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10月, 2018の投稿を表示しています

日記634

空前の横にずらすブームです。写真を横に寸断したくて仕方がないお年頃にさしかかってきました。だいたい30歳の前後でみなさん経験すると思います。「あ~むしょうに写真ずらしてぇ~」となるの。生理現象です。 むかしのアラサーは現像した写真を手作業でずらしていましたが、デジタル化で便利な時代となりました。写真機が登場する以前の時代には手立てがなくて、悶々とするしかありませんでした。現代はあらゆる欲望をうまく飼いならせる時代です。逆にうまいこと飼いならされているようなところもあるのでしょう。 最新の生理学分野の研究によると、アラサーで独身の御仁はこの現象に見舞われやすいそうです。友人や知人の結婚ラッシュに滅多打ちされると、じぶんだけ視界が横にずれてゆきますから。じつはずらしているのではなく、ほんとうに世界がこう見えているのです。 わたしは友人が結婚したら、すなおに祝福します。祝福できるタイプの人類です。都会にいれば、べつに結婚しなくともなんとなく暮らせてしまういまどきですから、それはそれで立派な決断として賛美したい。ヨッ!男前!みたいなノリで。東京にいると、たったひとりで、誰とつながらなくともさほど不自由せずいられます。 個人的には契約にこだわりはありません。小賢しく多様な選択肢を勘案したい。使えれば便利かなーくらい。肝心なことはひとつです。シンプルに「いっしょにいられればいい」と、それだけではないか。ほかになにがいるんだか。「いっしょ」も社会的なイデオロギーに過ぎないわけだが、そういう現代ならすなおに従う。ふりでもよき信仰者となれば生きやすい。そのために紙切れの契約が必要ならする。カネが必要なら稼ぐ。20代のまだ生きた経験が浅いうちはわからない部分も多々ありますが、わたしの求めるものは最小限かつ最重要なものだけです。太い幹さえ折れなければ。 最小限といえば、『白崎裕子の必要最小限レシピ――料理は身軽に』(KADOKAWA)という本を買ってみました。基本的に和食のレシピです。応用の効く小技がけっこう載っています。レシピではなくて、汎用性の高い小技を知りたい。塩の使い方とか、火の入れ方とか。なんにでも使えそうな調味料のレシピがいくつか載っているところもいい。そうだ、調味料のレシピ集がひとつあったらいいかな。いま検索したら『素材よろこぶ 調味料の便利帳』(

日記633

本作には、戦前の渡辺一夫訳、戦後の齋藤磯雄訳と歴史的名訳が二種存在するものの、共にその敷居は高い。そこで新訳は、たとえばエウォルドがアリシアの肉体と精神のアンバランスを嘆く箇所は、「私の悟性を瞠若たらしめ、不安ならしめたものは、(中略)無脈絡」(渡辺訳)、「私の悟性を狼狽せしめ不安に陥れたものは、(中略)異質無縁」(齋藤訳)に対して、「ぼくは(中略)ミス・アリシアの<肉体>と<魂>はバランスがとれていないのではないかと怪しみ、また心配しました。でも、そうではありませんでした。(中略)バランスなど最初から存在しなかったのです」とした。難解な原文を咀嚼し、くだいて訳してある。解説(海老根龍介)も親しみがもてる。 ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』(光文社古典新訳文庫)、仏文学者の宮下志朗さんによる書評@YOMIURI ONLINE とても読みやすそうな新訳。この引用だけでも、親しみは抜群です。きっと読者の負荷は少ないでしょう。するするいけそう。手に取りやすくていいと思います。なんだろ、でもエロさが抜けてしまったような。秘教的な雰囲気みたいなものが……。 「好みの問題」以上のものはありませんが、「たらしめ」とか「ならしめ」とか言われると興奮するの。声に出して読みたい。「瞠若たらしめ!不安ならしめたものは!無脈絡!」。フゥー!すごいテンションあがるー。対して新訳は、よくわかる。意味はとりやすいけれど、テンションがあがるかというと、たらしめてならしめられたほうが個人的にはブチ上がります。かっこいい。「狼狽せしめ!不安に陥れたものは!異質無縁!」でもいい。けど渡辺一夫訳のほうがリズムは好きです。 『未来のイヴ』はどの訳も読んだことがないのでなんとも言えませんがリラダンという作家のイメージはちょっと耽美な感じ。美に耽ることは容易ではなく、しかもけっして褒められたものではない。だから「なにかいけないものを読んでいる」という、少しの背徳感がほしい気もします。不健康な難渋さがいい。ハッタリというか、ケレン味もほしい。 純粋に好みの問題です。 ほかで言うと、たとえばハーマン・メルヴィル『白鯨』。 物語の冒頭。 Call me Ishmael. 何冊も訳書はありますが、「私の名はイシュメイルとしておこう。」(阿部知二訳)よりもだんぜん「ま

