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7月, 2020の投稿を表示しています

日記735

7月27(月) 立ち寄ったラーメン屋で、aikoの曲が流れていた。「きみにいいことがあるように」と。それをとにかく連呼する。あまりの連呼に反発心が芽生え、内心で「わたしにいいことがあるように」と対抗を試みるもむなしい。ぜんぜんかなわない。というより、疑わしくなる。「ワシにいいことなんかあるかいボケェ!」と瞬発的にツッコミを入れてしまう。自分のことは良くも悪くも、わかったつもりでいるせいだろう。人生は苦行である。と、わかったつもりでいる。 でも、「きみ」のことならわからない。そういうことか。ラーメンをすすりながら勝手に納得していた。きみにはいいことがあるのかもしれない。素直にわからないから、素直にそう思える。もちろん悪いこともありうるけれど、いいことがあれば、なんたって「いいこと」なのだから、そっちのほうが気分がいい。祈るなら、「きみにいいことがあるように」。無責任で素直な、わからなさの表明として。きっとそうなる。自分の「いいこと」は素直に祈れない。いやなにより、aikoの歌に抗ってはいけなかった。 などと、めんどくさいことをぐるぐる考えながら追加のミニチャーハンを食べていた。そうそう。わかったつもりでいる自分のことも、他人からすればわからない。この非対称性が、ことばを投げ込む入り口になる。人生って、あんがい苦行だけではないかもよ? 誰かは言うだろう。自分の握りしめていた「わかったつもり」が揺さぶられる。再考を促され、わからなくなってしまう。それはすこしこわい。でも、会話のたのしみもそこにある。他者は自分をわからないものへと育ててくれる。 すべてがわかりきっていれば、祈りの余白は生まれない。会話の余地もない。「わからない」という不確実な空白があることによって、ことばが賦活する。だから「わかんないなー」と感じたら、それはたいせつに記録したほうがいい。どんなにちいさな疑問も殺さず。ことばのために。 わたしには、この世のほとんどすべてがわからない。率直に言ってアホである。自分の過去の記憶でさえ、あやふやな夢のようで不定形にそこらじゅうをたゆたい、いまも絶えずこぼれている。きっと、こぼれてしまうから人と話ができる。あるいは祈ることも。きみにいいことがあるように。aikoが言ってた。 「わたしにいいことがあるように」と、素直に言

日記734

横尾  斜めになっていても自信を持って描くから人には真っすぐに見えてしまうんですよ。でも、真っすぐに描けてしまう不幸というのもあるんですよ。真っすぐ描こうと思うんだけれども、グニャグニャとなったり、ヒューッとこっちに行っちゃうとか、そうなって初めて新しい境地に入れると思う。そう思えば老齢の楽しみが待ち遠しくなる。だからできるだけ長い老年が必要ですね。 磯崎  手塚治虫が晩年、完全な円が描けなくなったみたいなことを言っていましたけど、楕円になったら、楕円をもとに描けばいい。楕円の鉄腕アトムを描けばよかったんですね。そこを描かなきゃいけないんですね。 『金太郎飴 磯崎憲一郎 エッセイ・対談・評論・インタビュー 2007-2019』p.458 老齢でなくとも、人にはどうしても「グニャグニャとなったり、ヒューッとこっちに行っちゃう」ときがあるのだと思う。老年期にそれが大きく顕在化するだけで、若い時分からそうした瞬間は日常に胚胎している。つねに真っすぐではいられない。すこしずつ逸れる。そんなつもりはなくても。 逸脱を「新しい境地」として迎え入れる。「そう思えば老齢の楽しみが待ち遠しくなる」と横尾忠則は言う。老いた人と接すると、決まって「老い」への戸惑いを聞く。こどもの頃は「老人」に泰然自若なイメージを重ねていたけれど、ぜんぜんちがった。 「老い」はおそらく、誰にとっても思いもよらない経験としてあらわれる。初めてのもの。「オレは老人初心者だ」と晩年の立川談志はよく話していたらしい。言い得て妙だと思う。さらにいってしまえば、ほんとうは生きることそのものが誰にも初めてなのだ。老年期は、それを嫌というほど思い出す時間ともいえる。あまりにも鮮明に、具体的に、痛みを伴い。「初めて」の時を、自分は生きていたのだと。 その意味で老年期に人は、こどもに戻る。というより、こどもを思い出す。人生を通してずっと傍らにいたにもかかわらず、忘れていた、なにも知らないこどもが晩年にひょっこりと姿を現すのだろう。もうどこにもいないと思っていた、とんでもなく無知な自分と老いの只中で再会し、多くの人は戸惑ってしまう。 大学生だったころ、 社会科教授法(たしかそんな名前)とかいう講座を受講しました。 岩浅農也という先生でした。 いわさ・あつ

