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10月, 2020の投稿を表示しています

日記745

わたしたちは複数である。そう生まれた瞬間から決定づけられている。物理的に身体はひとつでも、意識は複数としてあるのだと思う。ときどき、パニック発作のような症状に見舞われる。そのときの孤絶的な意識状態から逆算して「人間は複数だ」と実感している。つまり、複数でなければ認知的な狂いが生じてしまうと。 パニック発作はわたしの感覚だと、「個であり過ぎる状態」として訪れる。「うつ病は死にたくなる病で、パニック障害は死にそうになる病」とよく言われる。これは自分の実感にも堪えることばだ。死とはおそらく、複数からの離脱を意味するのであろう。あたりまえといえば、あたりまえなんだけど……。   と、ここまでの文章は下書きに1年くらい放置していたもの。気が向いたとき、つづきを書くつもりだった。さいきんはうんざりするほど健康。なんとなく気力が湧いてきたので、気の向くまま書こうと思う。ちゃちゃっと掃除を済ますように。四角い部屋を適当に丸く。  意識は複数なのに、身体は離ればなれの個別である。たぶんこれが種の存続としてイケてる形態だから、そうなっているんだと思う。生物の大枠は種に奉仕すべく設計されている。人間も例外ではない。言い換えるなら生は複数としてあり、死は個個別別の最小単位にとどめられる。あたりまえだけれど、生き延びる側に都合がよいつくり。種という大きな観点から見渡せば、わたしたちは全員いわば「とかげのしっぽ」だ。 精神疾患について、ひとりよがりな仮説として思うのは、意識のあり方が「複数」から離反しちゃったとき発症するもんが大半なのではないか、ということ。精神科医の斎藤環氏が喧伝している複数人での対話療法、オープンダイアローグは典型的に「意識の正常な複数化」を目指しておこなわれる治療なのだろう。 芸能人にパニック障害の罹患者が多い(かに思われる)のも、「個」を強く意識せざるを得ない職業だからではないだろうか。むろん、ほんとうに多いのかはわからない。職業別の統計とか、あるのかな。あくまで、ひとりよがりな仮説です。このブログの記述はほとんどひとりよがりな仮説。生きているということに関する、いち人間の感想文に過ぎない。 人は「個」であることに耐えられない、と 日記744 に書いた。「カーブの向こう側や、壁を隔てた向こう側も世界が地続きであると自然に解釈する」とも。これを書きながらじつは、パニック発

日記744

アニメ監督、今敏さんのブログを読んだ。SNSで定期的にリンクを見かける。読むのは3回目くらい。ことしは没後10年で、いくつかの映画館が特集上映を行っていた。さいごに更新された遺書のような文章には、逆説的にも生気があふれていると思う。自分の亡きあともなおありつづけるこの世界を、いつまでも思いなす。そんな祈りにあふれていると。 自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。 「すいません、こんな姿になってしまいました…」 丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。 感謝の気持ちでいっぱいになった。 怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。 勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。 NOTEBOOK »NOTEBOOK» ブログアーカイブ » さようなら - KON'S TONE   日記742 で書いた「ごめんなさい」「いいよ」「ありがとう」。このかたちだと思った。「いいよ」は明示されない。丸山さんは何も言わない。言う必要がない。関係性の裏にある時間の堆積がおのずと物語り、何事かがつたわる。ことばはないけれど、意味がある。わたしにその「意味」はわからない。なんにも。ひとつもわからないくせに、どうして目がうるんでしまうのだろう。身勝手なものだ。   生きている。この状態はとても曖昧だと思う。会ったこともない人の「死」に、文字列のみで接して涙できるほど曖昧なのだ。存在と不在の境界さえよくわからない。 人間はみな、適度にいたりいなかったりする。たとえば、ひとりの人がふつうに玄関を出ていったあとの不在と、亡くなったあとの不在、この両者にちがいはあるのだろうか。そんなことを、ちいさい頃からよく考える。どちらもいないことには変わりがない。 玄関から出ていくふつうの不在は、いわば「いなくならずに、いなくなる方法」なのだと思う。安心して気兼ねなく、いなくなる。アクセス可能な不在。とくに意識せず「ふつうの」と書いた。この「ふつう」によって補完される想像力がわたしは気になっている。「地続きの」と言い換えることもできそう。 亡くなった人もまた、時間の経過とともにやがて「ふつう」の範疇へと収まる。「いな

日記743

ZOOMS JAPAN 2021 、パブリック賞の投票を受け付けている。写真の賞。10月9日(金)まで。審査員気分で不遜にポチッと1票を入れた。写真の技術的な優劣はしょうじき、わからない。「みなさんいい感じ~」みたいなゆるふわ目線でまずはざっと眺め、それから自分の興味のおもむくまま選んだ。 投票画面にはノミネート写真と、撮影者によって記された文章が載っている。ことばも写真の一部として重要だと思う。写真と言語との循環過程。その点でわたしの「興味」はだいぶ絞られた。選びながら、写真家の大山顕さんのツイートを思いだす。 昨日『PHaT PHOTO』にお呼ばれしてタカザワケンジ @kenkenT さんと対談したんですが、これがすごーく楽しく勉強になった。特に写真作品におけるステイトメントの重要性話で盛りあがったのがほんとうに楽しくて。「写真家とカメラマンの違いは文章が書けるかどうか」はほんと名言。 — 大山顕 『新写真論』重版出来! (@sohsai) May 18, 2016 「文章が書けるかどうか」。思えば、自分の選好基準はそれだけだったかも。具体的には、硬質な論考が書けそうな方に投票した。このツイートから約4年後、ことし3月に出版された『新写真論』(genron)のなかで大山さんは、「写真家の定義って何でしょう?」という質問にこう回答している。ついでに引用。  この質問に対してはさまざまな回答があり得るが、ぼくは「『写真とは何なのか』を言語化できるのが写真家」と答えた。自分が撮った写真について、そしてそもそも写真とは何なのかをちゃんと自分の言葉で語れるかどうか。というわけで、本書はぼくのあらためての「写真家宣言」である。pp.308-309   そしてこの「回答」におそらく原型を与えた人物、タカザワケンジさんは『新写真論』の書評においてこう記す。 (…)大山はあとがきで写真家とは「『写真とは何なのか』を言語化できる」存在だとしているが、私はむしろ、写真家とは「写真とは何なのか」を問い続ける人ではないかと思う。優れた写真作品は見る者に写真とは何かを考えさせるからだ。今回、大山は言葉でその答えを出そうとしているが、答えそのものよりもここから生まれる大山の作品に興味がある。『新写真論』の根底にあるのは、この理論を元にした大山の『新写真宣言』だからだ。  新写真論