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8月, 2021の投稿を表示しています

日記839

  8月31日(火) 夏休みの終わりは若い人の自殺が増えるんだという。なんか井上陽水の「傘がない」みたいな書き出しだな……。「都会では自殺する若者が増えている/今朝来た新聞の片隅に書いていた」。わたしは今朝、SNSでこの話題を見かけた。だけども問題はきょうの雨。傘がない。 いや、きょうはどちらかといえば晴れていた。暑い夏の日だった。どんより曇る時間もあった。しかし雨は降らなかった。だから傘がなくても問題はなかった。問題は自殺だった。ふと思い出した、はてな匿名ダイアリーの記事がある。2009年8月9日のもの。陳腐でも「希望」は大事だという話。 今、まさに俺がそうなんだけど、希望が見えないと、もう、「死にたいんだ!」というより「死ぬしか選択肢が無い」って気分になるんだよ。これは体験しないと分かりにくいけど、そのままの意味で、「それしかないから、そうするだけ」みたいな。積極的に死にたいっていうより。(つっても、そういう自殺者タイプもいるとは思う。連れ合いを亡くして突発的に、とか) 自殺しそうな人に「死ぬ気で頑張ればなんとかなる」と言うのが無駄な理由   2009年の時点でこれを読んだときは「そんなもんかー」と他人事のように思っていた。しかし、いまはとてもよくわかる。たしかに「体験しないと分かりにくい」。それしかなくなってしまう精神状態というものがある。 これはおそらく、自殺にかぎらない。他殺もそう。犯罪的な行動はだいたいそうかもしれない。「もうだめだ、こうするしかない」と思い込んでしまう。冷静に計画して犯罪を行う人間は少数派だろう。 ほかの選択肢がまったく見えなくなる。もしかすると、恋にも似ているかな……。「この人しかいない」なんて勘違いだけど、そうとしか思えなくなる。人間はめっちゃ勘違いする。その勘違いパワーがポジティブに働くときと、ネガティブに働くときとがある。 絶望は、自分が自分でしかなくなるような感覚だと思う。徹頭徹尾、自分でしかない。圧倒的な孤立感というか。匿名ダイアリーの全文を読むと、そういう感覚がつたわってくる。「希望」っていうのは、「わたしがわたしだけではないと思える感覚」ではないか。 人間ってきほん複数なんよね。複数であることが希望となる。そうでないと、正気を保てない。 精神科医の神田橋條治は、「希望や期待や夢が入り込む余地が減る言葉は使わない。増える

日記838

ヒトの安心感はきっと、「通じている」という感覚からくる。通じている。そう信じられる。それは対人関係にかぎらない。対動物でも、ぬいぐるみでも、一遍の詩でも、数式でも、絵画でも、神でも、なんでもいい。自分と世界をつなぐ筋道が何かひとつでもあれば、安心できる。シンプルに、それだけだと思う。不安は逆に、不通から始まる。 もしかしたらこんなことは、あたりまえの話なんかもしれない。うーん。しかし、ようやくわかった気がする。論理ではなく、原理的な感覚として体でわかりはじめた。マイ・レボリューション。 「車輪の再発明」についてよく思う。「誰かがすでに生み出した何かを自分で生み出そうとして時間を無駄にすること」という意味の慣用句。それでいえば、わたしの考えていることなんかすべて「時間の無駄」といっても過言ではない。なんでもかんでも、やりなおしている自覚がある。 たしかに、車輪をふたたび発明しても詮無い。でも、車輪が発明されたそのときの感動は何度でも繰り返していいんじゃないか。「車輪やべえ!超便利じゃん!」って。車輪ってやつはほんとうにやばい。車輪に合わせて地面がめっちゃ平らなのもやばい。都市の設計なんかもう「すべては車輪のために!」って感じじゃん。へたすりゃ人間より車輪のほうが我が物顔である。人間が車輪を使っているのか、車輪が人間を使っているのか、もはやわからない。車輪に転がされる日々。 話が逸れた。なんだっけ。そうだ。車輪が発明されたときの感動なら、いくらでも繰り返したい。発明自体は繰り返しても無駄だけど、発明の感動を繰り返すことはけっして無駄ではない。そのためには「わからない」を経由する必要がある。なくす、というか。できるだけ、まっさらな目でもういちど見る。車輪やばい。 「安心」みたいな概念でもおなじだ。よく使うけれど、しょうじきわからない。どういう意味だろう。リセットするように、あらためて「こういうことかなー」と思案してみると、おもしろい。フレッシュでいられる。誰かがすでに考えていても、自分の腑に落ちることは初めてなのだ。ナイーブな感動を擁護したい。  

