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7月, 2021の投稿を表示しています

日記828

「意識する」を意識してみる。意識って「する」のだな、と改めて意識すると新鮮だ。「野球しようぜ!」みたいなノリで「意識しようぜ!」と言いたくなる。「野球しようぜ!」はつまり、「野球を意識しようぜ!」ってことだろう。「なにかをする」とはすなわち「なにかを意識する」ことだ。わたしたちは意識をさまざまに変形させながら生きている。意識プレイングゲームみたいなものだと思う、人生って。コントローラーは共用なのよね。ひとり用ではない。   ……で、またラルフ・ジェームズ・サヴァリーズの『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)から、メモしておきたい。   ローラン・モトロンの知覚機能亢進説によれば、自閉症者はこのようなレベルの入力を利用する能力が高い。その入力は意識に上りやすいだけでなく「トップダウンの処理に関して……より自律的である」。言い換えれば、彼らの前頭葉は感覚情報を人種や民族のカテゴリーなど優先的な高次の要素の下に即座に振り分けたりしない。おそらくその結果、個別化が行き過ぎる。逆に、ニューロティピカルは、少なくともその多くの人は、個別化をしなさすぎるという問題を抱えている。ニューロティピカルは他者について単一感覚による表象を持つ。それゆえ、彼らの自然な処理傾向を克服するには、多感覚による効能促進剤のようなものが必要なのである。  自閉症者は「視覚に関係する皮質領域の活性化が増大」し、「前頭皮質の活動が低下」している――別の言い方をすると、局所的な接続が過剰で全体的な(離れた領域との)接続が不足している――という説明は、考えてみると皮肉である。ニューロティピカルの脳について、科学者は適切に接続された脳と考えているわけだが、その脳が生み出す社会は、少なくとも現実に存在する特徴に関しては、けっして適切に接続されてはいない。p.235 へたな抜き出し方で申し訳ない。ここだけ読むと文意がとりづらいかもしれない。 ようするに自閉症者は個別化が行き過ぎ、そうではない人は一般化が行き過ぎる傾向があると。具体と抽象のちがいともいえる。「考えてみると皮肉である」の含意は、自閉症者のほうがよほど具体的な現実を生きているんじゃないの? ってなところか。ニューロティピカル(定型発達者)は適当にかっ飛ばして考えるのが得意なのね。だから物事を高速に処理できる。 抽象的な早い

日記827

オリンピックやってるせいか、街にやたら警官が多い。しかもやたらとあいさつされる。きょう、ほっつき歩いてたら「こんにちは~」と言いながらふたり組の警官が寄ってきて、職務質問か!と身構えるも、なにもされなかった。ただすれちがっていった。ちょっと寂しかった。してよ。そこまできたら。勘違いさせないでよね。 これで今週3回目のあいさつだった。あいさつは安全保障に資するのだと思う。高橋康也の対談集『アリスの国の言葉たち』(新書館)のなかで、大岡信がこんなことを語っていた。 以前、パリで気づいたのは、アパートの階段をのぼっていって、そこの住人とすれ違う。はじめて会うのに必ず向こうは何か一言いって、わきを通りすぎていく。おばあさんでも若い人でも。タクシーの運転手でも「ボンソワ・ムッシュ」とかね。日本ではそういう習慣はほとんどない。大人の世界に挨拶がないから、子供にないのは当然だね。ヨーロッパの場合、パリなんか典型的だけれども、多種多様な人種が一つ町に暮らしていて、それぞれ母国語で話が通じるという認識自体が前提にない。日本人のように国内どこでも同じ言葉が通じるという考え方で、差といっても方言が違う程度の民族とは、言語観が根本的に異なる。もし向こうの人が日本人の流儀で、ブスッと黙ってすれ違ったら、相手との対立感情が激しく出てくる可能性がある。そういう事態を避けるためにも、必然的に挨拶が重視されて、何はともあれ言っておくという、必要に迫られた習慣じゃないですか。pp.299-300   「敵意はないよね」という確認。そんな面があいさつにはある。日々のあいさつはもっともコストのかからない安全保障なのよね。言っておくとお互い安心。共同体を平和に保つための、かんたんなシグナル。ネット上でもあいさつの習慣はたいせつだと思う。警官にあいさつされやすい現在の東京は非常時で、すこし異国的なのかもしれない。警官って人を不安にさせる存在だから、あいさつしてくれるとありがたいかな。   名前をつけるのは、最後の別れを告げるとき。と前に書いた。名前は出来事を過去にする。過去をつくる。そのためにある。名前を知ることで、それまでのことが過去に落ちつく。自分の名前は、過去の残響。そんなことを考えながら、今夜はサバを焼いた。  

