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9月, 2022の投稿を表示しています

日記924

9月15日(木) 「あと3ヶ月で新年になる。対処すべきことはたくさんある。今年は、仕事が多いですね。すべてが粉々になっている」。と、あるタイ人がつぶやいていた。タイ語を機械翻訳したもの。いい訳だと思った(原文わからないくせに)。あと3ヶ月で新年になる。 ジャパネットたかただったか、テレビでおせちの宣伝をしていた。早期予約で安くなるらしい。「気が早いよ」と思う。しかし、そうでもないのだろう。「9月になったら、すぐ大晦日」と芸人のプチ鹿島さんがよく話している。9月から、もはや年末なのかもしれない。「年末」という概念の中身を書き換えなければ。  この頃、寝る前に詩集をひらく。きょう見たパステルナークの詩に「幻想を恐れるな」とあった。「現実を恐れるな」であれば、ありふれた表現だろう。現実とは何か。それを知るための鍵は幻想のなかにある。暗闇に落とした鍵を、探しやすいからといって明るい場所で探しても見つからない。明るい場所に鍵はない。かといって暗いなかでは見当もつかない。じゃあ、鍵とかべつにいいです。もうしらない。 さいきんはだいたいこんな感じで、何か始めようとしてもすぐめんどくさくなってしまう。やる気をとりもどしたい。もともとないけれど、かつてすこしだけあったぶんをとりもどしたい。ジェイソン・ステイサムの頭髪ぐらいの、うっすらしたやる気を。ってほとんどないな。あれぐらいなら、むしろ完璧に脱毛したほうが潔いのではないか。なあ、ジェイソン。じゃあ、いいか。 ほんとうは対処すべきことがたくさんある。そんなときにかぎって、深夜にブログを書いたり無駄な掃除をしたり、逃避がはかどる。よくある話。すべてが粉々になっている。

日記923

「噛み合っていない」というレビューが散見される、伊藤比呂美と町田康の対談本『ふたつの波紋』(文藝春秋、2022/2)を読んだ。噛みつき合う、という意味では「噛み合っている」。とくに顕著な対立点は、「私」の置きどころ。おふたりの差はなんだろう。   町田  書こうと思ったのは、頼まれたからなんですよ。悪いと思うんですけどしょうがない。 伊藤  ひどいわね(笑) 町田  だってしょうがない。別に、頼まれたらなんでもやるわけじゃないですけれど。 (p.74) 第2章「歩き続ける男」の正体――種田山頭火、の末尾。山頭火について書いたのは、頼まれたからだと。対談全体をとおして、町田の「私」イメージはこんな感じで、あとからぼちぼちついてくる。文体とは「結果」ではないか、ともおっしゃる(p.131)。結果的にそうなる「私」。しょうがない「私」。 対して、伊藤の「私」は先立つ。予見的というか。詩人らしい兆候性を湛えたイメージ。あらゆる場所に兆す「私」について語っているように思えた。後か、先か。ポストディクション(あとづけ再構成)か、プレディクション(予見的構成)か。ふたりの対立は、そんなふうに整理できる。気がする。 「自分」をめぐって、お互いに「でも」と返しつづける象徴的な部分をすこし長めに引いてみる。「自分」が希薄で、それでいいんじゃないかという町田に対する伊藤の返答から。   伊藤  でも私には、強く「自分」というものがあるから……とか言ってると、町田さんに「伊藤さんはまた自分にばっかりこだわる!」って怒られるんだろうな(笑)。こう説明すると自分にこだわっているいやぁな女に聞こえますけど、ま、それでもいいんですけど、そのとおりなんですけど、この私の「自分」と、町田さんの言ってる自分にこだわってない「自分」とは全然違うものなのか? 町田  伊藤さんは、自己の文学を揺るぎないものとして確立したいんですか? 伊藤  強いて言えば、自分の言葉で何かをコントロールしたいという気持ちはありますね。例えば、翻訳の仕事をしている時に、やっぱり自分の言葉で表現したくなっちゃうんですよ。 町田  自分の言葉に置き換える、みたいな感じですか? 伊藤  そうそう、自分の言葉を使いたい。わけの分からない言葉で、って外国語や古文なんですが、何か読むと、「私だったらこう書く」みたいに思います。でも、実際にや

日記922

8月27日(土) 「さみしい」と言われても、「知らんがな」と思ってしまう。ひどいようだけれど、他人の寂しさなど知る由もない。埋めることもできない。ただ、「知り得ない」という観念はしばしば「尊さ」を帯びる。「さみしい」と言うときあなたはきっと、自己の尊厳について語っている。だから、そのつもりで聞く。 施設の祖母と面会した。毎回毎回、うわごとのように「さみしい」と繰り返す。ほとんどそれに終始するのみだが、今回はひとつあたらしい展開があった。古い家族の夢を見るという。狭い家に、こどもがたくさん集まって、賑やかに暮らす。誰がどこの子かもわからない。混濁した「家族」の夢。祖母自身、そのようにして育ったのかもしれない。 思い返すと、祖母はどこの誰だろうがお構いなくつかまえておしゃべりを始める人だった。ウチとソトの線引きがとてもゆるい。いまでも、そうした世界観は健在なのだろう。 更新のペースが落ちると、面会のことしか書かない面会日記になりそう。それでもいいか。前回、“わたしは誰も「ボケている」とは思わない”と書いた。これは逆に、“人類みな「ボケている」と思う”と言い換えてもおなじだ。つまり、「ボケ」を特殊化したくない。認知症のお年寄りも、自分と地続きであると感覚している。むろん、そこには濃淡がある。ある程度は、全員ボケている。 というか、なにを言ってもボケにしかならんのやないか。語ることはすなわち、ボケることなのではないか。言語それ自体がボケている。「あいうえお」って、なんじゃそら。しゃべることも書くことも、アホらしくてたのしい。ときには、アホらしくてしんどい。そんなふうに思えて仕方がない。 この文字列が「伝わる/伝わらない」とか、「わかる/わからない」とか、どういうことなのだろう。おかしいな。まったくおかしい。妙ちくりんな仕組みの生きもんをやっている。このような立ち位置から見れば、介護施設で生活する祖母も存外しっかりしている。ちゃんと奇妙である。むしろ「健常」とされる人々のほうが奇妙ではないかとさえ感じる。あきらかに、なにかをごまかしている。 「まだごまかせる範囲内」を「健常」と呼ぶのかもしれない。わたし自身、ごまかして「健常」をやっている実感がある。「なにを言ってもボケにしかならん」などという気持ちはつねに、ものすごくごまかしている。ちゃんと挨拶とかできるもん。しかし腹の中で