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8月, 2018の投稿を表示しています

日記604

図書館の本を読まずに返す。なんかいそがしくて読む時間がない。「いそがしい」は、かんたんで便利なことばです。万能ネギくらいの便利さ。どんなことばも単純化の産物です。ことば(概念)に頼りすぎると単純になる。個別にものを見すぎると細かく複雑になる。たとえば「空が青い」。単にそれだけの瞬間なんてない。この空はどう青かったか。いかに歩き、見上げたか。何月何日の何時だったか、気温はどのくらい?となりには誰がいた?赤信号で立ち止まって、手持ち無沙汰に撮った写真だった。高架の上にたまたま空があって、それが青かった。やがて車の道行きが止み、信号の色が変わった。歩きながら「なんか景色がきれいに見える」「それはね、夏の魔法ですよ」と会話を交わして、笑った。すこし時間を遡る。陸上自衛隊目黒駐屯地の付近でなにやら怒り狂っているおじさんがいて、横を通り過ぎた。歩きながら友人が「さいきん読んでいる本は?」と尋ねてきたタイミングで、おじさんの激しい怒鳴り声が響いて会話の流れが分岐した。本については伏せて、うしろを指し「すげーハッスルしてんね」と言った。「ラッパーになればいいのに」とことばが流れた。しばらくしてまた本のことを尋ねられ、ミランダ・ジュライの新刊が出たから過去の作品を図書館で借りた、とこたえた。その本をきょう、読み終える前に返却した。 くだらないことを書くようだけれど、過ぎた時間はもう二度とこない。ほんとうにくだらない。でもこれを体の芯から自覚できることはない。やろうとするが、気が狂いそうになる。足がすくむ。比喩ではなく立っていられなくなる。過去も未来も死と密通しているから、きのうのこと、あしたがくることも、忘れていまだけがあればいい。 忘れたい。もしかしたら、わたしは部分的に記憶力がよいのかもしれない。変な細かいことを、ずっとおぼえている。ごく一部。なんの変哲もない会話、歩いた情景がそのまま映像として浮かぶ。 かもめブックスからの帰り「友人の名前がチンコだったとしても、わたしは馬鹿にせずちゃんと呼ぶから」と空いた電車の優先席に座って話した場面。わたしがカバンにつけているチンアナゴのピンバッジから飛んだ会話。席は3人がけで、じぶんは真ん中にいた。左側に友人。右にはお婆さんが途中から座ってきた。向かいに本を読むメガネで帽子のおじさんと、スマホをいじる太ったおじさんがいた。

日記603

ブラジル先住民の椅子を観に行きました。むしょうにブラジル先住民の椅子が観たい気分だったので。そういうとき、よくありますよね。あるあるネタです。あ~ブラジル先住民の椅子が観たくてむしゃくしゃするぜ~って胸をかきむしる瞬間。ひどい場合、奇声を発し血反吐を撒き散らして這いずり回るハメに。そうなる前に行きました。予防的措置です。自己管理です。 友人とふたり。目黒駅ちかくの東京都庭園美術館。9月17日(月)まで開催しています。おもしろい。「おもしろいなーおもしろいなー」とずっと思って、声にも出していた気がします。なにがどうおもしろいのか、あまりうまく言えない。「この感じ」としか言いようがない。写真でおわかりいただけるかわかりませんがこの感じです。 ああ、おもしろい……。この椅子の素敵な味と、庭園美術館(旧朝香宮邸)内の貴族的なマッチングがあいまっての相乗効果でおもしろのハーモニーが空間じゅうに鳴り響く。会場まるごとおもしろい。 「野生動物と想像力」という副題の展示。椅子として、造形を単純化したうえでの動物。そうして残ったこのかたち。椅子としての平らかさは欠かせない。座るための椅子なのだから。椅子という前提があってこそ、この造形の妙が生まれるのか。なんか撫でたくなる。しかしお触りは厳禁。つやつやと平らだった。 やはり平らだと座りたくもなる。そう、椅子なのだから。椅子は“座れ”と人心をそそのかし、惑わすもの。だけどむろんお座りも厳禁。部族のシャーマンが座る椅子だそうです。ああ座りたい。シャーマンになれば座れる。ブラジルの先住民に溶け込んで、かつシャーマニックな感受性を身につければ。あるいはカネを積んで買い取れば座れる。資本主義生まれ、資本主義育ち。 すべて座れるようにできている。あたりまえか。 なんとも平らかなたたずまいでした。 平らだ。「平ら」としか言えていません。 ことばも自ずと平坦になる。 顔がいい。上目遣いでこっちをみるジャガー。愛らしい。思わずムツゴロウさんのようにしゃぶりつきたくなる。しかしおしゃぶりも厳禁である。我慢だ。白い目の部分は貝殻を嵌めているそう。 さいごに制作工程の映像も見ることができます。ひとつの部族だけではなく、広くブラジル各地のさまざまな部族がこうした椅子をつくっている。こんかい展示され

