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5月, 2020の投稿を表示しています

日記728

かわいいの撮れた。爬虫類が苦手な人にも、この写真はかわいらしく思ってもらえるのではないだろうか。鼻先だけ出して、じっと。なんて愛らしいのだろう。辺りをうかがう真っ黒なひとみ。撮った直後するっと這い出て、草陰に消えた。 数日前、『読書で離婚を考えた。』(幻冬舎)という本を読んだ。円城塔と田辺青蛙、作家ご夫婦の共著。相手に読ませたい本を指定して、むりやり読ませあうエッセイ。タイトルは大袈裟。むしろ良い夫婦仲が垣間見える。 噛みつくにせよ距離感をわきまえているというか……いやちがうな、噛みつけど噛みつけど噛み合っていない。空を噛んでいる。そこがおもしろい。互いに互いのことを「おかしな人だなぁ……」と不思議がっている感じ。ぜんぜんちがうふたり。 どちらかといえば、わたしは几帳面な感じの円城さんにシンパシーを抱く。田辺さんの気まぐれさもなんとなくわかる。でも円城さんの感覚は、僭越ながらごく一部とても似ているとさえ思う。たとえば、こんなところ。  どうも世の中、筋道の立てようもなく雑然として混沌としたものがほとんどである――とわかってきたのは、ついこの頃のような気がします(ま、結婚以来ですかね)。世の中、全然きちんとしていない。もっと頑張れ、物理法則とか論理とか整合性とか。  ボケに突っ込み切れると思ってはいけない、ということでもあります。正気でいると突っ込み疲れるナチュラルボーン・ボケ宇宙に僕たちは住んでいて、真面目そうな顔をしていられるのは、突っ込み疲れて頭が麻痺しているだけなのでは、と思ったりもするわけです。 p.36 そうそう、宇宙はボケ倒している。わたしも「世界が広大無辺のボケに思えて仕方がない」と 日記712 に書いていた。マジで論理とか整合性とか、もっと頑張ってほしい。物理法則のやつは、わりとまいにち頑張っていると思う。わたしをちゃんと地球に留め置いてくれているから。 地球の引力にそっぽむかれて、落ちても、落ちても、着くところがないような、 悲しいことにはならない。 だらしがないのは論理と整合性、お前らだ。きちんとしろ。ビタッとカチッと、お願いだから。そうじゃないとこわいから。ぜんぜん説明がつかないから。人間もふくめたこの世界のボケっぷり、ちょーこわいから。おもしろいボケもなかにはあるけれど……。 生きているかぎり、宇

日記727

ぼんち揚げ。ここにあるべくしてあるような。知らないけれど。なぜここにあるのか。写真は必然でも偶然でもありうる。あやふやで、おもしろい。世界の混沌を指先でちょっとつまむみたいに撮る。 ここだけの話。 写真はきっと「ここだけの話」として撮られる。 切り取られた風景はすべて、ここだけ。 ほかのはこのさい、なしにする。 これっきり。これっきり。 もう、これっきりですか? ええ、これっきりですね。 負け方、なのだろうと思う。これから必要なのは。いやずっとそうだった。負ける方法。いかに負けるか。そこには、ちょっとした美学があるといいかも。ちゃんと負けよう。負けてみせよう。いい感じに。「なんじゃあこりゃー」とか言って。バタッと。気分はもう松田優作だよ。ってそれ、いい感じか?

日記726

「人は自分が見たいものしか見ない」と、これに類する話をよく見かける。なんちゃらバイアスみたいな。「目は心が理解する用意があるものだけを見る」。これはベルクソンのことば、らしい。tumblrで見かけた。もう何年も前。たくさんReblogされてた。 誰にでも、信じつづけたいものがある。たぶんね。信じたい。信じさせてほしい。無意識にも意識的にも、陰に陽にある。その「信じつづけたいもの」を肯定してくれるなにか。なにかを持して生きている。そこがきっと、それぞれにとっての、やさしさの在り処なのだと思う。 たとえばそれは、人形やぬいぐるみであったり。 信じつづけたいものを、信じさせてくれる姿かたち。 種々の偶像たち。 「信じつづけたいもの」とは、言い換えれば自由の預け先。わたしの自由を預かってくれるなにか。自由は預けるためにある。このごろ、そう感じるようになった。預け先は、たくさんあるといい。好きな人にちょっと預けてみたり。会社に預けたり、テレビやSNSに預けたり。映画に預けたり、音楽に預けたり。スポーツに預けたり。科学に預けたり、文学に預けたり。お国に預けたり。神さまに預けたり。 生まれて間もない赤ん坊はまず、育て親にガツンと自由を預ける。命をかけて。何者でもない不定形のちいさな身を預け、親からたくさんの不自由を借り受ける。はじめに名を借り、居場所を借り、そして毎日のことばを借り、周囲の不自由を養分として成長する。 やがて不定形だったものに、かたちが備わる。人はさまざまなもののかたちを借りて、その姿をつくる。音楽のかたちを、科学のかたちを、文学のかたちを。わたし自身をかたちづけるために。不具にしてもらうんだ。「ある」とはすなわち、不具であることだ。 預け先となる「かたち」の根底には、身体とことばがある。わたしは物事の根っこに興味を抱きやすい。根なし草のように足元がおぼつかないせいか。身体の不自由なかたち、ことばの不自由なかたちを多すぎるほど借り受けてやっと地に足がつく。日々、自由を預けて不自由を借りる。「ない」を預けて、「ある」を借りること。 ちょっとなに言ってんのかわかんないかもしれない。べつにいいか……。おそらくは自分も、誰かの自由の預け先として機能している。このブログも不具者が描いた「かたち」のひとつ。わたしの自由がほうぼうから