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7月, 2018の投稿を表示しています

日記587

7月30日(月) 忘れることが始まって久しい、親戚のおばさんっていうのかな、もうおばあちゃんなのだけれど、お会いしたらずっと笑っていたから、よかった。血縁があるのは、おじさん(夫)のほう。家にお邪魔をする。わたしのことは、「わかんない」って。たとえば、じぶんの母親の記憶がなくなり「あなた、だあれ?」と言われるとして、かなしくなるのかなーなんて、ときおり想像してみることもあって、この日の経験から、その想像が以前より具体化できるようになった気がする。 だれの顔も、なにもかも忘れられたって、そのひとが笑顔でいるのならそれはそれで救われるのかな、と。ずいぶん安心すると思う。すくなくとも、わたし個人の気持ちはその表情だけでとても安らぐ。内心がどうあれ(「内心」なるものがあると仮定して)、表情だけでも苦しくなければ。 ことし仕事を完全にリタイアしたおじさんの介護を受けながら、穏やかそうなひととき。バームクーヘンのかけらを、1時間ちかくかけてすこしずつ食べていた。わたしのおみやげも「おいしい」と、ささやくような声でつたえてくれる。なんとなく、いたずらっぽく馴れ初めを聞いてみると、夫婦ふたりで顔を見合わせて笑う。この瞬間がよかった。ふたり同時に照れたような、面映ゆい。 こどものいない夫婦だから、お父さんお母さんの馴れ初めは?みたいな質問を受けたことがなかったのかもしれない。こども、できなかったのか、つくらなかったのか、それはわからない。いないだけ。それでもいい。理由は知る必要もない。理由自体の必要もない。ふたりにとっては、あたりまえのこと。 この日はちょうど朝、生まれたひとがいて、うけとったその写真を見せる。また夫婦で笑ってくださる。おばさんは、ことばを掴み出して口を動かし表現するところまで、なかなか、いかないみたい。しかしことばがあつかえなくとも、それ以外は十全に息づいていると思った。おばさんに「いまもいい女だなあ」とおっしゃるおじさん。なにも言わない笑顔のおばさん。耳に届いていたのか、それも定かではない。「いい女」ってセピア色の響きがする。もはやレトロ。 夫婦の歴史を聞く。おじさんの明晰な語り口のせいもあってか、過去のふたりの時間がすべて、いま晩年を過ごしている一室につまっていたように思う。物語とはこういうことだとなんとなく思う。たったひとつの

日記586

これから一ヶ月ほど、フル主夫生活です。フル主夫です。フルシチョフです。手始めに常備菜。手際が悪いこともあるのだけれど、家事をしていると一日がみじかいなあ。祖母と、ふたりぐらし。左から、ニンジントレンコンノアマカライーノ、ナスヤイターノ、キャベツアエターノ。すこしずつ食べる。 姉に、「良い誕生日を」とLINE。サメとワニの絵文字でかこって。出産するそうです。ひよこの絵文字を末尾に置く。ついでにニワトリも置く。ダチョウも置く。フクロウも置く。サーモンとペンギンも置く。 「めでたい」とか「がんばって」とか、すなおに言えない。前向きなだけではない。めでたいだけではない。とても複雑な日。人間がひとり生まれる。この世に生まれることは、よろこばしいだけのことではない。こういう話をすると「気難しい」と笑われるけれど、わたしはどうしようもなくかなしくもある。そのうえで愛しくもある。 こんなにかなしいのに、「よろこばしい」と話を合わせないといけない。よろこぶことに罪悪感があります。初めて息をして泣き叫ぶちいさな人間を前に、よろこぶだけでいられますか。こんにちは、赤ちゃん。あなたはここにきてよかったの?だれがつれてきたの?なにをつれてきたの?どこへゆくんだろう。これから生きるんだ。いろんなことが、わからないまま。こわいよね。こわい。わかる。わたしも変わらないから。おなじように泣いている。変わらない。わからない。 妹がLINEで赤子が身体測定をされて泣き叫んでいる動画を送ってきた。それを見て泣きそうになる。なぜなのか。外に出てきたばかりなのだ。大混乱で泣いている。知覚の大混乱。空虚に放り出された孤独。かわいいとか、そういう距離を取って見る感覚にはなれない。僕は子供になる。混乱のただなかの子供。 — 千葉雅也『思弁的実在論と現代について』予約開始 (@masayachiba) 2018年7月25日 この「混乱のただなかの子供」みたいだ。 わたしはいつまでも。なぜなのか。

日記585

近い未来に自信を持とうと思う。 遠くに描いた理想への自信よりも。 いまこの瞬間よりも。 一歩だけ進める先の足場に。 縦に片足ずつ運ぶ生き物として。 歩幅のぶんだけ。踏みしめる。 この世の外ならどこへでも。 わたしの20代は、興味本位にあれこれ眺めて、それで終わったと思う。まだ20代だけれど……。見ること。ただ見ること。それだけの10年間。10代は、周りの人々が向く方向に従っているだけだった。わからなかった。なんにも見ていなかった。そのまま従っていれば、順風満帆だったのかもしれない。なぜかわからないが、ふと足下の影が気になって、長い時間、立ち止まった。そのあいだに「周りの人々」が行ってしまった。目印にしていた人々が消えた。なにも見えない。影の黒さしか。どうやらわたしはめくらになったようだと、そう感じてから、わらにもすがるような思いで「見ること」が始まった。めくらのまま。いまもまだ。 盲目と向き合うこと。 それも、「見ること」のひとつ。 沈黙と向き合うことも会話のひとつであるように。 これは譬え話です。でもじっさいの視力もそんなによくない。玉ねぎを刻むと、涙が病的に出るのだけれど、その通り病気なのか。この記事を上から読み直すと、詩みたいだと思った。「詩ではない」とも言えない。「鶏の串カツがたべたい」とは言える。近い未来に自信を持とうと思う。手に取れる範囲にお水がある。やはりお水がいちばんうまい。