日記837

  終末期医療に限らず、〈小さな願い〉は人生のかけがえない価値である。日々の〈小さな願い〉の積み重ねが、その人自身を形作る。 村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』(中公新書、p.61)より。ここ数年、医療・福祉関系の本をよく読む。そこから受け取れる内容の多くは、特殊なものではない。ごくふつうの人々の営み。その根幹には何があるのか。そういう話だと思う。わたしたちは〈小さな願い〉をすこしずつ受容し合いながら生きている。その裏には、〈小さな諦め〉もあるのだろう。   こんなエピソードが印象的だった。病院ではせん妄で拘束を余儀なくされていた患者さんが、家に帰るとすっかりよくなったという。藤田愛『「家に帰りたい」「家で最期まで」をかなえる』(医学書院)からの又引。  念願の自宅。安らぎが戻る。  〔入院中は〕夜になるとせん妄が出て、こちらの話しが全く理解もできないと看護師を困らせていた。しかし、家に帰るとぐっすり眠れ、せん妄も一度も起きないで過ごせた。食欲がまし、むしろ日ごとに元気になった。妻も調理に予想外の忙しさですと笑う。  入院中のせん妄や不眠のことを覚えていらっしゃいますかと尋ねてみた。驚くほど覚えていて一気に語り始めた。「病院は先方の都合で管理される。聞いてほしいことがある。伝えたいことがある。してほしいことがある。でも声は届かず、一方的な指示を聞き、されるままでしかない。出せない気持ちが満たされなさがどんどん溜まる。それが夜になると不安に変わり、どんどん大きくなって、奇抜な思考に襲われる。自分がおかしくなってゆくのが分かり、もっと怖くなるけれど、どうしても止められなかった」   とくに病者ではなくとも、人間は日頃「出せない気持ちが満たされなさがどんどん溜まる」とおかしくなってゆく。ふつうのことだ。声が届く、聞いてくれる、ちゃんと伝わる、その安心感ひとつあればいい。そんな居場所があるといい。〈小さな願い〉をないがしろにしてはいけない。    自分の願いを実現化することと、願いを表現できる場を持つことはセットになっている。願いは安心が得られるところで発現する。そこで、安心を確保できる場所が必要だ。落ち着ける場所をつくることは、ケアの第一歩となる。居場所はその人の自由と深く関わる部分だからである。『ケアとは何か』p.97 自分の部屋には、きっと自分の願いが詰

日記836

   「対話」の前提。    では何を話題にすべきか。それぞれの「主観」である。それが傍目にはどれほどいびつなものに見えようとも、対話の出発点は常に「主観」であるべきなのだ。その意味で対話とは、主観と主観の交換でもある。たとえ相手の“主観的”な意見に同意できなくとも、私が“主観的”に同意していないことを穏やかに伝えつつ、「共感」可能なポイントを探ること。これも対話の一部となる。たとえば「親を殺したい」という訴えには同意できないが、そう思うに至った過程については共感できる、というように。p.277   斎藤環・與那覇潤の対談本『心を病んだらいけないの?』(新潮選書)、斎藤さんの「あとがき」より。こうしたコミュニケーションのあり方が理想的だと、わたしはかねてより感じている。これを読んだとき、タレントの伊集院光さんが朝のワイドショーを降板した理由を思い出した。R25のインタビュー記事。   世の中を妬んで、最終的に殺人を犯す人のニュースがあったとして、恵まれていない人が、恵まれた人を妬むことに関しては肯定すべきだろうと思ってたんです。『そういうときもある』と。でも人殺しだけは絶対否定しなきゃならない。ただそこでコメンテーター陣が『自分の努力が足りないのに、なんで人を妬むんだ』っていう空気になったときに『俺はわかります』って言えなかったんです。『人を妬むところまではわかる』って。今現在、人を妬んでいる視聴者に『妬んで生まれた負のエネルギーみたいなものを、みんななんとか今日のところはオナニーをして寝ることで忘れて……やり過ごしてるから大丈夫だよ』って言わなきゃならないのに、言えない自分を“何それ”って思っちゃう。もし俺が成功者を妬んでいてその番組を観ている立場だったら、『今のこの妬みは、俺は殺人犯としか共有できないのか』という話になるじゃないですか。でも違う。妬むし僻むしヒドいことを考えるけど、やらない。人間だから。やっても何も変わらないから。やらないで済ます方法はオナニーだと知っているのに、それを伝えられないくせに出るなと思ったんです。   2008年の発言。事あるごとに思い出す。さいきんも、小田急線でかなしい事件があった。しかし伊集院さんの語るような細やかな共感性は、ますます発露しづらい雰囲気になっている。たいていの人は、さまざまなやりきれない思いを抱えながらも適当に帳尻