日記602

なにかがたくさんあったほうがいい気がしていて、なにひとつなくていい気もする。時間は消えても場所はあると、たしかスーザン・ソンタグが書いていた。時間なんかないんだ。身を置いておける場所だけがある。 「98%の確率でお金がもらえるが、2%で死ぬボタン」がネットに落ちていた。ただボタンを押すゲームだ。ネーミングがすべてだった。ことばをおもしろがる。じっさいに、お金がもらえることはない。これが原因で死ぬこともない。押してみると、1回目で死んだ。運がいいと思う。「大凶はめずらしいからむしろ幸運」みたいなロジックで。 だけど、ちょっと不吉な感じもする。ことばってふしぎです。ひとりで思わず「まじか」とリアクションをしてしまう。言霊信仰みたいな呪術意識のごときものがある。いや、信じていないから押せちゃうってところもあります。戯れに。まだ死んでいないよ。戯れも信仰のかたちといえばそう。戯れることができるほどにはことばに敬虔。半信半疑。こいつがいちばん健康的です。信じ切るとそんなボタンは怖くて押せないし、信が皆無であれば歯牙にもかけないだろう。遊べる程度に信じる。 暑い日がつづきます。夕立がくればいいと思う。 この夏は、ものんくるの「夕立」をよく聴きます。 9月にあたらしいアルバムが出るそう。 あたたかい雨が とつぜん降りだし 夏の銀河系の 音を奪った 抱きしめたのは さいごのお別れ この雨過ぎたら わたしは行くから 記憶は美しく雨に溶けだしてく これを聴きながらふとスチュアート・ダイベックの小説『シカゴ育ち』(白水社)にある一篇を思い出します。一過性の夕立かと思われた雨が降り止まずそのまま夜まで流れつづければシカゴへとつながる。ひとしきり気取っている。気取っていれば涼しいから、気分がいいから。気休めです。暑苦しく脂ぎった顔で息を切らせてブヒブヒ耐えるよりはいいかと。柴田元幸さんの翻訳。  キスが都市を横断する。それはガラスの路面電車に乗って進んでいく。子供のころ塗り込められてしまった線路の幽霊に沿って、電車は青い電気の火花をまき散らしていく。彼女が母親と都心に出かけるときに使った線路。  キスが都市を横断し、ロビーの回転ドアを抜けて雨の夜に出る。黒いガラスの並ぶ大通りでタクシーを拾い、赤信号を突破して、ワイパーがつく

日記601

蜂。後姿。背中で語る。いいお尻。 むしろお尻で語る。ケツ話術だ。 まるっこくて産毛が生えて、しましま。 いいお尻です。 顔出しNG。ケツ出しOK。 フル主夫の生活が終わりを迎えました。母の帰還。家庭内で家事労働をつとめる人間がひとり減るだけでもたいへんです。家事をいっさいしない父にイライラすることもありました。わたしを家に置いてくれていることには感謝しかありませんが、なぜそこまでなにもしないのか……。お菓子のゴミぐらい片付けてよ(生々しい愚痴)。こういう感情も含めた生活の機微を身をもって知っておくと、のちのちよいのではないかと思います。 「三十路手前で実家ぐらし」というと甘えてるとか、すねかじりとか、甲斐性なしとか、そういう印象をもたれがちですが、ひとり暮らしよりも気は重いです確実に。円満にやるためにはそれなりに身も削る。自己肯定感を下げない胆力も必要。「親と子」である前に人間と人間。お金の部分でらく、くらいなもので。あちらを立てればこちらが立たず、なところは何にでもあります。一長一短としか言えない。どちらがラクで良いのかは個人の適性による。人間と暮らしていれば、ひとと共にあらねばならぬことをいかんともしがたく突きつけられる。そこから思考が始まる。 両親と祖母の老いを日々まのあたりにすることも少し切ない。祖母は日付を忘れないようにと、毎朝カレンダーにバツ印をつけている。バツの並ぶそのカレンダーがおもしろくて、なんだか切ない。「ありがとう」ときみに言われると、なんだか切ない。過去にバツでケリをつける日々、サバイバーって感じだ。伊達に戦前から生きちゃねえ。 生活の内情は一般化できない。大味な認識で「甘え」だとかひとくちに言えてしまう方は幸福です。うらやましい。なんにもみないのね。その調子でお幸せに、と返すほかない。あなたはあなたの生活を守って。がんばれよ! 外食をしてもじぶんの食器は、ある程度まとめてから席を立つ癖がいつからかつきました。テーブルと、ついでに夏はコップの側面につく水滴もよく拭く。外食時くらいなにもしたくない派の人間からは嫌がられるかもしれない。そこは柔軟に対応します。場の雰囲気に水をさしてまですることでもない。 店員さんも機械ではないのでふつうに接する。いや機械も進化がいちじるしい。ペッパーくんは無性にジャーマン・ス