日記584

Tシャツの柄になりそうな加工。 さいきん気がついたのは、加工が楽しいということです。この世界はすべて加工の素材だ。否応なく目や耳に入ってくるなにもかも、肌で感じるぜんぶ、脳味噌に踏み入る時点でコラージュされる。あらゆる事物が無意識の裡にごたまぜになっている。それを編集して吐き出す。ことばとして。写真として。音楽として。行動として。切り貼り。継ぎ接ぎ。よく言われる、ありきたりな話を肌で実感する。このごろ。 なにかを「言う」ことのなかには、どんなものでも弱さがふくまれている気がする。みたいな、だれかのつぶやきを、twitterで哲学者の永井均さんが引用しておられて、ああ、これはすごいと思う。その通りだとも思う。だから逆に、なにを言わないか、それがその人間の強みでもあるのだろう。言ってしまえるけれど、言わない。「言いたくても言えない」には、またべつの力学が働いている。 ひとの発言の裏にはきっと、守るものがある。どんなに攻撃的な物言いでも、解放的で自由な物言いでも、無自覚であれ、ひとは、ことばの裏でなにかを守っている。友人でも家族でも恋人でも、じぶんが継続的に関係している他人の、保守しているものに価値を見出すことができ、うつくしいと思い、わたしもあなたのそれを守りたいと感じている限り、良好な一対一の関係はつづくのだと思う。 弱さを盾に、自己の領分を守る。 それがひとのことば。 主語がおおき過ぎるか。書き直そう。 わたしのことば。すくなくとも。 ひとが、その表現によってなにを守っているのかを読みたい。 そのうえで、わたしもあなたのそれを守る。  あるいは、壊す。 いずれにせよ肝要なのは、他者が守っている領分を、なるべく正確に見積もり、慎重に予測すること。そのうえで醜悪な領野だと感じれば、ガソリンを撒いて火でもつけてしまえばいい。じぶんの領分が飲みこまれそうなら、静かに逃げ出してもいい。火の海は穏やかじゃないね。いや、その炎がうつくしく輝く可能性もある。 他人の領分が美的に適えば、ともに守ればいい。 わたしの判断の基準は美醜。「正しさ」はわからない。 守るのは、感受性の領分。 世界がうつしてくれる、うつくしさのまぼろしに騙されていたいと思う。好きなものに騙されることは、気持ちのよいことです。「騙されたくない」と思っ

日記583

かわいい蝉さん。 このときは、まだ生きている。 いまはもう、お亡くなりになったかもしれない。 7月24日(火) 歯医者に行きました。何年ぶりだろう。じぶんの感覚だと、悪いところはありませんが、twitterで「定期検診に行かないやつは内臓が謎の植物に食い破られ、いずれ森に還る」というお話を見かけた気がしないでもないので、なんとなく。まだ森に還るには早いから。疑うだけではなく、信じることもネットリテラシーのひとつです。 わたしの行った歯科医院は、始めに記録と検査をしまくるよ!ということで、若い女性から口に鏡をつっこまれながら口腔内の写真をバシバシ撮られるなどしました。レントゲンとは別に。なかなかの拷問ですが、われわれの業界ではご褒美なので大丈夫です。 いま思えばご褒美ですが、されているときはやたらでかいカメラのレンズを向けられて、まぬけづらで、鏡が痛いし、どういう気持ちになればよいものやら、置いてけぼりでした。うれし恥ずかし?いや、ちがうな……。感情の入る余地もなく、されるがまま。身を任せるほかない。無の境地。もうどうにでもしてくれ。 全体の骨格がなんとかという話で、ふつうに立って笑顔の写真も撮影されました。ぼんやりしていたら「にっとしてください!」と注意されてしまい、中途半端な表情だと不細工になるため、全力の笑顔で対応すると、「いいですね~」とほめられちゃって、モデルみたいな気分でした。 レントゲンも、細かく部分部分を撮影されて、ふだんこれほどまでに写真撮影をされる機会はないため、やはり恥ずかしさがありました。こんな撮影会があると知っていたら、遠慮しちゃっていただろうと思う。でもこれは検査です。とはいえ、いつも肌でくるんで隠蔽している内部がスケスケの丸見えになってしまうのに、恥ずかしくならないほうがふしぎではないでしょうか。スケスケは誰でも恥ずかしいでしょう。骨まで露出して、だいぶセクシーなことになってしまう。もはや露出狂です。たまにテレビでタレントさんが健康診断をうけ、内臓を全国ネットでみせびらかしているの、神経を疑います。 そんな感覚で、いろいろと診てもらったところ、わかりやすい虫歯はなく、歯茎の状態もそれほど悪くないそうです。ブラッシングもきれいにしていますね、とおっしゃっていただきありがたい。歯磨きは1回につき10