日記835

暑い日々の再開。 風はすこし涼感を帯びてきた。        自分の感情や内面には「他人」が折りたたまれて入っているから、どんな人でも周囲の人とともにしか、変わることはできない。ゆっくりと遠回りでいいから、参加している誰もが尊厳を否定されない、そこにいるだけで前よりも楽になれるような関係性を、対話を通じて作っていこう。   精神科医の斎藤環と歴史学者の與那覇潤、おふたりの対談本『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)より、最終章の末尾にある【この章の、そしてこの本のポイント】。誰の内面にも自分以外の「他人」が折りたたまれている。わたしはよく「ひとり」を強調するけれど、それ以上に「人間は複数としてある」とも思う。 なんだかんだでいちばんの薬は「他人」だ。そしていちばんの毒も、「他人」なのだろう。精神的な症状に効く薬はさまざま開発されており、それはそれとして素晴らしい。しかし関係性をないがしろにしては、堂々めぐりになるだけではないだろうか。自分自身の治療経験から、ずっとそんな思いを抱いている。 與那覇  実はデイケアでSSTをやっていたときに、忘れられないエピソードがあるんです。患者さんが「働いているときに苦しかった状況」をロールプレイで再現するのですが、どう考えても「病気」なのは患者を追いつめた人の方でしょ、という話がいっぱい出てくる。パワハラ上司とか、モンスタークレーマーとかですね。彼らに攻撃されてうつになるのは「普通の人」であって、ほんとうに治療が必要なのは相手の側なわけです(苦笑)。  これって変じゃないですかと尋ねたところ、臨床心理士の答えが振るっていて、「たしかに上司やクレーマーがクリニックに来たら、病気と診断される可能性が高い。ただ彼らはたまたま、いまのところ地位や立場に守られていて〈本人が困難を感じていない〉から、来院せず、病気だと言われていないだけですよ」と。つまり誰が心の病気と呼ばれるのかは、しばしば当人の気質や症状以上に、社会で置かれている環境で決まるわけですね。 身に覚えのあるエピソードだ。理想をいえば、地位や立場の保証されている人ほどフェアな精神性を忘れずにいてほしい。しかし、現実はしばしば真逆である。夢みたいな理想かもしれない。わたしはペーペーだけど、「年齢が上」というだけで上下関係の構図をつくる若い人もいるため、そこは気

