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9月, 2021の投稿を表示しています

日記846

鈴木大介と山口加代子の対談本、『不自由な脳 高次脳機能障害当事者に必要な支援』(金剛出版)を読んだ。鈴木さんはルポライターで高次脳機能障害の当事者。山口さんは臨床心理士などをされている支援職の方。 「障害者」にかぎらず、これまで出会った人のこと、あるいは過去の自分が陥ったことを思い出しながら共感的に読み終える。脳の機能はグラデーションのなかで絶えずゆらぐものだと思う。ちょっとしたバグなら日常茶飯事だろう。 先日、冷蔵庫にお皿をしまいそうになった。食器棚ではなく。こういうことがあると「疲れてるんだな」と感じる。お風呂に入浴剤とまちがえてインスタントのお味噌汁を入れそうになった、という話も聞いたことがある。頭ん中は油断するとすぐまぜこぜになってしまう。酔っ払った帰りに他人の靴を穿いてきてしまった、なんてのもよくある話。 ただ、こうした一般化は慎重にしたい。障害は「ちょっとしたバグ」では済まないのだから。鈴木さんはこう話す。   例えばちょっとしたケアレスミスや注意のミス、物忘れなどは認知的な多忙状態にある人や強いストレスがかかっている人はみんな起きる状態なので、「鈴木さん、それ私もたまにそうなりますよ」と言われがちですよね。たまにあるのは知っています。でも当事者にはそれが二十四時間ずっと頻発し続けるから、苦しいんですという。p.139 「ちょっと」どころではなく、ミスが常態化する。そこが「障害」とカテゴライズされるゆえんでもある。「私もたまにそうなりますよ」といった一般化は共感的なようで、じつは「健常」という立場を堅持した物言いになっている。「ぜんぜんそんなのふつうだよ~」みたいな。 「ふつう」ということばは包摂的であり、そのぶん排他的でもある。慰撫にも攻撃にもなりうる。どんなときも「ふつう」に類することを言う場合は、まず相手の「ふつう」を想像したい。矛盾しているようだけれど、千差万別の「ふつう」がある。わたしは包摂される側ではなく、つねに排される側から「ふつう」を見てしまう。へそ曲がりな癖がある。輪の中にいない、マイノリティとしての自意識が強いんだろうなと思う。 鈴木さんは「みんなに共通することがものすごく強く出るのが、高次脳機能障害なんですよね(p.173)」と語る。症状は健常者にも共通する部分があるんだけど、「ものすごく強く出る」。頻度・強度がぜんぜんちがう。一般

日記845

   熱い事が好きですから、夏が一番好きでした。方角では西が一番好きで書斎を西向きにせよと申した位です。夕焼けがすると大喜びでした。これを見つけますと、直に私や子供を大急ぎで呼ぶのでございます。いつも急いで参るのですが、それでもよく『一分後れました、夕焼け少し駄目となりました。なんぼ気の毒』などと申しました。子供等と一緒に『夕焼け小焼け、明日、天気になーれ』と歌ったり、または歌わせたり致しました。   小泉節子「 思い出の記 」。夫、小泉八雲のこと。 何回も読んでしまう。「熱い事が好きですから、夏が一番好きでした」。好きですから、好きでした。「夕焼けがする」という表現もたまらない。夕焼けがする。夕焼けがしている。空のようすに、思わず誰かを呼びたくなることはあるだろうか。呼べる人はいるだろうか。夕焼けの美しさをまるきり疑わず。      9月25日(土) まだ夏かな。頭の一部がハゲてきた。冗談でなく。一時的なハゲか、不治のハゲか。わからない。そんな夏の終わり。何年も丸坊主を維持しているのでハゲたところで気にならないかと思いきや、すこし焦った。鏡の前で、「ハ……ハゲとる!」と目を剥く。さいきん抜け毛が多かった。でもどうせ坊主なので、まあいいかと思い直す。幸い、そんなに目立たない。坊主でなかったら、もっとダメージが大きかっただろう。 体は変わっていく。月日を重ねるごとに、さまざまな痛みとのお付き合いを強いられる。痛みとは何だろう。これは、「意識とは何だろう」という問いにも近いのかもしれない。なんとなく、直観的にそう思う。痛みがめぐることと、意識がめぐることの近さ。 読書をする時間がほしい。夜の虫の声を真剣に聴く時間も。知人からキーボード(楽器)をもらったが、どうすればいいのかわからない。弾くしかないか。弾いてみるか。せっかくだし。鍵盤が微妙に黄ばんでいた。音は出る。じゃんじゃん出る。ミミレドーミ、ラソー。はじめてのチュウ。むかし(20年以上前)、姉から習った。こういうの、意外とおぼえているのがふしぎでならない。 記憶はなくならないのかもしれない。思い出せないだけで、どっかにある。ちいさく、しぼんでいる。きっかけさえ掴めれば、わーっとふくらむ。そしてまたすぐに、ちいさくなる。空気を送りつづけないといけない。  

