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10月, 2021の投稿を表示しています

日記854

10月24日(日) 目が醒めた瞬間、「ここどこ?」と思った。見知らぬ、天井。梅田のホテルだった。この日は、心斎橋でべつの友人と会う。急な連絡にもかかわらず時間をつくってくれた。ありがたい。パルコの、ブックフェアを開催しているスペースで待ち合わせ。思っていたより濃い選書でおもしろかった。  出店するのは、「LVDB BOOKS」(東住吉区)、自転車店「タラウマラ」(東淀川区)、僧侶が運営するカフェ「サイノツノ」(大阪府和泉市)、朝7時から営業するレコード店「Tobira Records」の4店。LVDB BOOKSの上林(かんばやし)翼店長が声を掛け、特色ある店がお薦めの本を紹介する。  心斎橋パルコでブックフェア 個性的な4店による合同展示販売会 - なんば経済新聞    お会いしたのは「サイノツノ」のお兄さん。別れるまでえんえん本にまつわる話をしていた気がする。ふだん使わない語彙を気兼ねなく使う。いつもぼやんと思っていることに肉声が与えられたような、余していたことばが熱を帯びてふくらむここち。 交わしたことばをふりかえると、自分は「あいだ」に立ちたがるクセがあるのだなーと改めて実感する。ブログにはよく書いているけれど、何事も「どちらか」のみでは語れない。そう思っている。まずは矛盾から始めたい。そんなんだから話がすっきりしなかったり、分かりづらかったりするんだろう……。 余談ながら、郡司ペギオ幸夫に惹かれる理由がなんとなくわかった。矛盾を体よく整理しない、不格好なスタイルで愚直に考える。それがおもしろい。郡司氏にかぎらず、わたしは矛盾を起点とする格好悪さに惹かれる。ボタンの掛けちがいを性急になおさず、いちど手を止めてべつの感覚で捉え返すような。 パルコに戻る。しばらく本を眺めて……カレー屋に行ったか、喫茶店に行ったか。記憶の時系列があやふやだ。喫茶店ということにしておこう。平岡珈琲店。コーヒーとドーナツのセットを頼む。おいしい。お店に置いてあった雑誌『SAVVY』を見せてもらう。小欄で「サイノツノ」が紹介されていた。いい笑顔の写真。話すなかで、『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)という現代川柳の句集を教えてもらう。川合大祐著。おもしろそう。 昼食。カレー屋のラヴィリンスに向かう。「ヴィ」が気持ち悪くて素敵。掟ポルシェ御用達のお店らしい。開店前に到着して、とりあえず

日記853

  10月23日(土) 写真は神戸、王子公園駅前の壁。久しぶりに関西へ出かけた。何年ぶりだろう。会いたい人がけっこういるけれど、なかなか会えない。日本は広い。 前日の夜行バスで向かう。バスタ新宿の待合室に、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでいる女性がいた。そのとなりには、らかん餅の袋を抱えたおじさん。思い出せるのはそのくらい。20代くらいの若者が多かった気がする。夜行バスの利用者は若い。 午前7時過ぎ、梅田着。ストレッチで強張った体をほぐす。ふらふら歩いて大阪梅田駅まで行く。駅構内は閑散としていた。阪急神戸本線を探し、小綺麗な車両に乗って8時ごろ王子公園駅に。 横尾忠則現代美術館の前で友人と待ち合わせをしていた。時間は11時。あと3時間か。駅前の広場で、家から持参したバナナを頬張る。ひと息つき、とりあえず歩くことにする。カメラと本があれば適当に過ごせる。   肌寒い土曜の朝。商店街にはお年寄りが多い。ぐるぐると練り歩き、目についたパン屋でサンドイッチを買う。八百屋がよく賑わっていた。店名、「フレッシュフィールド」。新鮮な領域。いい名前。神奈川の湘南台に「ビッグパワー」という名前のスーパーがある。いい名前つながりで思い出す。大きな力。富山の南砺には「セフレ」というスーパーがあるらしい。どうでもいい情報が芋づる式に浮かぶ。 ほど近いところに山が見えた。いい眺め。そういえば、登山の装備で闊歩する集団とすれ違ったっけ。雲がふもとに大きな影を落としていた。「摩耶山」と書かれた看板を見つける。摩耶山か。公園のベンチに腰かけ朝食。卵サンド。食べ終えてから思い立って、べつのパン屋でデニッシュを買う。リンゴとチョコ。友と食べよう。あと豆腐屋で豆乳を1杯買い、歩きながら飲む。 そんな調子で気ままに3時間。長くは感じなかった。美術館前のベンチに座って連絡。付き合いは長い(なんやかんやで5年以上?)けど、初対面の人。そういう関係もめずらしくないんじゃないかな、いまどき。どうだろう。 顔を合わすなり、さっそくデニッシュを分け合う。「よかったらこれ、リンゴとチョコなんですけど」「どっちがいいですか?」「じゃあ、チョコで」。記憶に残っている最初の会話。「どっちがいい?」と聞きたかったのはわたしのほうなんだけど、逆に聞かれて立場が入れ替わる感じになった。たぶん、お互いどっちでもよかっ

