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9月, 2020の投稿を表示しています

日記742

宗教性は日常言語に浸潤している。南直哉と鎌田東二の『死と生 恐山至高対談』(東京堂出版)を読みながら、そんなことを思った。禅僧の南さんは、死ぬ間際の人と対話をすると、どうも似たような話になってしまうのだとか。そこから彼は「自分の思っている宗教的な感覚に近い言葉」を語る。 (…)そのときに不思議といつも言うことになるのは、「わびたいと思うことがあったら、今わびといた方がいい」という言葉です。それで、「もし、わびたい人がこの世にいないんだったら、私に言いなよ」と言ったことがあるんですよ。今までそんなことが三、四回ありました。そんなことをなぜ自分が言うのかと考えてきたのですが、いま鎌田先生に言われてわかりました。私にとっては、ふだん使う言葉で最も自分の宗教性というか、自分の思っている宗教的な感覚に近い言葉は「ごめんなさい」だと思いますね。先生にとってそれは「ありがとう」なんですね。p.272 あくまで「私にとって」「先生にとって」と、個人的な感覚として語っておられるけれど、そうでもないのではないか。何気ない日常のことばに宗教性が宿っているのだと、乱暴な臆見として拡大解釈したくなる。日本人の宗教観は、対象化して「それ」と名指せないほど日本語そのものに浸潤している。 思いだすのは、祖母のことだ。乳がんの摘出手術を受けた直後、混濁する意識のなか連呼していたことばが「ありがとう」だった。なにを話しかけても「ありがとう」と言う。話しかけなくても言う。感謝の意だけではなく、すがるような響きもあった。あのときの「ありがとう」はあきらかな宗教性を帯びていた。 あるかないかギリギリの、意識の下限において発される「ありがとう」。「寝言は神への祈りだ」と、たしかウィトゲンシュタインがどっかに書いていたと思う。祖母の「ありがとう」はそう、寝言のようにほとんどリズムだけの、かすかな吐息だった。意味のないリズムの運動、そのかたちとしての「ありがとう」。念仏にも似た。南さんのお話は、そんな個人的な体験とリンクした。 祖母本人は「無宗教」と話すけれど、こちらから見ればふだんから「ありがとう」に殉じる宗教観をもつ生活者だった。神主の鎌田さんとおなじように。仏教者の南さんならばそれが「ごめんなさい」となる。そんなら、わたしが宗教性を感じることばはなんだろう? と自分に問うてみ

日記741

9月9日(水) 爆音が静まり、耳鳴りが始まる。 遠くから響く歓声のように。 ひさしぶりの感覚だった。下北沢CLUB251。ライブハウス。知らないバンドを、知らないまま見に行った。受付で目当てのバンドを聞かれ、戸惑ってしまう。やや間を置いて、「NONMALT」と答えた。事前にSNSを通じて名前を覚えていた。きっかけをつくってくれたのがNONMALTだった。 出演バンドは5組。遅れて入場したので、Hard To Forgetというバンドは見逃す。それでもドリンク込の2,600円が格安と思えるほど、いいライブだった。なんというか、クオリティ過剰。事前にほとんど知らなかったせいか……。ネタバレなしでいきなりライブへ行く経験はおもしろい。虚を突かれる。八方から。 ハシビロコウズ。 青い照明が似合う。 久々のライブだったようで「感極まっちゃいますね」とお話されていた。コロナ以後。逆に、わたしは鈍感になり始めていた。感覚が矯め直される。依然として先は見えない。各地のライブハウスも、営業を再開してまだ日が浅い。閉店した場所も身近にある。切実さを、じかに知ることができた。これは、ライブに行ってよかったことのひとつ。 なんだか優等生的なコメントだ。「依然として先は見えない」の紋切り型っぷり……。ワイドショーのよう。世間がしゃべる、通りのよいフレーズ。だから書くと気持ちがいい。しかしワイドショーは「営業自粛」を喧伝しても、「営業再開」はあまり報じない。通りのよいフレーズとともに、通りよく営業再開をつたえておきたい。先の見通しは悪くとも、足元に鮮やかなライトがともっていた。ライブハウス、やってます。 SoberBrown。 「音楽は人をこうする」と思った。 たのしかった。アホみたいな感想だけど。演奏に加え、動きの気勢に感応する。身体がつたわる。とくに鍵盤の神谷茶子さん。独特な、顔を小刻みに傾げながら宙を見つめる感じ。そんでたまに微笑む感じ。合間を縫ってガッツポーズする感じ。頭の振りでメガネが飛びやしないか心配になる感じ。それらすべての原因が鍵盤上の両手に端を発している感じ。「音楽は人をこうする」と思った。