日記844

いい余白。 9月16日(木) 春日武彦『無意味とスカシカシパン 詩的現象から精神疾患まで』(青土社)を読んでいた。同著者の『病んだ家族、散乱した室内』(医学書院)で強調されていた「好奇心」の姿がクリアに抉出されている。要するにそれは、「無意味」という広大な領野への好奇心なのだろう。対人援助の仕事は、社会の土俵際で息づく人々と触れ合う。意味の土俵際ともいえる。自分の狭い意味体系/価値体系を揺さぶられる経験の多い仕事だと思う。    世の中は無意味なもので満ちている。当然だろう。意味があるとされるものは少数派で、それらは価値があったり役に立ったり理解可能な事物である。それ以外は、いわば図と地における「地」のような具合に、ひたすら無意味が広がっている。p.9 無意味はけっして悪いものではない。かといって、良いものでもない。わかりやすい価値の外側にある。「わかりやすい価値」なんつーのは少数派で、この世のだいたいのものは役に立つか立たないのかも判然としない。意味不明なのだ。うまく像を結ばない。謎に満ちた余白の広がり。余白がなければ、意味も成り立たない。 そして、人生の大半は余白の時間なのだと思う。夢のようにあやふやな。そんな中にあってヒトは意味の手ごたえを求める。杳と知れない暗闇に意味の灯火を浮かべる。それはさながら映写機が投げる、つかのまのあかり。人々はそのちいさな灯をたいせつに懐きながら生きている。胸の裡で、消えないように。ひとり映画を撮りつづけるように。あるいは、小説の創作でもいい。 「無意味の孕む豊かさや恐ろしさを味わってこそ、わたしたちの日常は輪郭を鮮明にするのだ」と春日氏は書く。「好奇心」とは、無意味の闇に浮かべる意味の灯火だと思う。どんなものにも役柄とシナリオがある。 スカシカシパンなるウニの一種は「形が奇妙なので人の注意をひくが、とくに利用の道はない」のだという。氏はそんな役に立たない珍奇なものを表題に添えて見せる。想像するに、すこし露悪的に微笑みながら「ほらよ」って感じで。積極的に意味を付与するわけではない。ごろっと、ただ置いておく。とりあえず提示する。いや、不可抗力的ついてきてしまう、といったほうが正確か。よくわからんが抵抗できずに意識が拾い上げてしまう。 氏の言う「無意味」は、「受動性」と言い換えることもできると思う。なんか知らんがそうなっている、そうし