日記600

「知らないひとについていかない」とよく学校で教育されました。お盆に福岡へ行ったとき、小学1年生の甥の机の上にもそんなプリントがあった。こどもの安全のためには必要な呼びかけなのかもしれない。こどもは、油断するとすぐにいなくなるから。七つまでは神のうち。 成人のわたしは「知らないひと」がよくわかりません。親でも友人でも、みんな知らないといえば知らない。いつなにをしでかすかわからない。自由の余白を織り込んで接する。いまひとつにそもそも「そこにいる」という状態がすんなり理解できていない。じぶんも含めてなんでいるの?存在論的な疑念が抜けない。安心して他者に身を預ける時間もあまりない。正確には「知っている部分もある」ぐらいの関係です。だれのすべても知らない。土台から不明。地球ごと宇宙に浮かんでいる。足元を掘り下げればなにもない。仮の地面に立っている。 「知らない音楽は聴かない」とおっしゃる方がいて、なんじゃそりゃとも思う。「知らない」を遠ざけてしまったら、わたしは死にたくなるほど退屈です。というかそれって、あたらしいものに触れるための認識の枠組みがすでに死んでいる。時間配分の処世として、いらないところは見限りシンプルに決め打ちしておくのだろう。でもそれをし過ぎると、どんどん「話の通じないひと」になってしまうと思う。頑固ね。それでいい場合もあるか。 「知っている/知らない」の配分をできるだけ正確に見積もっておきたい。ひとりの人間に対しても、知っているところ、知らないところ、両方ある。どんな関係でも。目に見える部分がすべてなわけがない。そのうえで「知っている」という思い込みに依存せず「知らない」を楽しみたい。このひとにはこんな側面もあるのか!と。良きにつけ悪しきにつけ。 きのう、ひとに「もしじぶんが浮気されたらどうする?」と聞かれて「してくれた浮気の相手とも仲良くなって、みんなで楽しく食事をしたい」とアンサーしました。ままごとかよ。わたしの世界観は、どこまでも平和です。これこそが真の平和ボケである。むせかえるほどの博愛……。冗談じゃなく、本気なんだから我ながらあきれかえる。「お前は天使なのか悪魔なのか」と言われる。 仲良くし合える人間ばかりでもないから、それもわきまえていたく思う。絵に描いたような理想を言っているだけでした。ただ、じぶんの目の前にいるひとが

日記599

3回目の歯医者さん。また歯垢が赤く染まるやつを歯に塗ったくられて……。「前回より磨けています、お上手です」とほめられました。お上手ですってよ。こちとら歯を磨きつづけて四半世紀以上のベテランやぞ、子役あがりやぞ、英才教育やぞ、と言いたくなりましたがみなさんこどもの頃に歯磨きを習うのでした。みなさん子役あがりの英才教育でした。思い上がってはいけません。まいにち漫然と磨いているだけで専門知識のかけらもない、むしろこれは恥ずかしいことかもしれません。 赤いやつを塗られる前にまいかい、くちびるにワセリンを塗られてぷるぷるのつやつやになってしまいます。そんなにくちびるをぷるぷるにした経験がないので新鮮です。手鏡で歯のようすを確認するとき「ぷ、ぷるぷるである!」とおどろきます。おどろくときの語尾は「である」です。鼻毛はちゃんと処理しており、こんかい大丈夫でした。 「くちびるを指でなぞられる」ってのもなかなかありません。そんなことされる関係って……すなわちくちびるNetworkです。い・け・な・いルージュマジックです。くちびるヌード。残像に口紅を。くちびるから媚薬。くちびるを通じてわたしのすべてが奪われてゆく。色づいたあたしを無意味なものにしないで。歯医者さんはスキンシップが濃密で戸惑います。やっているほうは日常なんだろうけれど。 くちの中をいじられている最中に、ときおり話しかけられることにも戸惑います。「はへ」みたいなことしか言えないから。なにも言えなくて、夏。いっこく堂さんみたいに腹話術をマスターした方なら返事ができるのかな。くちを開けていたらできないのか。どうなんだろう。いっこく堂レベルの腹話術者なら、耳から発声することくらい造作なくできるにちがいない。もはや人間じゃない。いっこく堂めっちゃこわい。 サシャ・バロン・コーエンの映画『ブルーノ』で尿道がパクパクしてしゃべる演出があったけど、いっこく堂レベルならそれも可能にちがいない。テレビではできないだけである。いっこく堂はからだじゅうの穴という穴からしゃべる生き物なのです。本物のおしゃべりなひと。むろん、ケツ話術も可能です。くちでしゃべっているふりをして、じつはケツでしゃべっていたりするタイプです。わたしの好みのタイプです。新たな段階にいる人類、つまり彼はニュータイプなのです。 3回目の歯医者さんは、