日記582

雨の鎌倉。 もう10日以上も前か、鎌倉で撮った写真です。この日なぜかノリノリで100枚以上は撮っていたから、しばらくは「困ったら鎌倉」という感じで貼り付けるのでしょう。半分以上ボツだけれども。とりあえず鎌倉。過去の時間の残骸。 書いておかなければならないこと。 あったような、なかったような。 7月23日(月) 街にある裸の少年の銅像を指さしながら「ちんちん!ちんちん!」とちいさな女の子が叫んでいました。「やめといたれや……」と思いました。おちんちんは見せもんやないんやで。ボインがお父ちゃんのもんとちがうのんとおんなじやで。お願いですから、それ以上の「おちんちん!」は、やめといたれ……。 幼い子供は、暑さのせいでよく気が動転しています。こどもの自由さたるや。ハレルヤ。これは、忘れないうちに、是が非でも書き留めておかなくてはならない歴史の細部です。いま書かなければ、永遠に喪われてしまうたぐいの。 忘却される。それが自然といえば自然なのですが、わたしにとって日記とはひとつの抵抗のかたちでもあります。7月、暑い夏の日、街なかで「ちんちん!」と叫ぶちいさな女の子が、麦わら帽子を首にかけて跳ね回り、陽射しと、影と、ちんちんと、あそんでいた。それを見つめるお母さんのまなざしは、困り果てていた。喪われてはならない、歴史の確かなワンシーンとして、ここに記しておこう。だれかが生きていた景色。わたしが生きて見た景色。 屋上の駐車場から。 「高いところが好き」というと、即座に「バカ」ということばが連想されそうなので、こういう言い方はしません。屋上が好きです。おなじだけれど、こう言えば「バカ」にたどりつくまでには「高いところ」より2~3秒のラグがある。このディレイタイムが非常に重要なのです。「考える」ということは、すなわちディレイタイムに身を置くことです。「バカ」という単純な結論に一瞬で飛びついてしまわないこと。 しかし、考え過ぎると遅刻をしてしまいます。「遅刻魔」というのは、だから良く言えば「考える人」なのです。同じ名を冠するオーギュスト・ロダンが制作したブロンズのあいつも、めっちゃ遅刻中です。あれは、遅刻をしている人の表現なのです。あの銅像が何を考えているのかというと、つまり「やっべーもう間に合わないじゃん時間すげー過ぎてっし、でも行

日記581

7月21日(土) 永山のベルブホールで映画『パターソン』を観ました。ジム・ジャームッシュ監督作品。TAMA映画フォーラム主催。その後、翻訳家の柴田元幸さんと詩人のマーサ・ナカムラさん、おふたりのトークと詩の朗読まで拝聴。個人的に、とても豪華だったと思う。前売り券1,000円は破格といってもいいくらいの。 帰りながら、「パターソンは、すべてを手に入れた男ですよ」と友人に話した。冗談まじりに大袈裟な表現をしてみる。だけど冗談ではなくパターソンのような日常が、わたしの理想だと思う。高望みをしているかもしれない。 わたしの望みは、とりあえず室内で眠ることができて、日々の中ですこしだけ本を読む時間と、なにかを書く時間がもらえれば、それでいい。もっと切り詰めると、最低限、死の恐怖におびえることなく日々をやり過ごせれば、なんでもいい。 いまは「死の恐怖」のない生活ができています。それで十分、贅沢。望みは少ない。でも、わたし以外のひとの望みもある。あたりまえだけれど。わたし以外のひとが、わたしに望むこと。わたしが望まなくとも、わたしについてなにかを望んでくださる他人がいることも、それだけで贅沢だと思う。すごいことです。 前日にどうも眠りが浅かったせいか、映画の途中でうとうとしてしまいました。静かな映画だったから、なおさら。描かれるのはパターソンという地に、パターソンという名前をもって生きるひとりの男性を中心とした7日間。詩の断片とともに、日々の出来事がていねいに描出される。パターソンはバスの運転手、そして詩を書くひと。 おもしろかったのは、パターソンの生活リズムに合わせて、わたしにも眠気が襲いくるところです。たまたまかもわからない。昼間、仕事の場面が終わり、夜になって犬の散歩の途中いつも立ち寄るバーのシークエンスあたりで、だんだん気持ちよく眠たくなってくる……。 そうして目を覚ますと、となりには愛する女性が眠っていて、時計を確認し、キスをして、ミルクに浸したシリアルを食べ、詩作にふけりながら、1日が始まる……。いま思うと「映画を観ながら眠たくなった」のではなくて、眠たくなるほどパターソンの生活に知らず知らず没入しちゃっていたのかもしれない。  映画を観ている「こちら側の事情」と、スクリーンの中にある「

日記580

腹の立つおしゃれな感じの写真です。 もっと汚らしいゴミをおしゃれに撮りたい。 さいきんバーボンを飲んだら翌日の頭痛がひどくてたいへんでした。タダ酒を飲ませてもらえる席でも、調子に乗ってはいけない。というか、わたしはお酒を飲んだところで、あたまの働きが鈍くなったり、気持ちが悪くなったりするだけだから、いいことなんかひとつもない。ひとつもないんだ。飲めることは飲めますが……。 しかしたいていひとは、意識の活動を鈍麻させたいがために、お酒を飲むのでしょう。気持ちはわかります。わたしも、意識なんかいらねえ!ぐらいのことを日々、思います。意識のバカ!もう知らない!ぐらいのことを思って生きています。もうほっといてほしいのに。意識はわたしを放っておいてはくれない。 どうやら生きている限り、意識はなくならないようなので、わたしにとってはあまりお酒の意味はないと思う。「鈍麻させる」くらいじゃ、お話にならない。やるときは完膚なきまでにやっつけたいのだ。それはつまり、死を意味するから。悪しき完璧主義です。まだ死ねないし、中途半端に意識をやっつけたって、あとあとめんどうなことになるだけだから、飲まないよ、もう。あたしゃ飲まない。 意識とは、人間の背負った宿命です。 こいつに下手な誤魔化しは通用しないのだと、悟る。 お酒は、控えめにします。 禁酒はしない。