日記843

    9月13日(月) 信号待ちのあいだ目の前にいた女性が嫁入りランドのTシャツを着ていた。なんかうれしかった。わたしも好きなんですよね。駆け寄って話しかけたかった。無邪気なふりして。でも、できなかった。外国人のふりなら行けたかもしれない。カタコトの日本語で「ワタシ、ヨメイリ、ダイスキアル!」みたいな。もしくは原始人のふりで「オレ、ヨメイリ、スキ」「オマエ、Tシャツ、ヨメイリ」「オレ、オマエ、スキ」という苦渋の三段論法。これでも行けたな……。あるいは嫁入りランドのリリックで話しかける。「ふにふにもちもちわんにゃんにゃん!」とか「変な宗教に入ってたってぜんぜんいいじゃんラブ注入!」とか。傍から見れば発狂してるけど、そのTシャツを着たあなたにならわかるはず。こわいかな。 などと妄想しながらひとりで歩いていた。  

日記842

  先週ようやくワクチンを打った。1回目から副反応でダウン。2回目が思いやられる。しかし打ってくだすったお医者さんの技術には感動した。「チクッとしますね」と言うタイミングが刺すと同時かすこし遅いくらいで、ほとんど不意打ちに近い。「針が来る!」と意識させる前に打つ感じ。構えさせない。打たれたほうとしては「あ、もう終わり?」みたいな。刺された痛みは無いにひとしかった。 剣術の達人に首をはねられるのも、こんな感じなのかもしれない。自分の首が切断されたことに、あとから気づく。あるいは、プロボクサーに顎を打たれるのもこんな感じかなぁ。ぜんぜんわかんないうちにノックアウトされている、みたいな。なるほど達人は痛覚の速度を超えてくるのか……。などと考えながら待合スペースでの15分を過ごした。 その後、じわじわ打たれた箇所が痛んできた。翌日は風邪っぽい症状に見舞われ、満足に動けず。頭痛、発熱、悪寒、関節炎など。寝込みに寝込んだ。「寝込むしかない」と思えると頭の中がクリアになる。寝込むしかないから。「あれやんなきゃ、これやんなきゃ」といった雑念が止む。へんな話、自殺すると心に決めた人も似たような感覚なのかもしれない。晴れやかな気持ちで、「もうなんにもしなくていい」と。死ぬしかないから。 『「死にたい」に現場で向き合う 自殺予防の最前線』(日本評論社)という本に、精神科医の松本俊彦さんがこんなご経験を書いている。自殺した男性患者を最後に診察したときのこと。   そのとき、筆者はうまく言語化できないものの、ある種の違和感のような感触を覚えたのだった。というのも、この数年、渋面しか見せなかった患者が、その日に限って不思議となにか悟ったような、吹っ切れた表情をしていたからだ。pp.13-14   「死にたい」もしくは「死のう」という気持ちは、どこか薬のように作用する面もあるのだろう。「終わり」が何よりの希望になる。しかし、ほんとうはなにも終わらない。いつかの過去記事に書いた。   ほんとうは、なにも終わらないのだと思う。自然は終わらない。「終わり」は、きわめて人工的な概念だ。人間的ともいえる。文明的というか。箱庭的というか。完結性がないと不安になる。なんにでも期限がある。と思い込んで、汲々として、かつ安心している。期限によって社会は顕在化する。 日記738   自分で書いたことだけど、ずっと気