日記852

10月19日(火) 夕飯を食べながら、中京テレビ制作の「ヒューマングルメンタリー オモウマい店」を見ていた(途中から)。茂三郎という蕎麦屋のご主人が、取材に訪れたADの青年を勝手に弟子にする。そしてAD氏もそれを言われるがまま受け入れ、短期間だけ寝食をともにし、弟子として蕎麦打ち修行をする。そういう内容だった。 茂三郎氏のふるまいは表面上とても荒っぽいんだけど、心根はやさしい。前回の記事と紐付けるなら、誰にでもガンガン平気で話しかけるタイプ。「オモウマい店」はそういうタイプの人々を取材する番組だと言ってもいい。 粗野な態度は、ときに親しさの表現でもある。「オモウマい店」に登場する人々の荒っぽさは、相手を突き放すようなものではけっしてない。どのような荒っぽさかといえば、自他の区別がゆるい、ウチとソトの区別をあまりつけない、そういうたぐいの、いわば未分化な荒さである。役割が流動的。 「家族」というキーワードが頻出する。近寄ると、誰でも家族になってしまう。お客さんであろうと全員を身内にしてしまう。取材に来たAD氏も有無を言わさず弟子にしてしまう。とても乱暴で、とてもやさしい。 ウチの父方の祖母もそういう人だった。たまたま居合わせた通行人にも、まるで身内であるかのように話しかける。ちなみに母にもそんなところがある。その遺伝子を継ぐわたしには、異様なまでに分けて考える理性的な面と、ぜんぜん分けないガバガバな面が妙なバランスで同居している。つめたい面と、あたたかい面。親への反抗心(切り分けるつめたい面)と、親から素直に受け継いだ感性(未分化なあたたかい面)の同居なのだろうと自己分析している。自己分析はたいてい間違っていることにも留意しつつ。 それはさておき。ちょっと話が飛ぶけど、茂三郎氏のふるまいを見て小説家の小島信夫を思い出した。いま読んでいる、三浦清宏『運命の謎 小島信夫と私』(水声社)のこんなくだり。    小島さんは毎晩小説の話をしながら、私にも小説を書けと、何度も勧めました。小島さんは、誰かと親しくなると、必ずといっていいくらい、小説を書くように勧めていたようです。小島さんは、小説という芸術のジャンルに絶対とも言える信頼を置いていました。彼にとっては、小説は単なる技芸や生活の手段などではなく、生活そのもの、人生そのもの、信仰の対象ですらありました。ちょっと西洋芸術的な