日記579

ふつうに通り過ぎたけれど、あとから写真をみるときれいなトンネルでした。その場ではよくわからないが、帰宅後にふりかえると、あんがいよいと思う。だいたい日々はこんなものかも。逆もあるかな。その場でアホみたいに盛り上がったが、冷静にふりかえると、なんだったんだあれは、みたいな。 大きなことを言ってみると、時代や場所によって、ひとやものごとの評価が変わってしまうことも、こういう日常の機微と変わらぬ気まぐれのようにも思える。そんな作用も大いにありうると思う。どうにもならない日々。移り気な人々の棲む世界。「愚かな人間というのは丸い円というのに等しい」と書いていたのは倉橋由美子。 ひとの認識には時差がある。なにか悩みを抱えているひとへ「時間が解決する」という、なにも言えていないに等しいアドバイスがよく使われるけれど、なにも言えていないからこそ、このアドバイスは正しい。「わかったようなことを言うな」と思って嫌っていたことばだった。でも、決してそれだけではない。 「いまはもう、ことばを探さなくていい」「いまはもう、なにかを見ようとしないでいい」と、そういうことなのだと思う。なんにも判断しなくたって、あなたはいなくならないから。そこにいれば、ただ時間だけが経つから。じっとしていても、地球は移動していて、また朝がくれば、次の夜がきて、空の色も雲も移動してくれる。あなた以外のひとも、移動する。あなたはどこにもいかなくたって。なにも探さなくたって。息をひそめていても。 それはしかし、「解決」とはちがう。まったくちがう。そんな前向きなだけのものではない。もっと残酷さも孕んでいる。客観的に「時間は移動する」とだけ言えれば、十分だろう。さらになにも言えていないけど。どうにもしようのない、あたりまえのこと。わたしの悩みは「解決」なんか、できっこない。求めてはいないのだ。 それにしても、その場では判断せず、いま語りえないことについては黙して語らず、時間的な差を織り込みながら、慎重にものごとを判じることのむずかしさよ。だれだって、生きるのは初めてなのだから、仕方がないことなのかもしれない。未来を織り込むなんて、だれにできよう。どんなにわかったようなことをおっしゃる方々でも、初めてでしょう。きょうも、あしたも。 「おばあちゃん、こんなに歳をとると思わなかった、あんたも歳を

日記578

きのうは遅刻の言い訳メールをネタとして転載しましたが、あの、遅刻して開き直っているわけではありません。心境としては「まじごめん、ほんとなんで遅刻するんやろ、遅刻半端ないって、大迫より半端ないってもう、どうやったら遅刻止められるんやろ、時間ってなに、こわい、もう人生だるい、消えたい、時空を超越したい、3次元的な時空間から離脱したい」と思いながら、でもこのようなことをそのまま書いて送信すると重たい空気になりそうなので、ポップなことばに変換し「宇宙人にさらわれて謎の金属片を……ふぐぅっ!」などと打っているのです。 切羽詰まったときほど、軽口を叩く。 おもしろくなってきたぜ……。 腹には重い一物を、そして誠実さも携えつつ。 傲慢な自己正当化を図っているわけではない。わたしなりの、お許しの乞い方です。もちろん相手との関係も見つつ。友人でなければ、事実を述べて謝るだけ。でもそんなのほんとうは、つまらなくて息苦しい。それでは、じぶんが許せない。 おかしなメールを書くのは、じぶんからじぶんを許すためでもあります。「宇宙人にさらわれたんなら仕方がない」と、わたしはわたしを許せるから。いや、許すなよ!と思われるのかもしれない。反省しろよ、と。それはいつもする。 でも「遅刻くらいするさ」って、それでもときにはよいのではないかと、半ば、思ってしまいます。されてもいい。わたしとの約束なら。3年くらいなら遅刻したって。4年目に突入したら、さすがにつっこみをいれます。いまも遅れているのか、どこへ行ったのか、二度と現れそうにないひとまで、待っている。 おおらか、鷹揚、といえば聞こえがいい。 時間にルーズ、だらしがないといえば、悪くなる。 あるいは、社会不適合? なんでもかまわない。 ただ、仁義に悖ることだけはしない。 2018年の夏。 すでに、この季節らしいことをいくつかしている。もう夏が終わってもいい。十分だと思う。これ以上、夏になにを望んだらいいのかもわからない。この先の未来になにを望めばいいのだろう。 降りたことのない駅。ふらりと歩いて知らない神社まで行く。蝉の鳴き声が初めて聞こえた。鳴いていたとしてもいままで、わたしの耳には聞こえてこなかった気がする。 閑散とした石畳の脇にしゃがんで、写真を撮っていたら、緑色のシャツを着た年配の

日記577

6月~7月にかけて、遅刻の言い訳として幾人かの友に送信したメール数通。 すみません! うんこもらしたので20分ほど遅れます。 あっ、またもれる……。 モリッ。 むろん、もらしてなどいません。 こういう嘘をつく罰か、年に一回は、ほんとうにもらします。 人生はちゃんとそのようにできているようです。 いい加減な嘘をついてはいけません。 2通目。 ほんのり遅れます。先についた場合は、わたしの淡くほんのりした不在を堪能しながら、ほんのりお待ちください。ほんのりすみません。 *** すみません、12時35分に到着します。 約30分間、わたしの不在という至福をご堪能ください。 恍惚の30分! 「この言い訳がひどい2018」大賞です。 いまのところ。 ひどいけれど、これは発想の転換になります(言い訳の言い訳)。ひとの不在に「遅刻」という学校教育的な責任を問う名前をつけ、わざわざ待ちながらイラつくのではなく、そいつの不在に酔いしれるのです。 人間は、たいてい「わざわざ」イラついています。狭く考えて、思考が学校で習った了見の狭いルールに従順すぎるのです。考え方ひとつで冷静になれるのに。たぶん、ね。ルールなんか、てめえでいくらでもつくり変えてよいのです。イラつくと、健康によくありません。わたしは友の健康を最大限、気遣っているのです。「遅刻」ではありません。そんなレッテル貼りはもういい!戦争は終わった!学校は卒業した! 雑念を払い、もっとシンプルに考えましょう。 「不在」です。いない。 ここにはいないだけ。 どっかにいる。来るかもわからない。 青空をぼんやりと眺めながら、「あいついまごろ、どこでなにやってるんだろうなー」みたく、いなくなった人間を偲ぶように、感慨にふけってもらいたくて。もういない。もう二度と会えないんだ。そうやって、切なさとノスタルジーに浸りきり、じんわりと涙で目尻を濡らしたところで、颯爽とワシがルンルン気分のスキップで登場! あなたは目を疑うだろう。あ……あれ?うそだろ!?生きてたのか!ほんとうに?夢じゃないよね!よかった。いまちょうど、お前のことを考えていたところ。なんて日だ!こんなにうれしい日は、長い人生でまたとない!お前の不在を想って、はじめて、ようやく、気