日記841

前回のつづき。春日武彦『病んだ家族、散乱した室内 援助者にとっての不全感と困惑について』(医学書院)から。「存在しないことを知っている」という力、について。精神保健福祉センターで自殺予告の電話を受けた新人職員の苦慮を見て、著者はこう語る。  こういったときの新人職員の気持ちを察してみるに、対応しつつも苦しんでいる最大要因は、「じつはこういった自殺予告の電話には、ちゃんとうまい対処法があるのではないのか。わたしは不勉強にもそんなことは習ったことがないし、マニュアルを見たこともない。だけれどそういったことは本当は常識として流布しているのであり、わたしだけがそれを知らないのではないのか」といった不安に根ざしているようである。現実にはうまい対処法決定版なんてありはしないのだが、そんなものは存在しないということを知らないがために、自分に自信がもてない。言葉に説得力が生じず、歯切れが悪く、うろたえた様子を見抜かれてかえってつけ込まれてしまう。  この話のポイントは、既存の知識をしっかりと体得していることも大切だが、「そんなものは存在しないということを知っている」こともまた同様に重要だということである。p.104 もしかすると、あらゆる「自信のなさ」の根底には「どっかに正解があるはずだけど、わたしはそれを知らない」という焦心がふくまれているんじゃないか。「死にたい」という人になんと声をかけたらよいのか、唯一の正解はない。知らないのではなく、そもそも答えが存在しない。生きて死ぬ、人生の大枠からしてそのようなものだ。 正解が存在しないことを知る。地に足のついた物腰はここから始まるのだと思う。つまり、「自分が矢面に立つしかない」と覚悟を決めるところから。正解を求める気持ちには、他人任せな面がある。「正解があるはず」は「ほかに適任者がいるはず」と言い換えることもできよう。 じっさい、ほかに適任者はいる。どんな仕事でも、自分より経験や知識が豊富な人はいくらでもいる。正解はないが、自分より正解にちかいものを打ち出せる人たち。いるんだけどもしかし、この日この時この場面に居合わせた人間は自分だった。未熟でも、わたしが腹を括ってやるしかない。 そういう態度がきっと、その場における説得力の源になる。腹の括りようで、声のトーンや立ち居振る舞いから変化する。「わたしがやるしかない」という心持ちは、他者に

日記840

    痴呆老人というものは、なるほど理性や論理の部分では情けなくなるほどに能力を失っているということになろう。現実検討力もない。だが、感情面においては瑞々しいものを残していることが普通である。となると、かれらは家庭内の緊張した雰囲気、ただならぬ不穏な空気を敏感に肌で感じ取ってしまう。pp.64-65   春日武彦『病んだ家族、散乱した室内 援助者にとっての不全感と困惑について』(医学書院)より。2001年に出版された本なので、「痴呆」ということばが使用されている。厚生労働省が「痴呆」を「認知症」と改定したのは2004年。 ちなみに「痴呆と認知症はどうちがうの?」と、かつて同居していた祖母から幾度となく聞かれた思い出がある(ほとんど毎日)。祖母以外のお年寄りにも聞かれたことが何度かある。母からも聞かれたことがある。そのたび「おんなじ意味のことばを、かっこよく言い換えたんよね」と幾度となく答えた。「体裁を改めたんよね」と。 引用文と絡めるなら、「認知症」は「痴呆」という呼称の身も蓋もなさを理性的に取り繕った格好だ。服を着せるように。「理性や論理」「現実検討力」とは、わたしなりにいえば「取り繕いパワー」である。「補完する能力」ともいえる。うまく覆いをかける。それによって、円滑なコミュニケーションが可能となる。 認知機能に支障をきたすと、しばしば感情的な瑞々しさがむき出しになる。これは認知症にかぎらない。軽いケースなら、あまり眠れていないときにイライラしがちだったり、部屋にこもりっきりになると鬱々としてきたり、そういう誰しも経験のあるちいさな段階から地続きな認知のありようだ。感情は体の底流でつねにうごめいている。汲めども尽きぬ、地下水脈のように。理性は水道インフラみたいなもので、自他の感情水脈をすこしずつ汲み、目的に合わせて取り扱う技術なのだ。 感情を汲む水道インフラも、やがて老朽化する。わたしが抱くケアのイメージは「インフラ基盤の整っている人が水の流れを汲み、他者のインフラ整備を手伝う」、そんな感じなのよね。それは日常にありふれている行為だと思う。あいさつひとつから、感情の動きは始まっている。 感情はいつまでも瑞々しい。湧水のようなもの。どんどん湧いてきちゃうのは困るけれど、その瑞々しさは感動的でもある……。 「かれらは家庭内の緊張した雰囲気、ただならぬ不穏な空気を敏感