日記632

いちおう写真です。かろうじてヒトっぽく写っているやつはわたしです。六本木の国立新美術館です。もはやどこでもいいくらいの加工っぷりですが、まぎれもない瞬間。あの日あの時あの場所の写真です。第三者にはわからなくとも。わかるようにする必要もないのではないか。記憶を残すには、トリガーとなる痕跡がわずかでもあれば十分。マドレーヌと紅茶だけでも。 安田純平さんが解放されてほっとしました。テレビ報道の少なさが逆にあたまの片隅でもやもやするニュースだった。神戸のハーバーランドでこの人質事件の話をしながらわたしが頓珍漢な受け応えをしたせいで、極私的には頓珍漢な思い出とともに想起されるニュースなのだけれど、とりあえずはよかったです。 にわかにまた「自己責任」ということばが浮上しています。ぼーっと眺めているうちに浮かんだ雑感を書こうと思う。人質となっているあいだの安田さんの恐怖心は計り知れません。その恐怖とは、おそらくじぶんが他者の思うがままにあつかわれてしまうところからくるのでしょう。他者にかぎらず、広くじぶんではない“何か”に、じぶんの存在が100%左右される状態。自由にされる状態。それが極限状態の恐怖だと思う。 人質となった時点で安田さんの「責任」はすべて剥奪されたのです。生殺与奪の全権が他者にある。みずからの責任のいっさいが奪われてしまう。そんな恐怖はなかなかありません。そもそも「責任」は一定の社会秩序を維持するためにあるフィクショナルな概念で、局所的な地域の意識のうえにしかなかった。べつの秩序の中に生きる人間からすれば日本村の「責任」はしらない。まったく別個の責任がある。 個人的に思うのは、「責任」が繰り返しのきかない思想だということ。フィクショナルな概念と言っても、確かにそれは頑としてある。「責任」を請け負うことは承認や安心にもつながる。引き返せない未来を生きる保証となる。やってくるまいにちが二度と繰り返さないように。使い果たすための、蕩尽というか、生きる時間や可能性の有限性からきている思想かと思う(直観です)。仮にそうだとすれば責任を奪われる恐怖とは、予測不能な無限の闇の中へ放擲される恐怖にちがいない。 どうなるかわからない無限の暗闇。でも、程度の差はあれど“わからない要素”はいかなる場合にも存在します。見えない部分。見通しのきく責任だけで世の中が

日記631

東京大学出版会のPR誌『UP』を図書館で読む。2018年6月の548号。社会学者の佐藤俊樹さんが大河ドラマ『おんな城主 直虎』の森下佳子さんによる脚本を評した記事に、こんな一文があった。 『UP』だから、「朝ドラ」も解説したほうがいいかもしれない。 佐藤さんの『UP』読者層イメージはそういう感じなのか。テレビはあまりチェックしないような人々。世間的な話題にはさほど興味がないような。「朝ドラ」がわからないなんて大袈裟に見積もり過ぎな気もしつつ。そうなのかー。 と思いきや、翌7月の549号では言語学者の川添愛さんが読者層など関係ないとばかりにかっ飛ばしておられた。連載「言語学バーリ・トゥード」の2回目。 タイトルは『AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』。題からダチョウ倶楽部のネタを援用してくる戦闘モードである。掲載媒体が『UP』だからといって遠慮しない姿勢、さすがバーリ・トゥードの名を冠すだけある。須藤靖さんの連載もわりと自由だったけれど、もっと自由な、それも獰猛なバーリ・トゥーダーがあらわれてしまったようだ。そもそも連載の第1回目からラッシャー木村の「こんばんは事件」についてだった。7月もまた期待に違わずぶっかましてくれる。 私はこのところ「来年正月の芸能人格付け番組にまたYOSHIKIが出て、控え室待機中に私の本を読んでくれますように」と願をかけている。あの「YOSHIKIが番組中に食べまくったおかげでバカ売れしたお菓子」の二匹目のドジョウを狙っているのだ(以下略) などといきなり言われたところでわたしでもなんのことやらわからぬ。ダウンタウンの浜ちゃんが司会をつとめる格付け番組は何度か見たことがあるけれど、YOSHIKIの話はまったく知らなかった。猛省しなければならない。さすが東京大学出版会のPR誌『UP』だ。多様な情報を知悉していなければ読み解けない。 本日ご紹介するのは、2017年12月に出版した『自動人形の城』という本である。この本は、今流行りの人工知能とか、言葉とか、まあ、そういうものについて扱っている。……この時点でもう書くのが辛くなってきた。もう少し踏ん張って紹介すると、この本のテーマは「意図」である。こう書いた瞬間に私の脳内のいかりや長介が「今日のテーマは、イト!」と言い、スクールメイツに囲まれたド