日記851

たぶん、むかしは街全体が公園みたいにだぶついていたのだろう。人々も路上でだぶついていた。テレビにうつる、インドの雑然とした街なかをぼーっと眺めながら思った。ぜんぶが公園みたいで、きっと数十年前の東京もこのようにぐちゃっとしていたにちがいない。わたしの祖父母世代が若かったころ。 父方の祖母は、知らない人でも平気で話しかける馴れ馴れしいおばあちゃんだった。とくにちいさなこどもを連れたお母さんを見つけると、迷いなく突撃する。「あらかわいい」「いくつ?」「手のかかる時期ねえ」などと、いつもおなじ話をしていた。若いお母さんたちはたいてい、それに対して戸惑いがちに応じる。 誰にでも平気で話しかけるメンタリティは、街全体が公園のような時代に育まれたものなのかもしれない。いちいち格式張って「こういう者です」と名乗らなくてもいい。前提に個人や組織を立てることなく、居合わせただけでぬるぬる話が進む。時間も気にしない。話しかける理由は「こどもかわいい」ってだけで、あとはどうでもいい。相手が誰でも、自分が誰でも見境ない。公園的な精神性。ゲリラ的ともいえる。遊撃的。もしくは通り魔的。 じっさい、「誰でもよかった」は通り魔の常套句だ。前回の記事を書いたときも脳裏をよぎったが、触れなかった。「誰でもいい」には両面あるのだと思う。公共心の裏表。では、公共心とはなんだろう。あえて一言で、ゆるく定義するなら「はみ出す気持ち」ではないかな。人々がすこしずつはみ出し合いながら公共圏は成り立つ。 わたしも、ときどき知らない人に話しかけたくなる。こないだ電車内でジャン・ジュネの『花のノートルダム』(光文社古典新訳文庫)を読んでいるおばあさんがいて、その本を手にしたきっかけについて話を聞きたかった。あるいは、これも電車でトゲだらけの革ジャンを着たモヒカンの男性がいて「イケてます」と伝えたかった。かっこいいタトゥーの人にも話しかけたくなる。でも、できない。 長距離バスで隣り合った人だと、わりとできる。あいさつ程度でも話しかけておくと、カドが立たないから。緊張がやわらぐ。安心して眠れる。これには自己防衛的な意味もある。自分を守るためならできるのか。あと、体が固定されていると話しかけやすい。 前回も書いたように、問題は目的なんではないか。「~のため」という大義名分があると行動できるが、ないとできない。目当てのぴったり

日記850

休日、よく晴れた玉川。公園から川辺に降りる。犬を連れた人々、しゃぼん玉であそぶ少年、階段にすわるカップル、体操をするおじいさん、川に石を投げる若者、虫を探す親子、ジョギングをする人、寝っ転がるおじさん、杖をつくおばあさん、電動車椅子の青年、笑い転げる女子高生、ふと立ち止まって写真を撮る人、などにまみれて歩いた。この場所には余裕しかない。余した時間が集まる空間。 来るたび、「ここは幸福の巣窟だ」と思う。くさくさした気分だと、「けっ」となるかもしれない。「余裕しかない場所」というのは要するに、役割が決まっていない場所のことだ。こういうことをする場所です!と定められていない(とうぜんながら、いくつかの禁止事項はある)。さまざまな人が一堂に介して、思い思いのことをしている。そうした場所に身を置くと、ほっとする。誰が誰でもいいんだと思える。全員互換的というか。 わたしは「ふと立ち止まって写真を撮る人」だったけれど、そうではなくてもいい。石を投げても、虫を探しても、体操をしても、杖をついても、車椅子を走らせても、笑い転げていてもいい。誰でもよかった。そういうたぐいの安心感があった。わたしはそんなに、わたしではなくてもいい。変な話。でも、安心感とはそのようなものではないかしら。 余裕がないときは、役割に追われている。やることがある。わたしがわたしの役を、しっかり負っていないといけない。もちろん、そこで芽生える責任感や義務感もたいせつ。なんだけど、そればかりだと人は疲弊してしまう。誰でもいい場所に、束の間でも身を委ねることができれば「くさくさした気分」にも陥らないはず……。いや、腐っていてもいい。それもまた相対化されるから。どんな気分でも、誰が誰でもかまわない。 公園が好きだ。都市の中で、いちばん安心できる場所かもしれない。よく「ダメな大人」の典型として、昼間から公園でワンカップ片手にうなだれているおじさんが描かれる。これは裏を返せば、社会の隅に放逐された何者でもない人の居場所は公園くらいしかない、ということなんだろう。公園は目的のいらない、都市のだぶついた空間である。名前を失う、何者でもない時間を引き受けてくれる。「余り」をむやみに埋めてはいけない。  同時に二つのことを言えないというのは、大きな限界でもあり、また精神の安全保障でもある。世界が同時に無数の言葉で叫び出したら私たち