日記826

    前提において重要なこと。     実際、自閉症者と非自閉症者の情報処理には明らかに違いがあると思われるが、他面、どのふたりの自閉症者も、あるいはどのふたりの非自閉症者も、完全に同じようにものを考えることはない。   ひきつづき、ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)より。便宜上、「自閉症者」「定型発達者」などとひとくくりに書くけれど、いうまでもなく人間は多様だ。現実は論理的にきっちり整理できるほど、ぴったりしていない。この世界の大枠はまったく言語的なものではないし、人間的なものでもない。すべてのカテゴリーは便宜である。 人々は見た目から多様です。街を歩きながら、よく思う。みんなちがって、みんな奇妙。ばかみたいだけど、まいにち思う。 いうまでもなく多様なのに、わざわざ「多様性!多様性!」と言い募るのも奇妙でおかしい。どうやら、頭ん中は多様じゃないらしい。見たまんま多様でも、見えない部分でどこか同質だと思い込んでいる。おもしろい。皮肉ではなく、文字通り興味深い。ヒトの知性は基本的に模倣を旨としている。あらゆるところにパターンを見出そうとする。 自閉症の専門家はようやく最近になって「限定された興味」を、自閉症者と交流し、彼らをより定型的な社会性の中に引き込む手段として推奨し始めた。こうした形の興味は、良くても無意味、悪ければ有害であると常に考えられてきた。「限定された興味」という考え方が明らかに皮肉であるのは、これがたとえばフェイスブックやテレビ視聴やショッピングなど、あらゆるニューロティピカルな行動にも容易に当てはまることである。 自閉症者も非自閉症者も、ひとしく興味は限定されている。わたしもそう思う。ただ、「限定」の性質がちがうっぽい。パターンの性質ともいえるかな。上記ふたつの引用は巻末の原注から。注釈に熱のこもった記述を見つけると、おまけをもらって得したような気分になる。 研究者のティム・ラングデルは、ニューロティピカルが「対人関係のパターン」を見るのを得意とするのに対し、自閉症者は「純粋なパターン」を得意とすることを明らかにした。「純粋なパターン」は、一見したところ隠れている。自閉症の少年が装飾付きの枕をラビオリと呼んだことが示す通りである。それは社会的に割り当てられ、受け入れられているものの

日記825

 自閉症について、また、文学的な読解や執筆について神経科学的に探究しているうちに、私はこんなふうに考えはじめた――文学は、自閉症者、ニューロティピカル双方にとってひとつの矯正手段となりうるのではないか。あるいはある種の調停と言ってもいいかもしれない。自閉症者では感覚が思考を圧倒する。ニューロティピカルでは思考が感覚を圧倒する。言うまでもなく、文学は感覚と思考を結びつけるものである。pp.65-66 ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズ『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(みすず書房)より。「ニューロティピカル」とは、定型発達者のこと。上記の引用は手前味噌ながら、横道誠『みんな水の中』(医学書院)の感想としてわたしが書いたことにもちかい。 (横道氏は)「 文学と芸術とは、混沌とした宇宙に明晰さを与えるものにほかならない (p.51)」とも語っている。ここがおもしろい。 というのも、定型発達者にとってはおそらく逆なのではないかと思うからだ。既成の概念から逸脱した、あいまいな世界のなかの自己と向き合う営為として芸術がある。しかし、「既成」に組み込まれていない「混沌とした宇宙」に棲む発達障害者の側からすればそれは、明晰さを湛えた光のようにうつる。 日記812   ここでの「あいまい」は、サヴァリーズのことばで「感覚」にあたる。「既成概念」は、「思考」にあたる。「自閉症者では感覚が思考を圧倒する。ニューロティピカルでは思考が感覚を圧倒する」という、これは「自閉症者ではあいまいさが既成概念を圧倒する。ニューロティピカルでは既成概念があいまいさを圧倒する」と言い換えることもできよう。 文学にかぎらず広く芸術的なものの見方は、発達障害と定型発達の結節点となる。わかっていたものがあいまいに溶け出し、わからなかったものに輪郭が宿る。そうした営みを芸術と呼ぶのではないだろうか。わかっていたものがわからなくなる。言い換えれば、喪失からはじまる営為。 作家の高橋源一郎が『誰にも相談できません』(毎日新聞出版)という新聞の人生相談をまとめた本のなかで、こんなことを書いていた。芸術系の仕事をしている女性の相談に寄せて。  若さを、美しさを、健康を、感覚の鋭さを、あなたは失ってゆくでしょう。では、それは、耐えられない苦しみしか生まないのでしょうか。そうではないことをあなたは知ってい