日記630

平日18時台にやっているNHKの首都圏ネットワークで、ヤギに除草をしてもらう映像が流れていました。草を食べるヤギの横で、こどもたちがはしゃぎまわって。ひとりのお子さんがマイクを向けられ「ヤギ、かわいい」とお話をする。 画面はスタジオに戻り、田所拓也アナウンサーがひとこと加える段へ。いわく「ヤギもかわいいけど、こどもたちにもかわいいと伝えたいですね」。うん、そうそう。そうなんです。じゃあ、わたしは「こどもたちにもかわいいと伝えたい、そんな田所もかわいいゾ」と、この場をお借りしてお伝えしたいと思います。きみにとどけ。結局、かわいいのは田所なんです。ヤギよりもこどもよりも。田所。ずるいなー。拓也はぜんぶもってくんだもんなー。いっつもそうじゃんもー。 いや、まだもってかれない望みはありそうです。「こどもたちにもかわいいと伝えたいという田所アナにもかわいいと伝えたい、そんなユーもかわいいよ」と、ユー呼ばわりでほめてくれる人物がこの世のどこかにいるはず。するとこんどはお返しに「こどもたちにもかわいいと伝えたいという田所アナにもかわいいと伝えたいわたしにもかわいいと言ってくれるそこのあなたもまたかわいい!」と伝えます。 さらにそのやりとりを見た第三者がまたまた全員に「かわいい」をかぶせて……と、このように次々と「かわいい」が増殖し、かわいい無限連鎖講ができあがります。世界中の人々に「かわいい」という形容があてはめられ、「かわいい」が無限に膨張してゆく。熱気を帯びてふくれあがった「かわいい」たちは、やがて太陽をのみこみあたらしい光を生成しだす。地球に届いたその光は醜い人間たちの世界を焼き払い、かわいく殲滅させる。そして、現生人類はひとり残らずかわいいやつらに生まれ変わるのです。かわいい人類史の幕開けぜよ。どんなだ。 それもこれも、元はと言えば田所のせいです。もってかれないと思いきや、ほんとうにぜんぶもってくんだもんなー。でも醜い現在の人類が殲滅されてハッピーエンドだよ。ありがとう、拓也。 * 写真、捨てられた赤旗広告の高畑勲と加藤剛はおふたりともことしお亡くなりに。並んでいるのはたまたまでしょうか。加藤剛の左はおそらく瀬戸内寂聴です。念のためいま検索したら彼女はご健在。大正11年生。関係ないけど「大正九年」という名前のミュージシャンがいて、たまにわけ

日記629

人間のいない風景が好きです。誰かが去ったあとに残る痕跡。自分自身が透明でありたいような願望もあります。しかし、生きている人間にまみれなければ、じぶんもまた“生きている人間”にはなりえません。生きている人間は透明ではなかった。過去に生きていた人間は透明です。このサッカーボールの持ち主みたいに。数時間前はここで活動していた。いまはべつの場所にいる。 くらげのように漂泊していたかった。「くらげだってラクじゃねえんだ」と怒られるかもしれない。くらげも完全に透明なわけではない。くらげに生まれついたところでなおわたしは「もっと透明がいい」などと思うともなく感じながら漂っていたことだろう。ないものねだり。いやちがう。あるものなくし。いずれなくなるよ。みんな、なくなるんだ。 あるいは色にまみれた結果として透明になれるのか。どうでもいいか。始まりはまず、いまある中身をあけわたすことだと思います。あるものはあると、認めること。無血開城。なんでも好きに色付けをしてほしい。その結果、どぎつい色がつこうとも。 いずれにしろ、あらゆることを回避して回避して閉じこもった無色のままで生きようなんて虫のいいことはできっこないのです。のらり、くらり。逃げ切ればたいしたものですが、それにも度胸がいるなあ。 * 安易に納得しないこと。考えつづける姿勢をきょうのTVタックルを見て思いました。えんえんと考えているひとの仕草は、ささいなところにあらわれるものです。ほんの数秒、たったのひとことで頭ひとつ抜ける。 痴漢冤罪の話題になり、フリーアナウンサーの安東弘樹さんが「まちがわれないよう電車内では両手をあげた上で、軽く筋トレをする」と冗談まじりにお話されていて「そっかー、アンディは筋トレ好きだもんね」なんて思いながらぼーっと眺めていたんです。大袈裟な対策かもしれませんが「両手をあげていれば痴漢にまちがわれることはないよね」とすぐに納得してしまいます。 しかしただひとり、ビートたけしはちがいました。 すかさずこう切り返したのです。 でも下半身すっぽんぽんだったらだめだね 確かに。 きっとスタジオの面々は誰もが安東さんの対策にうなづいていたことでしょう。100%納得はせずとも、半笑いでも反論しようなんて人間はいなかったはず。ビートたけしを除いては。そう、ひとり