日記598

大きな容れ物だと、大きなものを詰め込みたくなってしまう。ブログのレイアウトもそう。ぴったりしたものが好きで、行のあたまに一文字あけることはしていません。四角い文字の羅列がぽんっと置いてある光景をつくりたい。ブロックごとに掴んで仕舞えるような。それだけできれば満足です。 散らかしている。推敲や校正を他人に任せたら2000文字が5文字くらいに縮まると思う。無駄が多くて。「こんにちは」でことたりる。「ありがとう」とか。「さようなら」とか。こんなことさえ言えれば、内容はじゅうぶん。なるべく正確を期して伝われば、おしまい。またね。別れの手続き。でも不足が気になって過剰になりながらまだ不足している気もして結局わからない。仕舞いにはあきらめて手放す。仕舞えているのか。 懸命に伝えようとすると、ひっくり返って転んでしまう。足のうらが空にあこがれていたんだ。でも空は最初から足元まで接していた。そんな末路。せまいせまい空の定義だからひっくり返る。地面に立っていれば、気分はもう上空でいい。届いている。そんなに高く、遠くなくても。雲がなくても成分はここにある。 突端まで行きたい思いが強くあります。どこまでいっても釈迦の手のひらであれ、指先の際まで行けば見える景色も変わっていると思う。いつも電車は端っこの車両に乗りたくなる。ホームの端まで歩いて、歩いて。いちばん遠いところ。 京急蒲田駅の端っこには、自殺防止の看板がありました。死ぬひとは、端っこが多いのかな。なるべくひとが少ない先の先から、どこでもない、じぶんもいない先へ。先はあったの?この夜はまっすぐに進んだら、元の位置に戻ります。まるいかたちの星にいる。

日記597

「写真の加工の仕方はそいつの内面を投影する」と友人に言われて、そうかーこれがわたしの内面かーと思いました。いいんじゃないでしょうか(なにが?)。自由にやると、たいてい色褪せて経年劣化した紙っぽく加工してしまう。どれも似たようなものになるから、つまらない。大友良英さんがどっかで「自分で音楽をつくるとノイズにしかならないから、頼まれ仕事で変化する自分が楽しい」みたいなことをおっしゃっていたのもうなずける。 飽きっぽいせいか、勝手に「頼まれ仕事」をつくりだしているときがあります。「これはあのひとの趣味に合いそうだなー」などと具体的な他人のことを想像しながら、あれこれする。頼まれた体で、ことばを選ぶ。モノを選ぶ。頼まれていないけれど。そんな想像が可能な他人が数多くいれば、つまらなくなることもなさそう。ひとりだけだと飽きちゃう。生きるのにも。じぶんを中心から外す。下がって下がって。リフレッシュ。 図書館に行って、個人的に食指が動く本とそれから祖母が好んで読みそうな本も借りてくる。頼まれたわけではない。でもよろこんでくれるから。「ひとに頼らない」を信条とする祖母なので「頼む」ができない。こういう頑迷固陋なご老人は多い気がする。依頼心は悪だと思いこんでいる。そんなことはないのに。きついことばで言えば、なんでもひとりでこなそうとするのは卑しいことです。わたしにもそういうところはあって、わかる。家族の中でじぶんは祖母にいちばん似ていると思う。老いたひとに似た。 祖母の関心に沿って医療に関する棚を眺める。いつも思うけれど、病気や死をあつかったちょうどいい塩梅の本が開架図書にない。「病」や「死」ということばを使うと、まるで義務であるかのようにトーンが過剰になる。ネガティブもポジティブも過剰。やさしさも慈しみも過剰。社会派も過剰。もっと平熱の相対し方があっても。日常の延長だと思う。一回きりの繰り返しが日常だとするのなら。ひとが死ぬことは一回。至極あたりまえに訪れる、ただの一回。わたしの身近にも病と共にある人間や亡くなった人間は多い。みずからの死も、とうぜんいつかくる。こういう発言をすると、アレルギー反応を起こしてしまうひとも経験上たくさんいます。忌避すべきという、その規範化がこわい。死をあらかじめ勘定に入れた発言は忌まわしいものとされる。村の掟がある。ずけずけ言うと村八分

