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日記921

  8月11日(木) 施設の祖母と面会。険のある口調からはじまる。話していくなかで、すこしずつ穏やかに変化していった。膨張した観念が徐々にしぼんでいくような印象。「昨日のことのように覚えている」という言い回しがあるけれど、これは単なる比喩ではないのかもしれない。祖母は遠い昔の出来事を、昨日のこととして話す。じっさいに、ほんとうに、「昨日のこと」なのだろうと想像する。 父や母は、祖母の発言を「ボケているから」とみなして終わる。ふつうの、一般的な解釈としてはそうなのだと思う。それはそれとして、ひとつのリアリティのありようではある。しかし、祖母の主観的なリアリティは異なっている。何年も前の出来事がじっさいに「昨日のこと」になる世界観が存在する。そして、その世界観は「ボケているから」で片付くものではけっしてない。鮮烈な記憶は誰にとっても、「昨日のこと」として想起されうる。とくに鮮烈ではなくとも、わたしたちは日々あやふやな記憶の時系列を引きずりながら生きている。わたしは誰も「ボケている」とは思わない。人間の記憶はカレンダーのように画一化されたものではないのだから。記憶は一個の体とともに、絶えず動的な変化にさらされている。静的なデータとはちがう、ナマモノだ。 途中、泣きだした祖母が「あら、なんで泣いてるの?」と尋ねてきた。「知るかーい」と思う一方で、とても始原的な問いかけにも聞こえた。会話とはそもそも、このようなものかもしれない。わたしの感情を、あなたに教えてほしい。自分たちが何を話しているのか、お互いに教え合う。あなたの発言はこういうふうに聞こえた、というパラフレーズの連続から成る。自分が何を話しているのか、あらかじめわかっていたら相手は必要ない。挨拶ひとつから、ことばはつねに「教えてほしい」というメタメッセージを発している。あるいは、「知っていてほしい」という祈りが込められている。いずれにせよ、ことばの動力源は無知にある。無知の揺動がすなわち、会話や文章となり結実する。 あなたがどうして泣いているのか。わたしは知らない。でも、知っている人がどこかにひとりくらいはいるのかもしれない。わからない。ことばを使うと、わたしがいかに無知な者であるのかを晒してしまう。そのことを、さいきんよく思う。無知であるから話ができる。文章が書ける。しかし恥ずかしくもある。ときに、いたたまれないほど