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11月, 2023の投稿を表示しています

日記1007

“私が生きた私の人生は、始めもなければ終りもない、一つの物語のように思うことがしばしばあった。私は歴史上の一断片であり、前後の文脈を失った、一つの抜萃であるといった感じをもっていた。” 『ユング自伝2 思い出・夢・思想』   11月22日(水) 帰り道、街角で「ラッキースケベくださいよ」と大学生くらいの若い男性が楽しそうに話していた。となりの小太りのおじさんがそれを受けてなにか返す。始めもなければ終りもない今日の断片。前後の文脈を失ったひとつの抜粋。通り過ぎてそれっきり、なんの話だかまったくわからない。まるでユングの人生である。というか「ラッキー」は偶然だからラッキーなのであり、「ください」と請うものではないと思う。ラッキースケベがほしいのなら、みずからのアンテナ感度を高めるほかない。もうすこし偶然をたいせつにしよう。わたしがとなりのおじさんだったら、そう諭すだろう。 また、宮沢賢治は友人の藤原嘉藤治にこう語ったという。   “―おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。一瞬のほほえみだけでいいんだ。底まで汲みほさなくてもいいんだ。においをかいだだけで、あとはつくり出すんだな―。 ―花は折るもんじゃないよ。そのものをにぎらないうちは承知しないようでは、芸術家の部類に入らないよ。君、風だって、甘いことばをささやいてくれるよ。さあ行こう―。” 森荘已池『宮沢賢治の肖像』   なんて感度だ。賢治にとっては、ラッキースケベが日常茶飯事であったと言っても過言ではない。いや、そうなってくるとふたたび「ラッキー」が何かわからなくなる。常態化したラッキーはラッキーと呼べるのだろうか。ラッキーとは不意の僥倖、連続性の裂け目だ。つまり前後の文脈を失ったひとつの抜粋、ユングの人生のようなものである。もしかすると街角ですれ違った彼は、ユングを読みたがっていたのかもしれない。ちょうど鞄に入っていたので、貸してあげればよかった。そうすれば「こいつはラッキー」と思ってもらえたにちがいない。 そういえば今朝、改札口でつかまったわたしはちょうど連続性の裂け目だった。人々の流れを食い止める。通り過ぎゆくはずのものが通り過ぎない。エラー音とともに身体があらわになる。群れから一瞬にしてこぼれ落ちる。あられもなく。スーツ姿の女性が邪魔そうにわたしを避けて行く。彼女は透明感があっ

日記1006

11月11日(土) 友人に誘われ文学フリマへ。混雑っぷりを想像すると自分ひとりではとても行く気になれなかったため、誘ってもらって感謝している。行ったら行ったでそれなりにたのしい。 いくつかのブースで「podcast聞いてます」「ブログ読んでます」などと伝えると、共通の反応が返ってきた。いわく、「だれが聞いている/読んでいるやらわからない」。わたしも先日、横浜の古本屋さん雲雀洞で同じことを口走った。店主氏に「ブログ読んでます」と言われ、話の流れで自嘲気味に「だれが読んでるのかぜんぜんわからない」と。 何者でもない位置から、何事かを書いている。「何者でもなさ」がおそらく、受け手のわからなさにも通じている。社会的な肩書から、ちょっと離脱した隠居先と位置づけている。逆に言えば、何者でもありうる。もしかしたら文フリで出会った方々も、そういう感じなのかもしれない。何者でもなく、何者でもありうる。未規定のやわらかい部分を切り出している。まだ踏み固められていない自己の未踏域、みたいなところ。 ふたり出版社、点滅社のブースで「どこにいても死にそう」というちいさな冊子をもらった。主宰のおひとり、屋良朝哉さんが書いている。11月下旬に発売する、『鬱の本』の販売促進のためにつくられたもの。「どこにいても死にそう」をペラペラめくりながら、屋良さんに「『鬱の本』、買いますね」と伝える。返ってきた「ありがとうございます」のひとことには、いくつもの感情が滲んでいたように思う。やわらかい方だった。それだけに、触れると滲みやすい。勝手な印象。じゅわっとしたものを浴びた気がする。 「どこにいても死にそう」に目を通して、オルガ・トカルチュクの『優しい語り手』(岩波書店)を思い出した。「やさしくなりたい」と屋良さんは書いている。やさしさとは何かを問うとき、決まってトカルチュクを思い出す。  “わたしはフィクションを書いています。しかしけっしてなにかをでっちあげているわけではありません。書いているときは、自身の内面のすべてを感じなくてはなりません。本に出てくるすべての生き物と事物とを、自分を通して放出しなければなりません。人間も人間以外も、生きているものも命を与えられていないものもすべて。物も人も近くから、最大限に厳粛な気持ちでじっくり観察する必要があります。それをわたしの内にとりこみ、人格を与えるのです。

日記1005 

「かわいそう」のひとことが言えない。それゆえにかれのことばはあんなにも重苦しいのだと、山形浩生が立岩真也について評していた。言えないことばを迂回するために呻吟する。そういうことってある。他人の口論を聞きながら、この人は「寂しい」が言えないのだと感じたり、「助けてほしい」が言えないのだと感じたり……。人はそうかんたんに弱くなれないし、弱い者だとみなされたくもない。自分をかえりみてもそう思う。 ということを立岩氏の訃報に触れてなんとなく想起していたのだけれど、もうずいぶん日が経ってしまった。ことばの「言えなさ」は、傍から見れば「なんでそんなまどろっこしいことを?」と思われがちなのだろう。まどろっこしさは、その人の「品」をかたちづくるものでもある。品性に重きをおいた語り口は迂遠になりやすい。丁寧なラッピングみたいに。ともすれば「過剰包装だ」と邪魔っけにされてしまう。 もちろん品はあったほうがよい。しかし、品価を高め過ぎると受容されづらくなる。大事にすればするほど排他性を帯びる。これはたぶん、どんなことにも当てはまる。「大事なこと」とは裏を返せば、価値の高い「排他的なこと」でもある。高級品には手が届かない。プレゼントされても重くて引いてしまう。逆に、安いものは流通しやすく受容もされやすい。 いつか養老孟司が漫画に関するインタビューで、こんなことを述べていた。   漫画のいいところは、漫画だと言った瞬間に、みんな「しょせん嘘の世界だ」とわかることです。西洋の町では、立派で大きな建物がふたつあります。教会と劇場です。教会は神様がいるところ、劇場はお芝居をするところ、いずれの場所でも、起こっていることは現実ではありません。“真っ赤な嘘”であることが保証されている装置は非常に大切。   人ってややこしいんですよ。嘘という枠に入らないと、本当のことが言えないんです。人は、その場所にいて初めて、本気で泣いたり笑ったりできるんです。日本の場合は、その場所が漫画なんです。 藤子不二雄A氏「漫画を描くことを職業だと思いたくない」|NEWSポストセブン 「嘘という枠に入らないと、本当のことが言えない」という指摘。ここで言われている「嘘という枠」は、アジールのような特殊な領域のことだろう。既存の価値観がいったんチャラになる場所。そこにおいて初めて人は、本気で泣いたり笑ったりできるのだと。 どうあ