日記628

生きていると、なにごとかが起きます。こんな寝言をほざいていると、あたりまえだ!と怒られそう。わたしの人生、なーんも起こらなくてよかったーと笑いながらすやすや死にたいんです。でもそんなわけにはいかず。死ぬときの擬音は「すやぁ」がいい。欲を言えば擬音でなくじっさい鳴ってほしい。あいつ死ぬとき「すやぁ」って音がしたね、と葬式で話題になってほしい。 お尻に火がつくと「死」のことを考えます。死を思うとお金が貯まるそうです。メンタリストのDaiGoさんがそんなタイトルでYoutube動画をアップしていました。DaiGoさんは科学的なエビデンスを信仰しているそうですから、きっと有意なデータがあるのでしょう。詳しい内容は知りません。お金持ちになれそうな予感だけを都合よくいただいておきます。やったね。 ネガティブなのかポジティブなのかわからない。できうるかぎり中庸でありたく思う。中庸は、ぶれないことではありません。どっちつかずの優柔不断ではなく、目指すべくは両極の調和です。どちらも考える。両方の極にすばやくぶれる!反復横跳びのように。ネガティブきたら次はポジティブ!ポジティブきたらネガティブ!とどまらないその往還の残像によって中庸という調和を描き出すのです。両極あって初めて均整がとれる。「真ん中」は穏当なようですが、じつは攻めないと成り立ちません。いそがしいのです。情緒不安定なわけではありません。    * ひとつ前の日記627を読み返して「~タイプの人類」はいいフレーズだなーと思いました。わたしはことあるごとに死を思うタイプの人類です。メメント・モる。そういう分類だと認識すれば、ふしぎに抵抗感なく受け容れられる。気がします。 たとえば、いい年こいたおっさんが公共の場でうんこを漏らしてしまったとしましょう。通常は落ち込みそうなものですが、ひと呼吸いれて思い直すのです。「そうだ、おれはうんこを漏らすタイプの人類なんだ」。そういう型の人類であればもう、あきらめがつきます。血液型とおなじです。哺乳綱霊長目ヒト科ヒト亜族うんこ漏らす型の人類なのです。その生物分類の人類なのだから仕方がありません。血統書付きだから。根本的に生物学的なレベルで漏らすタイプだから。抵抗しても責めても無駄です。おれは漏らす星の下に生まれついたのだと、じぶんを受け容れて、覚悟を決めるんで

日記627

たまーに書いていますが、通話アプリでしらんひとと話します。ランダムで繋がる。魔が差すとき。いいことばです、魔が差す。カーテンの隙間から魔の光がそっと差し込むとき。部屋中が魔の粒子で満たされるとき。魔粒子。「魔」とはなんでしょう。アンゴルモアの大王が降りてくるような。不意にあやつられるような。わざとまちがい電話をかけたいような。いたずらで、はた迷惑な感覚。 しらんひとは、まっさらなわたしの印象を述べてくれるのでありがたいです。知り合いには言われっこない声の情報をさらっとゲットできる。新鮮。ある程度、付き合いがあって文脈が立ち上がって「こういうやつだ」と初手から決めてかかられるともう、そうなってしまうから。そうでないじぶん発見プロジェクトです。 テレビにうつる知らない人間の印象をお茶の間であーだこーだ言う、そんな無責任な茶の間の声をじかに聞ける感じだと思っています。関係ないひとだから。とても客観的。わたしも相手の印象を感じたとおりに述べる。なんてことない話も貴重に思う。実生活上では、なかなか交わらない人々。といっても「ワシ、どんな印象ですか?」なんておまぬけな質問はしない。適当に話していればしぜんと出てくる。 じぶんの声がどう響くかについてじぶんひとりで知ることは不可能にちかい。もっと言えば、身体動作全般がそうだろう。通話だと見た目の印象を削いだ声のみのフィードバックが手軽にたくさん得られる。受け取った印象に見合うスタイルの試行錯誤ができる。ランダムな会話の形式にも慣れる。人見知りも改善されたと思う。 なんかしらんけど複数のひとから「あまい声」と言われる(男女の別なく)。たぶん耳に味蕾がついているタイプの人類でしょう。いつも蜜壺を持ち歩いていることがバレているのだろうか。辛党のひとには嫌われるので控えたい。あるいはハバネロとかジョロキアとかを蜜に漬けておく。わたしは耳で味を感じないタイプの人類なので、よくわかりません。音しか感知できない。とりあえず甘味を中和するためカラムーチョふりかけを常食にします。 発言内容についても学ぶことはあります。ふつうに話しているつもりなのに「ポエムみたいな哲学みたいなことばっか言う」と指摘されて笑っちゃう。あーおもしろい。まじかよ。そんな印象か。「余裕を感じる」みたいなこともよく言われる。あくまで見かけの印象として