日記576

前回にひきつづき、鎌倉の海です。 砂の上の水流。その襞に、曇り空の反射。 微光、ほのかな。 きょうも、この日のことは書きません。 日々が過ぎるのは早く、書き留める時間は追いつけない。置いていかれる。この「遅れ」の中に、わたしがいる。どうやっても追いつけない“いま”とのあいだで、遅く遅く、ことばは右往左往している。いってしまった彼岸と、追いかける此岸との峡間に落とす。一語、また一語。つながらないあいだを、埋めてゆくように。 もはやない過ぎた時間と、あとから落としたことば。この差分がもし、なくなって、ひとつになる瞬間が訪れるとすれば、それこそがリアルなのではないだろうか。なんて、信じている。きっと、ことばをつづるひとは、誰もがそう。 7月14日(土) 知らないアイドルとバンドのライブに行きました。 ひとり。場所は、下北沢THREE。 出演、4組。 アイドル2組、バンド2組。 事前になんも調べず。 みんな知らない状態!! そんなアホな客がいるのか。 いてもよいのです。 好奇心とすこしの勇気があれば。 なんだってたのしめる。 うわっつらだけの印象であれば、かんたんに「知らない」と言えてしまう。だけど少しでもつっこんでみるとたいてい、知っている“何か”とつながっている。あるいは「つっこむ」とは逆に、引いて俯瞰してみてもいい。「アイドル」という単語、「バンド」という単語、これだけの認識だって事前情報だ。「なにひとつ知らない」とは言えないだろう。それを言うなら「人間」ってだけでみんな知ってる。ちょー知り合いだ。みなさん人間ですね。それ、わたしの知ってるやつ!! ちがっていたら、すみません。 ワン公さんやニャン公さんがみているのかもしれない。 AARHNND(あ、あれはなんだ) というバンドの主催による企画です。LUNCH SESSION DISCO(LSD)。土曜のお昼時だったのでランチ・セッションかな。出演は、乙ナティック浪漫ス、おとといフライデー、AARHNND、MOJAの4組が順に。 アイドルはしかし、背景を知らないと十分に乗れない部分もあったです、しょうじき。その場のパフォーマンスだけではなく、背景にある情報、プラス感情的な「入れ込み」を加えて補填しなければ。一方向的な圧倒というよりも、ア

日記575

鎌倉、由比ヶ浜の海岸です。 曇り空、この写真の時間は夕刻。 闇がふるころ。 数日前に会話の過程で気がついたこと。わたしは、お持ち帰りをしているみたいです。「お持ち帰り」というと、いやらしい意味を読みこむ向きもおありでしょうが、そのような意味はございません。ごめんなさい。エロサイトかと思って意気揚々とひらいたら、気難しい青年がうだうだとわけのわからない冗長な文章をつらねているだけのブログでごめんなさい。いつも添えている、いい感じの写真は免罪符です。写真がなければ、ここには暗くて丸い精神世界しかない。横文字でいえばブラックホールです。 しかしですよ、エロサイトなんか見ている暇があったら、坐禅でも組んで、ご自身の卑しさを省みたほうがよろしいかと思います。わたしはいつも坐禅で精神統一を図りながらこれを書いています。うそです。ほんとうは、椅子に浅く腰掛け鼻くそをほじりながら白目をむき黙々と書いています。調子のいいときには、5分に1回ほどパンダの赤ちゃんによく似た奇妙な鳴き声を発しつつ……。 それはともかく、お持ち帰りです。テイクアウトです。「デリバリー」と言いまちがえることがよくあり、よく恥をかきます。エレベーターとエスカレーターもよく言いまちがえます。紛らわしすぎです。特殊なところでは、フリオ・イグレシアスとセルジオ・メンデスを言いまちがえます。でもフリオ・イグレシアスもセルジオ・メンデスも日常での出現率は4年に1回くらいなので、大丈夫です。 そんなドジなわたしでも、双子のタレント、三倉茉奈と三倉佳奈は即座に見分けられます。ズバリ、左目の下のホクロが目印です。ホクロのあるほうが、佳奈さん。このホクロの存在が佳奈さんを明証しているのです。左目の下のホクロが三倉佳奈さんの本体であり、左目の下に三倉佳奈という存在がぎゅぎゅっと凝縮されているのだと断言しても過言ではありません。 左目の下のホクロがなくなれば、ふたりとも三倉茉奈です。マナカナではなく、マナマナになります。いっそのこと、ひとつのマナになります。三倉茉奈さんは、じつはこの統一を生まれた直後から狙っているのですが、しかし、佳奈さんは生まれつきホクロの周辺に核弾頭を配備しているため手が出せません。 すなわち、マナカナの仲睦まじさは核の抑止力によって築かれたものなのです。だれが祖国をふたつに分