日記596

空気が乾いて比較的ながら気温も低く爽やかでした、きょうの関東。写真は福岡、西新商店街からすこし路地に逸れたところ。駐車林止。PANG。福岡空港から地下鉄に乗る。横目で路線図を眺めると、すべての地名がなつかしくそれはそれは過去でした。わたしの過去が記述されていた。具体的な場所ではなく、地名の響き。「あったなー」と。 博多弁も過去のものかもしれない。いまは、たまーに東北っぽい妙な訛りが出ていて戸惑う。なんでだ。前世の仕業か。しらんけど。ともあれ過去に住んでいた福岡は、わたしにとって何もかもがなつかしい土地でした。 といっても「故郷」みたいな感覚はありません。なんだろ。東京が故郷なわけもなく。根無し草。過去に定住した土地は過去でしかない。居ただけ。もう福岡に居場所はない。「故郷」と呼べるほどの人間のつながりもない。ひとりの迎えもない。東京にだってない。どこにいたっておなじです。育った土地も、わたしも、お互いに薄情だ。いま居るところがひとまず好き。いまある人間関係を見たい。ということにしておこう。 8月18日(土) 夏の前半が終わったかと思う。風の流れも変わったか。でもきっと9月いっぱいまで暑さは残る。秋は断続的、散発的にちかづく。そして冬は一気にたたみかけてくる。今朝、便座が冷たかった。季節の認識は、便座にまかせている。 部屋の片付けをしました。油断するとすぐに散らかります。物体の好きにさせてはいけない。「絶対に許さん!」ぐらいの気合でつねに管理・統制・掌握しておかなければ、散らかり放題になってしまう。物体を許してはいけない。やつらに気を許すな。すぐにしまえ。お前らに自由はない。見つけ次第ひっ捕らえろ。さもなくば汚部屋まっしぐらです。 そのくらいしか書くことはない日。 いい天気。

日記595

おとなの語彙にはあまりない「ボスゴリラ」。こどものワードセンスはおもしろい。なにか落書きをしようというとき「ボスゴリラ」は二十歳をこえたら出てこない。それも三連続とは恐れ入る。中学生からすでに出そうもない。男子なら卑猥な落書きをしたがるようになってしまう。「ボスゴリラ」の純真さを忘れないようにしたい。 小学生の語彙。あるいはゴリラ研究者か、ゴリラ愛好家か、ボスゴリラさま御本人の語彙だろう。本人(本ゴリラ?)だった場合はマーキングというのか。縄張りなのか。三回も書いてあるのに、勝手に入ってごめん。 こうやって写真として切り抜くと作品っぽくなる。どこぞのだれかによる指紋と丸。そして壁の傷。指紋をつけた人間と丸を書いた人間は別人だと思う。指紋のほうの痕跡は、あたらしい。これはだれの作品なのだろう。四角い写真の画角に切り抜いたひとのものだろうか。わたしは描いていないし、描くわけもない。あったものを撮った。福岡の、ダイソーの壁です。東京から、一泊だけ。 福岡空港に明太子の顔出しパネルがあります。顔を出すのもいいけれど、穴から明太子越しの風景を眺めるのもたのしいです。そちらのほうが、顔以外もいろいろと出ます。なかなかの具合につるりと光るナイスな頭頂部とか、ガタイがよくて日に焼けたおじさんとか、チケットを購入するおばさまとか。みんな明太子になあれ。 来たね、昨日の成れの果て。見たね、きょうの生まれたて。生まれて間もない赤ちゃんは妖怪みたいだと思う。もしくは試合後のボクサー。顔ボッコボコ。全体的に腫れている。ひとは腫れ物として生まれる。あたまぶよぶよ。まさしく腫れ物に触るように、慎重にあつかわなければ死ぬ。 赤ん坊は心地よく重く、同時に、ある種の軽さも発している。人間は、 荷物として 生まれる、と私はおもった。 いしいしんじ『熊にみえて熊じゃない』(マガジンハウス)p.96 赤ちゃんを間近で見て、まずわたしが思った感想は「この生き物ほっといたら死ぬな」でした。あたりまえだけど、なんのためらいもなくあっけなく死ぬだろう。生も死も等価で、だれの説得も聞かない。ことばを知らないし、なにもできない。「生きることが良いこと」なんて意識はない。そうするほかないのです。 とりあえず出てきて、ここで、そうするほかなく生き