日記849

気候がいい。秋は音がいい。風も快い。でもすこし暑い。 前の日記で書き忘れたことがある。10月5日、いちごパフェを食べた。甘かった。「パフェはよろこびの表現です」と話す。個人的には、パフェを頼もうなんてそうそう思うものではないから。「水がいちばんおいしい」と信じてはばからないような味気ない人間だから。演出、というと身も蓋もないけれど、ちょっとした演出をたいせつにしたいと思っている。気まぐれにお花を買ってみたり、ふとケーキ屋に寄って帰ったり。日々に色を添える。 自分ひとりなら「水がいちばん」。食も細くていい。欲らしい欲はないかもしれない。そもそも生きていこうって気概があまりない。欲望を賦活する鍵はやはり他者なのだろう。他者としての自分もふくむ。「他者としての自分」は言い換えると、演じる者としての自分。登場人物としての自分。 購買意欲が湧くときは、いつも誰かのことを考えている気がする。あるいは、こうして誰にともなく文字を書きつけるときも。送られたものを送り返すように生活している。   この世界は潤沢な贈り物が惜しげもなく散りばめられたところだ。贈り物は、あなたが何もしなくても無償でやってくる――招かれもせずに、あなたの元へ。あなたはただ、目を見開いて注意を払いさえすればいい。それがどこから来るのか私たちは知らない。 ロビン・ウォール・キマラー『植物と叡智の守り人』(築地書館)より。このような考え方を素朴に信じている。というより、実感している。「やってくる」というキーワードは示唆深い。求めてもいないのにやってくる。かたちにすがる命がある。   ふと思ったこと。2種類の言語がある。許可を契機に作動する言語と、否定を契機に作動する言語。前者は機械的なもの。後者は人間的なもの。何もできないところから始まる言語と、何でもできるところから始まる言語。ともいえる。 こう書いても、意味不明だろう。自分でもぼんやりしている。言語というより、知性のあり方としたほうがいいか……。生煮えの思いつき。人工知能と精神分析について考えながら思いついたこと。頭の隅に留め置くため、とりあえずメモ。 久しぶりに発泡酒を飲んだら、ひどい腹痛に襲われた。何年か前は、まいにちのように飲んでいたのに。体質(腸内環境?)が変わったのかもしれない。ふたたび飲める体に戻そうとは思えないので、これからは「飲めない人」として