日記824

  ここんとこラルフ・ジェームズ・サヴァリーズという人の著書、『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書 自閉症者と小説を読む』(岩坂彰 訳、みすず書房)を読んでいた。きょうから数日かけて、この本についてちょこちょこ書こうと思う。書評にも感想にも満たない、寝る前の短いメモとして。 はじめに盲目の詩人、スティーヴン・クーシストが文章を寄せている。そこから引く。   アメリカのある有名大学で教職を得るための面接を受けたとき、創作学科のひとりの教授が、もしあなたは目が見えないのなら、どうして世界をそれほど明瞭に描けるのかと尋ねてきた。法に触れるぎりぎりの質問だったが(この教授は私が盲目を装っているとでも思ったのだろうか)、その質問自体が現代の一部の作家が言語の最も根本的なレベルの働きについていかに理解していないかを露わにしていた。彼は、すべての名詞はイメージであるとは思いもしなかったのである。この教授は著名な作家で、私がそれに答えて言った内容をとうに理解していてしかるべきだったと思う。「私が苺と言う。あなたは苺を見る。私が戦艦と言う。あなたは戦艦を見る。私がそれに相当するものを見ているかどうかということは、あなたの受け取り方には何も関係しないのです――だからこそ、詩人は古来、魔術的と信じられてきたわけです」。もちろん、目の見えない人も見える人とまったく同じように心的イメージを生み出す。このことは、現代の神経科学が立証している。網膜の働きは必要ないのである。   このエピソードをノートに筆写したあと、次のような走り書きを加えた。「ことばを扱うとき、誰もが盲目になる」と。クーシストに「法に触れるぎりぎりの質問」を投げかけた著名な作家でもある教授は、まるで自分が盲目だと気づいていない盲人のようではないか。見えていないことを忘れている。だから不用意にぶつかってくる。それに対して、意訳するとクーシストはこう述べている。「あなたも、ことばのうえでは盲人と変わらない」。 ことばは世界そのものではない。世界観の反映である。どこまでいっても、世界そのものにはなりえない。「光あれ」と書いて、実際に光がキュピーンと満ちてくるわけがない。わたしたちはいつだって盲人のように書き、盲人のように読む。盲人のように話し、盲人のように聞く。見えない何かを。    

日記823

  踏切にパイナポゥ。       今朝、小泉今日子の「夏のタイムマシーン」が頭ん中で流れてた。 夏のタイムマシーン 少女の私に伝えてよ あの日探してた答えは今も出せないけど 夏のタイムマシーンだいじょうぶだよと伝えてよ あの日輝いてたその瞳に負けないくらい 一生懸命泣いて 一生懸命悩んで  一生懸命がんばっているから       連絡をくれる若い人には、こんな気持ちで接する。答えは出せないけど、だいじょうぶだよ。つまり、「ウォウウォ、ウォウウォ~」だよと。あの日の、少女のわたしに伝えるように。いちおう年食った人間として、そういうことも考える……。何周も考え抜いたすえの「ウォウウォ、ウォウウォ~」である。 ところで『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』(春秋社)という本のなかに、「他者」をめぐるおもしろい思考実験の話があった。藤田一照・永井均・山下良道の鼎談本で、以下の引用は哲学者の永井均氏の発言。   もし、本当に世界に自分一人しか存在しないとします。地球上に一人だけ残されたとします。文字通り一人。いや、残されたというのはまずいな、最初から一人しかいないことにしましょう。他の動物などもいないとしましょう。食べ物はあってともあれ生きてはいける。知的能力などもなぜかあることにします。そういう状況を考えてください。たまたま想像力豊かな人間で、他人がいる可能性を想像するとしたら、自分と同じような体を持っていて、自分と同じように眼が見えたり、痛みを感じたり、感情を持ったり、考えたりするやつを、ということでしょう。 でも、もしそういうやつがいたら、そいつはもう一人の自分じゃないですか。だって、自分と同じように、現実に眼から世界が見えたり、現実に痛みを感じたり、感情を持ったり、考えたりするんでしょう? そういうやつがいるということは、もう一人自分がいる、つまり自分の体が二つある、という意味になりますね。そうとしか考えられないはずです。p.160   おそらく実際の世界における他者も、「もう一人の自分」として想定せざるをえない部分はあるのではないか。未知の他者であれ、コミュニケーションをとるためには多少なりとも共感的に「もう一人の自分」と想定しないと端緒がつかめない。わたしの感覚だと、程度に個人差はあれど、誰もが「もう一人の自分」を想定しながらことばを使っているように思える。