日記733

このタイ人がやばい!2020上半期大賞はラッパーのJUUさんに決定しました。とつぜんに。つまりラブストーリーと同様に。上のMVをご覧いただければ、なに言ってるかわかんなくても「こいつはやばい」とおわかりいただけるかと思います。いや見ずともサムネイルからすでにやばさが漂っています。なんて朗らかな野郎だ。わたしはさいきん知りましたが、こちら2017年の曲だそうです。タイトルの読みもわからない。「なにかタイ語で書いてある」としか言えん。申し訳ない。でも、やばいことだけはわかる。 胸がざわつく不安な音。なんとなく緊急地震速報を彷彿とさせます。全体に微妙な明るさもある。そのバランスも緊急地震速報と似ている。「緊急地震速報チャイムに求められる条件」として工学者の伊福部達が提示した5つの項目を思い出しました。 その5つとは。 (1)注意を喚起させる音であること (2)すぐに行動したくなるような音であること (3)既存のいかなる警報音やチャイム音とも異なること (4)極度に不快でも快適でもなく、あまり明るくも暗くもないこと (5)できるだけ多くの聴覚障害者に聴こえること チャラン!チャラン! なぜあの音になったのか『ゴジラ音楽と緊急地震速報』 そうそう。とくに(4)の「極度に不快でも快適でもなく、あまり明るくも暗くもない」が当てはまる。逆に「不快でも快適でもあり、明るくも暗くもある」としてもおなじことでしょう。「バランスのよいアンバランス」とでも言おうか。どちらかといえばビートは暗め。しかしそこへ乗る声は明るめで、表情も終始笑顔。楽しそう。かつ狂っている。つまりやばい。ちなみに、伊福部達は緊急地震速報の音を作成した人物で、『ゴジラ』の映画音楽を作曲した伊福部昭の甥です。 この曲は客演に日本人ラッパーがふたり。stillichimiyaからMMM、そして鎮座DOPENESS。日本語のタイトルもついています。「深夜0時、僕は2回火を付ける」。一聴して、これもおかしい。やだ、こんなのはじめて。MVもくせになる。男性陣の顔色よすぎ。女性のG.Jeeだけふつうに可愛らしく仕上げているのは紳士的なのかなんなのか。 JUUは虫っぽい。「葉っぱを吸って叫ぶ」とか歌ってるし。虫はだいたい葉っぱにまみれて生きています。極私的な最高級の