日記834

ここ数日は夏の小休止。すこしさむいくらい。 蝉はずっと鳴いてる。また暑くなるそう。 前回の記事で、感情とは「バラバラなものを統合しようとするときに生じる何か」と書いた。大雑把な話。過去に「接着」とか「接地」とか書いていた、その延長線上にある発想だった。よくわかんないな……。もうちょっと具体的にしないと。 まずもって感情は肉体的なものだと思う。身体感覚と切り離せない。よく対置される理性はそれでいえば、体からすこし距離をおく態度。ナレーションのようなもの。ヒトは第一に肉体をもつ、感情的な生き物であるとわたしは見ている。そこに、自分の状況を俯瞰するナレーターもひょっこりついてくる。ひょっこり。そのせめぎあいがことばになる。 「統合しようとする」という発想の背景には、サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)から得た見解があった。これで、この本の話はさいごとしよう。  文学批評家のデイヴィッド・マイアルは「感情と記述式回答の構造化」という論文の中で「感情の統合力」ということを書いている。マイアルによれば、文学は「誘発、越境、修正」を引き起こすきっかけになるという。誘発とは、感情に満ちた個人的経験を単純に思い起こすこと。越境は、そうした記憶とテキスト内の出来事とが一時的につながること。修正は、最初の感情を考えなおすことである。マイアルにとり、文学は「感情を呼び覚まし、その意味合いを修正するための効果的な手段」となるものである。pp.279-280 ありがちな類比だけど、本を読むことは旅に似ている。文学だけにかぎらない。あるいは見知らぬ他人のブログ記事にふれることも、ちょっとした「越境」かもしれない。じっさいの旅もまた、「誘発、越境、修正」を引き起こす。べつの土地に身を寄せる経験から、そこにあるべつの記憶とつながり、帰ったのちの日常がすこし変化する。読書は記憶の旅であり、現実の旅を深めてもくれる。 べつべつのものをつなげようとする感覚。たいていそこには飛躍があって、よく考えるとつながらない。わたしたちはいかんともしがたくバラバラだ。しかし「つなげようとする」。つい、つなげようとしてしまう。それが感情の働きだと思う。そもそも旅は飛躍そのもの。      わたしのイメージでは、自閉症者は自分ひとりの体のなかにバラバラな感覚を抱えており、それを

日記833

ねこ。わたしがしゃがむと、駆け寄ってくる。「ヒトがしゃがむ→なんかしてくれる!」と条件づけられているのだろう。しょうがないから、めちゃくちゃ撫でた。動物の単純な身体表現が、なぜこんなにうれしいのだろう。自分も単細胞になれるせいか。赤ちゃんや幼児に接するときにも似た感覚がある。お互いこの上なく単純に、好意を表現しあえる。   8月13日(金) 墓参りへ。親戚の男の子と、2年ぶりに会った。中学3年生。まいにち6時間、受験勉強をする日々だという。彼は物心つくかつかないかの頃からずっと、わたしに好意を向けてくれた。夏休みは、まいとし会う日を指折り数えて楽しみにしていたという。でもすっかり成長して、単純に好意を表現することもなくなった。 話しかけると恥ずかしそうに笑う。2年前まで、そんなことはなかったのに。声変わりして、口数も減った。葛藤が芽生えている。たぶん、感情と身体の葛藤だろう。感情に対して、身体の表現が抑制的になった。こども時代は、感情が身体にそのままあらわれていた。ああ思春期。そんなあなたのようすに、おじさんちょっとだけ寂しさをおぼえました。 会って開口一番、親戚のおじさん定番のセリフ「大きくなったね~」が炸裂した。とても自然に。あのときのわたしはパーフェクトな親戚のおじさんだった。雷に打たれたように、親戚のおじさんとしての自覚が全身を駆けめぐった。欠けていた最後のピースがぴったりハマった感じだ。やっと完全体に進化できた。 墓へ向かう途中、中学生の彼から「国語が苦手で、語彙力がないんだ。本が読めなくて」と相談を受けた。マンガは読むらしいので「マンガでも国語力・語彙力はつくよ」と自信をもってこたえる。おすすめを問われ、『DEATH NOTE』や『名探偵コナン』などを挙げた。『DEATH NOTE』は集中して読むとなんだか頭がよくなったような気がしてくるからいいよ。疲れたら、『グラップラー刃牙』ね。こっちは肉体的に強くなったような気になれる。それで脳味噌と筋肉のバランスがとれる。人生って、バランスが命だから。みたいな謎のアドバイスをして、笑ってた。 話しているうちに恥ずかしそうな葛藤がすこしずつ溶けていくようで、うれしかった。歩きながら飼いイヌの写真を見せてくれて、イヌの可愛さについて力説された。そうだよね、イヌは可愛い。そこで思い出した、クライブ・ウィン『イヌは愛であ