日記574

果てない“?”がアンテナ なにもなくてひとり突っ立ってた ひとつ膨大な時間が流れた また今夜、夢の中逢えたら 皆がただの歯車になり狂わぬように 果てない“?”を頭の上に 「果てない“?”」のリリックが、唾奇の「Just thing」と、PUNPEEの「Oldies」でかぶっていたなーと思っただけです。引用でしょうか。わたしも果てない“?”に追われるまいにち。それが「充実」ではないのか。群れの中で、わいわいさわぐことが、わたしにとっての充実ではない。それもたまには楽しいけれど。 疑問符をつけられるものは、すべて、生きているものなのだと思います。死んだものって、もう疑えない。死につつある思考は、疑うことをやめ始めます。疑えるうちは生きている。死はあまりにも完全だから、疑うことができなくて、かなしい。いやちがう。「死」でさえ疑って、想像力という息吹を使って、蘇生させることができるのです。人間には、それができる能力がある。 ひとが、かなしみから立ち直る過程は、疑問符をとりもどす過程なのだと思う。可能性をとりもどす、と言い換えてもいい。まえにわたしは、「そんなに信じなくてもいい」ということをここで書きました。かなしくなるとき人間は、その対象をもう動かせない、どう足掻いても動かしようのない冷たいものとして、信じてしまっている。 そんなに信じなくてもいいんです。 あらゆるものが、変化の途上にある。「死」でさえも。そんなもの、ありえないかもしれない。みんな、どこかで、いまも。いなくなってなんかいない。動物も、自然も。恐竜でさえ、いまも生きている。『ジュラシック・パーク』を観よ。絶滅なんかしちゃいないんだ。ひとには、想像力がある。どんなかたちであれそれは、だれかの希望によって生み出されたもの。そうやってどんな「死」も、熱をとりもどす。 宗教というものはだから、「死」に対する疑問符として発明されたような部分もあると思う。極楽浄土、天国、地獄などをつくりあげて、現実的な「死」を疑ってみせる。「死」の概念を、そんなに信じなくても済むように。思考を拡張するために。疑いの産物として信仰が生まれた。逆説的にも。こう考えると、おもしろい。論理が循環する。ぐるぐる。 信仰をうしなった現代人は「死」を信じすぎているように思う。じぶんも含めて

日記573

めっちゃドリフトしています。 タイヤ痕。バナナを踏んだにちがいありません。 それか、カメの甲羅をぶつけられたか。 * 「ひとが老いている」とこのごろ、思う。わたしの身近なひとびと、そしてわたし自身もまた。放置してきたツケが、まわりだしているようにも思う。周囲と、わたしにも。「なにかを始めるには、早いほうがいい」とよく言われる。そんなことをわざわざこぞって教えてくださるのは、誰でも、いつもいつも、遅すぎるからだろう。 手遅れだった。ここに生まれてしまったことも、物心がつけば、すでにあきらめる他なくて、いくらあがいても仕方がない。なんにもなかった頃にはもう、戻せない。宇宙が開闢する以前の世界まで戻ればいい。それくらい、なんにもないところへ。 しかしもう、なかったことには、ならない。なにもかもが手遅れであるように。いつだって、わたしたちは手遅れであるしかない。処置のしようがない世界に、処置のしようがない人間たちが集って、必死でなにかをつくっている。この土地がおもしろい。手遅れでありますように。という、愉快犯みたいな願望からつくられた世界にちがいない。その通り、ちゃんとみんな手遅れだよ、かみさま。愉快です。ありがとう。 手遅れでありますように。 わたしはよく「この場所」とか「この土地」などと書く。このとき想定しているのは、東京とか日本とかではなくて、宇宙や地球。または長い歴史のつらなりとしての時間的な位置。つまり、世界のすべての記憶。この腐敗した世界に堕とされた、という意味です。こんなもののために生まれたんじゃない。I am god's child. いっぽうで狭く「この家族に」とか「このひとたちのあいだで」とか、そういう意味もある、かな。 日本は、とても老いた国だと思います(いきなり日本の話)。じぶんらは、老いていると、そろそろ認めたほうがいい。その自覚のもと、あたらしい種や芽を胚胎させてほしい。しないといけない。日本をつづけたいのなら。 まずはじぶんに、あたらしい種を植える。 しかしわたしもいい年なのに、中学生からなにも変わらない。いや、赤ちゃんから、きっと変わってなんかいないのでしょう。本質的には。クソを漏らす頻度が下がっただけだ。それから、みずからでみずからを表現する方法が変わっただけなのです。 赤ちゃんとし

日記572

きのうに引き続き2日目のカナブン。 2日目のカレーと同様に、よりおいしく写っています。 うまみが出て。 きのうとおなじカナブンです。 あなたを忘れない。 7月7日(土) Tシャツの上に羽織る感じのシャツを買いました。 羽織りたいお年頃です。 お店で、もともと羽織っていたシャツを脱いで、商品の涼しげなシャツを試着していたら、ちかくにいた若い男性の店員さんからすかさず「お似合いです」と言われて、「そうですね、これ家から羽織ってきたやつよりいいですよね~」とこたえると、店員さんは返答に窮しておりました。困らせるつもりはなかったのだけれど……。 べつに、「その通り!おめえの小汚えシャツより、うちの商品のほうが断然お似合いに決まってんだろカスが!いいからさっさと買え!」くらいのことは言ってもらってもかまわないのです。かまわないのですよ。いいんだよ。 「店員と客」という立場の壁を分厚く捉えすぎているのだと思う。すこしくらい失礼だっていいんです。あくまで、わたしへの対応は。個別に、ひとを見て対応できるだけの柔軟性を身につけるまでは、むずかしいのかもしれない。個人を短時間で見極めることは至難の技でしょう。経験を積んで、機転を働かせる能力を相当鍛えないと。 たしかに、わたしの発言への「失礼にならない対応」は、すこしむずかしかったかもしれない。単純に肯定するだけだと、お客さまの私服をけなすことになるし、否定するとお店の商品の立場を危うくしてしまう。「店員と客」の立場を保った当たり障りのない返答としては「どちらもお似合いです」が正解なのだろう。 当たり障り。それほど慎重にならずとも、服屋にかぎらず、飲食店でもコンビニでもどこでも、どんなお店でも店員さんに対しては「もっと雑にらくしていいんすよ」と思ってやわらかく接しています。むしろ、そうしてほしいと願っている。 肩書なんか取っ払ったほうが、わたしは気分よくコミュニケーションが図りやすいのです。それに、もしわたしが接客を担当する店員の側になったとしたら、「雑にらく」なほうがだんぜん働きやすいのです。ストレスを低減できる。これは、ちいさな、ひそやかな、じぶんなりの社会運動です。わたしがらくをするための。言外に「らくしてください」と、言い続けたい。 他人同士の最低限の礼儀くらいは、わきま