日記822

月がきれいだから遠回りして帰った。

日記821

平日は2食、活動量のすくない休日は1食の生活を2ヶ月くらい前からつづけている。欠かさず2食を、もうちょっと臨機応変にした。動かない日は、食べなくていいんじゃないか。むろん個人の身体感覚にもとづく判断なので、おすすめはできない。 飢餓感に対する強迫観念があまりない。いうまでもなく、水分はこまめにとる。ミネラルウォーターや、炭酸水。あるいは、リンゴ酢に塩とハチミツを加えて水で薄めたジュース。ココア。緑茶。薄めた牛乳。など。なんでも薄めがち。 「外食したときは、足りない野菜を家でとる」という知り合いの女性がいる。「美容は内臓から」と言っていた。一部では常識らしい。じっさい、お綺麗な方だ。わたしも美容のためではないが、意識的に内臓のことを考慮する。腹の底をクリアにしたい。 入れたいよりも、出したい気持ちが強い。摂取より排泄に気をつかう。排泄のための摂取。空腹でいたい。文字通りstay hungry。人生はからっぽである。仏教的な考え方にも惹かれがちだ。でもわからない。ゴータマさんの教えとはまったく異質な感興かもしれない。 他者と接するときも似たような心構えでいる。「ぜんぶ出しちゃってくれ」みたいな。「否定しない人」と言われる。そんなこともない。たぶん、考え方が逆説的なのだ。否定性に肯定を見て取り、肯定性に否定を見て取る。価値観をずらす。これは悪癖でもある。 ただ、人のことばをむやみに奪うような真似だけはするまいといつも肝に銘じている。安心感を何よりも優先する。できるかぎり何でも話せるように。そのほうが創造的で、おもしろいやりとりが成り立ちやすい。自分の態度は、自分が社会にもとめている理想の実践にほかならない。「社会人」とは、そのような実践者を指すものと信じる。 わたしの思う「安心感」は、快適な距離感のこと。それはとうぜん、人によってちがう。個体ごとに適切な近さ、遠さがある。安心に足る明度や温度感もそれぞれちがう。個人的には遠めで暗めで冷やっこい感じが居心地よい……。 「合う合わない」は厳然とある。育ってきた環境がちがうから、好き嫌いは否めない。夏がだめだったりセロリが好きだったりするのね。妥協してみたり多くを求めたりなっちゃうね。しかし、対話は基本的に好意の原則(principle of charity)から始まることも忘れてはならない。 この好意の原則を平易にいえば、ひと

日記820

いい壁。 に、木漏れ日。     あっさり終わる。 暑いし。 ことしの夏は、味が濃い。

日記819

文芸誌『群像』の2021年8月号を図書館でちらっと読んだ。いま出てるやつ。ちらっと。具体的には穂村弘の連載と永井玲衣のエッセイと、小特集「ケア」だけ。永井さんは哲学の研究者で、さいきんなんとなく名前を追っている。    存在することは、いたたまれない。存在は、白々しい。誰もがみな存在はしている。だが、ただ存在するというのは努力がいる。何かに「なる」、何かを「する」ことは容易であるが、「ある」ことは難しい。それで、ただ存在するという運動を、ひとりではじめることにした。   「ただ存在するだけ運動」と題されたエッセイの書き出し。勝手な見立てに過ぎないけれど、永井さんの方向性がよくあらわれている。気がする。 「容易」と「難しい」を提示したうえで、難しいほうへ正面から突っ込む。そういう人物。逆へ行ってもいいのに。すくなくとも真っ向からぶつからなくたっていい。「ある」ことは難しい。ならばそんなことには蓋をして、海賊王に俺は「なる」!とぶち上げても差し支えないはずだ。急に、“ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)”をめぐる海洋冒険ロマンのほうへ舵を切っても。いや、差し支えあるか……。すり替え過ぎ。 ともあれ、目の前に容易なことと難しいことがあれば容易なほうへ流れたい。それが人情だろう。見通しの立つ方向と見通しの立たない方向があれば、見通しの立つほうへとすすみたい。しかし、そうはしない。冒頭の数行から、永井さんの方向感覚がわかる。いたたまれなくて、白々しくて、努力がいる、難しい方角を選ぶ人なんだなーと。しかも、とうぜんのように。  たしか丸谷才一がどっかで「接続詞は方向指示器みたいなもの」と語っていた。引用した永井さんの文中では「だが」と「それで」。とくに「だが」という最初の逆接が効いている。この時点で行く方向がわかる。「それで」は「だが」の言い換えだろう。「難しいほうを選ぶ人」は逆接を選ぶ人でもある。難しいことは知りつつ、だがこっちへ行く!と。でもやるんだよ!と。 わたしの考えでは、接続詞にもっとも自意識があらわれる。著者の行きたい方向があらわれる、ともいえる。小説家の保坂和志も似たような話をしてたっけ。「わたしの考え」じゃないかもしれない。   保坂  (…)僕も「接続詞を一個も使わない文章」というものを自分で試しているんだけど、なかなかうまくいかない。前提として接続詞というものは

