」くらいしか食べ物について語る語彙をもたない。噛めて消化できればなんでもいいと思う。昆虫でも、カエルでも。爬虫類でも。赤犬でも。「おいしい」と言う。「万物は食べられると思っていた」と漫画家の水木しげるさんがおっしゃっていた。石はかたいから食べないのだ、木はまずいから食べないのだ、と。 会話の中で食べ物の好みを聞かれれば、日常会話のセオリーに従って申し訳程度に答えるけれど、拒絶するほどのものはない。出されたものはなんでも食べるようにしている。アレルギーで食べられないものはあるが、わたしの顎の力で咀嚼でき、消化器官が受け付けてくれるものであればなんでもいい。毒でなければ。 水木さんは過去形で語っておられるけれど、「万物は食べられる」という認識はまちがっていないと思う。石だって、砕ける顎と消化できる内臓があれば食べ物になるんだ。人間にはそれができないから、しないだけです。生物としての制約でしかない。それくらいの鷹揚さで食べ物には接している。 むろん、このようなかんがえはどうかしているので、他人の食の好き嫌いを否定するつもりはありません。世間的な常識も心得ているつもりです。わたしの認識が非常識で現在の日本の社会じゃ白眼視されるのは身にしみてわかっている。正直にこうしたことを申せば「話にならない」と言われる。たしかにならない。前提がちがう。それもよくわかる。 はっ!話題が飛びますが、彫刻家の田島享央己さんの展示を日本橋三越へ観にいくの、忘れておりました。いま思い出した。わざわざここに書いて「行く」と宣言したのに。ここに書くから忘れるのかな。備忘録って、わたしにとっては忘れないようにというより、忘れてもいいように記すものなのか、書き記したら油断して忘れてしまうことが多いような。書かないことのほうがおぼえている。緊張感はだいじだな……。 名古屋市科学館へ行きました。 でかい玉。もうちょっと遠めから撮ればこの球体の大きさがちゃんとわかったかもしれません。雨