日記571

カナブンが死んでいるということは、きょうから夏です。 このところいつも、日記を書こうとするときにだけ、暗く沈んだ気分でいます。書きたくないのではなく、もっと大きな「なにもかも終わりたい」というメランコリックな欲望の中へと沈潜してしまう。自然と、このときだけ。これ以外のときは明るいアライグマです。 きのうの記事とつなげるなら、「先」がちらつくのです。つまり、未来を思うと、どうにもネガティブな展望しか抱けない。苦しまないといけない。たのしいことだけでは、ないらしい。書いていないときは、べつの目の前の細かなタスクに専心することを心がけているため、大きなことは考えません。 友人に教えてもらった MBTIという性格診断テスト の結果です。サイトへ飛べば無料でできます。わたしは 仲介者型(INFP-A)だそうです 。ジョニー・デップとおなじらしい。他にはビョークとか、トールキンとか、シェイクスピアとか。 シェイクスピアも、就活の自己分析でこれをやらされたのでしょう。彼だって必死で『面接の達人』を熟読していたにちがいない。ジョニー・デップも『就職四季報』を手放さなかったという。生後3ヶ月から。いつの時代の誰であれ、就職活動はたいへんなのです。 この診断のすべてを信頼しているわけではありませんが、しかしわたしの結果はどうなのでしょう。「内向型100%」ってのは、なんなんだ。もうちょっと余地を残しておいてくれ。あまりにも極端ではないか。 当たっているのかどうかは、わからないとしておきます。「そうかもしれないね」くらいの感じで、じぶんの経過を見ておく。決めつけてしまわないこと。経過観察。決めつけたほうが、判断しやすいのだけどね。決めてしまうことがとても苦手。ただ、「仲介者」の説明ページにあった以下の一文は、ドンズバで図星を突かれたと思う。 放っておくと、まるで隠者のように引きこもったまま連絡が途絶え、友人やパートナーが、多大なエネルギーを費やして、現実世界に連れ戻すことになります。 過去に具体的な心当たりが何度となくあり過ぎるので、これは完膚なきまでに当たっています。ことし、就活アウトロー採用に参加してせっかくできたつながりも、facebookを消してからほとんど断ってしまった。積極的につながっているのは、ひとりだけ。ひとりでもいれ

日記570

渋谷の街は光が強すぎて直視できない。石材越しにしか。 都心のほうはどこもおなじだけれど。 7月4日(水) ヒューマントラストシネマ渋谷で『 フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法 』を観ました。ショーン・ベイカー監督。パステルカラーというの、おしゃれな色味の映画。きれいな紫色の低所得者向け公共住宅(=Project)が舞台。「貧困」ということばは、色が強過ぎるかな。あくまでパステルカラー。映像とおなじ中間色の目線から物語も紡がれていたと思う。カメラは、だいたい、こども目線のアングル。それがゆえに価値中立的なのか。こどもの「わからない」目線、ということ。 わかりやすく強い色のついたメッセージ性はありません。まず映像作品として、とてもよかったな。まさに画になるというか、フォトジェニックな映像。感想をことばにするにしても、原色の強い色味はつけたくないと思う。「間(あわい)」の表現がよかった。 主人公の女の子が、ずーっとのびのびと、とんでもなく自然な演技をしていてとてもかわいいのです。楽しそうに。ずっと。ずっと。ラストにさしかかるまで。ええっと、あらすじは特に書きません。感想だけです。不親切なブログ。「ネタバレ」も留意しません。親切味ゼロ。つまり、ネタバレをします。 6歳の女の子、ムーニーとその母親が物語の中心。父親はいない。観終えて思い返すのは、こどもと、おとなのコミュニケーションの狭間に存在する、幸福な嘘について。その嘘による幸福は、“いま”を保証するだけのもので、その先の保証は一切ない。幸福な刹那を、幸福に糊塗するための魔法でできた世界。 フロリダ・ディズニー・ワールド付近にある、安モーテルで暮らす母子。こどもにはこどもの魔法があって、ディズニーなんか関係なくいつも楽しそう。ディズニーはたぶん、おとなが懸命に創造した、「幸福な嘘」の象徴なのかもしれない。 おとなが嘘をつき通すには、コストがかかります。こどもの視界をさえぎるためのコスト。こどもには見せないもの、がたくさんある。 ディズニ―ランドも、来場者の視覚を構造として制限することによって先を見せず、わくわく感を演出する設計になっているそうです。遠近法を駆使した設計。そしてなにより「夢と魔法の王国」は、外の世界とは隔絶された閉鎖空間だからこそ成立するもの。閉じることによって、遮

日記569

ずっとこころがけていること。コミュニケーションについて。とくにお年寄りとの。じぶんの中では、あたりまえ過ぎてあまり言わなかったけれど、ことしに入って身近な友人に「こういう側面もあるかも」と伝えたら、妙に関心を示されたから、あたりまえではないのかもしれない。 祖母との会話における速度の重要さです。まずは内容ではなく、リズム。最初に念頭に置くべきは話の意味ではない。音の形なのです。音に乗せること、乗ること。「耳が遠い」ひとへ向けて声を発するとき、単に音量をあげれば聞こえるわけではまったくない、ということです。会話の構成要素はボリュームと意味内容だけではありません。 テレビの音量をいくらあげても「音は聞こえるけど、さっぱり内容がわからない」と祖母は訴えます。音と内容が乖離している。それはきっと、テレビの一方的なリズムの速度感がつかめないからです。ことばのリズムをつかむ能力も加齢によって減退している。 重要なのは、お互いに「聞こえ」のよいテンポ感をつかむこと。ゆっくりと通じ合えるリズムをさぐりさぐり、つくり出す。そこのツボさえ押さえれば、ボリュームはそこそこでも通じるのです。意味としてのことば、ではない、リズムとしてのことばに注意する。 人間、だんだんそうなってくるのではないか。ふつうにしゃべるときでも、そのひとの声による音楽が、ことばの意味を解釈するよりも先に通じている。年をとると、そこが際立ってくる。意味は、音に乗ってあとからついてくるもの。赤ん坊の脳味噌もおそらく、ことばの学習は意味ではなく、まず音楽的なリズムから入るのかもしれない(無根拠な仮説)。 口頭の会話も音にはちがいなく、この世の音という音には、時間の流れに乗ったリズムが生じます。ひとそれぞれのキーもメロディもある。そこのチューニングを会話の相手と合わせられれば、話に慣性がつき、ごく自然に音声が流れ出す。きっと、内容だけでは、ないよう。理屈はひっこめて、まずは音として考える。 といっても感覚的すぎてなんの参考にもならない。 コミュニケーションは、詰まるところ感覚なのです。 焦れてはいけないと、これはだれと会話をするときにも思う。空白がリズムをつくるのだから。それにわたしは焦ると、余計なことをしゃべってしまいやすい。リズムが狂うと失言してしまう。ははは。相手のテンポと、じぶん