日記626

気温が徐々に下がってきました。夏に撮った写真。たぶんさいごに見た夏らしい雲です。どんなにたいせつでも、退屈でも、過ぎるものは過ぎる。こんなあたりまえの事実に、つまづきっぱなしだと思う。たのしい時間の中にいても「これも終わる」という感覚が身体に染みついて抜けない。油断すると哀しそうにしている。やがてその哀しみもたのしみのことも忘れてけろっとする。なにも起こりはしなかったかのように。 出口を用意する。気持ちをつたえるときも、あそびにさそうときも、なにかを依頼したり主張したり、ささやかでも他者と自己を衝突させるときには相手の自由を尊びたい。選択肢は無数にある。わたしはこうです。あなたはわたしではないね。おなじなわけがないんだ。あっちが出口です。やさしいのではない。何事もなかったかのように静かに出ていってほしいのかもしれないと、たまに思う。受け入れてもらえればうれしい。うれしいことにはちがいない。でもそれだけではない。 「たのしい」だけ、「うれしい」だけ、なんてありえない。いかにポジティブでもその裏側にべつの感情が伏流している。どちらが良くて、どちらがほんとうで、みたいな考えは不毛です。どちらもほんとうで、片方は言わない。矛盾する。感情はきっと論理ではあらわせない不協和をふくむけれど、論理的でないと伝達手段として混乱する。最低限の交通整理はしておく。ことばは本物とおなじ偽物。なるべくひとつの価値観で縛り上げて手渡すことはしない。どう解釈してもいい。自由です。 私を読んで。 新しい視点で、今までになかった解釈で。 誰も気がつかなかった隠喩を見つけて。 行間を読んで。読み込んで。 文脈を変えれば同じ言葉も違う意味になる。 解釈して、読みとって。 そして教えて、あなたの読みを。 その読みが説得力を持つならば、私はそのような物語でありましょう。 そうです、あなたの存在で私を説得して。 二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社)より。誤読への反論も不毛ではないかと思う。ときおりこれを思い出します。そんなに自己の主張や一貫性がだいじだろうか。主張をないがしろにされたくない人情はわかる。でもわたしの優先順位はそれより、他者の存在であり物語です。ことばの裏で黙した存在が生きている時間のこと。善も悪もどんな矛盾もかんちがいも誤りも飲みこんで育った長くて大

日記625

先日、服とかばんを売ったら9千円もらえました。高く売れたのは父親のかばん。福岡の定食屋で盗まれて川っぺりに捨てられていた革のかばんも売れた。次の使用者がいるとすれば、こんな来歴は知らずに使用するのだろう。それ、むかし川の土手に捨てられたやつです。やさしいひとが警察に届けてくれたやつ。ごめんね。でもきれいに拭いたから。盗まれても戻ってくるやつだから。保証する。気軽に盗難されてくれ。 かばんの過去なんて知らなくていいことです。あたりまえだけれど古着を買っても、その来歴についてはなにも知らない。知らないから買える。じぶんが誕生するまでの来歴だってまるで知らない。知らないから平気で人間みたいなツラができる。そもそもの先祖はもっとニョロニョロしていたと思う。※イメージです。 古着の過去を知ったらたぶん、「他人のもの」という感覚が強まる。身につけるものだからなおさら。他者が混入すると自己の所有感覚が薄まる。もの以外もそう。過去に目を向けることは、なべて自己の執心を手放すことにもつながる。所有欲や支配欲や独占欲が強い人間は過去を尊重しない。平気で公文書や議事録を書き換えちゃう権力者のことだ。キリッ。ヨッ、いきなり社会派! うん。わたしはなるべく自由がいい。たとえば恋人が過去の恋愛について話してくれても傾聴している。たとえば友人に前科があっても、10犯までならオーケー。11犯からは手に負えない。誰にでもわたしと出会う前の過去がある。わたしが生まれる以前の過去も膨大にある。途中で生まれて、途中で出会う。途中で消える。 ここまでに至る久遠の時間を思うと、自己の身体でさえ「じぶんのもの」なんて胸を張って言えるような世界ではないとわかる。誰のものでもなく生きる。この場所は、少なくともわたしではないものが勝手におっぱじめた。寄る辺ない空間。なのに、わたしからしか見えない。奇妙な世界。 片付けの話がしたかったのに。こうなったらもう片付けで人生をときめかせたいと思っています。数年前に流行った片付け本によると、ものを捨てる判断は「ときめくか否か」で決めればよいそうです。ときめくものばかりに囲まれて生活できれば気分がよくなります。でもこの基準だと、じぶんごと消えてしまいそうな気もする。わたしはわたしに、ときめくか否か。服を整理したので、こんどは書物。片付けには、やりや