日記818

7月11日(日) 書店で『宇宙はYESしか言わない』という本を見かけて、「まじかー」と思った。NOと言えない宇宙。たまには断ってもええんよ。宇宙にもなんやかやあるやろうし。無理したぁアカン。部長に言うといたるから。きょうぐらいやめとき。太陽とかもそんな昇る必要ないて。ゆっくりしとけ。日曜日やし。暑いし。と思いながら通り過ぎる。 きのう、久々に付き合いで居酒屋へ行った。政治家に対して「あいつら全員、穴掘って埋めちまえ!」と叫ぶ知らない人がいて、アツかった。土建屋さんだろうか。居酒屋の店主もあまり穏やかではないごようすだった。駆け込み需要かしらんけど、かなり賑わっていた。 きょうは知り合いから出産の報告と、母方の親類から祖父が亡くなった報告をほぼ同時に受け取った。そんな日もある。電話でそれぞれにお祝いとお悔やみを告げる。いつの日も、自分にとって何の変哲もない一日と、誰かにとっての決定的な一日が何ら矛盾なく同居している。逆もまた然り。わたしが死んでも、この世界は何の変哲もなくつづくだろう。たぶん。 「変哲のなさ」だけが希望だと思う。素知らぬ顔で日々をつづけていてほしい。何があっても。『宇宙はYESしか言わない』ってそういう話かなー。しらんけど。 親類が亡くなりはじめ、同年代が家族をつくりはじめる。20代後半~30代前半は、そういう年代なんだろう。男女かぎらず、独身だと焦りだす人がいる。わたしは独身だけど、なんとも思わない。関係ない。それぞれに「よい人生を」って感じだ。おめでとう、よい人生を。  一般に誕生は喜ばしく、死別は悲痛なものとされている。わたしにとっては、どちらもかなしい。自分の感情の底にはまず、逃れがたい「かなしみ」がある。その「かなしみ」が喜怒哀楽に枝分かれする。かなしい喜び。かなしい怒り。かなしいかなしみ。かなしい楽しみ。かなしい人間だな……。 良くいえば、「慈悲」にもちかいのかもしれない。いや、そんな立派なものではないか。単にかなしい。根底にかなしみがないと、感情が起動しない気がする。すべての感情の素として最初に、かなしみがある。赤ちゃんが生まれたときに泣いてる、あれだ。と考えるとふつうの話かもしれない。 それにしても暑い。きのうはじめて家で冷房をつけた。7月10日は冷房記念日。蝉の鳴き声も散発的に聞こえた。いよいよ夏らしい。    