日記594

木の皮の写真です。 「まじめな話し合い」に遭遇してしまい、まいりました。夫婦でもカップルでも、こじれてこじれて気持ちがどうしようもないのなら暫定的に出口を決めてしまえば、とりあえずほっとできるのではないかと思う。お別れの目処をつける。気が変わってもいいから、いまは、いったん息をつくために目処をつけておく。 「苦しいけれど別れてはいけない」と思い詰めながら話し合うよりも、肩の力が抜けていいんじゃないの、どうせ別れるんだと思えたほうが。そうすれば相手に求めることも、つんけんすることも減ると思う。前提として、関係がなくなる者同士とする。いまからね。そのうえで話を進めよう。途中で気が変わったら御の字。 そんなことを話したら、周囲からは「無責任」などと指摘されたけれど、 当事者の返答はまんざらでもなかった。果たすべき責任なんてない。いちばんらくな方法を採用してほしい。別れるときは極悪非道がいい。すっきりします。悪人上等。らくをしよう。苦しむよりは。行動を起こすことが困難なら、せめて「考え方」だけでも。 「こうでなければいけない」必然はない。ぜんぶほっぽりだして、あしたからモンゴルの草原で遊牧生活を始めてもいいんだ。それくらい極端な考え方だって、ありうるんです。「責任」なんか知らんせん。せまいせまい。狭い場所は息が詰まる。貧乏でカツカツでも、あたまのなかは広くできればいい。逃げちまえよ。 幸福だの不幸だの、そんなこともいちいち決めなくていい。うるさいよ。真夏のぬるくて厚ぼったい夜気を身にまといながら、発泡酒片手に好きな音楽の一節をくちずさむ。そうやってひとりで歩くだけで最高ではないか。冷えた安いアルコールと、温度差で指にしたたる煩わしい水滴。ぬれた指先をジーパンで拭いながら陽の光から落魄した暗い道で昼間にはない虫の音にさらされる。放熱する黒いアスファルト、湿った空気、蒸された草木と土の匂い、なんもない空、すべてが確からしい。確からしさの世界を拾える。この実感だけで、もう生きていてよかったではないか。落としものと思わぬところで再会したような。これ以上にほしいものなんか、ありません。これ以上にいいものなどない。ここが最高到達点だ。これは冗談じゃなくて、まじめな話ね。 なんなんだろうか、どうなれば満足なんだろうか。どうもこうもなく、ここにいる実感だけでじ

日記593

思い描く抽象の人類ならば大いに愛せるが、生身の人間はまったくそうではない。という感覚のひと。べたべたした生身ではなく、清新な抽象にだけ考えが寄り添っているように見える。そんなひとがたまにいます。 いやー。おそらくだれにでも少しくらいはある。とくにクリエイターには多そうな(思想家にも多そう)。フィクショナルな領域にとり憑かれる。じぶんを含めた生身の人間よりも優先して、つくるべきフィクションがある。身体より永遠にちかいもの。もちろんフィクションも現実的な身体の効果であり、リアルとは補完的な関係をなすもの。 高畑勲は、これの激しいタイプだったのかなーと、鈴木敏夫のインタビューを読んで思いました。いや、こんなふうにかんたんにひとを解したように思ってはいけません……。じぶんにわかりよく解釈し過ぎている。悪癖。どこまでも解せないのが他人だった。 「緊張の糸は、高畑さんが亡くなってもほどけない」――鈴木敏夫が語る高畑勲 #3  そもそも、作家にせよ映画監督にせよ、何かを作って人に見せたいという人は自己顕示欲が強いわけですよね。それは高畑さんの中にもあったと思います。それと同時に、破滅主義で、自己滅却欲にも苛まれていたような気がします。その狭間で揺れ動いたのが、高畑勲という人だったんじゃないでしょうか。  カリスマという言葉がありますけど、強烈な衝撃を与えられて、その人に何かがあると思えば、人はついていくんですよ。いい悪いじゃない。いちどその魔力に捕らえられたら、死ぬまでそこから解き放たれない。いや、死んでも解き放たれない。 いい悪いじゃない、魔力のような衝撃をもつひと。「いい/悪い」という短慮な価値判断では測れない「もの」の厚みを、その人間に認めてしまうこと。その対象が、ほんとうに魔力をあやつっているのか、厚みをもっているのかどうか、それはわからない。けれど、「魔力」を幻視させるふるまいの「もの」は、あります。高畑勲に限らず、人間に限らず。もの、です。じぶんにとっての「魔」を幻視してしまう、もの。 ヒトで言えば、種類はまるで異なりますが、たとえばいま話題の日本アマチュアボクシング連盟会長だった山根さん。社会的な「いい/悪い」は、ひとまず措くとして、「魔」の話をしたい。 しょうじき、見るからにあたまの悪そうなおっさんだけれど、それでも眺めて