日記740

「普通」ってことばにはそう、感情がこもるんです。「普通においしい」とか「普通にすごい」とか、こんな言い回しは、「普通」が感情の導体であることを明かしているように思えます。「普通」の共有が弱体化した社会では、感情の伝達がうまくいかなくなっちゃうのかもしれません。感情の絶縁体はじゃあ、数値化・均質化でしょうか。 ひとつ前のコメント欄から。自分で書いたもの。「普通」ということばには、感情をつなぐ導体のような側面があるのではないかしら、と。忘れないうちにすこし、こね回しておきたく思った。もちろん辞書的な定義とはちがう側面の話。生活の流れとともにある、ことばの表情を読みたい。 RAU DEFのリリックをもういちど引こう。 「FREEZE!!! feat.Sugbabe」より。 もしも君が孤独だとしても 俺も同じ気分なら普通でしょ 前の記事ではこれを「信条」と読んだ。しかしそれだけではない。ここでの「普通」は孤独と孤独の架線でもある。まさに感情の接続として「普通」が置かれている好例。わたしだけかもしらんが、「ぼくの顔をお食べよ」的なバイブスも感じる。なんとなくヒロイック。 それぞれに個別の「普通」を探り、シェアをする。かんたんではないけれど、自分が人と話をするときは、それが基本的な態度としてある。あるかな? あるといい。以前、こんなツイートがバズっていたのを思い出す。 違法薬物の使用歴を聞くときは、薬物がいかにも「当然で」「普通で」「聞いても驚かない」という雰囲気で尋ねる。 「東京に何年か住んでたら、麻薬の誘いも多いでしょ?」 軽く、あっさり聞くと、 「そうですね、結構あります」 「覚せい剤? マリファナ?」 態度を変えずに聴き続ける。 — 🍀いちは🍀 (@BookloverMD) August 28, 2018 「普通」を配すことで話がしやすくなる。導体を通じてよどみなく気持ちが流れる。この例は極端だけれど、極端であるがゆえにわかりやすい。日常の会話でも同じだと思う。つまり、生活のシェアだ。その人の「いつも」に何気なくお邪魔する。普通の気分を普通につなぐ。時間をかけて。理想は継ぎ目がわからないほど、そっと。 会話における「気分」の重要性は前々から感じている。人の声を聞くことはその人の気分へアク

日記739

定期的にYouTubeさんからおすすめされるため、定期的にされるがまま聴いている『普通の恋』。「普通」は宗教性を帯びた概念だと聴くたび思う。救いとしてある「普通」。みなが信じるともなく信じている。実体はない。でもどこか、そこらに転がっている。らしい。確かなところはわからない。 だけど、確信をもって詰め寄る人もいる。感情の高まりとともに飛び出す「普通こうでしょ?」という発言はすなわち、その人の信仰告白なのだと思う。すくなくともわたしはそう解する。いまはたぶん、そんな「普通」への信がおびやかされがちな時代。「普通の恋」ですら。苛立っている人が多いように感じるのは、そのせいかもしれない。 「もしも君が孤独だとしても/俺も同じ気分なら普通でしょ」とラッパーのRAU DEFは歌う。ここでは互いの孤独に信をおく「普通」のあり方が垣間見える。RAU DEFの基準点。どこに「普通」を見るかはそれぞれちがう。へんな話。「普通」なのにね。信条の差だと解釈すれば、理解しやすい。 これも「普通」をめぐる歌だと思う。「欲しいものは/おだやかな暮らし」。「普通」に関する歌は数多い。普通ソングのプレイリスト、どっかで誰かがつくっていそう。意外と盲点なのかな、どうだろう。 幼い頃から漠然と「普通」に焦がれる気分がある。正視に耐える、確かな「普通」が欲しい。時代的な気分だろうか。個人的な気分だろうか。両方、不可分な感受性か。 宗教的なおもむきを「普通」の内に見てしまうのも、それを外側から眺めがちであるせいだ。どこにいても異人のような心地でいる。半分くらい。ことばに意味がこもらない感覚というか。異物感。根なし草。ヒップホップが好きなのは、異人性の所産だから。BUDDHA BRANDの『人間発電所』がわかりやすい。のっけから「緑の五本指」だもの。普通がなんだか気づけよ人間。だもの。 自分が特別だと言いたいのではない。異人性のごときものは、誰の内側にもひそんでいる。人間だもの。なにもかも「普通」の人はいない。誰にでもある。言い換えれば個別性だ。そんな、ありきたりなあたりまえのお話をしている。普通の話。つまり、自分が信ずるところの話を書いている。スパッと言い切れやしないけれど。いつだって、そのつもり。 この線で言えば『普通の恋』の歌詞は、菊地