日記817

 私がかつて山岳部員として体験したのは、「みんなが同じ荷物を持っていても自分の荷物がいちばん重く感じてしまう」ということです。「そういうものなんだ」ということを、どこかで頭の隅に置いておくことだけでずいぶん違います。自分以外の人の荷物は実感できないのですから。  家庭の重みもさまざまであって、皆たいていは自分の荷物が重いと思っています。同時に、めったに語りません。芥川龍之介も良寛を引いて言っていますよね。「君みずや双眼の色、語らざれば憂いなきに似たり」と。この言葉も知っておいていいでしょう。   中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、p.105)より。たしかに、こういう感覚がある人とない人とでは、ものの見方がずいぶん変わるだろうと思う。 上記はキャッチーに、こうまとめてもいいかもしれない。「重い」と「思い」はおなじもの、と。安っぽいかな。ははは。自分以外の人の荷物は実感できない。同様に、自分以外の人の「思い」も実感できない。交換不可能な「重い」という「思い」がそれぞれにある。語らずとも、つねにある。 キャッチーなワンフレーズは軽みがあって、だからこそつたわりやすい。安いほうが売れやすい、ともいえる。すべてのことばには軽重が備わっている。重いことば、軽いことばがある。ちょっとした言い換えで、人の感覚はおどろくほど変わる。    興奮している人を見て、「この人、タチが悪いな」と思うより、「こうするエネルギーしかないんやな、どうしたらエネルギーが出るんやろう?」と考えるほうが、本人も楽です。じつは、快感のないときには人間の行動は弾みが出てきません。慢性状態はこの弾み、ゆらぎが乏しい。そこから弾みが出てきて、だんだん元気になっていくというのが回復の過程なのです。 (pp.148-149) 「タチが悪い」は興奮している人の重みをずーんとあらわしている。それを「こうするエネルギーしかない」と言い換えれば、いくらか軽くなる。「しかない」がポイントだと思う。興奮状態はエネルギーがあり過ぎるのではなく、これしかない。これっきりだと。認識の枠組みを軽い方向に変化させる。と、余裕ができる。それが自分と他者に「弾み」や「ゆらぎ」をもたらす端緒となる。  疲れには「やわらかい疲れ」と「かたい疲れ」の二種類があって、やわらかい疲れは、じつはリラックスしてきたけれど、それをいい感じ

日記816

  このように体験はじつにさまざまです。たぶん、名がついているのはごく一部でしょう。   ひきつづき、中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、p.24)より。統合失調症の患者がどのような体験をしているのか、いくつか例を挙げたあとのさりげないことば。さりげないけど、重要に思う。名前との距離感ね。診断についても中井は、「治療のための仮説」と語る。「最後まで仮説です」と。名付けて固定することへの警戒心がおそらくある。 これは神田橋條治の「言葉は信用しない」という発言にもつうじる態度ではなかろうか。病名にばかり気をとられると、目の前の患者が見えなくなる。精神科はとくに、システマチックにはいかない。 名前は、お守りのようなものだと思う。患者の多くはたぶん、病名がつくと安心する。でも医者の側からすると、お守りにばかり頼っては実体を見失ってしまう。人は刻々と変化する。むろん名前は名前で、あったほうがよい。しかし、それはあくまでお守りに過ぎない。 これは医療者の心構えとしてのみならず、あらゆることにいえるんじゃないかな。名前をつけると、その対象をコントロールできるかのように思えてしまう。ある程度、わかったつもりになれる。でも、わかったわけではない。「最後まで仮説」という粘り腰は忘れがちだ。「わかった」は手を切ることばで、「わからない」は粘り腰。どちらも必要だけど、後者の必要性はあまり強調されない。    シェイクスピアの戯曲の『ハムレット』に、主人公の王子がお付きの哲学者に「ホレイショ、天と地にはお前の哲学では解けぬものがいくつもあるのだよ」と言う場面がありますが、私はこの「ホレイショの原則」を以て対します。ときにはつぶやくこともあります。「世の中って、わからぬことが多いなぁ。でも、命にかかわることとは限らないなぁ」とか。 前掲書(p.25) まったく、わからぬことだらけです。 うーん。 たとえば、「プラセボ効果」なる名前を知ったところでわたしは納得しない。「偽薬が効いちゃうのをプラセボ効果っていうんだよ」「なるほど~超納得~」ってなるかーい!!なんで偽薬が効くんだよ。よくわからん。と思ってる。しかし名前を知った時点で納得する人は、なぜか多い。それは答えじゃない。それは答えじゃないよ。 話変わって。 乱数発生法という「精神のゆとり度」をみる指標があるそうです。できるだけ