日記591

ごはんを食べたあとの、ぼーっとする時間。 あります。 という、ごはん屋さんがあったらいいなー。こいつはアホみたいなのんびり屋の発想である。じつを申せばそう、わたしはアホみたいなのんびり屋である。売るほどのんびりしています。せっかちなひとからは「まどろっこしい!」と罵倒される。「早くしろ!」と。こんなことではいけない。いけない。罵られては、セールスマン失格です。うまいこと口車に乗せて売りつけてやりたい。のんびりしよう。ね。のんびりが売れたらいいなー。 「いいなー」ってなんかいいなー。twitterに糸井重里のbotがあって、えんえん「いい」と「わかる」しか言わないの。最高にいいな~。わかるな~。わかるからいいな~。実在の糸井重里は、「わかる」と「いい」以外のことばも吐くから、「最高にいい」までいかないかなー。非実在糸井重里がいいな~。わたしは「いいな~」としか言いたくないなー。さういふものにわたしはなりたい。 「あぁ いいな!」という、辻希美さんと加護亜依さんの名曲があります。ドラえもんのエンディングテーマだったから、聴いたことのある方も多いでしょう。たぶん。冒頭いきなり「なまずはうろこがな~い」と度肝を抜かれるフレーズで死角からアゴを捉え、聴く者に脳震盪を起こさせます。そしてなまずの一撃でくらっくらになったところで次に襲いくることばが、これです。 曲がり角 曲がったなら お金もちに なれたなら いいな~ まいりました。曲の開始数秒でもう土下座してあやまるしかありません。脳震盪のせいか共感しかできなくなって歌詞の世界観にそのまま引きずり込まれます。もはや抵抗のしようがない。そうだなー角を曲がるたびに5億円もらえたらいいな~。きっと重くて持っていられないな~。札束で家がつくれるな~。札束ハウスいいな~。火事になりやすそうだな~。なってもうれしい悲鳴だな~。燃えたらいいな~。わたしの札束よ。燃え尽きて一文なし。それもいいな~。 語尾に「なら」をやや不自然に連続して置くところ、こどもが一生懸命しゃべっているようで、かわいい。辻希美、加護亜依という幼気なルックスのアイドルが歌う曲として合うように書いたのかな。いまや、ふたりともお母さんだけれど。あのアイドルがお母さん。すごく遠い未来にきちゃったような感覚におちいる。それもいいな~。

日記590

つぶらな瞳とはこういうもののことでしょう。 * 歯医者に行くと落ち込みます。かならず歯垢が赤く染まるやつを歯に塗りたくられて「もっとちゃんと磨けよヘイヘーイ」と手鏡で見ることを強要されるからです。そして歯医者で手鏡にうつるじぶんの顔を見ると、かならず鼻毛が出ているからです。 鼻毛は気づかず野放しにしていたじぶんが悪い。でも歯垢は、どんだけ念入りに磨いても赤いところが残っています。歯並びの問題や、ふつうの歯ブラシだけでは届かないところがあるのだから仕方がありません。磨き方は何年か前に通った歯医者さんの言う通りにしています。それでも一部が「磨けてない」と言われ、指導され、特殊な歯ブラシを勧められる。これが毎回のことです。 「磨けているほう」とも言われました。しかし、完璧ではない。歯科衛生士の方を「ぬぬっ!?こやつ……か、完璧だ……!!」と感嘆せしめるには、メイン歯医者の前に、サブ歯医者で磨いてもらうしか方法がないと思う。つまり、2つの歯医者に通うのです。サブ歯医者でもブラッシングの指導をされるならば、サブサブ歯医者に頼るしかない。さいきんはクリスマスもイブイブを祝うほどですから、サブサブ歯医者に通い始めるひとがいても不思議ではありません。歯医者はそこらじゅうにあります。とにかくわたしはブラッシング指導を回避したいのです。 「ふだん通り磨いてみてください」と言われても、ふだんは音楽を聴きながら奇妙な振り付けのダンスの一貫として楽しく歯を磨いているのだからそこまでしなければ「ふだん通り」ではありません。ダンスまでいかずとも、座って歯を磨くことはないんだ。せめて立たせてほしい。立てば自然にステップが始まるでしょうから、もうふだん通りです。 しかしそんなことは望む間もなく、診察台の上で、右手に歯ブラシを手渡され、左手に手鏡を持ち、なんとなく磨き出すと初めて歯を磨く生き物のようにぎこちない動きになりました。ふだんは左手で磨いていたことに気がついて「左でした」と持ち替え。しかし左でもなんだかぎこちない。「右だったかな?」と、また持ち替え。いや、右はさらにぎこちない。「やっぱ左か」とふたたび持ち替え。不思議な挙動の動物をしげしげと眺めるようなようすの歯科衛生士の女性。やはり、まず好きな音楽をかけてリズムを生み出さないと歯磨きが始まらないらしい。どうし