日記624 ちょっとなに言ってるかわかんない

疑えないのに、信じてもいない。そんな物語を生きている気がします。もう疑えない。でも信じない。ほんとうに疑えないのか。まだ信じていない。終わらせない。しつこく疑うから。疑える感覚だけを信じている。もはや疑う余地はないのに。前に進ませない。この往生際の悪さ。成仏できない地縛霊の考え方。 終わったものは終わったし、死んだものは死んだ。え、うっそ。まじで?樹木希林さん死んだの?そう言い切るにはまだ早いんじゃない?んな残酷なこと言いなさんなって。いまに死者たちはひとり残らずよみがえる。そして、すでに過ぎたおなじきょうをやり直すんだ。と言って笑いつづける。そんなわけないのに。どっちも残酷か。 「信じること」と「疑えないこと」。真に迫っているのは、どちらだろう。どっちでもないか。信じていることがすべてなのかもしれない。でも「疑えない」のほうがわたしにとっては現実感がある。「信じる」要素はあんまり意識できない。それと知らずに信じている。「信じよう」なんておこがましいとも思う。この日記の過去記事を探ればどこかしらにおこがましいことが書いてあると思うけれど。ひとつ告白すると、明日あたりアンゴルモアの大王があそびにくるんじゃないかと信じている。スキップしながらピクニック気分で地球を滅ぼしにくる。うそ。 こいつは疑えないな、こりゃあかんわ、もう無理、ごめんなさい。と観念して初めて、動かしようのない現実があると直視する。現実感との接触。この現実は、あきらめに由来する。疑えないとなると、それがそれであるほかなくなる。わたしはわたし。ほんとうに? L字になって寝ているひとがふたり。 ひとりは膝枕。スマホをいじる女性の膝。 いいカップル。 じぶんにとって「信頼する」ということばは、ナルシスティックだなーと思う。じっさいに口にしてみるとわかる。きれいなものをつくろう、見ようとしている。予断がある。なにより大袈裟。それでもいいが、単に「任すよ」と伝えるほうが軽くて自由度が高いかもしれない。一任した結果、汚くてもいい。情が薄らいで、個人的な好みにも合う。乾いたものが好きで。ジャッキーカルパスとか。 * さいきん北海道に住んでいる方と話をしました。9月6日の地震で数日間にわたり停電していたとき、冷蔵庫のものが腐るからと近所のひとたちを集めてみんなでバーベキュ

日記623

カレーとかシチューとかスープとか、流し込める食事が好物です。食べる労力が低減できます。アレンジもできるし、多様な食材を投入できる。ひと皿で野菜も肉もばっちり。もう飲み物ですべての栄養をカバーできればそれに越したことはない。グビッ、プハー。ごっそさん。噛まずに数秒。片付けもコップひとつ。やわなアゴになりそうだけども。そこは得意の歯ぎしりでカバー。自然に食いしばって生きている。あとはガムを噛んでいればよい。ちゃんとした食事はあくまで他人とするコミュニケーションのためのもので、ひとりだったら流し込んで終了です。一瞬である。 こうした考えは無味乾燥でパッサパサなのかもしれません。文化的ではない。べつに対人関係に支障をきたすほどこだわってはいません。シチュエーションによって変更できる。柔軟性、だいじです。やわっこくいきゃあしょう。ひとりで生きているわけではない。実家ぐらし。 ひとり暮らしをしていたときは食事に費やす時間もお金も最小限でした。つまるところ家では寝る。あるいは読書とか、なんら生活の足しにならない歴史の勉強とか。勉強は逃避のためにするものです。あ、納豆を練りながら部屋をぐるぐる練り歩くという謎の儀式には時間を割いていました。 部屋は殺風景で、シンプル過ぎて廃人めいていたと思う。極端にモノが少なく、ペットボトルの残骸がいくつも転がっているだけの気狂いめいた部屋。いまの部屋は適度にものが散らかっている。てきとうさを身に着けたらしい。ようやく健康で文化的な最低限度の生活が身についたか。 「余計なものは視野にいれたくない」とぜんぶ切断してブラインドをかけていた。少なくとも家の中では。ひとりだとその極端な空間構成が可能になる。純粋にひとりになるための籠城をつくりあげていたのだと思う。深海に沈むような感覚が理想だった。目障りな光や耳に障る人間の声が、届かない場所まで沈んでゆける。 しかし家族とはいえじぶんではない他人と同居となると、そうもいかない。初めは耐え難かった。見たくもないテレビの音がひっきりなしにする。したくもない会話につきあう。事前に確保しようと思っていた時間が奪われてゆく。それこそ気が狂いそうだった。家に帰っても他人がいる。ひとりになれない。うんざりだ。 そうやってのたうち回っているうちに、ひん曲がった鋭利な角がゴリゴリ研磨されていった