日記815

  メモ。    幻聴への対処法として外に出す方法もありますが、逆に中に溶かし込む方法もあります。リラックスするようになると弱まりますね。自分が特別な人間でないと考えるとふしぎに静まる場合もあります。 中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』(医学書院、p.184)より。幻聴についての文脈だけど、「外に出す」と「溶かし込む」はプレッシャーに対するときの比喩として全般的にいえそう。わたし個人は「溶かし込む」方法で減圧しがちだ。あまり外に出さない。両方やれるとバランスがよいのだと思う。溶かしたつもりでも結石みたいにすこしずつ溜まるストレスがある。  治療は山に登ることでなく、加速度がつかないようにしながら、山から下りることなのです。そして戻るところは平凡な里です。山頂ではありません。回復とは平凡な里にむかって、足を一歩一歩踏みしめながら滑らないようにしながら下りていくことなのでしょう。 前掲書(p.190) 精神医学関係の本には、巧みな比喩が多くみられる。心のかたちは、半ば行動にあらわれ、半ば比喩にあらわれるのだと思う。「行動/比喩」は「外に出す/溶かし込む」に対応する。比喩には、人の生きる世界観が行動と不可分に溶け込んでいる。わたしはそう感じる。 「戻るところは平凡な里」。まったくそうだ。「ふつう」ということが良くも悪くも人の精神的な支柱なのだと、身にしみてわかってきた。これは年齢を経ないとわからないことのひとつだろう。「ふつう」を攻撃するとそのぶん、反発も大きい。 怒りとともに「ふつう」に類することばを連発する人は多い。「ふつう、こうに決まってる!」と意固地になる。自分の「平凡な里」を守ろうと。 たったひとりで怒る人はいないんじゃないか。誰もがなにかを代表し、なにかを背負って怒る。「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」って『HUNTER×HUNTER』にも書いてあった。 取り乱すのはみっともないと思われがちだけど、魅力的な怒りもある。もの静かに見えて、絶えず怒っている人もいる。「内に秘めた闘志」みたいなの。仮に、ひとりでは怒りがわかないのだとするなら、怒らない人は孤独な人なのかもしれない。里を失った人。 絶対的な「ふつう」はない。平凡な里の風景も変化する。里同士が合併したり、戦争したりもしょっちゅうある。コミュニケーションはつねに、それぞれ

日記814

7月4日(日) 投票へ行った。新聞社の出口調査員に激怒する高齢男性がいた。理由はわからない。思いもよらないことで怒りだす人は多い。理由なき反抗かもしれない。そういうお年頃とか。肌寒い雨の日だった。家に帰って上着のシャツを脱いだとき、腕に蟻が這ってきた。すこし焦る。すぐ窓をあけて外に放った。蟻が腕を這うくすぐったい感触、いつぶりだろう。 脚に蜘蛛が這ってたことはさいきんあった。蟻は何年もない。 昼食後、腹痛に見舞われ、久しぶりに嘔吐した。何かが当たったのだ。たぶん、賞味期限切れのチーズケーキ。胃腸が弱い。食べ物に気をつける決意を新たにする。油断禁物。 それで思い出した。関係あるようでない話。 アレルギーでイカとタコと貝類を避けている(イカタコも貝の仲間らしい)。このことを人に告げると、高確率で「嫌いなんだね」と理解される。味が嫌いなわけではない。アレルギーで食べられない。これを正確にわかってくれる人はすくない。あくまで体質の問題であり、好き嫌いの問題ではないのだ。 抽象的にいえば主体化以前の問題であり、主体の問題ではない。無意識の問題であり、意識の問題ではない。自然の問題であり、人工の問題ではない。つまり、意志は関与していない話。それが意志的な話に回収されるのよね。 人の行動を解釈するモノサシが「好き嫌い(意志的な話)」に一元化されているのかなーとぼんやり思う。意志だけでは片付かないこともある。世の中、意志によらないことばかりだとわたしは感じているけれど……。 「わかってる人」がほしいのかもしれない。わたしはわたしがなぜ貝類全般を食べられないのか、自分でもわからない。できれば気にせず食べたいのに。なんでこういう体なのか、知らない。「アレルギーで食べられない」とは、そういう意味だ。 でもそう解釈すると、「わかってる人」がいなくなる。「嫌いだから食べない」とすれば、「わかってる人(それを嫌う人)」がちゃんといる。わかりやすい理由になる。 モノサシの一元化は、主語の一元化ともいえる。わたしが食べられないのではなく、わたしの体が食べられないのだ。わたしを語る主語は、「わたし」だけではない。そんな単純なもんじゃない。「わたし」以前の「体」がある。「あなた」だって「みんな」だって、わたしの主語になりうる。わたしはひとりだけど、ひとつではありえない。   小ネタのつもりが、なんだか