日記589

暑いから気遣ってくださるのか、徒歩で移動をしているとドライバーさんがよく道をゆずってくださいます。一律にきつい思いをすると、ひとはひとにやさしくなれるのでしょうか。天気の話だけが通じる社会。 テレビのニュース番組は天気予報のコーナーがいちばん好きです。安心する。やっと天気予報だ、やった、ありがてえありがてえと思う。ほかのニュースは、しんどくて。ひとりなら見ない。家族といると食事中などにさらされる。われながらナイーブかもですが、まいにちニュースとして起こった出来事をなんとなくでもチェックしていて精神的に落ち込まないほうがどうかしていると思います……。 じぶんはすべてを現実的にとらえがち。現実なのだけど。だからつらくなる。どんな犯罪者もその被害者も、汚職事件も、イカれた政治家によるむき出しの差別意識も、すべてがわたしの写し鏡であり、反面教師である。そうなってくると、ニュースは針のむしろだ。じぶんにとって、あらゆる報道がアクチュアルな意味を帯びながら迫ってくる。 よくないことには怒りや嫌悪感もおぼえるが、口汚い声高な批判もみたくない。おそらく、無意識のどこかでじぶんが批判されているように感じてしまうのだろう。これは、うっかりすると見過ごしてしまうような類の伏流する痛みです。 感覚として「社会問題」という切り口によるフレーム化にピンときていない。人間という生き物の度し難いかなしさ、みたいなところに思いが及ぶ。おかしなひとだ。おかしい。社会派にはなれない。一個の人間から離れることができない。「ヒューマニズム」なんて尊大なもんじゃない。人間は最低だ。この最低さがお似合い。もれなくわたしも最低だ。じぶんなりの倫理的な態度があるとすれば、そこからしか始まらないのではないか。「最低さ」を忘れた人間は、あまりにも、あまりにも人間的で、直視できない。自己正当化なんかできるはずがない。生まれた時点から正当化し得ない借財を背負う。どうも、わたしの考え方の根底には「原罪」という概念があるみたい。キリスト者ではない。そういう家庭に生まれてもいなければ、そういう系列の学校にも通ったことはない。しかし思うところを詰めれば、たどりつかざるを得ないところ。ごく自然に。手前勝手なもの思いに過ぎないからたぶん、キリスト教の「原罪」とは定義がちがう。ことばを拝借しているだけ。 ア

日記588

これはiPhoneで撮った写真です。 めずらしいものをつくる。 小豆を前の晩に煮て。 がんばれば料理ブログに変貌を遂げられるかもしれない。2018年のメタモルフォーゼ。変態する。でも、がんばらなければ変態できない。変態したい気持ちと、がんばりたくない気持ちが追いかけあって戸惑う。駆け巡る。レシピの文体は簡素でわかりやすくないといけない。わたしが好き勝手に書くと、いつまでたってもまわりくどくて煮え切らない、かつ、冗長なわかりづらい文章になりそう。レシピとしての機能は果たさない。なんの機能も果たさないところを目指したい。 材料をそろえたとして、まず包丁を手にするところから煮え切らない。だって凶器にもなるんだ。こわいよ。かんたんには握れない。勇気がいる。ちゃんと正気を保っていないと、危ない。正気でいる覚悟が必要です。ふだんは正気じゃないから。凶器を手にしたときにだけ正気になります。そういうキャラ設定でいこう。凶器を所持していないと暴れまわるが、凶器をもたせると途端におとなしく生真面目になるキャラ。倒錯している。おもしろいなあ。のっけからたとえばこんなようだから料理が始まらない。じぶんがおもしろいと思える方へ脱線しちゃう……。いくら煮ても煮え切らずにいる。時間だけが過ぎましたとさ。ちゃんちゃん。