日記568

じつは創作ってつめてゆくとものすごく反社会になっていく。まあ、ほんとはみんな知ってるよね、そんなこと。で、人間は本質的には反社会的なもので、それもほんとはみんな知ってるよね。 — 西崎憲 (@ken_nishizaki) 2018年7月1日 反対に「人間は社会的な生き物」ということばも聞きます。でもそんなの、ちゃんちゃらおかしいと思ってしまう。へそで茶が沸く。矛盾するようだけれど、社会とは、本質的には反社会的な人間たちによる、創作物なのです。ひとは、ないものをつくります。創作は、ないものねだりの産物です。 「社会体制」って、ひとびとの夢なのです。そしてこの「社会体制」という夢の創作も、つめてゆくと、大勢の支持によって独裁者が生まれたり、戦争が勃発したり、虐殺が起こったり、もろもろ「反社会的」な悲惨な事態に見舞われたりもする。それだって、人間のこいねがった夢です。「私はそんな夢はみない」というひとは、たぶん、申し訳ないけれど、夢に没入しやすいのだと思う。半睡半醒くらいでおねがいしたい。 つくられたものは、備わっていないものです。もともと「社会的な生き物」と人間を定義して満足できるひとには、社会を「つくる」という意識が欠落しています。みずからも、社会的につくられた人間のひとりである、という意識までずっぽり抜け落ちている。夢の中だね。そんなひと、わたしはおそろしいと思う。社会が「ある」のではない。つくるのです。 人間に「社会性」なんかそもそも備わっちゃいないから、がんばって先人たちがでっち上げてきたのです。でっち上げに感謝です。ときに「反社会的」な方向へ、でっち上げてしまったことにも、感謝を捧げたい。わたしたちは過去に学べるから。きっと、きっと、学べるから。いっぽうで、ぜんぶでっち上げに過ぎない、とも言えます。それだけ社会は脆いものです。あくまで集団がよってたかって「つくるもの」。 あたりまえの、所与のものではない。あぐらをかいていたら、いつの間にかおかしな夢の中へと迷い込むかもしれない。だけど「ほんとはみんな知ってるよね」と西崎憲さんがおっしゃるのなら、みんな知っているにちがいない。半睡半醒のまなざしでいたい。ほどほどに創作して、ほどほどに、手放すこと。安心して眠りこけて、ときどき起きて、また、静かに眠れますように。いつまでも眠ってい

日記567

カレーをつくりました。 料理はしていますが、あまり撮らなくなってしまった。「宿題やったけどもってくるの忘れました」という小学生の言い訳みたいに思われるかもしれない。話が逸れるけれど、この言い訳、好きです。たとえうそで、宿題をやっていなかったとしても、これを信じてもらって稼いだ時間をあてれば大丈夫、という希望的な意志が垣間見えます。それに「宿題やった」と伝えた手前、うそにうそを重ねるわけにはいきません。良心をかけらでも信じるならば。うそをほんとうにする意志を読みたい。「やったけど」には「やる」意志があると思う。 生徒の言いぶんをこんなふうに、いちいち読む先生はさほどいなさそうですが……。教育者志望でもないのに、教育者めいた妄想をよくしています。「先生みたい」と言われることもなぜかある。浅学非才もいいとこなのに。先生にはなりたくない。なれない。  それはともかく。トマトベースの牛肉カレーです。欧風カレーとスパイスカレーの中間くらい。レシピなしのてきとうです。過程も撮影しました。 お肉はジップロックで漬け込み。2日前にヨーグルトなどで。写真に不穏な加工をほどこす。ほんらいこれは、牛の屍肉です。多くの方は現実を見ませんが、そもそも穏やかではありません。この写真は、殺害され、切り刻まれた動物の肉をヨーグルト漬けにするという、みずからの犯した残忍な手口の表現です。贖罪も込めた。ありがとう、牛。ありがとうし。ありがとうさぎ、みたいな。こんばんわに。さよならいおん。 にんじん、パプリカ、たまねぎ、にんにく。説明がなければ、なんだかわからない。にんじんは、フードプロセッサーで細かくしました。お肉の食感をなるべくたのしんでほしいからです。野菜がごろごろしていると、お肉の噛み心地に雑念が混ざります。お肉をワントップに置く。純粋に牛の屍肉を噛み締めてほしい。牛の存在を感じろ。牛を思え。牛を讃えよ。贖罪も込めて。せめてもの供養です。味はどうでもよいのです。 まじめに書くと、わたしは「美味しさ」よりも「心地よさ」をたいせつに考えているなーと思います。食べ物は体内にとりこむものです。するりと馴染んで、違和感なくするするといけるようなものが理想。あら無意識に食べちゃった、くらいのするする感。究極的には、食べた感