日記622

10月8日(月) 「リズムに乗る」って強制性をともなう。鳴る音に全身を合わせること。だから回数をこなす筋トレと相性がよいのだと思う。ダンスも筋トレもいっしょくたにしてしまう。じぶんはリズムの強制力によってトレーニングの数がこなせる。踊るように。 あるいは、歩き疲れたときにも音をつかまえて乗りにいく。リズムのキープをなによりも優先して歩くと、どこまでも行ける(気がする)。乗り物とおなじです。動力源のひとつ。リズムという拘束衣を身にまとうようなイメージ。音に意識をゆずりわたす。 音楽でも雑踏でも話す声でも、流れる音はすべて意識の集合体ではないでしょうか。あらゆる音は、意識のざわめきとして“聞こえる”のでは。ここで言う“聞こえる”は、“わかる”に近い。なにか音がする。と、わかる。 リズムをとる。 それは、のっぺりと漂う意識を音の構造に移し替えること。 べつの容れ物に叩きつけること。刻み込むこと。 そんなことはさておき、10月なのにまだ真夏の格好をしている。1日1日の気温差が激しい。1日の中でも差がある。季節の変わり目らしい変わり目か。ことしはインフルエンザの予防接種をしようと思います。きょうはくもりでした。

日記621

10月5日(金) くもり。のち、すこし雨。 音のアーキテクチャ展。 21_21 DESIGN SIGHTへ行きました。 会期は10月14日(日)まで。 会場に入ると、Corneliusの小山田圭吾が作曲した「AUDIO ARCHITECTURE」がずっとループしています。そこで展開される9つの映像。おなじ音から立ち上がるイメージは一様ではない。的なやつ。「聴く」は耳だけのものではありませんで。 同居している祖母はよく「耳が遠い」ことを「音は聞こえるけど、なんだか意味がわからない」と訴える。話し声でも、音楽でも。「聞こえないの」とかんたんに結論づけないところに切実さを感じる。処し方を求めるように、なるべく正確に訴える。祖母はどの発言にも一拍おいて考えた形跡がある。 音は聞こえる。でもわからない。音を脳内で情報として再構築することに時間がかかっているのだと予想している。耳から入力された音がすぐに像を結ばない。目は加齢により水晶体が固くなって焦点の合う範囲が狭まる。同様に、聴覚が像を結ぶ範囲もしだいに狭まってくるのではないか。速度の範囲やタイミングの範囲。構造としての音の束を即座につかみ出せない。「耳が遠い」は耳だけの問題ではない。 祖母にいきなり声だけでなにかを伝えると、大声であってもかなりの確率で聞き返される。しかし、いったん呼び止めてから速度を意識して口の動きや表情や身振り手振りも踏まえ話をすると、あきらかに有意な確率で理解してくれる。事前に伝えるあいだの空間をつくること。視覚や意識付けもふくむ総合的な認識として「聞こえ」が成り立っていることがわかる。 音のアーキテクチャ展では、おなじ音にちがう映像が掛け合わされる。視覚によって音の印象も変化するようで、その感覚はおもしろい。おなじ映像にちがう音を流してゆく逆のことをやってもよさそう。いや「BGMで映像の印象が変わる」なんて、ありきたりの常識かな。 あとからinstagramで音のアーキテクチャ展の写真を検索してみると、スクリーンの目前まで自由に動いてもよさげでした。でもこの日は、みなさん手前の端っこでお行儀よく座っておりました。並んで体操座り、かわいい。暗黙の境界線が張られていた。こういう人々の習性はおもしろい。遠慮がちな横並