日記732

あさ、鏡を見てふと「くちびるかわいい」と思う。自分のくちびるが特別かわいいのではなく、人間のくちびる一般につきそう思う。それから「人間の顔は解剖学的には内臓が露出している部分」という三木成夫のことばを思い出し、「ここが臓器の突端なのだなー」とも思う。 かわいいのはそう、臓器っぽさ。虫っぽさ、とも言える。バッタのからだみたいなふくらみ。イヤな重ね合わせかもしれない。しかし内臓は事実としてかなり虫っぽい。それも、うねうね動くやつ。ミミズ系のやつ。乱暴ながら、人間の中身は虫なんだと半ば思っている。「虫けら」と貶めているわけではない。わたしは虫が好き。マジ虫リスペクト。そのうえで虫だと思っている。 人体を個別にバラして見ると、「虫っぽさ」が見え隠れする。虫は愛らしい。「抽象的な人類なら愛せるが生身の人間は憎まざるをえない」と誰かえらい人が書いていたけど、生身もバラせば愛せる。たとえば嫌いな相手の耳だけを見てみる。耳はみんなおもしろい。寄生虫みたいにユニークなかたちをしている。わたしは「うわっ、耳きた!かわいい!」と心ひそかによく思う。トータルでは殺したいほど憎い人間も、耳だけに還元してしまえばあんがいキュートなのだ。 いわば対人関係ではなく、対耳関係としてみる。「人と人との関係」なんて、ごく少数としか結びえない。大半の人とは「耳として」付き合う。べつに「くちびるとして」でも、「鼻として」でも、「眉として」でも、「アゴとして」でもなんでもいい。 一部なら、みんな愛せる。この人めっちゃウザいけど、アゴの形状だけは最高!みたいな人物はいる。たぶん。これは世界平和へ向けた、まじめな提言です。まじめなアンガーマネジメントです。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とならないように。「坊主」と「袈裟」は明確に分離し、憎い坊主の相手をいさぎよくやめる。憎くない「袈裟として」付き合うのだ。袈裟がなんか言ってらぁ! って、そう器用にトリミングできるものでもないのかしら。都合よく切り分けて、都合よく接続しなおすの。これができるのは、けっこうな人でなしにかぎられる可能性が高い。でも人はたぶんね、思ったより人じゃないのよ。ときには虫っぽくも、魚っぽくも、植物っぽくもある。鉱物っぽいところさえあると思う。人なだけではない。そんなにね。 耳の話がしたい。とう

日記731

上の写真。ちからずくな落描きではなく、木の模様に従ってそれを猫にしている。融和的というか。描いた人は、もともとある空欄に猫を見出した。めざとい。おみごと。自然的な循環のすみっこにちょんと乗っける、そんな落書き。空欄をことほぐように。 おそらくすべてはもう、かたちになっているのだろう。すでにある。なにもかも。できることはそのうえで、どこになにを見留めるか。それしかないのではないか。これは個人的な運命論でもある。すでにある世界を何度も生きなおすような。 「やりなおしている」と前に書いた。いつもだいたいおなじ話をしている……。いま気づいたが、これは写真の話でもある。すでにある世界の一部を光学的にかたどる技術。見出された猫のかたちを、さらに見つけて、写真のかたちにしなおした。いわば発見の連鎖。 世界はすでにある。めっちゃある。どこまでも、びっくりするほどある。ありすぎてときにあたまがぐらぐらする。あたりまえといえばあたりまえの、この大前提を忘れずにおこう。あるものをあるとすなおに見留めるために。 人もきっと、この木の表皮みたいにさまざまなかたちをまとい目の前に現れる。写真を見ながら、そんな連想が働いた。人間にもアメーバ状の抽象的な線があらかじめ入っている。ひとりひとりちがう。それぞれの人のもつフレームのかたちに従って補助線を引くようなコミュニケーションのあり方が理想的だと思う。目の前の空欄を、ことほぐような。 チミのここは猫っぽいね、とか。このへんハートっぽくてかわいい、とか。なんかそんな。やばい、ゆるふわな例しか思いつかない。 つまり相手がすでに身にまとっている要素をいかに意味づけ、かたどるのか。という観点から対人関係を考えている。一方的に書き入れることはできない。引けるのは補助線のみ。すぐに消えたってかまわない。 もちろん自分自身との関係においても、すでにいるコイツをどうするか、融和的な視点で捉えている。日々、再利用。いつもおなじような休むに似た考えをすこしずつ変化させながら、わたしの空欄をわたしはここでことほいでいる。そういうことにしておく。 「太陽の下、新しいものは何ひとつない」という、コヘレトの言葉がむかしから好きだった。こんな感覚に至ったのは、そのせいだろうか……。コヘレトの私的なパラフレーズなのかもしれない。ここでもや