日記848

人が一日に徒歩で移動できる距離はかぎられている。交通インフラの発達した現代の感覚からすれば滑稽なほど遅い。しかしそれこそが体のリズムなのだと思う。体は全般的に、じんわりしている。時間のかかる乗り物です。何につけても。 友人と街をふらふら歩いた。10月5日のこと。季節外れの蝉が鳴いていた。橋の上、先に気がついたのは友人だった。わたしはすこし遅れて聞き取る。「蝉が鳴いてる」。欄干には落書きがたくさんあった。つい見てしまう。路上の落書きはだいたい、ラブとヘイトの両極から成る。「好き」と「死ね」が典型。 電車で帰る途次、人類学者のティム・インゴルドが『ラインズ』(左右社)で示している徒歩旅行と輸送のちがいを思い出した。といっても、この本自体は読んでいない。『急に具合が悪くなる』(晶文社)から、同じく人類学者の磯野真穂さんによる説明で知った。かんたんにいうと、目の前の世界と親密に関わりながら進む道行きが徒歩旅行。対して、あいだをすっ飛ばし目的地へ直線的に向かう走行が輸送。    輸送とは、機械的手段を使用するかしないかではなく、徒歩旅行にみられる移動と知覚との親密なつながりの消失によって区別される。輸送される旅人は乗客となり、自分では動かず、場所から場所へと動かされる。その通過のあいだに彼に近づいてくる風景や音や感覚は、彼を運ぶ動きに全く関係がない。 インゴルドの示すふたつのちがいの要点は、目的に対する態度だと思う。目的に縛られた道筋(輸送)か、そうではない道筋(徒歩旅行)か。合目的性を至上とする思考か、逸脱にひらかれた思考か。具体的な移動手段の話ではなく、考え方の話。インゴルドは徒歩移動も輸送になりうるという。以下は磯野さんの解説。 たとえば、Googleマップを見ながら目的地まで移動するときと、空き時間に街をただブラブラと歩く移動には圧倒的な違いがあります。前者の場合、私は出発点と目的地を横断します。移動の途中に私とともに在るはずの街並みは私と親密に交わることもなく後景に退き、私はただ一直線に目的地を目指します。後者の場合、私は街並みの空気や彩りを感じながら、そこを通り抜け、その先に何が在るのだろうという、ちょっとした冒険の気分に胸を高鳴らせながら、私を取り巻く街並みとともにラインを描きます。 目的を逸する「ちょっとした冒険の気分」の裏には、きっと不安もある。好奇心はつ

日記847

わたしはこれまでもハゲていたし、これからもずっとハゲていくだけ。自分に言い聞かせておく。ハゲる気しかしねえ。  前回の記事を上げた日、9月29日は高熱にあえいでいた。2回目ワクチンの副反応。そのことにはいっさい触れていませんが、あえぎながら書いたものです……。翌30日も発熱が尾を引いており、2連休にしていたので助かった。しょうじき、もっかい打てと言われたら二の足を踏んでしまう。副反応つらい。現在、感染者数はなぜか減っている。ウィルスがこのまま、なし崩し的にフェードアウトすることを祈る。 発熱中、いちばんつらかったのは関節痛。そのせいで満足に動けず、ほぼ伏せっていた。動こうとすると、お年寄りのようにゆっくりとするほかない。「お年寄りの体ってこんな感じなんだろうな」と思った。 前回のワクチン接種では悪寒でふるえていたが、今回は熱感があった。あっつくてしょうがない。何十年ぶりか、タオルをおでこに乗っけて寝た。熱は38.5度まで上がった。食欲はあった。しかし食べる動作がしんどくて少食になった。視覚・聴覚・嗅覚の変化はあまり感じなかった。味覚も触覚もふつう。 9月30日の朝、体温は35.7度まで下がった。だいたい平熱は35度台。もう発熱は終わったかと思いきや、だるくて夜にもういちど計ると37.3度まで上がっていた。油断ならない。関節痛も残っていた。 そして10月1日のきょう。仕事へ行く。一日通して、熱は出なかった。ただ体の違和感はぬぐえない。「病み上がり」という感じ。本調子に戻るにはもうすこしかかりそう。「顔がやつれてる」と言われる。確かにゲッソリしたかもしれん。計っていないが、体重も減ったかも。 そういえば、ワクチン接種時の問診が妙だったので記しておこう。1回目はふつうに形式的なやりとりだけで終わった。問題は2回目。おなじように形式的なやりとりをするのみ!と思って入ると、まず挨拶もなく「元気?」と聞かれた。異様になれなれしくて戸惑ってしまう。しかも1回目は白衣のお医者さんらしいおじさんだったが、2回目はジャージのおじさんだった。 「ええ、元気です」と言うと、次に「なんの仕事してるの?」ときた。質問の意図がわからず、「え?」と聞き返してしまう。数秒の沈黙があり、「……こういう関係の仕事です」と適当に答える。するとジャージは、「コロナかかった?」と言う。あとは形式通りだなと踏ん