日記832

きれいな色がいた。 オオミズアオという蛾の仲間です。これを「蛾」とか「虫」とかカテゴライズした瞬間、人によっては「気持ち悪い」という感想が出てくるんじゃないか。それ以前に、美しい色だとわたしは思う。そして、かわいらしい姿かたち。虫が苦手な人も、虫ではなく単純に色として見ればどうか。羽の描く曲線を、ただ可憐な曲線として見ることはできないのだろうか。そういう小器用な切り分け方はむずかしいのか。「虫は虫」なのか。 きれいな色がいた。着眼点をこんなふうにピックアップすると、すこし詩的だ。ポエジーには、先入観を解きほぐすような面がある。詩は世界の見方を教えてくれる。案内の一種だと思っている。     8月10日(火) 散歩中に浮かんだこと。 「人に迷惑をかけたくない」という考え方は、もっともポピュラーな現代の死生観だと思う。時代の精神性を物語っている気がする。なるべく人に迷惑をかけずに生きて、なるべく人に迷惑をかけずに死にたい。いい人ばかりの世の中。でも、ちょっと息苦しいかもしれない。迷惑をかけないためには、未然の防止策が要請される。つまり、管理が求められる。ちゃんと管理して、ちゃんと管理されて、管理しあって……。人々は管理したがっているし、されたがってもいるような。新型コロナウィルスがそれに拍車をかけている。「自己管理しすぎる人は孤独になる」と臨床心理士の東畑開人さんがおっしゃっていたのを思い出す。あらゆるところで、孤独ながんばりが奨励されてるんだよね。単なる肌感覚だけど、どうだろう。 わたし自身、「孤独ながんばり」に精を出すメンタリティがすくなからずある。人間はしかし、孤独ではがんばれないようにできている。人に頼ることを意識しよう。   夜の公園で『「デブ筋」ながし』という本を読むおじさんがいた。ペンで何かを書き込みながら、ずいぶん熱心に読んでいた。太ったおじさんだった。用事があって立ち寄ったビルのエレベーターで、「SIX PACK ...coming soon」とTシャツに書いてあるおじさんといっしょになった。彼もまた、太っていた。 久々に浜崎あゆみを大音量で流す車を見た。きょうはそんな日。

日記831

 ジェイミーと話していると、自分がなぜそもそも文学にのめり込んだのか、その理由のひとつを思い出す。文学は逆説の宝庫なのである。そこでは逆説は解決される必要がない。逆説は、いくつものことがらを同時に考えるやり方であり、言語のカテゴリーの制約を超え出て行くあり方なのである。「障害(無能)」(ディサビリティ)という言葉を考えてみよう。自閉症は障害(ディサビリティ)なのか。ひょっとすると無能化する能力(ディセイブリング・アビリティ)なのか。あるいは何かを可能にする障害(エネイブリング・ディサビリティ)なのか。pp.107-108 休み休みつづけます。ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)より、メモ。 わたしが文学的な語り口に惹かれるときも、たいていそこには逆説がある。わかりやすい例では、江戸川乱歩の「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」みたいな、寄る辺を反転させる物言いにおもしろみを感じる。別種の現実を、そっと耳打ちするような。 上記の「障害」の言い換えから、渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)を思い出した。この本は自閉症とはぜんぜん関係ないけれど、『嗅ぐ文学~』と併読してみると個人的には非常におもしろい。どちらも障害(disability)を能力(ability)に転換させていく逆説に満ちた語り口で、ふしぎなほど共通項も多く見つかる。 『今を生きるための現代詩』より、思い出した箇所を引く。    「知らない」「わからない」ということには独特の価値がある。  たとえば、日本画の画家たちは、西洋の透視図法(遠近法)を知って以来、「透視図法的に描けない」という能力をなくした、というのは画家の山口晃の重要な指摘である。  透視図法は写真にとったようなかたちに描けるので、そのかたちこそが「ものの真実のすがた」だと思いこみがちだが、じつは人間の目にうつるものの像は、カメラのとらえる像とはかなり異なる。たとえば人間の目は、視野の全域にピントをあわせておくことができない。だから、いま注目している小さな範囲以外は、視野という構図のなかにあっても、ぼんやりとかすんでいるのだ。ピントをべつのところにあわせると、さきほどとは構図そのものがちがってきてしまう。  しかしいったん透視図法が「正しい見えかた」だと信じてし