日記813

先日、エレベーター内ですこしずつ屁をこく人がいた。気を遣いながら。でも確実に、こいている。ぽそぽそぽそぽそ……。長いこと鳴っていた。いっそ、ひと息に出してほしかった。大音量でもかまわない。ちょっとくらい臭いがしたっていいさ。一期一会の短い時間だ。大丈夫だよ、風通しよくいこう。 エレベーターには、わたし以外に3人乗っていた。ここでふと思うのは、わたしは屁こきOKな人間だけど、ほかのひとがどう感じているのかわからない、ということだ。わたしはいいけど、まわりは屁こきNGかもしれない。やはり気を遣うべきなのか……。気持ちに迷いが生じる。 前回の記事に書いたことの一端は、こんな葛藤にちかい。つまり、一人称視点(わたし)と三人称視点(まわり)の葛藤。どちらかに寄るのではなくて、あいだをいい感じに調停できると理想的だと思う。横道誠さんの『みんな水の中』(医学書院)は、一人称性と三人称性がうまく混淆している。あくまで軸は一人称の側に置きつつ。 ひとりよがりなだけでは接続不良を起こすし、客観が過ぎても無味乾燥となる。あるいは三人称性を軸にした発言の例だと、 太宰治『人間失格』 の有名なくだりが思い出される。 (それは世間が、ゆるさない) (世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?) (そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ) (世間じゃない。あなたでしょう?) (いまに世間から葬られる) (世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?) わたしは屁こきOKだけど、ほかの人は屁こきNGかも。こう考えるとき、(ほかの人じゃない、あなたでしょう?)と問い返してみることがたいせつではないか。葛藤してみること。引き裂かれること。「ほかの人」もわたしに内在する別視点の心理なのよね。 開放的に「バンバン屁ぇこいてこうぜ!!」というのもちがうし、「公衆の面前で屁をこくことは一般的なマナーとして失礼だとされているので、ダメに決まってる」というのもちがう。どちらも屁をこいた当事者が不在になっている。二人称「あなた」の存在を忘れずにおきたい。気を遣いながら、すこしずつ屁をこくあなたがいた。まずはそこから。   当事者の語りというのは、一人称でも三人称でもなく二人称的なのかもしれない。手紙を書くように、そっと打ち明ける。あなたのこと。すこしずつ屁をこいていた「あなた」は、じつをいうとわ

日記812

  『みんな水の中 「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』という本を読んだ。医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の一冊。著者は大学教員の横道誠さん。ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けている、いわゆる発達障害の当事者。 目次は大きく3部に分かれる。「詩のように。」「論文的な。」「小説風。」。いずれも、余白を残した表現になっている。「詩」「論文」「小説」とぴったりカテゴライズした瞬間に切り落とされてしまう、その通りにはいかない感覚がある。どれでもありえて、どれとも言い切れない。浮動する水溶性の個人的な息づかいをできるかぎり損なわず綴じたような構成なのだと思う。  作家の高橋源一郎さんはこの本についてラジオで「正直、ちょっと読みにくいんです」と話していた。高橋さんいわく、意図的に「わかりやすさ」を避けたつくりだという。大多数の、いわゆる定型発達者に合わせた整地は抑えて、ひとりの人間の異物感をそのまま本に綴じている。全体のゴツゴツした語り口は、他者を理解することのむずかしさ(できなさ)を物語るために採用されたんじゃないかと、わたしなりのまとめではそんなお話だった。   (追記)NHKのサイトでトークの文字起こしが読める。   【飛ぶ教室】“脳の多様性”に思いを巡らせて|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる   なんというか、ぬかるみに嵌るような読み心地。その感触から、「あいまい」という観点が浮かんだ。『みんな水の中』に頻出するキーワード「脳の多様性」は、「脳のあいまい性」ともいえるんじゃないか。 個人的な言語感覚に過ぎないが、「多様性」ということばには俯瞰的(メタ)な印象がつきまとう。いわば神の視点。でも「脳の多様性」はわたしの理解だと、俯瞰しきれない個別的な、地を這う認知のありようを指す。それは、十把一絡げにできない環境とともにつくられる体のあいまいな機序からきている。    ほんで、たぶん、あいまいに生きてる感覚って誰にでもある。大なり小なり、型どおりにいかない、カテゴライズしきれない、タグ付けできない、ひとりきりの領分はあるはず。詩人、長田弘のことばを借りて「感受性の領分」といってもいい。茨木のり子が「自分の感受性ぐらい/自分で守れ/ばかものよ」と書いた、その領分。不定形であやふやな時間。 既成のこたえ