日記620

話したい、と思うときは書けなくなる。出ていきそうなものを深呼吸で押し留める。ことばをしずませる。しばらく息を止めるような感覚で緘黙。話す相手がいれば、ひとことふたことでレスポンスが返ってくる。吐き出したものがすぐに空気へ拡散して流れる。うすく浸透してゆく。 ここでは、なにをいくら書けどもレスなんか期待しない。そういう態度でしか始められないものがわたしにとっての「書き込み」だった。ここではなくとも。あ、twitterはすこし期待してしまう。でも来やしない。だれも来やしない。と言い聞かせる。 文章作法としては「読者を想定して書け」とよく言われる。でもサバンナで屍肉を漁って育ったせいか、人間のことはわからない。それと、そう、いちばんは縛られたくないだけだった。なにを書いてもいい。と言い聞かせる。 「話したい」はきっと「縛られたい」なのかも、なんていま思った。不安なとき。じっくりと腰を据えられずに心身がふらふらしてしまうとき。誰かと話したい。ずっしりと安定した錘がほしい。安直に出てゆくことばを塞ぐ、重たい問いを見つけたい。補助線を引いてほしい。 それは、個人ではいられないということでもある。 ネットがどんどんコミュニカティブな空間になってゆくにつれ、葛藤が生まれるようになったと思う。はじめは個人の集合としての空間なのだと、わたしは認識していた。個人と個人の判断で成り立つ。「なにを書いてもいい」。それを決めるのは個人だ。「良い」も「悪い」も、てめえで育んだ倫理にしたがえば事足りる。 十数年前は、それで秩序が保たれていたように思う。「個の発信」が主で、「つながり」が主ではなかった。「みんな」を斟酌しない理想のところ。「みんな」のために、お仕着せのルールを声高に叫ぶのって野暮だった。 法律も政治もいらない世界が絵に描いた餅の理想だと思う。絵に描いたやばいほどの餅だ。そんなやばい餅は手が震えて描けない。筆を握ることさえままならない。人間が多くなれば、なんらかの調停は必要になる。「兎角この世は」なんつって、ひとりでいじけてばかりもいられない。わたしが「みんな」の中に生まれたことも確かだから。 最低限、そこに縛られることが、倫理だった。 どうどうめぐり。最低限です。 

日記619

9月30日(日) 朝はなんとなく晴れ間がちらつくも、すぐに曇天。徐々に激しい風と雨。夜中に台風。JR線が事前に運行取りやめのアナウンス。夕方にテレビをすこしつけて、消す。念のため、避難の準備もしておく。いつも探してしまうメガネを探さぬように。だいじなものをまとめる。 風の音が絶えずぐるぐるしていた。窓に触れていると、押されてたわむようすがわかる。ぐにぐに。あんがいやわらかいんだなーと、のんきに思う。割れないための適度なやわらかさ。悠長に夜中まで起きていると、電気が落ちた。停電か。寝ちゃう。明かりがストンと落ちて、すこしせいせいする。「あ、寝るっきゃないわ」と。やることの選択肢が大幅に減る。気がらくになる。夜は暗いものだった。 10月1日(月) 朝になって、顔を合わせた家族が「眠れなかった」と口々に言うなか、じぶんだけ快眠で心配になる。危機が迫っているときに眠っていたら死んでしまう。でも眠いときは眠いんだ、パトラッシュ。ひとはいずれ眠る運命なのです。だから寝るときは寝る。起きるときもギリギリまで寝る。健やかなるときはぐっすり寝る。病めるときもぐっすり寝る。いつなんどきも寝る。 10月1日の教訓。終電を逃してはいけない。帰る家があるうちは。こんなことをしていてはいけないと思う。じぶんを責めているわけではない。ただ漠然と思う。夜の光があんまり心地よくて、帰りたくなくなった。ふだんはまぶしくて忌々しいのに。街明かりの空間を茫洋と漂っていたかった。若者っぽくて恥ずかしい気分。もうさほど若くない。台風一過と秋の空気。「なんか天気がいいなー」と感じて、ふっといなくなる。伊集院光さんのエッセイで、そんなひとについての話があったような。なかったような。とにかくそんな気分。 わたしはいちどいなくなった。ひと駅だけ乗り過ごして、そこから歯止めが効かなくなった。ふたつ、みっつと、どんどん乗り過ごしているうちにどこかよくわからない時間に行き着いた。それがいまだった。もはや降りる意志はなかったけれど、偶然いまの駅に意識が止まった。アナウンスの声はわたしの名を呼んで「降りよう」と誘った。「ああ、うん」とかなんとか言って降りてみた。 ことしはそんな年かもしれない。レールを外れて、歩くことが始まった。意志を示して方向を決めてみること。こんな比喩はク