日記830

アーサー・ザイエンス『光と視覚の科学 神話・哲学・芸術と現代科学の融合』(林大 訳、白揚社)をぱらぱら読んでいた。古本屋で買って、1年くらい読まずに積んでいた本だ。97年9月の初版。著者は物理学の教授。でありながら「物理学者がすべて詩人であればよいと思う」と述べたりする。とどまらない人。 目に止まった部分を軽くメモしておきたい。  私たち自身の文化も昔はそうだったのだが、伝統文化は、ケンブリッジの人類学者アーネスト・ゲルナーの言葉を使うと、「多数の要素をもつ」ものだった。ヌエル族のニロート部族に属する人が、キュウリを見て大真面目で雄牛だと言ったとしても、けっして論理的矛盾に陥っているわけではない。なぜなら、多数の要素をもつ精神世界に住んでいるからである。野菜としてのキュウリという要素はトーテムとしてのキュウリという要素に織り込まれているが、これと混同されているわけではない。西洋の歴史は、意識のさまざまな要素の分離が大きくなっていく歴史、感覚的、物質的なものから道徳的、精神的なものが分離していく歴史、ニロート部族の人間が感じる統一性が失われていく歴史である。pp.385-386   いまもなお、「意識のさまざまな要素の分離が大きくなっていく歴史」の途上なのだと思う。これを読んでわたしは、サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』のなかにあった、自閉症者が枕をラビオリと呼ぶエピソードを思い出した。 単純にイコールでつなぐのもどうかと思うが、キュウリを雄牛と呼ぶニロート部族の思考形態と似ている。分離を旨とする「ニロート部族の人間が感じる統一性が失われていく歴史」は、そのまま「自閉症」と呼ばれる「症候」がスペクトラム性をともなって見出されてきた歴史でもあるのではないか。精神科系の症候のありようは、時代の変化とすくなからずリンクしている。「多数の要素」が分離されゆく時代の症候。 キュウリはキュウリであるだけではない。わたしがわたしであるだけではないように。 そういえば日本でも、キュウリやナスを牛や馬に見立てる風習がまだ残っている。お盆に見かける精霊牛、精霊馬。平安時代から始まった文化だという。いまどき、やる家は減ってるのかなー。わからない。「大真面目で」やる家はあまりないだろう……。習慣として、やる感じ。おそらくこれも始まった当初は「大真面目」だったのだ。真剣に供物として

日記829

海に行った。なんかいろいろどうでもいいな、と思えてきてよかった。さすが海。ふと外したマスクが風にさらわれて、焦った。転がるマスクと浜辺で追いかけっこした。入れ墨だらけの人がたくさんいる海岸だった。見ていると、ほっとする。わたしもいずれ入れたい。もうちょっと年食ったら。ひまなときよく図案を考える。ずっと考えている。 信号待ちで、軽く踊っている小太りの男性がいた。かわいかった。蝉が鳴きつづけていた。夜中でも、まだ鳴いている。蝉は何か、目標めがけて飛ぶのだろうか。そんなふうには見えない。賭けている。一か八かの賭けで飛びまわる。カナブンの飛び方も賭けだ。やけっぱちにも思える。彼らを見ていると心強い。地面に転がる死屍累々でさえ。 「こんなものだ」と思える。それがうれしい。虫の死骸が転がる夏を愛している。こんなものだ。誰も彼も。   風のない夜はしずかで、散歩中の足音がやけに響いた。虫の鳴き声もまた。音をつれて歩く。歩くことしかできない。壁にうつる薄明かりを写真に撮ろうとするも、暗すぎて断念した。公園のベンチでぼーっとしていると、まるでおばけだ。いないにひとしいやつがいる。まったくおばけだ。なんでこんなところにいるのか、自分でも疑問だった。 ちゃんといなくなろうと思う。そのために、しばらくいる。あなたといるとき。ほかのすべてを見失うとき。人間は、「ずれ」の塊ではないか。誰かと会うたびに、記憶がずれこむ。時間はつねに、すこしずつ合わない。拍と拍のあいだを行き来する反響のあいまにわたしたちがいる。 海からの帰り、乗る電車をまちがえ右往左往してしまった。そのままどこへ行ってもいいような気がしたけれど、Suicaの残金を見てすなおに引き返した。車窓から夜が入ってきた。シャワーを浴びて、いまもまだ夜。 「なんかいろいろどうでもいいな」って気持ちはすぐに忘れてしまう。どうでもよくないことが日に日に増える。忘れるたび、海に行かないといけない。こんどこそ忘れないようにしよう。いつもそう思いつつ、忘れる。